第二十話

 そろそろ眠りに就こうかという頃。不意に部屋の扉を叩く音に叶光かのみはベッドの中から抜け出して、はい、と答えを返した。

 叶光の返事を待ってから静かに開かれた扉。そこにいたのは深影みかげで。深影はいつも通りの笑みを浮かべながら室内へと足を踏み入れる。

「……蒼氷そうひから聞いたよ。能力の使い方を思い出したのであろう?」

 深影の言葉に叶光は前の日のことを思い出し、はい、と小さく頷いた。

 深影はどこか心配そうな表情で叶光の瞳を覗き込んだ。

「体調が悪くなったりはしていないか?」

「大丈夫です。……そんなに心配しないでください」

 叶光は深影の視線から逃れるように顔を俯かせた。

「なにを言っている。心配するのは当たり前だろう? 里愛りあ……お前にもしものことがあれば、俺はもう生きていけない」

 眉を寄せ、悲しげな表情を見せる深影に叶光は、違います、と頭を振る。

「私は里愛じゃ……お姉ちゃんじゃありません!」

 声を張り否定する叶光。

 深影は僅かに目を見張ったあと、いや、と口を開く。

「お前は里愛だ。里愛……なんだ」

「違う! 私は叶光なんです。どうしてあなたは私をお姉ちゃんにしようとするんです? どうして私の存在を否定するんですか?」

 叶光はぶんぶんと大きく首を横に振りながら、叫ぶように自身の気持ちを伝える。

 そうすれば、深影はどこか苦しげに顔を歪めた。

「……否定している訳ではない。ただ……俺には里愛しかいないんだ。里愛の存在が必要なんだ」

 紅色べにいろの瞳を悲しげに揺らす深影のその姿に、叶光はぐっと言葉を詰まらせる。

 叶光は間違ったことなど何一つ言ってはいないのに、今の深影を見ているとまるで叶光のほうが間違っているのではないかという錯覚すら覚えさせられるほどだ。

 そんな思いを振り切るかのように、叶光は頭をふるふると振るう。そうして、叶光は深影から視線を外した。

「……今日はもう出て行ってください」

 そう言った叶光に深影は、わかった、と小さく頷きを見せると静かに部屋から出て行った。

 扉がパタリと音を立てて閉まる。

 深影が部屋から去ったあとも、叶光はしばらくの間その場に立ち尽くしていたのであった。


 ――翌日。叶光は蒼氷のもとを訪れていた。

「そんな顔してどうしたの?」

 突然の訪問にも拘わらず蒼氷は笑顔で叶光を迎え入れると、元気のない様子の叶光にそんな言葉を投げかけた。

 叶光は僅かに迷いを見せたあと、実は、と話を切り出す。

「記憶が少しだけ戻ったんです。それで私にはお姉ちゃんがいたということを思い出しました。そのお姉ちゃんの名前は里愛……深影さんがよく口にしている人の名前です」

「……そっか。それで?」

 蒼氷は特に驚いた様子も見せずに先を促す。

「……昨日の夜、深影さんが私のもとへきて言ったんです。私は里愛なんだって。深影さんには里愛しかいなくて、里愛の存在が必要なんだ……と」

 叶光は一呼吸置き、でも、と力強い眼差しを蒼氷へと向ける。

「私は里愛お姉ちゃんじゃありません。お姉ちゃんになれる訳もないし、深影さんの言っていることが理解できないんです」

 膝の上で拳を作り、真っ直ぐと蒼氷を見つめ続ける叶光。

 蒼氷は少し考え込むような素振りをみせ、君はさ、と真剣な面持ちで口を開いた。

「水槽の中に入れられたときのことを覚えている?」

 そう問われて叶光は少し前のことを思い出す。A塔の最上階にある部屋での出来事を。

「……覚えています」

「じゃあさ、水槽の中で液体がいっぱいになったとき……君はなにを見た? そしてどんな気持ちになった?」

 蒼氷の問い掛けに叶光は考える。あのときの自分はなにを見たのか。そしてどんな気持ちだったのかということを。

 ふわふわと体が浮いているような感覚と冷たさの中。脳内に映り込んできたのは、今よりも少し若い深影で。それを見ていた叶光はなぜだか嬉しいと感じていたのだ。

