第13話 白衣を脱いで魔術師は
病み上がりには多少しんどい旅になるかもしれない。
ちゃんと足首まであるデニムパンツにスポーティなブラウス。焼切られた髪は母に頼んでセミロング・ボブに整えてもらった。まだ少し紅潮した顔を誤魔化すように、帽子をかぶる。勿論胸にはロザリオ、腕にはあの人のブレスレットもある。
「ママ、どこか変じゃない?」
私は母の前でくるりと回って見せる。
母は私に水筒を手渡す。
「あら、珍しく随分動き易そうな格好なのね」
「だってこの前みたいに怪我したら大変だもん」
ショルダーバッグを担ぎ直す私に、母が失笑した。
「……空港は山じゃないから、そんなに頑張らなくても大丈夫よ」
「警戒するに越したことはないでしょ」
もう抱き上げて運んでくれる人はいないんだから。
スニーカーの紐を固く結ぶ。それだけで、遠くへ行くんだって実感が出てわくわくしてきた。
念の為バッグの中に聖水と聖書が入っている事を確認。
まだ玄関の隅に置いたままのサンダルを何秒か見詰めた。
私はえいと立ち上がる。
「いってきます!」
言いながら、笑顔の自分に驚いた。
母が手を振る。
扉を開ければ晩夏の街。
まだ熱しきっていないアスファルトを、軽い足取りで行進していく。水色の空が少し高い。八月が終わろうとしている。
バスに乗り、駅へ。通勤ラッシュの前なのでけっこう空いている。
とはいえ、電車自体数年ぶりだからそれでも混んで感じるものだ。不慣れな駅だがここは終点だし、電車の方向を間違うこともない。
父の形見のICカードを翳して颯爽と入場する。鈍い音を立ててゲートが腹にぶち当たった。
そうすごい勢いではなかったけれど、不意打ちに私はうずくまる。チャージ不足だった。
タッチパネルにやや戸惑い、カードにお金を入れ改めて入場する。
ホームには透明な夏風が吹き渡っていた。
線路の方を向いてしゃんと立ってみる。滑り込んできた電車にブロンドが舞い上がる。
あんなに怖かった遠出が楽しくて仕方ない。逢いに行きたい人が居るというのは何と素晴らしい事なんだろう。ちょっとした障壁なんて軽々と越えさせてしまう。
わざわざ一番前の車両に乗り込む。正面の窓を覗き込んでみる。
延々と真っ直ぐ伸びる線路に内心歓声を上げた。青空の果てを突き刺すようだ。
東京砂漠と名高い魔都へ赴くというのに浮かれすぎではないだろうか。
私は深呼吸をし、高鳴る胸に手を当て抑えた。右の掌にロザリオの感触を感じながら、左手首の琉球ガラスに口付ける。
スカスカの座席の真ん中にストンと座る。
架橋の上に作られた線路だけに、景色が高い。普段地べたを歩くだけの私にはもう新鮮でたまらなかった。ミニチュアみたいな街並みに模型より小さな車が走っている。それが視界いっぱいに広がっているのだ。
楽しげな発車ベルが聞こえてきた。
私は座席にきちんと座り直す。慣性に引かれる感覚と共に列車は走り出した。
リズミカルなガタゴト音。数えているだけで退屈しなそうだ。
夢中になる前にと携帯を取り出して行程を確認する。
先程東京砂漠とかのたまったが、行先は千葉だった。
◆◆◆------
地下から直通エクスプレスが建物に食い込む。降り立ったホームの人の流れになんとなく付いていく。
「うわぁ、でっかい」
空港の第一印象はそれだった。
飛行機が出入りするんだから仕方ないよなぁと一瞬思ったが、別に飛行機が建物に頭を突っ込むわけではなさそうだ。大きな窓から空港の建物よりさらに広大な発着場が見えていた。
あっという間に迷子になった。
待ち合わせ場所は行けば分かるだろうくらいの気持ちで居た。しかし皆目見当がつかない。
飛行機の時間が迫っている。
どうしよう。
周りを見渡すと外国人が沢山いた。自分のような金属色の髪に宝石色の瞳の者も多い。顔立ちや肌の色も様々だ。ダークブラウンに囲まれてきた私には新鮮だった。
ここなら私は『普通』なんだ。
なんとなく土産物屋の買い物客を装って歩いてみる。
私に注がれる視線など無い。
日本に居るとどうしても目立ってしまって、多かれ少なかれ見られるのが日常となっていた。でもここに居ると空気になったみたいだ。気持ちがいい。
しかし、いよいよ遊んでいる場合ではない。
私は適当にスタッフっぽい人を捕まえ、メールの画面を見せた。
「見送りの約束をしているんです。どう行けばいいですか?」
丁寧な説明を貰い、礼を言って小走りにターミナルへ向かう。
間に合うだろうか。本当にぎりぎりだ。
出国ゲートの前で待つ姿はすぐに見付けられた。
