2幕 病室のカーテンコール!
カーテンコール!(上)
「もしもーし! 聞こえますかー!」
誰かが耳元で叫んでいる。全身が浮遊する感覚。虚無色の視界。
「お名前は言えますかー!」
名前?
私は反射的に答えた。
「マグノリア・ウィッティントン」
イギリス人とのハーフ。髪は金色で瞳は紫。十七歳女子高生。
誰かは続けて問う。
「ここ何処だか分かりますかー?」
耳元で叫ばれているはずなのに不鮮明で遠い。
ここは、何処だろうな。ふわふわしていて分からないや。
でもこんな事を聞くのはきっと。
「病院?」
大怪我した訳だし。
そうだ、大怪我したんだった。
意識の端に散る紅葉の鮮紅。
そこで私の意識はストンと閉じた。
そう。私はマグノリア・ウィッティントン。
受験勉強真っ最中の高校三年、十七歳。
先述の通り英国人ハーフなので外見が日本人離れしている。金色のストレートヘアを肩に流し、紫色の瞳で世界を眺める。
もう一つ皆と違う所。
それはヒトならざるモノ、死んだ生き物や、そもそも生きてない物を見聞き出来てしまうことだ。
アレらは恐怖や緊張を感じる私に惹かれて寄ってくる。なんだかそういう体質らしい。だから私は怖くないよう、お守りのブレスレットと聖書聖水を手放さない。
ああ、まだ他人と違う所があった。
変わった恋人がいる。
恋人は血のような深紅の髪に浅黒い肌を持つ。彼の生まれは沖縄で、キジムナーの末裔なのだ。
それですごい身体能力が高くて。彼もまたヒトならざるモノを知覚できて。彼もまた、他人との違いに苛みながら、孤独に耐えて生きてきて……。
「入院ですか」
母の声が聞こえ、目を開ける。
無機質なまでに清潔な部屋だ。両脇には潔癖感を和らげようとするような淡いピンクのカーテン。しかしかえって血で染めたような不穏さを感じさせる。
薄暗い中、狭いベッドに寝かされていた。
母と医師が足元に居る。
「ええ、念の為に。脚を骨折していて数日から数週間は車椅子です。お家では不便でしょう。打った頭の観察を続けるうえでも病院に居た方が安全です」
低いのによく通る、風みたいな声だ。大柄なその身体で響かせているのだろうか。
私は医師に目を遣る。
医師の短髪は緑の黒髪ながら、前髪だけ真っ白に抜けている。けっこうお歳の先生なのかな。
「入院するにしても、年頃の娘ですし、相部屋は少し可哀想で……」
「大丈夫だよ、ママ。相部屋でも構わないよ」
私は酸素マスクの下からモゴモゴと言う。
二人がこちらを振り向いた。
医師は存外に若かった。華のある、思わず視線が吸寄せられるような顔立ちだ。歌舞伎役者のような。
その白衣の肩には大学のロゴが刺繍されている。どうやらここは家の近くの大学病院らしい。
医師が深みある声で問う。
「男性と二人で同室なのですが、よろしいですか?」
「男性? それはちょっと……」
「では女性六人部屋の七人目として通路にベッドを置きましょう」
「あっ男性と二人でお願いします」
◇◇◇------
「なんだ、相部屋の男って与那嶺さんだったんだ」
酸素マスクや何やらを外され、車椅子に乗って出向けば、そこに居たのは赤髪の恋人であった。
「マグノリアちゃん! 目が覚めたか。とりあえずよかった」
彼もまた頭に包帯が巻いてあったり眼帯をしていたり、左手の指にギブスしてあるしで決して無事ではなかったようだ。地黒の肌と紅葉より赤い髪が包帯の白を際立たせている。筋肉質ながらも小柄な肩に、男物の検査着がゆるそう。
与那嶺さんが私の車椅子を押す母に気付いた。
その瞬間、表情が一変。人懐こそうな笑顔に変わりベッドから降りる。
「初めまして! マグノリアちゃんのお母様ですか?」
「ええ、そうです。あなたが相部屋になる……」
「はい! 与那嶺
満面の笑みで一礼。
ここまで露骨に媚びているといっそ清々しい。長く陸上を、体育会系をやっていただけである。礼儀は完璧だ。
そのハキハキとした喋りに母は好感を覚えたらしい。
「あら、あなたが例の彼氏さんなの。娘から話は聞いているわ」
「えー、そうなんですか、恥ずかしいなぁ」
爽やかすぎる照れ笑いに私は寒気を覚えた。
お前そういうキャラじゃないだろ……。
「あ、そうだ、名刺差し上げてもよろしいですか?大学院の簡単なものですが」
「あらまぁ丁寧にありがとう。相部屋がこの人なら安心ね」
母はまんまと引っ掛かっている。齢十七の娘を二十五歳の彼氏と同室に入院させて何がどう安心なのか。
「それじゃあママはお仕事に戻るわね。与那嶺さんどうか娘をよろしくお願いいたします」
「はい! 何かありましたらどうぞ名刺のアドレスまでご連絡ください!」
ビシッと九十度にお辞儀する与那嶺さん。
母は病室から出て行った。
私を半ば放置で。
母が出てしばらく与那嶺さんは九十度のまま固まっていた。
やがてベリーロールの要領でベッドに転がる。
だりぃんと体を伸ばし、私に向けるは妖怪じみた笑顔。
