第12話 いつか来るミライと魔術師
少年が窓から外を見ていた。八、九歳くらいだろうか。
少年には歌が聞こえている。春の潤んだ夕暮れの空、葉桜の隙間から。民謡のような奇妙なメロディーだ。他の人には聞こえない歌なのを、少年は分かっているような、分かっていないような。
「桂馬くーん」
若い女性が呼びかける。それでも少年は歌を聴くのに夢中で振り返らない。
「桂馬くーん、座ってくださーい」
少年の反応が無いと分かると、女教師は溜め息をついた。
「学校でも四六時中こんな感じなんですよ」
「はぁ」
桂馬少年の両親は生返事する。
桂馬の担任の女教師と、学年主任の中年男性は書類を差し出した。
「団体行動を拒む事も多いですし、みんなの迷惑になる前に、特別支援学級に移籍したほうがいいと思いまして」
学年主任が書類の説明を始める。問題児のための、二人態勢の家庭訪問。
斜陽と共に止んでしまった歌声を惜しみ、少年はまだ葉桜を仰いでいた。宵の若葉。その間に残った濃紅色のガクの星型。
説明の最中、学年主任のボールペンが机の角に当たった。
固い音を合図としたかの如く桂馬少年の脳裏に切れ切れの記憶片が通り過ぎる。青い光、魚、人混み。手をつなぐ二人の教師。
桂馬少年はぱっと振り返って問う。
『さいとうせんせー! やまなかせんせー! 水族館、たのしかった?』
担任と学年主任の顔がさっと青ざめる。二人の左手薬指にはそれぞれ違うデザインの指輪がはまっていた。
休み時間の喧騒。まだぶかぶかのブレザー。1年B組の看板。
廊下から教室に入るその入口で、中学時代の桂馬少年は途方に暮れていた。
上のサッシから、ピンク色のヒトならざるモノがべろりと垂れ下がっている。時々ピクリピクリと痙攣して気色が悪い。
級友たちは何の問題もなくピンク色の中を突き抜けて教室を出入りする。でも桂馬少年には、どうしてもそれが出来なかった。
やがてチャイムが鳴った。
級友たちは入口の前で棒立ちになる桂馬少年を邪魔そうに避け、教室に雪崩れ込み、自分の席についていく。
チャイム最後の一音の残響が薄れていく。桂馬少年は死刑宣告を聞く気持ちだった。
「桂馬真斗」
桂馬少年は身を固くする。
自分を覆い尽くすほどの影。鍛え上げられた体の男性教師が真後ろに立っていた。
「教室に入れ、桂馬真斗」
桂馬少年の目の前でピンク色がピクピクと震えている。少年は上履きの足を踏み出しかけては躊躇して止まる。
「先生、できません。それが気持ち悪くて」
「何が気持ち悪いんだ、言い訳をしているんじゃない」
動かない桂馬少年に痺れを切らし、教師はその痩身を担ぎ上げた。
悲鳴を上げる桂馬少年。教室の中でくすくす笑いが広がっている。
少年はもろにピンクの中を突き抜けて教室に入れられた。座席の傍に下ろされる。
椅子に座ってもなおソレの残滓が残っているような気がした。少年はポケットからハンカチを引き摺りだし、延々と顔を擦り続けた。
「教科書を出せ!」
教師の怒声も級友の嘲笑も聞こえないかのように、呻きながら顔を拭い続ける。額から血が滲んできてもなお不快感は落とせずに、ただただ布に縋り続けた。
「医学部に?」
老眼鏡をかけ直し、初老の高校教諭は言う。
「確かに成績は充分に足りるが。桂馬が医者になりたがっていたなんて、意外だよ」
『医者になりたい訳ではありません。知りたいことがありまして』
学ランをきちんときた桂馬少年は微笑む。
教諭の肩には手の形をした青色のモノが静かに乗っていたが、もう視線をやることも指摘することもない。
小学中学の間は大変だった。どうして皆アレらを無視していられるのか不思議でたまらなかった。
そうではないのだ。アレらが見えているのは自分だけなのだ。
自分にしか見えないモノ聞こえないモノと、普通の物がある。選り分けるのも大分上手くなった。
「研究したい事があるのは良い事だ。面接で有利になるぞ。何をしたいんだ?」
『そうですね……認知のこと、感覚のこと。脳科学でしょうか』
「ほう」
理解したかのような頷きに、桂馬少年は内心苦笑する。面接の為に上手い言い訳の用意が必要だなと悟る。