 そのことを思い出し、叶光ははっとする。

「わ、私……」

 驚きに声を震わせる叶光。蒼氷は全てを理解しているかのように、そうだね、と頷いた。

「……君はあの水槽の中で深影くんに関する記憶を見ていた。そしてそのときの君は喜びや幸せといった感情に包まれていたはずだ」

 的確ともいえる蒼氷の説明に、叶光はただただ目を見開くのみで。

「どうして俺がそれを知っているのかって顔だね? ……簡単なことさ。あの装置は里愛の記憶を君の中へと流し込むためのものなんだよ」

 さらりと言って退ける蒼氷に叶光は、えっ、と声を上げた。

「ど、どういうことなんですか!」

 詰め寄る叶光に蒼氷は、まあまあ、と落ち着かせるように肩を叩く。

「深影くんはさ、あの装置を使って死んでしまった恋人を蘇らせたいんだよ」

「死んでしまった恋人……それが里愛、お姉ちゃん……?」

「そう。叶光ちゃんのお姉さんである里愛。それが深影くんの恋人さ。……だけど、一度死んでしまった人間を生き返らせることはできない。だから深影くんは、里愛の中に眠る記憶というメモリーを君の中に移すという手段を選んだん」

 蒼氷の口から飛び出る信じられない言葉の数々に、叶光は混乱しそうになる頭を懸命に動かす。

「……それが深影さんの言っていた『里愛を里愛に戻す』ということなんですか?」

「そういうこと。なんて言ったって、君はお姉さんとそっくりだからね。記憶さえ移し替えてしまえば本物と同じだ」

「そ、そんな……」

 叶光は悲痛な面持ちで視線を床に落とした。

 記憶を叶光へと移して里愛へと戻すということ――それは即ち叶光という人間を消し去る、ということではないのか。

 考えに辿り着いた叶光は顔を青くさせ、恐怖に体を震わせた。

 そんな叶光の様子に気が付いたのか。蒼氷は、大丈夫だよ、と叶光を安心させるような笑みを浮かべる。

「君は自分が消えてなくなるんじゃないかって心配をしているんだろうけど、そんなことはない。里愛の記憶や感情に影響されたりすることはあるけれど……それでも、いくら他人のメモリーを植えつけたところでオリジナルには勝てないからね」

 蒼氷はそう言って軽く笑う。

「それならどうして? 無駄だとわかっているのに、どうして私を装置の中へと入れるんですか?」

 叶光の問いに、蒼氷はどこか困ったような顔つきで口を開く。

「……そうしないと、深影くんの心が壊れちゃうから」

「心が……壊れ、る……?」

 蒼氷は静かに頷いて、深影くんはさ、と続けた。

「叶光ちゃんを里愛に見立てることで心の均衡を保っているんだよ。……深影くんだって本当はわかっているんじゃないかな。自分のしていることに意味がないことくらい」

 そこで一旦言葉を区切ると、蒼氷は大きく息を吐く。

「だけど……それを認めてしまったら全てがそこで終わってしまうから。少しでも希望という名の夢に浸っていたいんじゃないかなって、そう思うんだ」

 蒼氷の話を聞き終え、叶光は言葉を紡ぐことができなかった。

 深影は今までどんな思いで叶光を見ていたのだろう。どんな思いで笑い掛け、その名前を呼んでいたのだろう。

 昨夜の悲しげに揺れる深影の紅色が叶光の脳裏に浮かび上がってくる。

「……まっ、叶光ちゃんにとっては迷惑な話でしかないんだろうけどね。だからわかってほしいだなんて言わないよ」

 黙りこくる叶光を気遣ってか、蒼氷は明るい声音でそう口にした。

 叶光はゆるゆると首を横に振り、複雑そうな表情をみせる。

 迷惑かと問われれば確かに迷惑かもしれない。けれどそんな一言では片付けられない重さがそこにはあるのだ。

 次に深影から『里愛』と呼ばれたとき。それを受け入れることはないにしても、きっと否定することもないのだろう。そう叶光は思った。

 蒼氷の話はそれを思わせるほど叶光の心に大きな変化をもたらしたのであった。

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