「ということで同室だね、よろしく」
含みを持って細めた目も、裂けんばかりに吊り上った口角も、キザで胡散臭いその口調も。これがいつもの与那嶺さんだ。この、他人を小馬鹿にすることで、距離を取ったような態度が。
それにしても一緒に入院か。
カーテンの仕切りがあり看護士さんが出入りするとはいえ、短くても数日は寝食を共にするわけだ。この部屋に居る間はずっと隣に居るわけだ。まるで一緒に住んでいるかのように。
与那嶺さんも似たような事を考えていたのだろう。
奇妙な同居生活の幕開けに気まずい空気が漂う。
まるで空気を変えようとするように、与那嶺さんはエイと起き上がった。
「それにしてもこれさ」
与那嶺さんが親指でベッドに貼られたカードを示す。
患者の名や入院日などの情報が綴られたカードだ。主治医欄に書かれているのは、先程の前髪白髪な医師の名。
『
「
「字面がすごいね……」
「手紙とか神様宛てで来るんだろうな……」
そしてその下には副担当医の名がある。
『M.Woodenknight』
「外国人?」
「Woodenknightって珍しい名前ね」
「そうなのか?」
「うん、少なくともイギリスの知人には居ないわね。造語っぽいからアメリカ人かも」
噂をすればなんとやら。
前白髪の神先生が部屋に入ってきた。
私と与那嶺さんはしゃんと座り直す。神先生にはそうさせる気迫があるのだ。でもただ怖いだけじゃない。思わず視線が吸い寄せられ、聴覚がその声を待つような期待。心惹かれる何か。
そう、彼には、華がある。曼珠沙華のような。舞う紅葉のような。
「改めてご挨拶させてください。小生が整形外科の
神先生が入ってくるよう目で合図する。
それに応え入室してきたのは、細身の長身。黒い短髪に混じる白髪が亜麻色に染められ斑を為す。少しの猫背に白衣を羽織るその姿は。
「米国から来た特任教授の
わざと片言を演じ、バッと腕を伸ばす。
翻る白衣。光る半月眼鏡。紅茶色だったはずの瞳が何故かライムグリーンに輝いているが、その均整な顔立ちは見間違いようがない。
「おかえり、
与那嶺さんが馴染の綽名を呼んで笑む。
白衣の彼は
魔法や超能力を医学で研究する、自称魔術師なお医者さん。彼の研究は本物なのだがエセ科学だと学生の反感を買い、数か月前にこの大学を追放されアメリカに転任した。
はずだった。
「なんで居るのよ教授」
「いやぁ転任早々、日本でのデータ収集が必要になってね」
教授は笑う。結構格好いいはずなのだが、神先生の隣に立つとえらい見劣りする。すっかり柔和になってしまったせいもあるかな。
「前と同じ部署に行くと流石にバレるから整形外科に入れて貰った。キミたちみたいな放っておいても治る若造ばかり診ているよ。若者はいいね、多少乱暴しても死なないから」
私は身の危険を感じた。
「そんなペラペラ自己紹介してるって事は神先生も仲間なのか?」
与那嶺さんが神先生を睨む。視線は多少の警戒を孕んでいる。
神先生が与那嶺さんを見据える。
与那嶺さんが気圧されるのが分かった。
よく見るとその鋭く冷えた双眸は、ヒトダマの様に青白い。
「……。すまないが神先生、耳は聞こえているのかい?」
「嗚呼、幸い健聴ですね」
私にはやり取りの意味が解らなかった。
二人の間に奇妙な空気が漂う。私はそれを読み切れず困惑する。
沈黙する神先生の代わりに教授が質問に答えた。
「
多分、宮司君とは神先生のことだろう。教授はすぐ他人に勝手な渾名を付ける。
それは茶目っ気や人懐こさ故ではない。教授もまた異能に苛む者だからだ。
教授は他人が持ってない物故に色々な物を失ってきた。知人の本名を呼ばないのは、そんな彼なりの防衛策らしい。名前が呪いの力を持つという解釈は何処にでもあるから。
彼が何を出来るのか私はまだよく知らない。けど経験上、とてつもなく多様で強力なモノを持っているのは察している。
今の科学では証明できない色々なモノを。
普通の人には信じてもらえないモノを。
人を世界を変え得るモノを。
「ということで改めて宜しくね、紫蓮君、沖縄君」
「今夜はよく休んでください。明日からはリハビリと検査を進めます」
二人の医師は代わる代わる挨拶し部屋を出て行った。出際に電灯のスイッチが押され、強制的に消灯。
私と与那嶺さんは暗がりで目を見合わせる。
仕方ない、とばかりに与那嶺さんがカーテンを引いた。二つのベッドが淡緑色の布で隔てられる。
こんな布ペラ一枚越しに彼が居て眠れるかなぁ。
不安だったが身体のダメージが勝ったようだ。目を閉じると沼のような眠りに落ちて行った。
◇◇◇------
オルゴールの音で目を醒ました。
天井のスピーカーから、起床時刻を告げる放送が鳴り響いていた。
入院って寄宿みたいだな。
思いながら目を擦り壁の時計を見やる。朝七時。ミント色のカーテン越しに衣擦れの音がする。
「おはよう、与那嶺さん」
呼び掛けに応え手を上げるのが透けて見えた。窓際の彼のベッドは朝陽が直に差し込み、さぞ眩しいだろう。
