第十九話

 自室へと運ばれた昼食を摂り終えた叶光かのみは、風音かざとが淹れた紅茶に口を付けていた。

「……ねえ、風音くん」

 ティーカップをそっとソーサーへと戻し、叶光は風音へと視線を移す。

「はい。なんでしょうか?」

 風音は叶光と同じようにカップをソーサーへと戻した。

「風音くんはどうしてここに……深影みかげさんの傍にいるの?」

「随分と唐突な質問ですね。なぜそんなことを知りたがるんです?」

 逆に聞き返した風音に、叶光は少し慌てた様子で視線を忙しなく動かす。

「……その……別に深い意味はなくて。ただ……どうしてなのかなって。だから話したくなければ別に……」

 声をだんだんと窄ませる叶光に風音は、いいですよ、と静かに頷く。叶光はその言葉に思わず、えっ、と聞き返してしまう。

「ですから……僕がここにいる理由を貴方にお話ししてもいいですよ」

 菖蒲色しょうぶいろの瞳で真っ直ぐと叶光を見つめる風音。そんな風音に叶光は、ありがとう、と嬉しそうに声を弾ませた。

「貴方がどんな理由を望んでいるのかはわかりませんが……」

 風音はそう前置きしてから話を始める。

「……僕にとって深影様は救いの主。深影様は僕に新しい世界を見せてくださいました。塔の中で毎日を窮屈に過ごしていた僕ら被験体を解放して。……深影様がいなければ、僕は今でも旧政府が所有する兵器のままでしたでしょう」

