第十五話

 その日。叶光かのみはいつものように自室で本を読んでいた。

 物語も終盤に差し掛かるという時――それは突然に起こった。

 ドンというなにかが爆発するような音に続いて、ビル全体が僅かに揺れ動くような感覚。

「なっ、なに?」

 叶光は手元の本をベッドの上へと投げ出し、慌てた様子で自室の扉を開いた。

 廊下へと飛び出した叶光の耳に届いたのは、けたたましく鳴り響く非常ベルの音。

「――キミ! 大丈夫だった?」

 叶光と同じように廊下へと飛び出してきていたびゃくは、叶光の顔を見るとすぐさま駆け寄る。

「わ、私は大丈夫。白も怪我はない?」

「ボクなら大丈夫」

 白の答えに叶光はほっとした様子で息を吐く。

「……それにしても、一体これは…………」

 不安げに辺りを見回した叶光はふと廊下の先で目を留めると、あっ、と声を上げた。

狼琥ろくくん!」

 叶光たちの元へと走ってやってきた狼琥に叶光は問う。

「ねえ、なにがあったの?」

 叶光の言葉に狼琥は眉を寄せ、いや、と頭を振った。

「それがよくわからねえ。ビルの入り口付近で爆発が起こったみたいなんだけど、原因がわからなくてよ……今は銀河ぎんが紅真こうまが様子を見に行っている」

 狼琥は苛立たしげに後頭部を掻く。

「……もしかすると……」

 ふとそう言って難しそうな顔をした白。

「あ? なんだよ?」

「この子を連れ戻すために、誰かが仕掛けてきたのかもしれない」

 その言葉に叶光は驚いた様子で白を見つめた。

「わ、たし……?」

 白はこくりと首を縦に振る。

 そうすれば、狼琥がチッと舌を打つ。

「その話が本当のことだとすれば、ここにいるのは不味いだろ。……白、てめえは叶光を連れて裏口から外に出ろ」

「わかった」

 指示を出す狼琥に白は素直に頷くと、叶光の手を掴んだ。

「まっ、待って! 狼琥くんはどうするの?」

 心配するような視線を狼琥へと向ける叶光。

 狼琥はふっと小さく笑うと、叶光の頭の上にそっと手を乗せた。

「オレは銀河たちにてめえらのことを報告しに行く。なにも伝えずにオレら三人がここから消えちまったら騒ぎになんだろ?」

 狼琥の言う通り。今の状態で三人が行動を同じにしてしまえば、残された仲間たちに心配を掛けてしまうだろう。誰かが残り、一度報告を済ませる必要があるのだ。

「……そう、だよね……」

「なんだ? 心配しなくてもてめえらのことはあとでちゃんと見つけてやるよ。オレならてめえがどこに行ったとしても探し出せるからな」

 自信ありげな狼琥に、叶光は不思議そうに目を瞬かせる。

「どういうこと?」

 狼琥は叶光の質問に答えることはせず、どこか複雑そうな笑みを浮かべると、ほら、と叶光の頭の上から手を下ろした。

「さっさと行け。こんなところでもたもたしている時間はねえぞ」

 狼琥は、ぽんと叶光の背中を押す。

「……私、待ってるから。狼琥くんがきてくれるの……待ってるから!」

 叶光は白に手を引かれながら、何度も狼琥へと振り返りかえる。

 未だ鳴り続ける非常ベル。

 その音が叶光の心の奥に眠るなにかを揺り起こそうとしているかのようで。叶光は白と繋がれている手にぎゅっと力を込めたのであった。


 Thirdサードのビルの裏口から抜け出した叶光と白は、住民区のほうへと向かい足を動かしていた。

 夕方から夜へと姿を変えようとしているスラム街の真ん中をひたすら突き走る。

 入り組んだ路地を通り抜け、スラム街と住民区の中間地点へと差し掛かった頃。一人の青年が叶光と白の目の前に立ちはだかった。

「――あ、なた……は…………」

 瞠目する白に、青年はにこりとした笑みを一つ送り返した。

「やあ。久しぶりだね。君はこんなところで一体なにをしているのかな?」

 青年は紫色のカットソーの上から羽織っている白衣をはためかせ、小さく首を横に倒す。