私は額を拭う。
秋だし、空調は効いている。だけれど汗だくだった。怪我のせいだろうか。そのうえ検査着はすぐはだける。丈もあわず着心地悪い。
母の置いていった荷物を漁るとパジャマも替えの下着もあった。これに着替えることにしよう。
私は検査着の紐をほどき、肩からスルリとおろす。
「ねぇマグノ」
カーテンが開き、閉まった。
私は硬直する。
恐らくカーテンの向こうで与那嶺さんも硬直している。
数秒か数分かはわからないがえらい気まずい沈黙。
じわりじわりと熱を帯びていく頬。
わなわな震えていると、与那嶺さんの申し訳なさそうな声がした。
「……ごめん」
「……声くらいかけてから開けてよ馬鹿」
「うん、次から気を付ける……」
私の着替えが済んでなお、朝食が運ばれてきて食べ終わるまで、気まずい静寂は続いていた。病院食の味なんてとても分からなかった。
食事以外は一日中検査に連れ回された。
検温、採血、レントゲン、MRIは勿論のこと、なんだか名前の知らないよく分からない検査も沢山した。
看護士さんの案内であちこちの検査室を巡らされ、やっと自由な時間が取れたのは午後四時を回った頃だった。
入院生活がこんなに大変なモノだとは思わなかった。
私はラウンジで溜め息を吐く。
両脚の膝から下がずきずきと鈍く疼いていた。しかし鎮痛剤が効いているおかげか然程ではない。そっちよりむしろ全身熱く火照っているのがしんどい。熱があるようだ。
冷たい物が飲みたい。
私は車椅子を転がし、自販機に近付いた。膝に乗せた鞄から百円玉を取り出す。
と、指が滑った。
銀の軌跡を描きながら転がる桜の硬貨。ぐるりと車椅子の周りを一周した後、車輪にぶつかって止まった。私は手を伸ばす。
届かない。
懸命に腰を捻って腕を伸ばすが指先をかすめもしない。私は上半身を乗り出す。
車椅子が傾き、片輪が浮いた。
やばい。倒れる。
「おっと危ない」
誰かがハンドルを押さえた。傾いていた車椅子が元に戻る。
私は車椅子の手擦りにしがみついたままでいた。額に冷や汗が浮いていた。
危うく床に投げ出されるところだった。
「どうだい? 不便だろう?」
痩せた白衣が屈み百円玉を拾う。それをそのまま自販機のコイン口へ。
教授だ。今日は真っ黒なフレームの角縁眼鏡をしている。
まだバクバク言ってる心臓に邪魔され言葉少なに頷く。
苺ミルクのブリックパックを買おうと手を伸ばした。届かない。
教授の細い指が伸びて一番上の段、目的のボタンを押してくれた。
私の脛の辺りにガタンと飲み物が落ちてくる。私の肘の辺りに黒と亜麻色のまだら髪が現れて、飲み物を回収する。
「はい」
鮮やかな緑の瞳が柔和に微笑みパックを差し出す。私はそれを両手で受け取った。
「ありが、とう」
なんだか打ちのめされていた。
教授は私の車椅子を押してテーブルの傍に連れて行ってくれた。
机にコツン、車椅子の肘掛が当たる。これ以上前に進めない。両腕を思いきり伸ばさなければ机に物を置けない。
「車椅子で不便なのは移動そのものと思われがちだ」
言いながら私の正面に座る。ポケットから出すのはミネラルウォーターのペットボトル。
「むしろ大変なのは」
「上下、だ」
私の答えに、教授は無言で頷いた。
膝と腰のバネを使ってしなやかに高さを変えることができない。自販機でこれだ。電車やバスを使うとき、買い物のとき、些細な日常はどうなるだろう。
ぷちぷちと教授の手元で音がしている。
錠剤が机に落ちた。くるくるころころ白丸が転がっては倒れる。
「安息香酸ナトリウムカフェイン、要するにカフェインだよ」
視線に気付いた教授が言う。
教授はカフェイン無しではまともに活動できない。眠気のせいではない。
彼は他人の思考や記憶や過去を覗き見ることができる。それ故に人の多い場所は現実以外のノイズに溢れてしまうのだ。テレビやラジオを何台も同時にかけている感じが近いだろうか。カフェインを摂るとその能力を抑制できるらしい。
人ならざるモノを感じてしまう目で耳で、人並み以上の苦労をしてきたつもりだったけれど。世の中にはまだ私の知らない生きにくさが、それこそ知り切れぬほどあるのだろう。
「ところで体調はどうだい?」
考え事に沈む私の脇で教授が錠剤を飲み下す。
私は喉仏のうねりを見るともなく見ながら答えた。
「脚は痛いし熱っぽいけれど、大丈夫。それよりも何よりも検査続きで疲れるわ。このあとリハビリだって言うし」
「はは、病院なんてそんなもんだよ」
笑う教授の肩越し、ふらふらとラウンジへ入ってくる与那嶺さんが見えた。
疲労が見て取れる。彼もやっと検査ラリーから解放されたばかりのようだ。
私は手を上げて机に呼ぶ。
「おや、沖縄君じゃないか」
「あのさぁ、
与那嶺さんが崩れ落ちるように椅子に座る。包帯に汗が染み、血色の赤毛が透けている。
一瞬、思考の隅に何か紅い物が散って通った。
