第二十三話

 かつんかつんと靴底を鳴らし、ぬっと暗闇から人影が現れる。

「随分騒がしいかと思えば鼠が紛れ込んでいたのか」

 闇の中でもよく映える銀色ぎんいろの髪を揺らし現れた深影みかげは、紅色べにいろの瞳でくるりと辺りを見回す。

 びゃくの背中に姿を隠している叶光かのみと深影の視線がほんの一瞬ぶつかり合う。

 深影はどこか悲しげに瞳を揺らし、すぐにその視線を外した。

「……四人、か。流石に蒼氷そうひ一人では手に負えなかったか?」

 深影は反対に位置する蒼氷へと投げかける。

「いや、そう言う訳ではないんだけどさ」

 蒼氷はあははと気まずげな笑い声を漏らした。

「深影様。ここは僕が」

 深影の後ろに控えていた風音かざとが、すっと前に出る。

「……いや、お前だけに任せてはおけぬな」

 そう言って深影は背負っている大鎌にそっと手を伸ばした。

 紅真こうまは深影の動きを目で追いながら、くそっ、と表情を険しくさせる。

「あいつらまで出てくるとはな……」

 紅真の言葉を聞きながら銀河ぎんがはぐっと拳を作ると、深影を真っ直ぐに捉えた。

「……やめてくれ、深影! 目を覚ますんだ……お前のやろうとしていることは間違っている」

 銀河は深影の心に訴えかけるかのように声を上げる。

 そんな銀河に深影は冷たい瞳を向けた。

「……銀河。お前にはわかるまい。俺の……残された者の苦しみなどっ」

 深影はどこか苦しげに言葉を吐き出すと、そのままタンッと床を蹴って飛び出した。

「下がれっ、銀河!」

 狼琥ろくは銀河に向かってそう叫ぶと、手のひらを床に押し当てる。そうすれば、銀河から深影を遠ざけるかのように二人の間を大きな亀裂が走った。

 深影は足元に迫った亀裂から一歩後ろへと飛び退き、ゆっくりと顔を動かす。

「邪魔をするというのであれば、まずは貴様から始末してやろう」

 銀河へと向けていた体を狼琥のほうへと変えた深影。

「上等じゃねえか!」

 狼琥は目の前に迫った深影の攻撃を避けながら懐へと入り込むと、素早い動きで拳を振り上げる。

 ガツンと振り下ろされた重い拳が深影の右頬へと直撃した。

 唇の端が切れ、顎の先へと血が伝った。

 深影は距離を取った狼琥を睨みつけながら無言で血を拭う。

「深影様!」

 叫ぶようにその名を呼んだ風音が深影の元へと走り寄る。

「ま、待て! お前の相手はっ」

「おっと! ダメだよ。君の相手は俺なんだからね」

 風音を追おうとした紅真の前を塞いだのは蒼氷だ。

「お前に用などはない! そこを退けっ」

 紅真はどこか焦った様子で怒鳴りつける。

「君に用がなくても俺にはある。俺が今ここでなにもせずにいれば、仕事をしなかったって深影くんに怒られちゃうからね。……だからあっちには行かせないよ?」

「それならば早々に倒させてもらうまでだ!」

 紅真は刀を持つ手に力を込めた。

「それじゃあ、始めようか!」

 蒼氷は満足げな笑みを浮かべながら後ろへと飛び退くと、マグナムを構える。

 引き金が引かれ、冷気を纏った銃弾が一直線に紅真へと向かう。

 紅真はそれをギリギリで避けると、炎を纏う刀を高く振りかざす。

「っと!」

 振り下ろされた刃を蒼氷はひらりとかわした。

「……ん? あー、焦げちゃった」

 蒼氷は白衣の長い裾を掴むと、黒く焼け焦げた部分を見ながらため息を吐く。

「次はお前が黒焦げに番だ」

 そう言って駆け出した紅真に蒼氷は愉快げに口元を緩ませたのであった。


「――深影様!」

 風音は声を上げて深影の傍へと駆け寄った。

「……風音か」

 深影は口元を拭いながらちらりと風音へと目をやる。

「邪魔だ! てめえはすっ込んでろ!」

 その言葉に風音は鋭い目つきで狼琥の姿を映した。

「……随分と口の悪い方ですね」

 トーンを低くした風音。ザアッと大きな風が風音の背後から吹き抜ける。

 風音はその風に背中を押されるようにして勢いよく床を蹴り、凄まじいほどのスピードで狼琥の目の前へと移動した。