 そうして白の隣にいる叶光へと視線を動かた。

 白ははっとしたように叶光を自らの背に隠すと、青年をじっと睨みつけた。

「あらあらー? そんなに怖い顔してどうしちゃったの?」

 青年の茶化すような言葉に、白は動じることもなく口を開かせた。

「……やっぱりボクの考えは当たっていたみたいだね。だけど……蒼氷そうひさん。あなたにこの子は渡さない」

 蒼氷と呼ばれた青年を白は真っ直ぐと見据える。

 そうすれば、蒼氷は愉快げに口元を歪ませてみせた。

「っあはは! どうしちゃったの? 君がそんな風に感情を表すだなんて珍しいね。これはデータに追加しておかなきゃ、かな」

 青磁色せいじいろの目を細め、声を大にさせる蒼氷。

「……白」

 白の背中に隠されていた叶光が不安げに瞳を揺らす。

「大丈夫だよ。ボクがキミを守るから」

 白は叶光を安心させるように呟く。

「……うーん。それはちょっと難しいと思うなあ」

 この場に似つかわしくない明るい声色の蒼氷。そんな蒼氷から白は一歩後ろに下がり距離を取る。

「どういう意味」

 白はどこか緊張を含んだ声で投げ掛けた。

「それは自分でもよくわかっているはずだと思うけど? 白くん……落ちこぼれの君には彼女を守ることはできない。そうでしょ?」

 首を傾かせた蒼氷の色素の薄い亜麻色あまいろの髪が、さらりと横に流れ落ちる。

 白はぐっと言葉を詰まらせた。

「現に君は風音かざとくんに一度負かされているでしょう? 風音くんにさえも敵わない君が俺に敵うとは到底思えないなあ」

 蒼氷は満面の笑みを湛えながら、白に追い討ちをかけるような言葉を浴びせる。

 白は唇を噛み、それでも、と呟く。

「……それでも……ボクはこの子を守らなくちゃいけない」

 今度はしっかりとした口調で言い切った白に、蒼氷はなにかを考える様子で顎に手を添えた。

「……それは島浦しまうらさんからの言いつけを守るため、なのかな?」

 蒼氷の質問に白はなにも答えない。

「まあ、いいや。どっちにしても彼女の帰る場所は既に決まっているんだからね」

 そう言って蒼氷は静かに左手を頭の高さまで上げた。

 そうすれば、蒼氷の後ろにある建物の陰から二人の人物が姿を現す。そのうちの一人は後ろ手に縛られ、口元をガムテープでぴっちりと塞がれている。

 新たに登場した人物の姿を視界に捉えた白の目が極限まで見開かれた。

「は、博士っ!」

 白の叫ぶような呼び声に叶光は、えっ、と言葉を漏らした。

「博士って……もしかして、島浦博士……?」

 叶光は向こう側にいる人物を食い入るように見つめる。

「うん、正解! 彼が島浦玄徳しまうらげんとく博士だよ。君たち、ずっと探していたんでしょう?」

 蒼氷は陽気に答えながら、身動きの取れない島浦を自分の隣へと引っ張り出す。

 島浦はもごもごと口を動かし、白に向かって必死な様子でなにかを伝えようとしているが、口元のガムテープが邪魔をして言葉にはならない。

「……博士を解放して」

 怒気を含んだ口調の白に蒼氷は、いいよ、と軽い笑顔と共に答え返す。

 あっさりと頷く蒼氷に、叶光が体の力を抜いたとき。蒼氷は、ただし、と付け加えた。

「交換、だけどね」

「……交換?」

 白は怪訝そうな顔つきで蒼氷を見る。

「そう、交換! 君が後ろに隠して守ろうとしている叶光ちゃんと……ね」

 叶光ちゃん、と自分の名前が飛び出したことにより、叶光はびくりと肩を跳ね上げた。

 白はただ黙って蒼氷を睨みつけている。

「どうしたの? 君にとっては簡単な選択肢のはず。……島浦さんは君を拾ってくれた恩人だ。まさか見殺しになんてしないよねえ?」

 くすくすと笑う蒼氷。そんな蒼氷の横で島浦がもがもがとなにかを訴えている。

 そのことに気が付いた蒼氷の視線が島浦へと移り向く。