「なんで骨折と打撲なのに画像診以外が山ほどあるのさ……。頭打ったから脳波と対光反応と聴性脳幹反応は仕方ないにしても、心肺運動負荷とか視野運動検査とか便検査は何に使うんだよ。喀痰なんか出てないから無理矢理出すのに三十分もかかったぞ」
疲弊した溜め息を背景に、教授が真顔でペットボトルの蓋を閉める。
「……僕はそんな検査、オーダーしてないぞ」
「え?」
私たちの副主治医は難しい顔になり、立ち上がって何処かへ行ってしまった。
早足にたなびく白衣を唖然と見送る。
ロビーから裾が消える頃、私たちは呟いた。
「教授が指示してないってことは」
「神先生?」
どこからか吹き込んだ秋風がラウンジを渡る。不穏な空気を掻き回す。
四時半が迫る。そろそろリハビリに行かねばならない。
◇◇◇------
リハビリって要するに体育だ。
自分の怪我の様子をよく分かっている先生が、怪我に合わせた運動をさせるみたいな、ちょっと高級なオーダーメイド体育。
あまり学校の体育は好きじゃなかったけれど、みんなまとめて競わせる訳じゃないから楽だった。また歩くのに必要なら仕方ないし。
プロだけあって私の体力のギリギリを突いてくる。
リハビリが終わった直後はそこそこ元気だったけれど、病院食の夕餉を済ますとすぐに眠くなってきた。
半分引いたカーテンの向こうで与那嶺さんがノートパソコンを使っている。その打鍵音を子守唄にうとうと居眠り。
ほのかに感じる一匙の幸せ。
いま彼が席を外せば、私はその静寂に目を醒ますだろう。
談笑するでもなくその暖かみを感じるだけ。
誰かとずっと一緒に居るって――
「ハーイ! 回診の時間デスよー」
わざとらしい片言で微睡みから引き上げられる。教授と神先生が連れ立って病室に入ってきた。
私は寝ぼけ眼を擦って身体を起こす。
夜だと言うのに教授のライムグリーンの瞳は爛々と輝いている。満面の笑みもぬかりない。余所ではこの片言陽気外人キャラで通しているのだろうか。
配属が変わったとはいえ一度大学を追放された身だし、元のままでは居られぬのだろう。
「マグノリアちゃん? あ、起きたか」
与那嶺さんがカーテンを開ける。私を起こしてくれるつもりだったようだ。
寝てるの、気付いていたんだ。
そりゃそうか。この距離じゃ寝息聞こえるよね。
なんだか恥ずかしくなってきちゃいそうで、意識を医師たちに向ける。
教授は特に何をするでもなく壁際に立っている。神先生のことを観ているようだ。
神先生はざっと与那嶺さんのカルテに目を通し、与那嶺さんの傷を確認しはじめた。
早速に不機嫌顔の与那嶺さん。一日理不尽な検査を受けさせられたからだろうか。
その唇が動いて、言葉が漏れる前にはもう、追及を始めるつもりと推せていた。
「神先生、随分検査が多すぎやしないか?」
与那嶺さんは喧嘩腰だ。
神先生は彼の包帯を外し、 頭の傷を見ながら淡々と応えた。
「大変でしょうが我慢していただけませんか。傷を酷くしないために必要なのです」
「素人への殺し文句は通じないぜ。俺は臨床検査技師だ。検査にかけちゃアンタら医師より余程玄人なんだぞ。今日やった検査の手技も意義も全部知ってる。おい、あの不要な検査群は一体なんのつもりだ?」
神先生は押し黙って包帯を巻き直し始めた。医師特有のポーカーフェイス。
無表情の裏で返答を模索しているのが見て取れた。
数センチ先で敵意の視線を刺し続ける与那嶺さん。
黙ったまま神先生は与那嶺さんの眼帯を外す。
――ミシ。
不意に軋むような異音が響いた。まるでガラスが押されるような。
一同の視線が窓に集まる。
窓には大きな白い長い毛むくじゃらの何かが。
言うなればまるで、巨大な蜘蛛の脚の一つのような何かが――
――今まさに突き立てられた。
ガラスの割れる音が鼓膜を劈く。脚が窓を突き破る。
その先端には長い鉤爪。
月光に散乱するガラス片の間から、鋭い切っ先が与那嶺さんと神先生に迫る。串刺しにせんとする勢いで。
「伏せていなさい!」
神先生が右腕を振り上げた。
白衣がはためきながら唸り、拳は白い狂爪を真横から打ち付ける。
――ごぶ。
鈍い音と共に逸れる切っ先。
鉤爪はベッドの足元の柵にぶつかった。ステンレスの柵がぐにゃりと歪む。
脚の主は予想外の衝撃で怯んだように見えた。
神先生は勢いそのままに上半身を捻り、左拳を真上から叩き込む。
減り込む素手の鉄槌。白い脚がビクリと痙攣した。
分が悪いと悟ったか。襲撃者が退散していく。剛毛に覆われた脚がゆっくり部屋から引き下がる。
窓の外の宵闇に吸い込まれるように、爪先は窓の縁に消えて見えなくなった。
たった数十秒の出来事であった。
「今のは何……?」
私は呟いた。声が震えてしまっている。
「覚えてないのかい?」
教授が私を見やる。
疑問符を疑問符で重ねられ、私はいささか動揺した。
「覚えてるって何を?」
「どうしてここに運ばれたか」
どうしてって。
……どうしてだっけ?
