第四章

第十七話

「――こ、こは……」

 叶光かのみが目を覚ますとそこは知らない場所だった。

 真っ白なシーツの上に横たわっていた体を起こし、きょろきょろと辺りを見回す。

「……私、あのとき…………」

 深影みかげに腕を捕まれていた『あのとき』の映像が叶光の脳内に蘇る。

 深影の手にする大鎌が島浦しまうらへと振り落されたその瞬間を思い出し、叶光はぎゅっと目を閉じて両手で顔を覆った。

「どう、して……」

 自分は大人しく従ったのに。解放してくれると言っていたのに。そんな思いで言葉を漏らした叶光は、扉のほうから聞こえてきた物音に勢いよく顔を上げた。

 誰かがやってきたのだとわかり、叶光の心臓が速度を上げる。

 扉の取っ手が下がり、ゆっくりと開かれていく。その様子をじっと見つめていた叶光は、姿を現した人物の姿に息を呑んだ。

「……み、かげ……さ、ん」

 叶光の声が僅かに震える。

「目を覚ましていたんだな」

 深影は嬉しそうに微笑み室内へと足を踏み入れると、叶光の元へと近寄った。

「……顔色が悪いようだ。気分はどうだ?」

 叶光の顔を覗き込んだ深影はその頬に触れようと手を伸ばす。

「いやっ!」

 叶光は深影の手から逃れるように顔を背けた。

 伸ばした手が空を切る。

 深影は行き場を失った右手をゆっくりと横に下ろすと、叶光を見つめた。

「……なぜ、俺を拒む?」

 紅色べにいろが叶光を見下ろしている。どこか悲しみを含んだその色に、叶光はなんとも言えない気持ちになり顔を俯かせる。

「……ご、めん……なさ、い……」

「怒っている訳ではないんだ。……だから顔を上げてはくれないか?」

 さあ、と促され叶光は恐る恐るその指示に従う。

「ああ、やはりお前は素直ないい子だな」

 深影は叶光の頭を優しく撫でた。

 叶光はびくりと肩を揺らすも、今度は黙って受け入れる。

 深影が作るその表情はとても柔らかく、紡がれる言葉や触れる手の感覚は優しいもの。しかし、深影の作り出すそれらは叶光にとって恐怖を抱かせるものでしかなかった。

「……さあ、そろそろ検査の時間だ」

 しばしの間、叶光の頭を撫でていた深影がそう切り出した。

「……検査?」

「お前の記憶に上書きされた余計なものや、その他の異常がないかを調べるんだ」

 深影の説明に叶光は不安そうに眉を寄せる。

「そんな顔をしなくても大丈夫だ。お前の負担になるようなことは一切ない」

 そこまで言うと深影は、行こう、と叶光の手を掴んだ。

 叶光は深影に導かれるままに部屋をあとにしたのであった。


 深影に連れられてやってきた部屋。そこで待っていたのは叶光も知る人物。蒼氷そうひだった。

「やあやあ! 具合のほうはどうかな?」

 蒼氷はくるりと椅子を回転させ、大きなモニターを背にすると叶光へと笑い掛ける。

「……大丈夫です」

 ぽつりと小さく答える叶光に蒼氷は、そうかそうか、と立ち上がった。

「それじゃ、ぱぱーっと検査しちゃうよ! あっ、深影くんは仕事に戻っていれば?」

「そうだな。……それでは任せたぞ」

 深影は素直に頷くと、またあとでな、と叶光に一言残して白い自動扉から出て行った。

「……さてと、始めようか」

 奥へと歩きはじめた蒼氷。叶光は不安な気持ちであとに続く。

 深影は大丈夫だと言っていたが、叶光にとっては未知のことだ。不安にもなるであろう。

「この上に仰向けになってね」

 案内された場所にあったは黄緑色の淡い光を放つ白い台。

 叶光は、はい、と頷いて台へと上がるとそのまま仰向けに寝転がる。

「じゃあ、じっとしていて」

 叶光の足元にある装置。蒼氷はその前に立つとなにやらスイッチを押す。

 蒼氷がスイッチを押せば、黄緑色の淡い光が台を包み込んだ。

 叶光は僅かに目を見開くも、蒼氷の言い付けをきちんと守っている。

「……どれどれー? ふんふん。なるほどねえ」

 手元のキーボドを操作しながらぶつぶつと独り言を漏らす蒼氷。

 それを五分ほど続け、よし、と顔を上げた。

「おしまい!」

 蒼氷の言葉と共に黄緑色の淡い光が消える。