「くっ……てめえ……」

 高く上がった風音の左脚を、狼琥の右腕が受け止める。

 狼琥はそのまま風音を押し返すと、透かさず風音の腹部に拳を叩き込んだ。

 ぐっとくぐもった声を漏らした風音は自身の腹部に沈んでいる狼琥の拳を掴むと、口元に弧を描いた。

「あ、まい……ですよ」

 狼琥の拳を掴んだまま掠れた声でそう呟いた風音は、狼琥の後ろへと視線を移して小さく笑う。

 狼琥は訝しむような顔つきで風音を見たあと、はっとしたように目を見開く。

「ってめえ、離せ!」

 声を荒らげながら風音の手を振り払うと、狼琥は瞬時に体を反転させる。

 すると目の前には深影の大鎌が迫っており。狼琥は床に転がり込むように飛び退いた。

「……ちょこまかとすばしこい鼠だな」

「くっそ……」

 狼琥は左肩の辺りを右手で押さえながら深影を睨み上げ、苛立たしげにチッと舌を鳴らした。

 指の隙間からは押さえきれなかった血が零れ、その手を赤く染めていく。

「狼琥くんっ!」

 今まで白の背中に守られていた叶光が声を上げて飛び出した。

「ダメだ!」

 白の制止も聞かずに走り出した叶光は、狼琥の元へと一直線に足を動かす。

「狼琥くん! 血がっ……」

 狼琥の傍へと寄った叶光は膝を折り、右手を狼琥の背中に添える。

「心配することねえよ。こんなもん掠り傷だ」

「で、でもっ……」

 悲痛な面持ちで狼琥を見つめる叶光。そんな叶光の頭上で大きな影が動いた。

「なぜそんなやつを気に掛ける?」

 紅色の瞳が叶光を見下ろす。

「……深影さん……」

 叶光は険しい表情で深影を見上げると、すっと立ち上がり狼琥を守るかのようにして前へと出た。

「お、おい! 叶光!」

 狼琥は慌てたように声を上げる。

 叶光はそんな狼琥の声も聞こえていないのか。大きく息を吸い込むと、真っ直ぐに深影を見据えた。

「……もう、やめてください。これ以上傷つけないで! 狼琥くんも、紅真も、白も、銀河さんも……みんな私の大切な人たちなんです」

 力強くそう言い切った叶光に深影はぐっと眉を寄せる。

「……そうか。そんなにその連中が大切か……ならば」

 深影の手にしている大鎌に闇が纏わりつく。

「全て消し去るまでだ!」

 深影はそう言うと叶光の後ろへ回り込み、膝をついている狼琥へと大鎌を振り上げた。

 その一瞬の出来事に叶光は反応しきれず数秒遅れで体を振り向かせると、やめて、と叫んだ。その直後。

「な、んだと……?」

 深影は呟くようにそう発すると、床に突き刺さった自身の大鎌を驚いたような表情で見つめていた。

 確かにそこにいたはずの狼琥。忽然と消えたその姿に、なぜだ、と深影は頭を回転させる。――その次の瞬間。

「おらぁっ!」

 狼琥は深影の頭上から振って落ちてくるかのようにその姿を現した。

 深影の頭部を鷲掴み、落下のスピードに乗せて深影の体を叩きつけるかのように床へと沈める。

 ぐあっ、と苦しげな声を漏らした深影は床に顔をつけた。

「深影さ、ま!」

 風音は信じられないといったように大きく目を見開く。

 それからすぐにその目を鋭いものへと変えた。

「貴様っ!」

 タンッと軽く床を蹴り上げ走り出した風音に、狼琥はゆったりとした動作で視線をそちらへと移す。

 風に同化するような動きで狼琥へと攻撃を仕掛けた風音。

 しかし、そんな風音の動きを全て見切っているかのように狼琥はひらりひらりとかわしていく。

「……な、なぜだっ」

 先ほどまでとは別人のような動きを見せる狼琥。風音の顔に焦りの色が浮かぶ。

「ろ、狼琥くん……?」

 叶光は困惑したような表情で狼琥を見つめた。

「……叶光! 無事か? ……これは一体…………」

 蒼氷との戦闘を終えた紅真が叶光の元へと駆けつける。

「おいおい……ありゃあ本当に狼琥……なのか?」

 紅真のあと続いてやってきた銀河は目を瞬かせた。

「それが……私にもよくわからなくて」

 眉尻を下げて銀河を見上げた叶光に遅れてやってきた白が、もしかして、と小さく呟いた。