大怪我したのは覚えているけれど。
口を開けて黙り込む私に教授は平然と言い放つ。
「まぁ頭打つと前後の事忘れるなんてよくあるよね」
よくある事かも知れないが、よくはない。
神先生は眼帯のガーゼを新しい物に取り換え、与那嶺さんにつけた。
与那嶺さんが自分で出来るとばかりにちょっと身じろぐ。
ガラスの割れる音を聞きつけたのだろう、看護士さんが数人駆け込んできた。神先生は迷い鳥が飛び込んできたと説明した。
片付けをする看護士さん達に紛れ、神先生と教授は退散してしまった。
追求しそびれた与那嶺さんが舌打ちする。
私は私で混乱していた。色々な事が同時に起こりすぎている。
さっきのは何だろう?
神先生は何者なんだろう?
無意味な検査の理由は?
そして昨日の私には一体
何があったのだろう?
◇◇◇------
「オハヨウゴザイマース」
「おはようございます。朝の回診に参りました」
昨晩ナニゴトも無かったかのように、教授と神先生は診察にやってきた。
翌朝七時過ぎ。不穏など対岸の火事とばかりに温色の朝陽が部屋を暖めている。鳥の声なんかしちゃってさ。
私たちを見るなり教授が笑う。
「随分重装備だね」
「だって怖かったんだもん」
私の枕元には聖書と聖水の瓶が数本並べてあった。どちらもエクソシストだった祖父から譲り受けた物である。
いつも寝るときは外している琉球ガラスのお守りブレスレットも、昨夜ばかりはつけたまま寝た。このブレスレットは与那嶺さんから貰った。きらめく水泡を沢山含む水色のガラス玉が私を癒す。
与那嶺さんの枕元にも二本の聖水瓶が置かれていた。そして昨日割れた窓へ当てられた段ボールには、真っ赤な極太サインペンで『石敢當』の殴り書きが。
私の抱く白に気付き、教授の瞳がすっと穏やかに細くなる。
私は布団の代わりに白衣をかけて寝ていた。
教授が日本を発つときにくれた置き土産だ。私はこれに守りの力があると信じている。
教授は白衣の襟元をちょっとずらして見せた。
朝陽を鈍く反射する不思議のメダイ。白衣を貰った時、交換であげたロザリオだ。
教授、お祈りはしている? 自分の辛さや寂しさを手放せているかな?
「昨日の今日なので」
カルテに目を落としたままで神先生が言う。相変わらず風より深く澄んだ声だ。思わず顔が向く。
「お二人とも独りで行動しないよう気を付けてください。出来るだけ人が多い場所で、しかも『みえる』人間と一緒に居るようにお願いします。業務の合間を見て小生とDr.Woodenknightもお傍に控えます」
教授がへにゃりと笑う。頼りない。守る気なさそう。
二人が去った後の病室で与那嶺さんはほくそ笑んだ。
「お傍に控えるって事は話すチャンスは山ほどあるな。時間を有効活用させてもらおうじゃん」
焼けた肌に真っ白な歯が意地悪く光る。心なしか結構楽しそうだ。
奇異な外見と孤独故の胡散臭さで、そしてドーピングを彷彿とさせるほど人並外れた身体能力から、ずっと疑われ追われる側だった彼にとっては新鮮なのかもしれない。
私はと言うと何があったのか思い出すのに一生懸命で、他人を問い詰めている余裕などない。脚も相変わらず痛いし、熱もあるし。
意気込む与那嶺さんの髪の色をぼんやり眺める。
◇◇◇------
検査が減った分リハビリに長い時間が割かれていた。
座りっぱなしの脚が硬直してしまわぬよう、軽く動かしたり解したり。立ち上がる練習の時にばてぬよう、握力を測って鍛える計画立てたり。たくさん汗をかいた。
マッサージをされながらふと窓の外を見ると、紅葉した木々がモザイクアートのようだった。
私は膝に荷物とタオルを載せ、車椅子の車輪を漕ぎながらリハビリ室を出る。
二の腕が鈍く疼く。これは怪我ではなく筋肉痛のせいである。自分の体重が丸ごと乗った車輪を回すのはなかなか力が必要だ。
リハビリ室傍の休憩スペースに誰か居るから合流するように。
教授からそう指示を受けていた。私は廊下の角を曲がろうとする。
「与那嶺技師はMs.ウィッティントンとどういう関係なのですか?」
自分の名に思わずグイと車輪を止める。
神先生の声は角を回り込んでなおよく通る。波紋のように胸を震わす。
「は?」
与那嶺さんの威嚇じみた応もよく聞こえた。角を曲がってすぐの席にいるらしい。与那嶺さんが意地悪く笑んだ気配がする。
「はーん、ああいう子が好みなんだ。医師の分際でロリコン趣味とはいかしてるね。何? あの検査群は恋敵の素性調査?」
「ロリコンは普通小児性愛を指す言葉で、Ms.ウィッティントンはれっきとした思春期の女性です。関係ありません」