 叶光はゆっくりと起き上がると台の上から降り、あの、と遠慮がちな声を蒼氷へと掛けた。

「どう……だったんですか?」

「異常は見当たらなかったけど、メモリーの上書きがちょっと手強そうかな」

 蒼氷が言った『メモリーの上書き』とは、島浦が叶光へと行ったという記憶の改ざんのことだ。

 びゃくからその話を聞かされ随分と経った気がするが、未だ叶光の記憶は戻っていない。

「……そうなんですか」

 やはり記憶は戻らないのか、と肩を落とす叶光。そんな叶光に蒼氷が、でも、と口を開く。

「今ので君が持っていた元の記憶を引っ張り出しておいたから、自然と思い出してくるはずだよ」

「えっ! ……そ、そうですか……」

 思わぬ言葉に叶光は目をぱちぱちとさせながら、ありがとうございます、と続けた。

 そうすれば、今度は蒼氷のほうが叶光と同じように目をぱちぱちとさせる。

「俺にお礼を言うだなんて……叶光ちゃんは面白い子だね」

「どうしてですか?」

 叶光は不思議そうに蒼氷を見つめた。

「だって、今の君にとって俺は敵みたいなものでしょ? 島浦さん人質に君を脅してここに連れ帰ってきた。……解放すると約束した島浦さんを殺してね」

 声のトーンは変わらずに、顔だけを真面目なものへと変えて話す蒼氷。

「確かにそうです……でも、島浦博士を殺したのはあなたじゃない……ですから」

 叶光は蒼氷から目を逸らさずにそう答える。

「ふーん……なるほどね。そうきたか」

 蒼氷は興味深げな態度で数度頷く。

 それから少し考えるような素振りをみせたあと、じゃあさ、と叶光の瑠璃色るりいろを覗き込んだ。

「島浦さんを殺した深影くんのことはどう? 憎い? それとも怖い、かな?」

 蒼氷の質問に叶光は僅かに言葉を詰まらせる。

「……ねえ、どうなの?」

 なにも言わずに黙る叶光に、蒼氷は再度言葉で促す。

 叶光は視線をさ迷わせ、深影さんは、と口を開いた。

「怖い……です。島浦さんを殺した理由も……私にはわからないです。今は私に優しくしてくれているけれど、でも……いつかは私も……」

 殺されてしまうのかもしれない、とその言葉を叶光は言うことができなかった。口にしてしまえば本当にそうなってしまうような気がしたからだ。

「……殺されちゃうかもしれない?」

 言えない叶光に代わって声に出したのは蒼氷だった。

 叶光はぐっと眉を寄せ、静かに頷く。

「深影くんの優しさはいつでも叶光ちゃんを不安にさせるね。……愛情表現のやり方に問題があるのかなあ?」

 くすくすと笑う蒼氷はそのまま言葉を続ける。

「……でも、安心していいよ。君が死ぬことを深影くんは望まない。君の死はこの世界の誰よりも重く……そして、罪なことだから」

「それって……」

 真意を問おうと、叶光は蒼氷を強く見つめる。

 そうすれば蒼氷はどこか困ったように眉尻を下げて笑う。

「……まあ、深影くんにはもう君しか残されていないってこと……かな」

「……私しか?」

 蒼氷の言葉に益々訳がわからないといった様子の叶光。そんな叶光に蒼氷はこれ以上はなにも話さない、とでも言うように二度手を叩くと、さあ、と声を張り上げた。

「そろそろ夕食が運ばれてくる時間だ。叶光ちゃんはお部屋に戻らないとね」

 蒼氷はぐいぐいと叶光の背中を押す。

「えっ、あ、あの……!」

 慌てる叶光の言葉を無視して自動扉を通り抜けた蒼氷は、エレベーターの下りボタンを押したのであった。


 蒼氷に背中を押されながら自室まで連れ戻された叶光は現在。豪勢な食事を前に気まずげな面持ちで座っていた。

「……食べないのですか?」

 そう口にした人物は、菖蒲色しょうぶいろの瞳で叶光を観察するようにじっと見つめる。

「い、いえ! た、食べますっ」

 叶光はおたおたした様子でスプーンを掴んだあと、あの、と遠慮がちに目の前に座る人物の顔へと視線を向けた。

「はい。なにか?」

「……風音かざと、さんですよね? あの、そんなに見られると食べづらい……で、す」

 叶光はそのまま視線をテーブルの上へと落とす。

 風音が叶光の元へと食事を運んでやってきたのは今から十分ほど前のこと。