「引き続き成績が落ちないように頑張ってくれ。面談を終わる」
『ありがとうございました』
桂馬少年は丁寧に礼をする。ついでにずっと膝に絡んでいた蛭状のソレを払い落とした。
子供の頃こそ勉強は苦手だった。正確に言えば教室の環境が雑多すぎて勉強どころではなかった。
人と人ならざるモノが入り乱れ、多くの人間の過去現在未来が行き交う狭い箱。桂馬少年にとっては何台ものテレビが点いているような情報過多であった。
しかしやがて、本を一生懸命読んで居ればそれらも大して気にならないのだと気付いた。教科書を丁寧に読むようになって、勉強も得意になった。生来向いていたのだろう。
ぼんやりと昇降口まで歩いてきた桂馬少年を、級友の一団が呼び止めた。
「桂馬、今夜あいてる?」
振り向く桂馬少年の脳裏に薄暗い室内、紫煙の影が揺れる。
「悪い、カラオケも煙草も好きじゃないんだ」
「……おい、俺はお前をメシにだけ誘うつもりだったんだ。カラオケ行くなんてまだ言ってないぞ? 誰から聞いたんだ?」
煙草は無論、校則の厳しいこの学校ではカラオケへの出入りも禁止されていた。誰が秘密の遊びをばらしたのかと互いに不信の目を向けあう男子生徒たち。
「い、いや、なんとなくカラオケ行くのかなと思ってさ」
桂馬少年は取り繕うが、友人たちの間の空気が和む事はなかった。逃げるように靴を履いて小走りで学校から出る。
青紫の空に宵の明星が浮かんでいた。
何をも寄せ付けず輝く強さにほれぼれしながら、駅へと歩く。
ああして独りでも誰にも文句を言われない光を持てたらどんなに良いだろう。周囲と折り合いを付けねば上手く生きてはいけない事、分かってはいても疲れていた。
駅に着くと待合所へふらりと舞い込む。自動販売機でブラックコーヒーとミックスジュースを買う。
両方のプルタブを引いてまずはコーヒー。
『苦いな』
思わず零す。
一口嚥下しては後味をミックスジュースで上書きしながら、ちびちび飲み進める。コーヒーの苦さは苦手だった。
いつからだろう。カフェインを取れば今じゃない時間と場所の事が見えづらくなるって気付いていた。
カフェインは大脳新皮質の興奮剤らしい。そして大脳新皮質と大脳辺縁系は拮抗する。カフェインにより間接的に辺縁系を抑制していることになる。
きっと自分は大脳辺縁系の使い方が他人と違う。だから違う物が見えてしまうのだろうと、薄ぼんやり考えていた。
でもそんな説明をしたところで誰も信じてくれない。身に染みてよく分かっていた。
ふと壁に貼られた広告が目に入った。桂馬少年は目を丸くする。
カフェインの錠剤なんてあったのか。
知らなかった。もう苦い思いをせずに済むではないか。
やはり自分には知識が必要だ。人と違うのを上手く隠しヘマをしないため、そしてその労力を極力減らすにはもっといろいろな事を知らなければならない。
無理矢理飲み下した缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れながら思う。
独りで逞しく生きていかなければならない。誰かに信じてもらう事は諦めた。
教室より更に狭くて人の多い箱、帰宅ラッシュの電車に向かいながら、桂馬少年はもう一個の缶と孤独を握り潰した。
◆◆◆------
青年が窓から外を見ていた。青年には歌が聞こえている。春の潤んだ夕暮れの空、葉桜の合間から。民謡のような奇妙なメロディーだ。
眼下に広がる若緑の桜並木。斜陽に遠のく歌声と重ねるように、桂馬は歌を口ずさんだ。
「それ、何の歌?」
本から顔を上げずに女性が尋ねた。鋼色の髪を春風に揺らし、フローリングに片膝を立てて座っている。
桂馬は質問されたこと自体が嬉しくなって揚々と答えた。
『この季節になると聞こえるんだ。夏が近付いて嬉しいんだろうね。今も聞こえていたよ』
「そう」
女性はそれだけ言ってまた本に注意を戻した。苦笑いを待っていた桂馬は拍子抜けする。
今度は桂馬が尋ねた。
『エメリーには聞こえてないだろう? 変に思わないのかい?』
エメリーは桂馬を真っ直ぐに見た。春より淡い緑、翡翠の双眸に見据えられ、桂馬の思考はどきりと硬直する。