感情を押し殺してはいるが、やや苛立ちが垣間見える。
壁向こう九十度の緊迫に私は息を潜めるしかなかった。
神先生が冷たく言い放つ。
「質問に答えていただいてないのですが」
「……余計なお世話だよ」
がたん、乱暴に立ち上がる音が聞こえた。私はバック走行で廊下の角から離れる。
与那嶺さんは私に気付かずリハビリ室の方へ行ってしまった。走っているのかと見紛う程の早歩きから透けている気持ちは何だろう。ただの苛立ちではない気がする。垣間見える焦りのような物は何だろう。
私は改めて廊下の角からそっと顔を出した。
神先生は椅子に座ったままじっと壁の方を見ていた。私も同じ方に目を遣る。
小さな女の子だ。しかし全身は青白く不明瞭で、壁が透けている。彼女が生きていたのは何日前のことか知れない。
神先生が席を立った。
そして壁際の元女の子に近付き、白衣の腕を捲って屈み、そっと頭を撫でた。
私は金属の車輪を転がして彼に近付く。
「触れるのね」
昨晩も気になっていた。
彼はヒトならざる襲撃者を、その拳で殴りつけていた。
私や亡き祖父、与那嶺さんもこの子はきっと見える。でも誰一人この子に触れる事はできない。
ヒトならざるモノが私たちに触れることは多々あれ、私たちの意思でヒトならざるモノに触れられたことはない。理由はよく分からない。
教授の言葉を借りれば『膜が無いから』なのだと思う。生き物には皮膚や細胞の膜があって外界と隔てられている。だからその境界に触れることができる。
でもヒトならざるモノには膜が無い。透けている。淡い。お祓いの塩やお酒の浸透圧で揺らぎ易々と散ってしまうほどに。
神先生が振り向いた。青白い虹彩。冷たい色だが、浮かぶ慈愛は暖かい。
「触れる人間は珍しいようですね」
「うん、はじめて見た」
神先生は相変わらず元・女の子を優しく撫で続けている。元・女の子の表情は変わらない。と言うより顔であるはずの所は不鮮明で、表情を出す器官が残っているかも分からない。
「神社に生まれ、親類は皆『触れる』人間だったもので、『みえる』者の中でもこれが珍しいと分かったのは社会人になってからです」
ああ、それで教授は彼を宮司君なんて呼ぶのか。
せっかく二人きりだし物はついでだ。質問をさせてもらおう。
「神先生もハーフなの?」
雪のような前髪と氷のような瞳。日本人の多くが持つ色ではない。私の持つ、金髪と菫色の瞳のように。
「いいえ、小生は日本人ですよ。この髪と瞳はワーデンブルグ症候群によるものです」
「わ?」
「ワーデンブルグ症候群です。生まれつきの病気ですね。幸い外見が違う以外の症状は出ていません。人によっては難聴になったりします」
初めて聞く病気だ。
光る前髪を見下ろしながら尋ねる。
「……いじめられたりしなかった?」
問いながら、私は仲間を増やしたかったんだと気付いた。
奇妙な外見によって、奇異な出生によって、そして奇怪な能力によって、フツウの社会から排斥されてしまった仲間を。
しかし神先生の答えは幸福だった。
「小学生までは多少からかわれたりもしましたが、病気だと告げれば誰もが謝ってくれました」
神先生が立ち上がる。
元・女の子に慈愛の手を惜しむ素振りはない。
「名前があるというのは大きな盾です。仕組みがよく分かっていなくてもいい。平均の平常の外に居る者にとっては、存在を認められていること、それが何よりもの守護なのです」
言いながら廊下の果てを見る。
そこには教授の姿があった。
看護士とパジャマ姿の少年が一緒だ。教授と少年は玩具の水鉄砲を持っている。遊んでいたのだろうか。
教授は少年と看護士へ交互に話し掛ける。大仰なジェスチャーと表情。
今でこそアメリカで居場所を手に入れたけれど。
その能力に名前をもらえず、その研究に名前をもらえなかった教授。
彼が自分を魔術師と、自分の研究を魔術研究と、仮に呼んでいた理由が少しだけ分かった気がした。
「ハーイ、バトンタッチですよ神先生。ナースさんとボーイもバーイ」
「せんせい! また遊んでね!」
少年は満面の笑みだ。看護士に手を引かれ、エレベーターの方へ去って行く。入院病棟の方へ。
「では失礼します、Ms.ウィッティントン」
薄く微笑む神先生。清涼感のある、氷柱の反射光みたいな笑みだ。
かっこいい。
先程まで神先生の居た椅子に座る教授。その手には何処から持ってきたかお湯だけ入った紙コップ。
教授はおもむろにティーパックを三つ取り出し、全部お湯に浸した。お湯が見る見る茶褐色に染まって行く。