「んー? なんですか、島浦さん。なにかお話ししたいことでも?」

 しょうがないですね、と言いながら蒼氷は島浦の口元を覆っていたガムテープをびりりと剥がす。

 島浦はぷはっと息を吐くと、白へと向かって叫んだ。

「ワシのことなど捨て置け! 叶光くんを連れ、今すぐここから逃げるんじゃ!」

「博士っ……でも……」

 白は戸惑うように瞳を揺り動かす。

 いいから、と尚も叫び続ける島浦に蒼氷は冷たい笑みを浮かべる。

「島浦さん。少しうるさいですよ?」

 蒼氷はレッグホルスターから抜き出したマグナムを、島浦のこめかみへと宛がった。

「やめてよ!」

 白の悲痛な叫び。それを聞いた叶光の心が大きく揺れる。

 叶光は胸元をぎゅっと握りしめると、なにかを決意したかのように一歩前へと踏み出した。

「キ、キミ……なにして……」

 白の目の前へと出た叶光は振り返り、優しく微笑む。

「……大丈夫だよ。私に任せて」

 そう言って一歩、また一歩と前に進んでいく。

 そうして、蒼氷から少し距離を取り、その足をぴたりと止めた。

「島浦博士を解放してください」

 叶光は凛とした声で真っ直ぐと蒼氷を見つめる。

「君は賢いね。……賢い子は好きだよ」

 蒼氷は、さあ、とそのまま続ける。

「ここまできて。そうすれば、島浦さんを解放してあげる」

 ここ、と自分の真横を指差す蒼氷に叶光はゆっくりと頷いた。

「……ダメ! 行かないでっ」

 声を張り上げ、叶光の元へと駆け寄ろうとした白。

「君が動けば島浦さんはどうなっちゃうんだろうね?」

 蒼氷は白に視線を送りながら、島浦へと突き付けている銃口をぐりぐりと動かす。

 白は悔しげに拳を握りしめた。

 その間にも叶光と蒼氷の距離は確実に縮まっていく。

 あと一歩で蒼氷の元へと辿り着く――そんなときだった。

「――叶光!」

 叶光を呼ぶ狼琥の声がこの場に響き渡る。

 思わず振り向いた叶光。そんな叶光の腕を素早く掴んだ蒼氷は、あーあ、と呟いた。

「邪魔なのがきちゃったなあ」

 蒼氷は叶光を自分の傍へと引き寄せながら、面倒くさげに声の主へと目をやる。

「……これは……どういうことだ」

 狼琥に続いて現れた紅真は声を低くした。

「てめえはっ……蒼氷……!」

 忌々しげに狼琥がその名を口にすれば蒼氷は、やあ、と口元を緩めた。

おおかみくんじゃない。三年ぶりだね」

 蒼氷は狼琥から視線を移し、紅真を見る。

「……えっと、そっちの君は確か……A塔にいた1359いちさんごうきゅう、だね。二人とも元気そうでなによりだよ」

 うんうんと頷く蒼氷を紅真が鋭く睨みつける。

「叶光を離せ」

 蒼氷は紅真の睨みなど気にした素振りもみせずにゆるゆると首を横に振った。

「それはちょっと無理かなあ。叶光ちゃんは自分から俺のもとまできたんだよ? ……島浦さんを解放するためにね」

 そう言ってちらりと隣の島浦へと視線を向ける。

 島浦は先ほど一緒に現れた蒼氷の部下によって、逃げられぬように後ろ手を掴まれていた。

「ふざけんじゃねえ! いいからさっさと叶光を離しやがれ!」

 勢いよく吠える狼琥に蒼氷は苦笑する。

「君は相変わらずだなあ……ねえ、そんなことよりもさ。風音くんはどうしたの? 君たちの足止めを任されていたと思うんだけど」

 蒼氷の言葉に狼琥はふんと鼻を鳴らす。

「あの程度のやつにオレを止められるはずねえだろ」

「……まあ、それもそうだね」

 蒼氷は素直に頷いた。

 そんな蒼氷の隣で叶光が声を上げる。

「早く……早く、島浦博士を解放してください」

「んー? ああ、そうだったね」

 間延びした声の蒼氷に紅真が、待て、と言葉を被せた。

「お前たちはなぜ叶光を狙う? 叶光が狙われる理由などないはずだ。人違いではないのか?」