「あなたが聞こえるって言うんだから聞こえるんでしょ」
ふいとまた本に戻る視線。
じわりじわり、桂馬の頬に笑みが浮かんできた。夕風が運んでくる桜葉の薫りが嬉しい気分をもっと高揚させる。
『エメリー』
「なに」
『愛してるよ』
エメリーはフッと短く笑った。桂馬の唐突さには慣れっこだとでも言うように。
桂馬はご機嫌になって尚更高らかに歌を口ずさむ。
空が深紫に染まって行くのを見、窓際に干された白衣を退かしカーテンを閉めた。その音を聞くともなく聞きながら文字を追っていたエメリーの目が、ふと止まる。
「あなたいつだか、なんと言ったかしら、牛乳が飲めない体質のこと」
『ラクトース不耐症かい?』
「そう」
薄暗くなった室内に灯りをともす。黄みの入った蛍光灯が暖かく部屋を照らした。
「私は頻繁にお腹を壊して病院に通っていたわ」
相変わらず翡翠色の視線は本に注がれていたが、最早物語を読んではいない。
「祖国では毎食のように良質な牛乳が食卓に出ていたの」
『なんだ・エメリーもラクトース不耐症だったのか』
「要するにそういうことね。でも最後まで聞いて」
長い脚を組み替えながらエメリーは続ける。
「日本に来てからは毎食牛乳を飲まされる事もなくなったわ。大好きなミルクティーに入れるのも正直な所劣悪な、熱殺菌された牛乳でしょう。私、一度もお腹壊してないのよ。あれだけ何度病院に通っても治らなかったはずなのに」
そこまで言ってエメリーは考え込む。
結論が上手く日本語にならないのかもしれない。そもそも上手く言葉にならないのかもしれない。
桂馬は言い付けられた通り黙って待っていた。
何かを探すように左右していた翡翠の瞳が、止まる。
「病気を治す方法って一つじゃないのね」
そうしめて、エメリーは本の世界に戻った。
鋼色の髪が少し乱れていた。金属のような光沢は薄れ、ウェーブも揃っていない。
ただ物憂げに壁の方を向いている。
桂馬の近付く足音で、検査着の肩越しに振り向くエメリー。その頬はガリガリにやつれていた。オフホワイトの牢獄みたいな病室で彼女の頬が一番青白かった。
彼女が検査着の襟を直すと、手首に嵌められた入院患者識別タグが肘までずり落ちた。
桂馬は白衣に聴診器を提げていた。
それは今や虚勢でも見栄でもなく、彼の仕事道具だった。眼鏡はかけていない。
「回診お疲れ様です、桂馬先生」
エメリーが皮肉る。彼がこの診療科の人間でないことを、彼女はよく知っていた。
彼女の手元には薬剤の取扱説明書のコピーがあった。インフォームド・コンセントに使ったのだろう。
『それを投与するのかい』
桂馬が問うと、エメリーは頷いた。
しばし奇妙な沈黙があった。
治療の方針が決まって嬉しいとか治療が怖いとかそんな雰囲気でもない。桂馬は背筋を伸ばし、じっと立って待っていた。
薄い桜色の唇が開く。
「信じてくれないと思うのだけれど」
『信じるよ』
即答した桂馬にエメリーはふっと小さく噴き出す。
「まだ何も言っていないじゃない」
『それでも僕は信じるよ』
桂馬は真剣だった。
エメリーは桂馬の表情を見ると、また壁の方を向いた。
「……子供の頃から強運だったの」
ほんの少しだけ否定の恐怖を滲ませながら。
「強運って言い方は間違いかしら。賭博や懸賞が、当たりか外れか判るのよ。自分で競うトランプとかのギャンブルは得意じゃなくて、ルーレットとか勝敗予測の話だけれど」
桂馬はその事をずっと前から知っていた。
一流イカサマ師と罵られ、あるいは魔術師と称えられ、賭博場に出入りしていたことも。そうして自力で稼いだお金で留学してきたことも。夢ならざるユメで覗き見て、知っていた。
『それで、数万人に一人が副作用で死ぬその薬は、アタリかい? ハズレかい?』
桂馬の問いに、話が早いとばかりエメリーが背中で嗤う。
「外れよ。いえ、当たりかしら? 数万分の一を引き当ててしまったわ」
分かっていても主張はしなかっただろう。長年不信を浴び続け、諦念が彼女の唇から力を奪ってしまっていた。
「私が何故ライトノベルを好むかって教えた事なかったわよね」
まるで遺言のように、本人は当にそのつもりかもしれないが、エメリーは語る。