 風音が口にした『兵器』という単語に叶光はぐっと眉を寄せる。

 以前、銀河ぎんがから聞かされた旧政府の話。彼らは集めた子供を被験体として能力を覚醒させ、より強い兵器として使えるように日々訓練をさせていたという。

 今の叶光には塔にいた頃の記憶がないため想像をすることしかできないが、それは決して楽しいと言える日々ではなかったであろう。

「……ですから、僕はそんな深影様に少しでも御恩をお返ししたいと……そんな思いでここにいるのです」

 全てを話し終えた風音に叶光は。そうだったんだね、と視線を落とした。

 風音にとっての深影は偉大で、尊敬に値するほどの人物なのだろうことがわかり、叶光はどこか複雑な気持ちになる。

 確かに深影は風音を救い出したのかもしれない。けれど、風音を救い出した深影は今こうして叶光をこの塔へと閉じ込めているのだ。

「……叶光さん」

 視線を落としたまま黙り込んでしまった叶光を風音は静かに見つめながら、貴方は、と先を続ける。

「深影様のことがあまり好きではないのでしょう?」

 風音の問いに叶光は戸惑うように視線をさ迷わせたあと、気まずげに頷いた。

「貴方は正直ですね」

「ご、ごめんなさい……」

 小さく縮こまる叶光に、風音はふっと笑みを漏らす。

「貴方が深影様に対してどのような感情を抱こうが、僕には関係のないこと。ですから謝るようなことなどなにもありませんよ」

 風音の言葉に叶光は安心したように息を吐いた。

 そんな叶光に風音は、ですが、と僅かに声のトーンを落とした。

「深影様にとって貴方は必要不可欠な存在。きっと貴方はもうあの方から離れることなどできないのでしょうね」

 深影から離れることができないということ。それはこの塔から外へ出ることは不可能だということ繋がる。

 叶光の脳裏に浮かんだのはThirdサードで共に過ごした仲間たちの顔。あれから彼らはどうしているのだろうか、と考え叶光は俯く。

 ほんの数日前までの平和で穏やかな日々。それが遥か遠く、懐かしいものに感じるのであった。


 昼食後の眠気に誘われ、叶光は広いダブルベッドの真ん中で一人眠りについていた。

 深く沈んだ意識の中――叶光はどこか見覚えのある場所に自身が立っているのだということに気が付く。

「ここって……」

 古い木造建ての室内。右側には二段ベッドが置いてあり、左側には小さなキッチンが設置してある。そのキッチンのすぐ傍には二人掛けのダイニングテーブル。

 叶光はテーブルの上に乗せられている白いスケッチブックへと目をやった。

 ゆっくりとした足取りでその場所へと近づき、テーブルの上へと視線を落とす。

 色とりどりのクレヨンが転がっているその真ん中。白い画用紙に描かれているのは子供の絵なのだろうか。お世辞にも上手いとは言えぬそれを見て叶光は目を見開いた。

「……この絵……」

 大きく描かれた笑顔の女性の下に『りあおねえちゃん』という文字が記されている。『里愛りあ』というのはここ数日で叶光が耳にするようになった名前だ。

 なぜその名前が、と考える叶光の視界の端に映り込んだのは飾りなどはなにもないシンプル白い写真立て。

 似顔絵を描くときにでも参考にしていたのであろうか。テーブルの隅っこという不自然な位置に置かれたそれを叶光は手に取った。

 写真の中には叶光と同い年くらいの少女と、小さな女の子が寄り添うようにして写っている。

「……わ、たし?」

 叶光は目を丸くさせながら呟いた。

 写真の中で微笑む少女の顔があまりにも叶光と似ていたのだ。

「…………違う。この人は……」

 頭を振って今一度その少女を見つめる。

「――私のお姉ちゃん、だ」

 その言葉を口にした瞬間。叶光の意識は真っ白に染まった。


 叶光はゆっくりと瞼を持ち上げる。

 ぼんやりとした視界の中。数度瞬きを繰り返し、静かに体を起こした。

「……私、夢を見て……」

 そこまで言葉にしてから叶光は大きく首を横に振り、違う、と続ける。

「あれは夢なんかじゃない。……私の中にある記憶の風景」

 そう。叶光が見ていたのは夢などではなく、叶光自身の奥深くに眠っていた過去の記憶の一部だ。

 島浦しまうらの手により上書きされ、奥へと押し込められていたもの。叶光にとってとても大切な記憶。

「……そっか。私にはお姉ちゃんがいたんだよね」

 叶光は先ほどまで見ていたその場所を思い返し、悲しげに顔を俯かせた。

 優しい姉と二人きり。決して裕福とは言えない生活を送りながらも、毎日を幸せに過ごしていたこと。そんな慎ましやかな幸せを旧政府の者たちに壊されたこと。それらの記憶が叶光の中に次々と蘇っていく。

「……お姉ちゃんは……」

 そう呟き、叶光はぐっとシーツを握りしめる。

 姉と関わりのある記憶を思い出していくうちに行き着いたのは、忘れていた深影との記憶だった。

 記憶の中の深影は叶光にこう言ったのだ。――お前が里愛になるんだよ、と。

 なぜなのかと問う叶光に深影は悲しげに表情を曇らせるのみでなにも語りはしなかった。けれど、そのとき叶光は悟ったのだ。大好きだった大切な姉――里愛はもうこの世に存在しないのだということを。

 叶光には姉が亡くなってしまった理由や、姉と深影がどういった繋がりを持っていたのかまではわからない。もしかするとまだなにか忘れているだけなのかもしれないが、今の叶光にはその情報だけが全てで。

 漸く記憶の一部を取り戻したというのに、叶光の心に広がるのは嬉しさではなく、暗く重たい気分。

「……誰かに相談できたらよかったのに」

 そう小さく呟いた叶光の脳裏に浮かんだのは、いつだって面倒くさげな表情を浮かべている狼琥ろくのそんな顔だった。

 どうして真っ先に狼琥の顔が浮かんできたのだろうかと叶光は考えるも、その答えが出てくることはなかった。しかし、叶光は思うのだ。

 狼琥はきっと面倒くさそうな顔をしつつも、きちんと最後まで真剣に叶光の話を聞いてくれるのだろう。そうして、最後には必ず叶光が安心するような言葉を送ってくるのだ、と。

「ふふっ」

 狼琥のとこを思い浮かべ、自然と叶光の口からは笑い声が漏れる。

 暗く重たくなった気分。それが少しだけ軽くなったような、そんな気がしたのであった。

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