 白いおしゃれなテーブルの上に料理を並べ、叶光が席に着いたのを確認すると自らもその目の前の席へと腰を下ろした。

 そうして、今の状態に至るという訳だ。

「ああ、そうでしたか。それは気が付きませんでした」

 すみません、と続けた風音は部屋の隅のほうへと視線を移した。

 不自然なまでに逸らされた視線に叶光は思わず、ふふっ、と笑い声を漏らしてしまう。

「なにか愉快なことでも?」

 視線はそのままで叶光へと問う風音。

 叶光は、いいえ、と首を横に振った。

「なんでもないんです。……あの、風音さん」

 叶光は手にしていたスプーンをテーブルの上へと戻す。

「はい。なんでしょうか?」

 やはり風音の視線は部屋の隅に固定されたままである。

「あの……自然にしていてください」

「自然に……といいますと?」

 逸らされていた風音の視線が叶光へと向けられた。

「変に目を逸らしていないで普通にしていてほしいです」

 叶光の言葉に、風音は頭にクエスチョンマークを浮かべさせる。

「仰っている意味がよくわかりませんが……わかりました。普通に見ていればいい、ということですね?」

「……えっと、そうですね」

 叶光は困ったように笑いながら頷いた。

 そんな叶光に風音は、ところで、と少し難しそうな顔をしながら口を開く。

「報告の通り……叶光さんはなにも覚えていないのですね」

「は、はい。……もしかして、私は風音さんとよくこうして一緒にいたりしていたんですか?」

 叶光の質問に風音はゆっくりと首を縦に振る。

「こうして共に過ごすことが決まりでした。……ついでに言いますと、貴方は僕に対して敬語は使いません。そして僕のことを『風音さん』などとは呼んでいませんでした」

「えっ! そ、そうなんですか? それじゃあ……私はなんと呼んでいたんでしょうか?」

「『風音くん』ですね。……まあ、僕は貴方になんと呼ばれようが構いませんが」

 叶光は目をぱちくりさせる。そうして、今後は色々と気を付けます、と答え返した。

 それから叶光はなにかを考え込むような素振りをみせたあと、あの、と徐に口を開く。

「私は……ここで生活をしていたんだよね?」

「そうですよ」

「そのときの私はどういう感じでここにいたのかなあ?」

 風音は、そうですねえ、と顎に手を添える。

「ここに馴染もうと必死になっていましたよ。けれど……それと同時に貴方はひどく怯えていました」

「怯えて、いた……?」

 不安げに顔色を変えた叶光に、風音はどこか迷うような素振りを見せたあと、ええ、と口を開いた。

「自分が自分ではなくなる、そんな日がやってくる……と。叶光さんは僕にそう仰っていました」

「自分が……自分ではなくなるって……それってどういうことなんでしょうか?」

 微かに声を震わせる叶光。そんな叶光に風音はゆるゆると首を横に振る。

「僕にはわかりません」

「そっか……」

 曇った表情で視線を落とす叶光に風音は、そう言えば、となにかを思い出したかの様子で声を上げた。

「今の話とは関係ないのですが、貴方にはずっと気になっている子がいるのだと……そう仰っていましたよ」

「……気になる子?」

 叶光は目を瞬かせ首を横に倒す。

「叶光さんがまだ幼い頃に塔の廊下で知り合った子らしいのですが、その子のことが気に掛かっている……と」

「塔の廊下……」

 叶光の脳裏に小さな少年の姿が浮かんだ。怯えたような瞳で叶光を見上げた少年。どこかで見たことがある気がするも、それ以上は思い出せなかった。

「どうかしましたか?」

 風音の言葉に叶光は笑顔を作る。

「ううん! なんでもないの!」

 叶光の返事に風音は、そうですか、と頷くとテーブルの上の料理へと視線を落とした。

「……すっかり冷めてしまっているようですね。作り直させましょうか?」

「う、ううん! 大丈夫だから!」

 叶光はぶんぶんと全力で頭を振る。そうして、いただきます、と手を合わせると漸く食事を開始したのであった。

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