 真っ直ぐと射抜くような瞳を蒼氷へと向ける紅真。

「人違い……? そんなことある訳ないじゃない。……1350いちさんごうぜろ、それが俺たちの探していた子で」

 蒼氷は一旦言葉を区切ると、叶光の首の後ろに掛かっている黒茶色くろちゃいろの髪を横へと流す。

「――ほら、同じ番号だ」

 首の付け根より少し下に刻まれている番号。蒼氷はそれを確認して、ねっ、と笑う。

「……1350だ、と……?」

 狼琥は声を震わせて呟くと叶光を凝視した。

「番号って……」

 叶光は掴まれていないほうの手を首の後ろへと回して目を見開かせる。

「……あれ? 叶光ちゃんは知らないのかな? 被験体にはそれぞれ管理番号があって、それは君と同じように首の後ろに印されているんだよ」

 丁寧に説明をする蒼氷。叶光は信じられないといった様子だ。

「なぜだ……なぜお前たちは叶光をっ……」

「それはねえ……」

 紅真の問いに答えようと口を開いた蒼氷。しかし、その途中でなにか気が付いたかのように、あっ、と言葉を止める。その瞬間。ざわりとした空気がこの場に流れ込んできた。

 かつんかつんとブーツを踏み鳴らす足音が近づいてくる。

 この場にいた全員の視線が音の持ち主へと注がれる。

 夜の闇を引き連れて現れた人物は、暗闇の中でもわかるほどに輝く銀色ぎんいろの髪を靡かせながら立ち止まった。

「――蒼氷。なにをもたついている?」

 紅色べにいろの強い瞳が蒼氷を責める。

「あー、ごめんね。深影みかげくん」

 へらへらとしている蒼氷は本当に申し訳なく思っているのか。全くその様子はみられない。

「……まあ、いい。風音が失敗したのだろう? 使えぬやつだ」

 深影は狼琥と紅真へ視線を投げたあと、それをすぐに叶光へと落とす。

 叶光は自身の隣に立った深影の顔を見てはっとしたように息を呑んだ。

「あなたは……」

 囁くような叶光の言葉は、深影と蒼氷の耳にのみ届いた。

「お前を迎えにきたんだ」

 先ほどまでとは打って変わって、叶光に向けられたそれは穏やかに紡がれる。

 深影は右手のひらで叶光の頬を優しく撫でて口元を緩めた。

「……叶光に触れるな!」

 紅真の言葉に深影の視線がゆったりと動く。

 そうして、にやりと笑ったかと思えば、背中に背負っていた大鎌を手にして凄まじいほどのスピードで紅真へと詰め寄った。

「紅真っ!」

 叶光が叫んだ。

 突然の出来事に一瞬反応が遅れた紅真が腰元にある刀へと手を伸ばすが間に合いそうにない。

 深影の大鎌が紅真へと届くその瞬間。

「どけっ!」

 狼琥が素早い動きで紅真を横に押して退かす。

 その直後。ガツンと音を立てて、大鎌が土の壁に阻まれた。

 深影は、ほう、と小さく言葉を漏らすと目の前に出現した土壁から大鎌を抜く。

 ぱらぱらという音と共に土壁が崩れ去った。

 深影は後ろへと飛び退き狼琥と距離を作ると、煩わしそうに髪を掻き上げた。

「……あいつは……叶光は渡さねえ」

 低く唸るようなにして深影を見据える狼琥。

「こちらも貴様らに返す気などない。……元々は俺の物なのだからな」

「誰がてめえの物だって……?」

 狼琥は琥珀色こはくいろの瞳をぎらりと光らせ、その苛立ちを露わにする。

「力尽くで奪え返せばいいだけの話だ」

 紅真は狼琥の隣に立つと刀を鞘から抜き、深影へと突き付けた。

「貴様らにそれができると? 笑わせてくれるな」

 ふっと鼻で笑う深影。

「言っていろ!」

 紅真は刃に炎を纏わせると深影へと向かって走る。

 ガキンッと鉄と鉄とがぶつかり合う音が響く。

「後ろががら空きだぜ!」

 火の粉が舞い上がる中。深影の背後を取った狼琥が拳を振り上げた。

 深影は紅真の刃を軽くいなすと、素早い動きで振り向き、背後から迫る狼琥の拳を片手で受け止める。

「止めた……だと?」