白髪混じりの髪、整った顔立ちに眼鏡、こんな所でも白衣を羽織るその姿は。
「教授ー! 来たよー!」
私は手を振りながら駆け寄る。
教授も軽く手を上げてくれた。
飛び付いてしまいたかったが流石に我慢した。
呼吸を整える私を見下ろす教授。その視線は優しげで穏やかだ。まるでお父さんか歳の離れたお兄ちゃんみたい。今までの何を考えているか分からないような、距離を置いた冷たい雰囲気ではなくなっていた。
見送りに来てくれないか、と。この場所と時間だけ記されたメールが来たのは昨夕のことだ。
もしかしたら教授はぎりぎりまで迷っていたのかもしれない。
あんな事があった後だから。
私は声を落として尋ねる。
「大学、やっぱり追い出されちゃったの?」
「イエスでもありノーでもあるね」
教授は誇らしげに微笑む。
「大学として何の処分もしない訳にはいかなかった所に、引き取り手がついた。アメリカのとある大学が僕を招いてくれたんだ。新しい教授としてね」
「すごい! それって出世じゃない。教授ほんとうの教授になっちゃうのね!」
『ほんとうの教授』という言い回しに教授はちょっと笑った。
こんなによく笑う人だったろうか。数日前の何もかもを諦めたような空虚な笑顔ではない。何もかもを受け入れたようで、愛しむようだ。
「FBI超能力捜査部と密接な連絡を持つ研究室だ。今まで以上の自由が保障されているよ」
「ちょ、超能力捜査部なんてあるんだ……」
「昔テレビでそんなおふざけ番組があったが、本当に出来たらしい。まだ新しいよ。まだ公ではないにしろ、あの国ではそういう能力を持った人間が居るって、信じられている訳だ」
言いながら教授の目が遠くなる。
「……たまに牛乳を受け付けない体質の人が居るのをしっているかい?」
「ラクトース不耐症でしょ」
「そう。それを治すにはどうしたら良いと思うかい?」
私はカンニング気分を覚えながら一応悩むふりだけする。夢ならざるユメ、エメリーさんの言葉をヒントに答えた。
「薬を飲むか、牛乳を飲まない」
「なかなか良い線いってるね」
「でも体質なんだもん仕方ないじゃない。治らない気がする」
「そう。それが正解だ」
教授はまた微笑んだ。元々のイケメンも相まってすごく素敵だ。二木のオジサンみたいな大きい熱い感じではないけれど、静かで涼しげで、三日月みたいに人を惹きつける。
「一概には言えないが、体質的な病気を治す方法は二つあるんだ。ひとつは身体を変えること。もうひとつは、環境を変えること。牛乳を飲むのが当然ではない文化圏に移住すればラクトース不耐症はもう病気でなくなる」
大きな窓の外に真っ白な飛行機がやってきた。その胴で反射した太陽光が注ぎ、教授の眼鏡のフレーム、そこに嵌められた小さな翡翠が照る。
「病気や障害の原義は『正常からの逸脱による苦痛』なんだ。そして正常の定義は、居場所によって全く違う」
この空港の中では、私は異常でも奇異でもなんでもないように。
「もし紫蓮君が寂しくて苦しくて堪らなくなった時は、居場所を変えてみてくれ。自分が奇異ではない場所を、正常で普通で居られる場所を、どうか探してみてくれ。僕のように無理矢理自分や周りの人間を変えようとしなくてもいいんだよ」
私は頷いた。
恐れずに歩き続ければきっとそんな場所が見付かる。
教授たちと一緒に居て分かった。もう耐えるばかりが能ではないのだ。
「もし見付からなかったら僕の大学の僕のラボにおいで。今からじゃ難しいだろうから院からでもいい。喜んで受け入れるよ」
「何処の大学なの?」
「それはまだ言っちゃダメなんだ。正式に落ち着いたらメールするよ」
メールは英語で来るのだろうか。問題なく読めるからどちらでも構わないが。
ずっと気になっていた事があった。私はこの際だからと問うてみる。
「私がサインした契約書って何だったの?」
「ん? 普通に実験協力だよ?」
「茶々さんが『実験協力ならいつでも撤回していいことの説明があるはずだから何か別の契約かも』って……」
「ああ・説明が面倒だっただけだ」
こんにゃろう。
アナウンスが搭乗を促す。いよいよお別れのようだ。
「そうだ、最後にネタ晴らしをさせてくれ」
「?」
「紫蓮君の遺伝子を解析したところ、腺上皮細胞内にある水溶性タンパク質の一つに極めて稀な突然変異が見付かった。構造からして恐らく、pHやその他成分の影響を受けて構造が可逆的に変化する性質を持つだろう」
難しくてさっぱり分からない。
「簡単に言うと……?」
「紫蓮君が怖がったり緊張したりすると汗の成分が変わって、人ならざるモノを寄せ付けるって事さ」
私の汗が?