 叶光は白へと視線を移す。

「白くん……なにか知っているの?」

 叶光の問いに白は難しげな顔つきで考え込む。

「……確信がある訳ではないんだけど……」

 どこか言いづらそうにする白。

「――暴走ってやつだよ」

 その言葉に叶光、紅真、銀河、白の四人は声のしてきた方向へと一斉に顔を向けた。

「お前っ……まだっ」

 紅真は声を低くして腰元の刀へと手を伸ばす。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 俺はもう戦えないから!」

 焦った様子で顔の前で両手を振っているのは蒼氷だ。

「紅真、落ち着いて。蒼氷さんの言っていることは本当だと思うから」

 叶光は宥めるように紅真の腕に軽く触れる。

 そうすれば、紅真はどこ納得のいかなさそうな顔をしながらも刀から手を離した。

 蒼氷はほっとしたように息を吐く。

「それで……暴走というのは一体どういうことなんですか?」

「……極度の緊張状態や、生命の危機に瀕した場合にのみ起こる症状のことだ」

 蒼氷は重たい体を引きずりながら叶光の元へと近寄ると、あれは、と狼琥に視線を向ける。

「本人には制御不能で理性を失っている状態に近いから、むやみに近づけば怪我をするだけでは済まないよ」

 そう言った蒼氷の顔は、普段はあまり見せることのない真剣なものだ。

「……しかし、なぜお前はそこまで詳しく知っているんだ?」

 紅真の疑問に蒼氷はうーんと少し考えたあと、それはね、と口を開く。

「彼――1193いちいちきゅうさんが遺伝子組み換えの初の成功者で、それを成功させたのが俺だからさ」

 蒼氷の言葉に叶光、紅真、銀河の三人は目を見開かせる。

 そんな中。白だけは冷静な様子で、やっぱりそうだったんだ、と漏らした。

「白くんも噂だけは聞いたことがあったでしょう?」

 白はこくりと頷く。

「博士が昔話してくれた。能力が開花しなかった被験体を使って行なわれていたのがDNA操作の実験で、一人だけ成功した被験体がいるんだって」

「……そう。旧政府の連中は人と動物とを組み合わせて能力の向上を図ろうとしていたんだ」

 蒼氷の言葉に銀河は訝しんだ様子で、だが、と口を開く。

「そんな話は聞いたこともないぞ?」

「当たり前だよ。このことを知っているのは旧政府の幹部と、一部の研究員のみで極秘扱いされていたんだからね」

 蒼氷は話を元に戻すように、でっ、と続ける。

「当時まだ八歳だった1193は、素質なしということで俺のもとへと送られてきた。そこで俺は彼に狼の遺伝子を組み込ませたんだけど、そのあとの訓練で地の属性が開花しちゃってね。……だから彼は特殊なんだ」

 蒼氷の話を聞き、叶光は静かに狼琥へと視線を向けた。

 向けた視線の先にいる狼琥は風音を壁際へと追い詰め、丁度止めを刺したところであった。

 力なく壁に凭れた風音。

 そんな風音を見下ろしていた狼琥は不意に顔を上げ、体を反転させた。

 狼琥の視線が深影を捉える。

 床に膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた深影は狼琥の視線に気が付くと床に転がる大鎌に手を伸ばす。

 そうして立ち上がった深影に狼琥が一歩、また一歩と距離を縮めていく。

 深影は額から流れる血を拭い、狼琥から距離を取るように後退する。

 ギラギラと獲物を狙うような狼琥の瞳に、叶光はなんとも言えない気持ちになった。

「……狼琥くん……」

 叶光は呟くようにその名を呼んだあと、今度は声を張り上げて口にする。

「狼琥くんっ!」

 悲鳴にも近いその声に狼琥は足の動きをぴたりと止めた。

 臙脂色えんじいろの髪を僅かに揺らし、叶光へと顔を振り向かせたその瞬間。――パンという乾いた銃声が二発その場に響き渡り、狼琥の体が大きく傾いたのであった。

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