第五章

第二十二話

 深影みかげの部屋で眠る里愛りあを見たその日の夜。

 深い眠りへと就いていた叶光かのみは、間近で聞こえてきた物音に意識を浮上させた。

 閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げれば、真っ暗な部屋の中でなにかが動いているのがわかり、叶光は勢いよく体を起こした。

 そうして声を上げようと叶光が大きく口を開いたその瞬間。

 どこからともなく伸びてきた大きな手が叶光の口元を覆った。

「――声出すなっ」

 潜めた声が叶光の耳のすぐ横で聞こえる。

 聞こえてきたその声に、叶光は驚いた様子で顔を動かした。

 暗闇の中。叶光はじっと目を凝らしてその人物の姿を見つめる。

「…………狼琥ろくく、ん?」

 叶光の口元を覆っていた手はいつの間にか外されていて。叶光は張り詰めたような声でその名を紡いだ。

「ああ、そうだ。……てめえを助けにきたぜ」

 暗闇の中でもわかる琥珀色こはくいろの瞳が叶光を見つめる。

 それほど長い時間を離れて過ごしていた訳ではないというのに、叶光には狼琥のその瞳がひどく懐かしいもののように感じた。

「あ、ありがとう……!」

 叶光は嬉しそうに頬を緩ませる。

 狼琥は小さく笑みを浮かべ、ああ、と頷いた。

「でも、私がこの部屋にいるってよくわかったね」

「あ? 言っただろ。オレなら叶光がどこにいたって探し出せる、ってな。てめえの匂いはわかりやすいからよ」

 匂い、と言われて叶光は目をぱちぱちとさせる。

 自分はそんなにわかりやすい匂いを漂わせているのだろうか。そう考え、恥ずかしくなった叶光は、そういえば、と話を変えた。

「ここには狼琥くん一人で?」

 周囲をきょろきょろと見回す叶光に狼琥は、いや、と首を横に振る。

銀河ぎんが紅真こうまは一階のロビーで待機していて、びゃくは少し先の通路で見張り役をしているぜ」

「そっか……みんなもきてくれているんだね」

 銀河、紅真、白。三人の姿を思い浮かべ、叶光は目を細めた。

「そんなことよりも! さっさと抜け出すぞ」

 狼琥は叶光の右手を取ると、ほら、と軽く引っ張る。

「う、うん!」

 叶光は力強く頷くとベッドから降り、狼琥の左手をぎゅっと握りしめた。

 部屋の扉を静かに開き、廊下へと出る瞬間。叶光の脳裏に深影や蒼氷そうひ。それに風音かざとの姿が思い浮かんだ。

 朝になって叶光が抜け出したことを知った彼らはどう思うのだろうか。ほとんど連れ去られるような形で彼らの元へとやってきた叶光であったが、彼らの対応は優しいものであった。