 狼狽する狼琥の拳を掴んだまま、深影は大きく鎌を振るった。

 肉を切り裂く嫌な音が聞こえ、真っ赤な血が飛び散る。

 狼琥はぐっとくぐもった声を放ち、膝をついた。

 胸の下から腹にかけて斜めに引かれた赤い跡。引き裂かれた黒の半袖シャツからはどくどくと血が溢れ出す。

「狼琥くんっ!」

 叶光は悲痛な面持ちで狼琥の元へと駆け寄ろうとするも、蒼氷に腕を取られてしまっているためそれは叶わない。

「おいっ! 大丈夫か? しっかりしろっ」

「狼琥っ……!」

 膝をつく狼琥のもとへと駆け寄った紅真と白が、必死な様子で呼び掛ける。

「こ、れくらい……どうってこと……ねえっ」

 苦しげな表情で荒い息を吐き出しながら腹部を押さえている狼琥。

 そんな狼琥を見下ろしている深影は、なんだ、とつまらなさそうに口を開く。

「貴様らの力はこの程度か」

 嘲笑う深影に狼琥は強い視線を向ける。

「そんな、わけ……ねえ、だろっ!」

 狼琥が虚勢を張っているということは一目瞭然だ。

 そんな狼琥に深影は冷めた笑みを浮かべ、そうか、と呟くと大鎌を天高く振り上げた。

「……ならば、死ね」

 深影の言葉に白が左手を前に突き出し防御の姿勢を取ったのと、叶光が叫んだのはほぼ同時だった。

「――行くからっ!」

 叶光の言葉に、深影は途中まで振り下ろしていた腕をぴたりと止める。

「私……あなたと一緒に行くから……だからっ、もう……やめて……」

 叶光は目の縁に涙を溜めて振り絞るように言い切った。

「……そうか。それならば今回は見逃してやろう」

 ゆっくりと腕を横に下ろし、踵を返す深影に叶光は震えたような息を吐き出す。

 助かった、と。これで仲間たちが殺されるようなことはないのだと。そう安堵した。

「……なに勝手なこと、言って……そんな、ことっ! オレは許さ……ねえ、ぞ」

 納得がいかないというように叶光を見つめる狼琥。そんな狼琥に叶光はゆるゆると頭を振ってみせる。

「さあ、帰ろう」

 叶光のもとへと戻った深影は、優しい微笑みで叶光の手を取った。

 そのままこの場を去ろうとする深影に叶光は、待って、と腕を引く。

「博士が……島浦博士がまだ解放されていません」

 拘束されたままの島浦へと視線を向ける叶光に深影は、ああ、と目をやる。

「……だが、これは重罪を犯した。由って――」

 深影は瞳を冷たく光らせ、僅かに間を置く。

「――死、あるのみだ」

 その言葉と共に大鎌が静かに振り落された。

 島浦の口から、ぐああ、という断末魔が響き渡る。

 切り裂かれた傷口から鮮血が吹き出し、周囲を赤く染め上げた。

 そのあまりの残酷さに叶光は声を出すことは疎か意識を保っていることすらもできず、ふらりと深影の腕の中へと倒れ込んだ。

「……あららー。意識飛ばしちゃったね。ちょっと刺激が強すぎたみたいだよ」

 蒼氷は深影の腕の中の叶光を覗き込んで困ったように笑う。

「そうか」

 深影は叶光を横に抱きかかえ、地面に転がる島浦から背を向けると歩き出す。

「あっ! ちょっと待ってよー」

 蒼氷は黒いサルエルパンツのポケットから短い棒状の機械を三本取り出すと、それを地面へと投げ刺した。

 地面に刺さった三本からは白い煙幕が上がり、一帯を覆い隠していく。

「な、なんだこれはっ!」

 思考が停止したように固まっていた紅真は、はっとしたように声を上げる。

「くそっ! 見え、ねえ」

 白く染め上げられた視界に狼琥は舌打ちをした。

「……君たちも島浦さんみたいになりたくなければ大人しくしておくことだよ」

 完全に見えなくなった向こう側へと言葉を投げた蒼氷は、くるりと体を反転させる。そうして、先を行く深影を追って歩きはじめたのであった。

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