思い出してみれば確かにそうかもしれない。
アイツらが私に特にしつこく付き纏うのは、私が嫌な気持ちで居る時だ。そして父も祖父もヒトならざるモノへの恐怖に苛んで暮していて。
教授は思案顔の私に、諭すように続ける。
「いいかい、ウィッティントン家にかけられた呪いの正体は『不安』だ。元々の特異体質を負方向に加速させる言葉の圧力だ。キミは勇気を持つことで呪いを易々と打ち消す事ができる。心を強く持ちなさい。もし折れそうになったら――」
教授は手荷物を床に下ろし、白衣を脱いだ。
それをふわりと私の肩にかける。
「――折れそうになったら、僕を頼ってくれ。必ず助けてあげるよ」
引き摺るほどに長い大きな白衣。
教授がくれた純白のプラシーボ、『安心』の魔法に私は包まれていた。
「ねぇ、教授、私からも」
私は首元を探り、ロザリオを外した。銀の鎖、不思議のメダイ、そして十字架にはまった深紫の色石が胸から離れる。
「教授はとっても頭が良いけれど、そのせいで色々考えすぎだと思うの。辛い事や苦しい事を感じすぎちゃっていると思うの」
教授はきょとんとしている。
私は一生懸命爪先立ちして、教授の首にロザリオをかけた。
「だから一日に数秒でいい、何にも考えない時間を作って。十字架を握って目を閉じるの。ただその冷たさを感じているのよ。きっと気持ちが軽くなるからやってみて」
言いながらずり落ちかけの白衣を手で止める。
教授はしばらく、何が起こったか分からないと言った風情でいた。
胸に落ちた十字架を眺める顔が、ほころぶ。
「分かった。ありがとう。やってみるよ。……それじゃあ、また」
教授が手荷物を取って歩き出す。ちょっと重そうに傾ぐその背中を穏やかな気分で見送っていた。
教授は一度も振り返らなかったし、私もそれを期待しなかった。必ずまた逢えると分かっていたから別れを惜しむ必要なんてなかった。
白衣はまだ教授の気配が残っていて、温かかった。
きっとずっと何度洗濯しようと温かいままだと思う。
◆◆◆------
そろそろ真面目に受験勉強始めないとな。
教授が去った出国ゲートを眺めながらぼんやりと思った。いつまでも白衣を羽織って突っ立っている訳にもいかない。
用事が済んだら急に疲れも出てきた。
そろそろ帰ろう。
あ、二木家にお土産買っていかないとね。オジサンも硝子もあの後のことを心配しているだろう。報告しなきゃ。
考え事する私の周りを行き交う、色とりどりの人々。
国際空港の空気はとても気に入った。教授の言う、私が普通で居られる場所のひとつだと思う。これからも時々遊びに来ようかな。
最後に教授の無事を祈り、目を閉じてブレスレットにキスをする。
「あー、間に合わなかったか」
不意に斜め後ろから跳んでくる声。
――焦がれ焦がれ、失ったと思っていた海の気配。
「なんで……」
私は背を向けたまま呟いた。
「……なんで生きてるのよ」
「おう、マグノリアちゃん。元気?」
「なんで生きてるっつってんのよ!」
振り向きざまに食いかかる。
私の剣幕にたじろぐ与那嶺さん。赤い髪と、焼けた肌の青年。絆創膏や包帯だらけで、顔色こそ悪いが、彼は確かに人の姿で立っていた。
「ほ、ほら、稀な血液型ってバンクに登録して、自分の血を冷凍保存しとくじゃん? 俺もしてあったのすっかり忘れてて」
「そんなの残ってたなら言いなさいよ!」
「だから忘れてたんだって!」
「なんでそんな大事なこと忘れてんのよバーカばか馬鹿ばかバーカ!!! ………ばか」
髪の深紅すら直視できず、白衣を手繰り寄せて俯く。いま目を合わせたら押し込んでいた何もかもが溢れてしまいそうだった。
「心配かけてごめんな」
与那嶺さんの手が白衣越し、私の肩に添えられる。
温かくて暖かくて涙が滲んできた。
ずっと触っていて欲しかったけれど、ここは空港だ。人前で泣くなど真っ平御免である。
「ばーか! 無事ならなんでさっさと連絡しないのよ!」
「痛い痛い! まだ傷塞がってないから、そんな勢いよく手を振り払っ、いてぇよ泣くわ! というか俺マグノリアちゃんの連絡先知らねぇし」
「じゃあ携帯出して!」
涙目の二人が連絡先を交換する。片方は白衣を羽織っているし、他方は頬やら肩やら手首やらに大小のパッド付絆創膏だらけだし、かなり異様な光景だったと思う。
それを遠巻きに見守る小さな影に気が付いていた。
私は声を張り上げる。
「茶々さんも教えてよ」
ホットパンツから伸びた脚が、躊躇いがちにこちらに向かう。
大きな胸を揺らして茶々さんは駆け寄ってきてくれた。
まだ気まずさの残る表情を、私は微笑みで迎え入れる。与那嶺さんが茶々さんの背中を軽く叩く。茶々さんまで涙目になっていく。
もう私たちは独りじゃなかった。
教授の作ってくれた未来。小説の中のように互いを認め、笑い合える場所が、ここにある。
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