第十八話
「……これはなんですか……?」
円柱状の大きな水槽。叶光はそれを目にしながら両隣へと問い掛ける。
「記憶の海だよ」
そう答えた
「これは記憶を繋げる大切な装置なんだ」
深影は柔らかい眼差しを叶光へと向けた。
二人の言葉に叶光は小首を傾げる。
「記憶の海……? 記憶を繋げる……? あのっ、これって……」
眼前にあるその装置に不安を覚える叶光。
深影は装置の電源を起動させると、叶光の腕を取った。
えっ、と驚く叶光の横で水槽の扉が自動で開かれる。
「……さあ、始めよう」
深影は優しく微笑むと、叶光を水槽の中へと押し込めた。
叶光が水槽の中へ入るとすぐに扉は閉まる。
「ち、ちょっと待ってください!」
分厚いガラスの向こう側で慌てふためく叶光。出してください、と必死に訴えるもその願いは無視されてしまう。
深影がちらりと蒼氷に視線を送る。
そうすれば、それが合図だったかのように蒼氷はなにやらデータを入力し始めた。
蒼氷の指が慣れた様子で動く。
しばらくすると、ごぼりという水の音が水槽の中から聞こえ、叶光の足元から薄らと青みを帯びた液体が迫り上がってきた。
「……えっ? い、いやだ! なにこれ」
目を見開き狼狽する叶光。
分厚いガラスを内側から激しく叩き、ここから出して、とパニックを起こす。
「大丈夫だ。なにも心配することはない」
深影は水槽に軽く手を添え、叶光の耳に届くように伝える。
その間にも液体は嵩を増し、とうとう天井へと達してしまった。
叶光は恐怖に目を瞑り、息を止める。
ふわふわと体が浮いているような感覚と冷たさの中。限界まで息を止めていた叶光は思わず息を吐き出してしまう。
息を吐き出してから叶光は、あれっ、と思った。なぜだか普通に呼吸をすることができるのだ。その不思議な現象に気を取られていた叶光の脳内に、ふとなにかが映り込む。
脳内に映るのは深影だ。今よりも若く見える深影が、無邪気な笑みを浮かべてこちらを見ている。――嬉しい。叶光はそんな気持ちになっていた。
そのあとも次々と映像が叶光の頭の中に流れ込んでくる。
そのどれもに深影の姿があり、どれもが幸せに満ちたもので。そしてそれら全て――叶光の知らないものだ。それはまるで、叶光ではない他の誰かの記憶が入り込んできているかのような違和感を感じさせたのであった。
水槽のある部屋から宛がわれている自室へと戻された叶光は、ぼんやりとする頭を押さえながらベッドの縁へと腰を下ろしていた。
「気分はどうだ?」
「……大丈夫です」
叶光は自身の隣に腰を下ろしている深影にちらりと視線をやって答える。
水槽の中へと押し込まれ、どれくらいの時間そうしていたであろうか。叶光にはそれが長かったのか、それとも短かったのかどうかも曖昧で。まるで夢の中の出来事のようであった。
「……あれはなんだったんですか?」
「お前を……
穏やかな口調の深影に、叶光は訝しむような顔つきで深影の姿を瞳に映し出す。
「……里愛? どういうことですか? 私は叶光です。里愛って人じゃありません」
叶光はきっぱりと言い切る。
「今はそうかもしれない。……だが、時期にお前もそれを受け入れるようになる」
「そんなっ……!」
深影の言葉に叶光はぐっと眉を寄せたあと、私は、と声を荒らげた。
「私はっ……そんなの嫌です!」
ばっと勢いよく立ち上がり、扉へと駆け出した叶光。
「待つんだ!」
部屋の中から飛び出した叶光の背中に深影の呼び止めが降って掛かる。けれど、叶光はその足を止めることはせず、慣れない廊下を全速力で駆け抜けていく。
里愛とは誰なのか。どうしてその人にならなくてはいけないのか。叶光にはその理由も意味もなにもかもがわからなかった。
そんなことを考えながらひたすら足を動かしていた叶光は、前から歩いてくる人物に気が付かずに思い切りぶつかってしまう。
きゃっ、と小さく悲鳴を上げた叶光。
「――おっとと! 廊下を走ったら危ないよ」
後ろに転びそうになった叶光の腕を掴んで苦笑を漏らしたのは蒼氷だ。
「ごっ、ごめんなさい」
深く頭を下げた叶光の言葉に被せるように、叶光、と背後から声が掛かる。
「いきなり部屋から飛び出さないでくれ」
叶光に追いついた深影が大きく息を吐く。
「あれれ? なにかあったのかなあ?」
興味深げに叶光と深影を見比べる蒼氷に深影は、いいや、と首を横に振る。
「貴様には関係のないことだ」
「そう? 追い掛けっこするのは構わないけど、深影くんはそろそろお仕事に戻ったほうがいいんじゃないかな?」
蒼氷は言いながら白衣のポケットから懐中時計を取り出し、それを深影のほうへと向けて見せる。
「……もうこんな時間か」
深影はぼそりと呟くと蒼氷へと視線を投げた。
「俺は戻る。あとのことは貴様に任せよう」
「はいはい。わかってるよ」
踵を返す深影の背に手を振りながら見送る蒼氷。
しばらくして深影の姿が見えなくなると蒼氷はくるりと体を反転させ、それじゃあ、と口を開いた。
「とりあえず! 僕の部屋に遊びにおいでよ」