 無理やり装置に入れられるようなこともあったが、それでも叶光を気遣ってくれていた面も確かにあって。

 そんな彼らの元から黙っていなくなってしまうということ。それは彼らを悲しませる罪なことなのではないのか、と叶光の心の中に罪悪感にも似た感情が芽生えた。

「……おい。どうかしたのかよ?」

 急に足を止めた叶光に、狼琥は小さく声を掛ける。

「う、ううん! なんでもないの!」

 叶光は心の中で芽生えた感情を振り払うかのように、大きく頭を振ったのであった。


 薄暗い廊下を叶光と狼琥は周囲を警戒しながら慎重に進んでいた。

 白との合流地点まで残り僅かという頃。

 不意に歩みを止めた狼琥は、あのさ、と静かに口を開いた。

「……これ」

 狼琥はそれだけを言うと、自身の首に掛けられていたロザリオを外し、ぐいっと叶光の目の前へと差し出した。

「えっ? これって……」

 叶光はロザリオを見つめながら目をぱちくりさせる。

 目の前に差し出されたロザリオは、以前狼琥が大切な人から借りていると話していた物だ。

 生きているのか、それとも死んでいるのか。生死さえもわからない思い出の人へと返すため、その手掛かりを懸命に探していた狼琥。

 大切なはずのそのロザリオをなぜ自分に差し出すのか、と叶光不思議そうに狼琥を見上げた。

「……1350いちさんごうぜろ……叶光なんだろう? あのときオレが出会ったのは」

 狼琥は繋いでいた一度手を解くと、叶光の手首を掴んで自身の前へと引き寄せる。それから叶光の手のひらにロザリオを落とすと、そっと握らせた。

「で、でも……私……」

 叶光は困惑した様子で手の中のロザリオへと視線を移す。

 1350という数字。それは叶光の首の後ろにある番号を確認した蒼氷が口にしていたものだ。

「叶光は覚えてないかもしれねえけど、それはてめえの物だ」

 悲しそうな、それでいてどこか嬉しそうな。そんな複雑な表情を浮かべる狼琥。

 叶光は握らされた手をそっと開いた。

「……これが私の? 私が狼琥くんに渡した…………」

 叶光はじっとロザリオを見つめる。

 確かにどこか懐かしいような感じはするものの、はっきりと思い出すことはできない。そんな自身を情けなく思いながら、叶光はゆるゆると首を横に振った。

「まだ思い出せないの。……だからこれは受け取れない」

 そう言って叶光はロザリオを狼琥の手へと戻すと、でも、と続ける。

「私がちゃんと思い出せたそのときは……もう一度これを渡してほしいな」

 叶光は眉尻を下げて微笑む。

 そのロザリオが本当に叶光の物だとしてそれを受け取るのであれば、しっかりとした記憶を持っている状態で受け取りたいと。叶光はそう思ったのだ。

 叶光の言葉に狼琥は、しょうがねえな、と短く息を吐いた。

「……そのときはきちんと受け取ってもらうからな」

 狼琥はふっと笑みを漏らすと、再び叶光の右手を取る。

「もうすぐで白との合流地点だ。先を急ぐぞ」

「うんっ」

 叶光は狼琥の左手を握り返すと、どこか安心したように笑顔で頷いた。


 しばらく廊下を進んだところで白い塊を見つけた叶光は、あっ、と声を上げた。

「……白!」

 叶光は声のトーンを抑えて少し先にいる白へと手を振った。

 呼び掛けに気が付いた白が顔を上げる。

「……よかった」

 そう言って叶光の元へと駆け寄った白は、ずっと心配していたんだ、と続けた。

「ごめんね、白」

 申し訳なさそうな表情を浮かべた叶光に、白はゆるゆると首を横に振る。

「謝るのはボクのほうだ。……キミを守ることができなくてごめん」

 白は眉をぐっと寄せると、視線を床の上へと落とす。

「ううん! そんな……謝らないで? 白は十分に守ってくれていたよ」

 叶光の言葉に白は視線を上げた。

 淡青色たんせいしょく躑躅色つつじいろの瞳がゆらゆらと揺れている。

「おい! そんな話は戻ってからだろう? 見つからねえうちに早く行こうぜ」

「そ、そうだね! ……ほら、白も行こう?」

 叶光は白の背中にそっと触れ、ねっ、と柔らかい笑みを送る。

「……うん」

 白はこくりと頷いた。

「ここからはどのルートで行くんだ?」

 狼琥の問いに白は、こっち、と先導する。

 白、叶光、狼琥、といった順番で縦一列に並びながら長い廊下を進み、そして階段を下りる。何度かそれを繰り返し、漸く一階へと辿り着く。

「――叶光! 無事……だったんだな」

 ロビーで叶光たちの到着を待っていた紅真が泣きそうな顔で叶光の元へ走り寄る。