紅茶の完成を待つ教授の顔に先程までの楽しげな気配はない。真顔で目のピントもあってない。何を考えているのか分からない。
こっちが素の教授だ。
無理にあんな陽気外人を演じて疲れているのだろう。茶葉に含まれたカフェインの1mgも残すまいとするように執拗にティーパックを回し続けている。
今日の眼鏡は金色の細いフレームだ。他人に顔を覚えられぬよう毎日眼鏡を変える習慣は今も続けているらしい。
演じ演じ躱し続ける教授と、堂々と問うか黙るかの神先生はすごく対照的に見えた。
「ねぇ教授、教授の家族はアレらが見えたの?」
私は壁際の元・女の子を示しながら問う。
教授はコップの水面を覗き込みながら答えた。
「いや。僕以外は『普通』の人だったよ」
演じ疲れたせいか、それとも相手が私のせいか、教授は饒舌だ。
「両親は僕が語る異形の話を信じなかった。でも僕が変わり者である事に理解を示してくれた。学校に馴染めなかった僕の居場所を見付けようと、様々な習い事を試させてくれた。ピアノ、ダンス、射撃、将棋、ボーイスカウト等々。僕が存外に勉強好きだと気付いてからはゆっくり勉強できる個室の塾を契約してくれた」
予想通りというか何と言うか、やっぱり育ちも対照的だ。私は深くまで聞きすぎたかと既に後悔していた。
「結局最後まで僕の話を信じてくれることはなかったけどね。感謝は、しているよ」
吐き捨てる語尾に滲む愛憎。綯い交ぜになったプラスとマイナス。揺れる一抹の寂寞。
謝りたい気分になってきた私を察するように、教授は続けた。
「宮司君に何か聞いたのだろう? 宮司君は理解されて育った。だけどどうやらそれ故に大きな間違いを犯したようだね」
ティーパックを引き上げ、目の高さに持ち上げる。まるでその表面に神先生の過去が映し出されているかのように。
「今夜あたり覗いてみたら?」
ひたひた紙コップへ滴る茶色い雫。
私は大きな溜め息を吐く。
「あんまりズルはしたくない」
そう言う私を教授は笑った。まだまだ子供、とでも言いたげだ。
実は私も教授も、他人の過去を覗き見ることができる。
とはいえ私は寝ている間に限るし、相手を選べないし、見るか見ないかすら制御できないのだけれど。
でもそんな風に言われたら、なんだか、今夜は夢見てしまいそうではないか。
◇◇◇------
病院食が物足りなくなってきた。そこそこ美味しいが、量はあまりない。昨日一日なんの文句もなく食べていたのが不思議なくらいだ。
昨日よりは体が回復したせいだろう。
「ねぇ、与那嶺さんはこの量で足りるの?」
私は問い掛ける。
与那嶺さんはジャッと勢いよくカーテンを開けた。
もしかして話し掛けられるのを待っていたのかな?
そんな遠慮しなくてもせっかく一緒に入院しているんだから、もっと沢山関わってくれていいのに。
そう思いながら、着替え中にカーテン開けたのを怒ったのは自分の方だったと反省してみたり。
与那嶺さんのお皿はもう空だった。
「もちろん足りないさ」
悪戯っぽく笑って持ち上げるのはコンビニのビニール袋。中から鮭のお弁当と菓子パンとパスタを出す。私ひとりで始末するなら三食分くらい量がある。
筋肉質だから、では説明しきれない程の食欲。160程度の身長に脂肪がないのが不思議だ。きっと彼に流れるキジムナーの血のせいなんだろう。それとも沖縄の人ってみんなこんな感じなのかしら?
「毎食そんなに食べていたら食費足りなくなりそう」
「マジレスすると足りてないよ」
私は笑ったが、よく見ると与那嶺さんの苦笑いは諦念のそれだった。
鮭の欠片とご飯を交互に口へ放り込みながら、与那嶺さんは器用に話す。
「祖母を亡くしてからは施設育ちで、仕送りしてくれる家族もないからな」
「お父さんとお母さん、は?」
「さぁ」
パスタを開封しながら肩をすくめる。
「妖精は木の股から生まれるとか言うし、キジムナーの俺もそうなんじゃねぇの?」
祖母が居ると言っておきながら茶化すのが下手だ。これ以上は聞かれたくないのだろう。
与那嶺さんは茶漬けのようにパスタをかき込みながら吐き捨てる。
「普通に生まれて幸せな家族に囲まれて育った奴は嫌いだ。幸せもんにしか適応されない正義振りかざして、孤独な人間を追い詰めやがるからな。なぁ?」
プラスチックの皿越しに投げられる敵意の視線。
私は振り返る。
今しがた神先生が病室に入ってきた所だった。
「俺には分かるんだよ。俺『たち』に危害を加える、幸福な過去の匂いって奴がさ」
神先生に最初から喧嘩腰だったのはそういう理由だったのかしら?