「キャラの持つ他人と違う能力が、個性として認められ、活き活きと輝いているからよ。認められているからよ。誰も彼らのパワーを『それはペテンだ』とか『そんなはずはない』なんて言わないじゃない? もし私もこの世界の住人だったらって夢想するのが……楽しかったの」
桂馬はベッドを回り込み、エメリーを覗き込んだ。
エメリーの翡翠色の瞳には涙が溜まっていた。水晶よりも清らに、エメラルドよりも鮮やかなそれが桂馬を見上げる。
「信じてくれたのはあなただけよ、真斗」
桂馬は医局でエメリーの担当医師に詰め寄っていた。
『患者が薬剤の投与に恐怖を覚えています。別なものに変えるべきです』
「しかしねぇ。第一選択薬はこれなんだよ、桂馬先生」
『第一選択はあくまで第一選択です。理由があれば他の選択肢も考慮されて然りでしょう』
担当の医師は溜め息を吐く。
「一番効くから第一選択薬になっているんだよ。根拠もない不安で効く薬を退けるなんてなぁ。使わなければ結局治らなくて死ぬのに。これだから素人は」
吐き捨てる医師。殺気だった桂馬を見て慌ててフォローを入れる。
「桂馬先生はまだ若いから患者の感情を尊重したくなる気持ちも分かる。しかし副作用が出るという証拠もないのにねぇ……」
「わかりました」
踵を返し、医局を飛び出す桂馬。
証拠を探した。
論文や書籍を寝ずに漁り、彼女に副作用が出る事をなんとか証明しようとした。
薬剤の副作用に突然変異が関与している事も、その変異が次々と解明されている事も、今となっては常識だがその頃はまだ最新の知識だった。薬剤と変異の対応が解明されていない例の方が多かったし、エメリーの薬もそうだった。
それでも諦めずに探して探して夜を明かした。
無い。
歯ぎしりしながら時計を見ると、いつの間にか翌日の真昼になっていた。
桂馬は戦慄し、椅子を蹴飛ばして走る。
風を孕んで舞う白衣が邪魔だった。病棟を練り歩く他の医療者も邪魔だった。もうこの世界の何もかもが邪魔をしているように思えた。
エメリーの病室はもぬけの殻だった。
点滴バックから薬剤を垂れ流す血付きの翼状針と、吐瀉物の染みたベッドだけがあった。
◆◆◆------
『僕は別に殺戮そのものが目的じゃないんだよ』
夜明け前の教授室で白髪交じりの桂馬教授がパソコンに向かっていた。英文を打ち込んでは書籍を捲ったり別なファイルを参照したり。荒らされた教授室の奥で、惨状を無視しながら尚も論文を書き続けていた。
ずり落ちた眼鏡を直し、教授は語り続ける。
『背景の違う人が協力する瞬間ってやはり、同じ問題を解決しようとする時だろう? 僕はね、僕の魔法が起こす病と闘ううちに、世界の魔術師と医療者とが手に手を取り合ってくれればと思っているんだ。医学界に隠れた僕のような魔術師が徒党を組んで立ち上がるのも素晴らしい』
教授の論文、現代の魔術書を綴る手は止まらない。
『疫病の蔓延を微生物学が止めたように、皆が認めなければいけなくなる。ヒトならざるモノの存在を。そうして僕らの目を耳を言葉を、誰もが信じるようになれば――近い未来・小説の中みたいに魔術師みんな隠れることなく暮らせる日が来る』
ピリオドを愛しむように打って、論文の最後の行が埋まる。
スタンスタン。
指が踊るようにファイルを保存した。
『僕だってみすみす巨悪になる気はないさ。目立つのが目的じゃない。出来るだけ隠れるよ。しかし僕だって悪魔じゃない。誰も答を見付けられないようなら、ヒントとしてこの論文を公開する』
朝の気配が近付いてくる。教授室の窓から覗く空は明度を高め、藍から青へ変わろうとしていた。
『答えのない質問をするのは美学に反するもので、そこだけがネックだった。本物の聖水を解析できたのは幸運だったよ。これで打倒方法の一例も開示できた。そんな遠回りをしたこと、キミは笑うかな』
十数本のUSBをポケットから取り出し次々とバックアップを取って行く。その作業の最中、影の落ちた瞳で呟く。
『もし本当に誰も、誰一人として立ち上がらなかったら……正義を演じて貰おうと思う。僕の三人の弟妹に』
USBを差しては抜く。いくら冗長化してもしきれないとばかりに。