ねっ、と満面の笑みを浮かべる蒼氷に、叶光は目をぱちくりさせながら頷くのであった。
ごちゃごちゃと物が散乱する部屋の中。これまた物が山積みになっている二人掛けソファーの端っこに、叶光はちょこんと腰を下ろしていた。
「……それで? 深影くんになにか言われた?」
叶光の正面にある一人掛けソファーへと座りながら話を切り出した蒼氷に、叶光は顔を俯かせる。
「…………私を……里愛って人に戻すんだって……」
蒼氷は腕を組むと、なるほど、となにかを察したような様子で頷く。
「里愛って誰なんですか? 私はその人じゃないのに……戻すってどういうことなんですか?」
叶光は自身の内にある不安や疑問を吐き出すかのように、そう口にする。
そんな叶光に蒼氷はなにかを考え込むように、うーんと一つ唸った。
「そのことについては今俺の口から話せることはないなあ」
「どうしてですか? 教えてくださいっ……!」
叶光は縋りつくかのように前へと身を乗り出す。
「でも、それは君が自分で思い出さないと。俺が理由を説明したところできっと君は納得しないだろうし、その人を忘れてしまっているというこという自分に腹を立てるかもしれない」
蒼氷はそれだけ告げると叶光の言葉を待たずに、さあ、と膝を叩いて立ち上がった。
「そんなことよりもなにか飲む? 色々と考えて疲れたんじゃない? ココアでいいかなあ」
言いながらキッチンのほうへと歩いて行く蒼氷に叶光はどこか納得のいかない表情を浮かべるも、はい、と小さく頷いた。
奥でガタガタと大きな音を立てながらココアの用意を始めた蒼氷。
その場に残された叶光は、里愛のことは一度忘れようと頭を振って自身の中から追い出す。そうして、改めて周りを見回した。
床には数え切れないほどの紙切れが散らばり、分厚いファイルや専門書が高く積まれ、白い壁にはなにやらよくわからない数式が殴り書きされている。しかし汚れ物や衣類などはなく、汚いという印象は抱かない。
蒼氷らしい部屋だな、と叶光はなんとなくそう思った。
「――はいはい、お待たせえ」
マグカップを一つ持って戻ってきた蒼氷は、それを叶光へと差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
お礼を言い片手でマグカップを受け取った叶光。蒼氷の手がマグカップから離れた瞬間。叶光は、あっ、と声を上げた。
受け取ったマグカップが僅かに傾き、蒼氷の左手に掛かってしまったのだ。
蒼氷はくぐもった叫びを漏らし、瞬時に左手を引っ込める。
「ご、ごめんなさい!」
反射的に頭を下げた叶光は蒼氷の左手をばっと掴んで自らの前に出すと、今治しますから、と慌てたように声を上げた。
「えっ?」
目を丸くさせる蒼氷の左手に叶光は自らの右手を翳す。
叶光が翳した右手からほんのりと淡い光が出現した。すると赤みを帯びていた蒼氷の左手は見る見るうちに元通りになる。それはまるで何事もなかったかのようで。蒼氷はその現象を冷静な表情で観察しながら、叶光ちゃん、とその名を呼んだ。
「力の使い方、思い出したみたいだね?」
蒼氷の言葉に叶光は、えっ、と声を漏らしはっとしたように動きを止めた。
そうして、自身の右手を凝視しながら戸惑ったように蒼氷を見上げる。
「わ、私……」
「もしかして……無意識だった?」
こてんと首を横に倒した蒼氷に叶光は、はい、とぎこちなく頷く。
「……これが……私の力、なんですか……?」
未だ信じられないといった様子の叶光に蒼氷は、そうだよ、と笑むとそのまま言葉を続ける。
「旧政府が確保した被験体で唯一『光』の属性を持つ人間……それが君だ。君には戦えるような力はないけど、君の持つ能力は他の被験体たちとは違う特殊なもの」
「今のように傷を治すのが私の持つ特殊な能力なんですか?」
真剣な面持ちで問うた叶光に蒼氷はゆるゆると首を横に振った。
「それはちょっと違うかな。……君は傷を治した訳ではなくて、その部分の時間だけを巻き戻して元の状態まで戻したんだよ」
叶光は目を瞬かせる。
「時間の巻き戻し……ですか?」
「うん! ……ただ、君の能力についてはまだ全てが解明されている訳ではないんだよね。三年前から能力についての検査はしていないし」
「そうなんですか。でも、どうして今はしていないんですか?」
叶光はどこか不思議そうに疑問を口にした。
「深影くんがさ、もう必要ないんだって。彼にとっては君の中に眠る能力なんてどうでもいいんじゃないのかな?」
蒼氷はそこで一旦言葉を区切ると、まあ、と続ける。
「俺としてはすっごく興味があるんだけどね。でも……深影くんが必要ないって言うのなら諦めるしかないからさ」
からからと笑う蒼氷に叶光は複雑そうな表情を浮かべたあと、今一度自身の右手へと視線を落とす。
ぐっと握り、そして開く。叶光が持つという能力。そんなものが本当に存在していただなんて、叶光には未だ信じがたいことなのであった。
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