神先生はポーカーフェイスで立ったまま応えた。
「残念ながらその通りですね」
幸福に生きてきた事を指すのか、それに裏付けられた正義を指すのか、はたまた与那嶺さんを傷付けかねないという指摘を言っているのか。
「食事中失礼しマース、夜の回診デース」
険悪な空気をぶち壊すように教授が入ってきた。ポケットに手を入れ、ゆらゆら柳の様に。
「二人とも熱は下がったかい?」
「与那嶺さんは平熱だけど、私がまだ八度くらいある」
「じゃあ大丈夫だね」
私は反論しようか迷ったがやめた。
教授は神先生に言う。
「予定通り今夜で」
「何が?」
「元凶を潰しに行きます」
神先生が私たちのカルテを流し見る。そこに何かヒントが書いてあるかのように。
「あの子は一度獲物と決めたらそうそう逃がしてはくれません。いつかはこうせねばならぬ日が来ると分かってはいたのですが……」
要領を得ない。深刻そうな神先生に反し教授はへらへらしている。
「で、囮として獲物たる二人には一緒に来てもらう」
「待って教授、私いま車椅子」
「沖縄君が押してくれるから大丈夫」
「先生、俺いま指折れてる」
教授は与那嶺さんの苦情を華麗に無視した。柳の若葉の如く瞳が輝く。
「現場に着いたら沖縄君は紫蓮君を適当に放り出して、宮司君と一緒に討伐に当たってね」
「……。教授は何するの」
「データ取ってる」
満面の笑みだ。こんなに心底楽しそうな教授は何ヵ月ぶりだろう。
病室の空気が呆れに澱む隙も与えず、教授は立て続けに指示を告げる。
「今の時間だと一般人巻き込んで面倒だから仮眠してて。日付が変わった頃、適当に理由つけて病院の入口に来てね。それでいいね宮司君?」
「上司は貴方です。従いましょう」
マジかよ。
表面上は主治医と副主治医で神先生が上司だが、所属している裏の機関では逆らしい。秘密裏に超常現象を研究しているという機関の。
「それじゃ、おやすみ~」
言うだけ言って嵐のように去って行く教授。その後ろにつき従う神先生。
私と与那嶺さんは白衣の後ろ姿を見送るしかなかった。部屋の電気が強制的に消される。
数分、二人とも沈黙しながら状況を整理していた。正直いきなり戦いに巻き込まれるのは御免だった。でも。
段ボールで蓋された窓が夜風にべこべこ揺れている。
現にこうやって襲撃を受けた訳だし、またいつ襲ってくるか分からない。根本解決が必要ならそれも仕方ないだろう。
私は後ろで見ているだけだ。走って逃げることも隠れることも出来ない状態で。
「守ってやるから安心しろな」
「え?」
あまりにも小さな声で言うもんだから、思わず聞き返してしまった。
与那嶺さんは窓の方を向いていて表情は見えない。暗い上に真っ赤な髪の隙間の耳も地黒なもんだから色が変わっているか分からない。
「それじゃ、おやすみ」
私の返答を待たずカーテンが引かれる。
ミントグリーンのカーテンの向こうに、私は目一杯の温もりをこめて放り投げる。
「ありがとう。おやすみ」
彼は今どんな顔をしているだろうか。何を思っているだろうか。
瞼をゆっくり下ろして感じようとする。
与那嶺さんの気配がすぐそこにある。
嗚呼、もし一緒に住んだら、この気配を毎晩感じることができるのだろうか。
柔らかな気持ちで眠りにつけるのだろうか。
そうなったら。
家族になったなら。
どれほど素敵な事だろう。
◆◆◆------
これは夢ではない。すぐに分かった。
広がる
誰かの過去に入り込んだらしい。
と、視界が滲んだ。
『どうして? どうして?』
少年の涙声。
私を中に招き入れた、誰かの声が響く。
「この世には、分かり合えない者同士もいる。人と人とですらそうだ。人でなきモノと通じ合うのは難しい」
深い深い、鍾乳洞を通り抜けた風みたいな語り。私を入れた誰かが見上げる。
そこには中年の男性が居た。諭すように見下ろす瞳の左だけが青白い。
『そんなはずないよ! 父さんは間違ってる!』
「京一郎」
解ってくれ、とばかりに見詰める男性。
それを私は、少年時代の神先生は真っ直ぐ見つめ返す。
『だって動物と人間が心を通わせた話なんて沢山あるじゃんか! タマとだっていつか必ず分かり合えずはずだよ!』
「タマは動物ではない。元の場所に返してきなさい」
『違う! タマは猫だ!』
神少年が足元を示す。
白い被毛に覆われた四十センチほどのソレを。
八本の脚の先に鉤爪を称えるソレを。
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