『この感じだと、放っておいてもStudent君が頑張ってくれそうだけどね』
悲しげなような、誇らしげなような、澱んだ語尾。
『僕自身が誰かを救うとか、何かを変えるとか。そんなのはとうに諦めているんだよ。僕がしているのは問題提起に過ぎないのさ』
最後のUSBにファイルが全て移った頃、教授室に鋭い光が差した。
昇りたての太陽が真っ直ぐこちらを見ていた。
教授は立ち上がり大きく腕を広げ、全身で朝日を浴びる。
『さあ、革命の朝だよ! まずは部屋を片付けないといけないけどね。なんて良い朝なんだろう。世界が、変わっていくよ』
◆◆◆------
延々と教授の夢ならざるユメ、過去を見ていた。
熱に浮かされ水を飲む事と寝てユメ見る事を繰り返すしかなかった。
抗う事はしなかった。もうユメの中で馴染の声を聞けるだけマシだとすら思い始めていた。
教授にも、茶々さんにも、そして与那嶺さんにももう二度と会えない気がしていた。
三日経ってやっと高熱ではなくなった。37.76を示す体温計をケースに戻す。
部屋中に自分の汗の匂いが籠っていた。
私は窓を開け放つ。レースカーテンが舞い踊り、西風を受け入れた。湿って張り付いたパジャマを撫でる涼風。赤橙色の空に目が眩む。
外に出て汗を乾かしたくなった。私はふらつきながら階段を下りる。
玄関に来ると、与那嶺さんのサンダルが隅にきちんと揃えてあった。ママが洗ってくれたのだろう。泥は落ちている。
私はぶかぶかのそれを足に突っかけ、扉を開けた。
玄関ポーチに座り込んで、ブラッドオレンジに染まる空を見上げる。空は瑞々しいがどこか遠い。蜻蛉が横切った。
夕焼けを受けて赤いのかもしれないし、秋の予感を告げる赤蜻蛉かもしれない。
しばらく何を思うでもなく空を仰いでいた。
首が疲れて下を向く。膝を抱える手にブレスレット。
ずっと付けたままだったから、きっと汗臭くなってしまっているだろうな。そんな事を薄っすら考えた。
世界はこんなにも赤いのに、ガラスの蒼は澄み渡る。彼の故郷の海を閉じ込めたかのように。
漠然とした祈りを胸にガラス玉に口づけを。ロザリオを握るより、聖書を捲るより、気持ちに近しい祈りの形を見付けられた気がした。
唇に触れる感触は水より冷たい。潮騒でも聞こえないものかと私は瞼をおろした。磯の香でも漂ってこないものかと深呼吸をしてみた。
こうやって何も考えない時間が私には必要なんだと思う。
教授にとってもそうだったように、世界はあまりに攻撃的に刺激的だ。抗う術を求めて貪欲に知識を集めた教授のことは尊敬しているけれど。
今度もし会えるなら、話せるなら、こういう方法もあるよって教えてあげよう。
茶々さんもきっと祈ることを知らない人だと思う。そもそも日本人は祈りの感覚が希薄なんじゃなかろうか。別に特定の神様にお願いする訳じゃなくて、無力感の寄る辺を作っているだけなのだというのに。茶々さんは頭の固い所があるけどどうだろう。一生懸命説明すれば分かってくれるかな。
逆にあの人はすぐに理解してくれそうだ。少年時代、独りで海を見ていたあの人は。青年になってなお、独りで月を見ていたあの人は。
ああ、でも、もう話す事はできないんだよな。
オレンジ色の風がふわりと私を包む。
茶々さんは混乱して止血もしなかった自分を呪っていたけれど、私に至っては止血なんて発想を持っていなかったし、道具を与えられていながら使い方すら分からなかった。あの血の海、肉の隙間から、血管を探し出すなんてできなかった。
みんなのように医療を医学を修めれば次は救えるのだろうか。
知識があれば――。
結局、若かりし教授と同じ結論に至った事に気付き失笑する。
受験は医療系の学部にしよう。あの大学の。大きな大学病院も持っているし、何より家から通える。あんな良い場所は無い。
目を開き、一度大きく伸びをする。汗も乾いて涼しくなった。
もう一度だけオレンジ色に染まる空を見上げ、私は家に入った。
部屋に戻ると携帯がメールの着信を告げていた。
「……!」
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