「うん。きてくれてありがとう、紅真」

「当たり前だろう?」

 紅真は叶光の頭を優しく撫でた。

「助けが遅くなって悪かった。怪我は……していないみたいだな」

 紅真に続いてやってきた銀河に叶光は、はい、と頷く。

「銀河さんもありがとうございます」

 銀河は、ああ、といつも通りの笑みをみせる。

「……さあ、いつまでもこんな場所にいたら見つかってしまうかもしれない。早く戻ろう」

 そう言って叶光の背を押した紅真。

「紅真の言う通りだぜ。さっさとずらかるぞ」

「賛成」

 狼琥の言葉に白が大きく頷く。

「よし! 行くか」

 くるりと体を反転させた銀河が足を踏み出す。

 銀河に続けるように叶光も同じく一歩を踏み出した――そんなときだ。

「あれれー? どこに行くつもりなのかなあ?」

 そんな声がロビー全体に響き渡り、叶光たち五人の動きが固まった。

「てめえっ……蒼氷!」

 暗闇の中、どこからともなく現れた蒼氷に牙を剥く狼琥。

 紅真と白は咄嗟に叶光の前へと出ると、蒼氷からその姿を隠した。

「……君たちに勝手なことされると困っちゃうんだけどなあ」

 出入り口を塞ぐようにして立つ蒼氷に、銀河は人の良さそうな笑みを向ける。

「悪いがちょっとそこを通してもらえねえか?」

「叶光ちゃんを置いて行くってことなら通してあげてもいいよ」

 蒼氷の答えに紅真は眉間を顰めた。

「馬鹿を言うな! 俺たちが叶光を置き去りにする訳がないだろう!」

 紅真の口調には怒気が混じっている。

「いくら蒼氷さんでもこの人数には勝てない。だからそこを通して」

「そうかな?」

 白の言葉に蒼氷はこてんと首を傾げる。蒼氷の右耳に空いた三つのピアスがぶつかり合い、小さな音を鳴らした。

「……随分と自信がありそうじゃねえか」

 狼琥は不快げな表情で蒼氷を見遣る。

「だってさ、そこのおじさんと白くんは戦力外でしょう? 狼くんだってこの間の傷がまだ癒えていないだろうし……まともに戦えそうなのはそっちの1359いちさんごうきゅうくらいだからね」

 銀河、白、狼琥、紅真、と順番に指を差す。

「……俺らは戦力外、か」

 銀河は、それなら、と唇の端を吊り上げる。

「試してみるか?」

 そう言って、ヒップホルスターから素早く抜き出したリボルバーを蒼氷へと突き付けた。

「へえー。俺はそれでも構わないけど……いいのかな? 俺のこれはちょっと特殊だよ?」

 蒼氷はレッグホルスターからマグナムを抜き出すと、ほら、と明後日の方向に銃口を向ける。

 カチッと引き金を引けばパンと弾が放たれ、パリンと花瓶が割れる音が響いた。

 砕け散ったガラスの破片が床に散らばっているのを目にしながら叶光は、えっ、と声を漏らす。

「……凍って、る……」

 まるで氷の塊のように散らばっている破片に、叶光と紅真と銀河の三人は信じられないといった様子で目を見張っている。

「……能力者なのか?」

 そう呟いた紅真に、蒼氷は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。

「ちょっと違うかな。この能力は君のように純正のものではなくて、俺が開発した能力補助チップによって無理やり引き出されてるものだからね」

 蒼氷はそのまま銀河へと視線を移す。

「これを見てもまだ俺と張り合うつもり?」

 銀河はぐっと言葉を詰まらせ、蒼氷を睨み付けた。

「……銀河。てめえはいいから無理せずに下がっておけ!」

 狼琥は銀河の肩を掴むと後ろへと下がらせ、蒼氷の前へと出る。

「なに? 君が相手をしてくれるって? 君もあんまり無理はしないほうがいいと思うんだけどなあ」

「てめえは相変わらずベラベラとうるせえやつだな」

 苛立たしげに声を荒らげる狼琥。

「そう熱くなるな、狼琥。相手の思う壺だぞ」

 狼琥の隣へ肩を並べた紅真は言いながら鞘から刀を抜く。

 並んだ紅真に狼琥はチッと舌打ちで返す。

「……とにかく。てめえらに叶光は渡さねえ」

「お前たちの目的に叶光を利用させはしない」

 狼琥と紅真の二人は蒼氷を正面にしっかりと見据える。

 二人の視線を受け止めた蒼氷は怪訝な顔で口を開き、ねえ、となにかを問おうとした。

 しかし、蒼氷の言葉は奥から聞こえてきた新たな人物の声によってかき消されるのであった。

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