第三章

第十三話

 叶光かのみThirdサードでの生活を始めるようになってから半月が過ぎた。

 水蘭みらんから向けられる視線は相変わらず冷たいものだが、銀河ぎんがが話をしてくれてからはなにも言われていない。

 記憶を取り戻すということはまだできていないものの、叶光は毎日を平和に過ごしている。

「――おーい。そろそろ出掛けるぞ」

 昼食を終えたばかりの集合スペース内。その部屋の出入り口で銀河が声を張り上げた。

「あっ……はい!」

 叶光はいそいそと食膳を片付けると、銀河の元に小走りで駆け寄る。

紅真こうまびゃくはどうしたんですか?」

「あいつらなら先に外で待ってるってよ」

「それなら急がないとですね!」

 慌てた様子で扉を開く叶光に銀河はふっと笑みを漏らし、そうだな、と返した。


「いやあ、しかし今日はいい天気だな。少し暑いくらいだ」

 青く澄み渡る空を眩しそうに眺めて、額の汗を手の甲で拭う銀河。叶光は同じように空を眺めながら、そうですね、と頷いた。

 あれからすぐ。銀河と共に建物の外へと出た叶光は、そこで待っていた紅真と白の二人と合流し、住民区を目指していた。その目的は本を買うことだ。

 銀河が大量に集めている本は住民区にある小さな本屋で購入しているようで、久しぶりに新たな在庫が入ったという知らせが届いたらしい。

 銀河からそんな話を聞いた叶光は、ぜひ自分も連れていってほしいとお願いしたのだ。銀河は叶光のお願いを快く受け入れた。

 そんな二人の会話を聞いていた白が珍しく反応を示し、自分もついて行くと言い出した。すると同じく話を聞いていた紅真がなら自分もと言い、結局四人で出掛けることになったのである。

「……暑いのは好きじゃない。ずっと曇っていればいいのに」

 眉を顰めて太陽を睨みつける白。汗はかいていないようだがどこかつらそうだ。

「暑さは俺もあまり得意ではないが……曇りばかりでも気が滅入るだろう」

 真面目な顔で答える紅真に、叶光はふふっと笑みを漏らした。

「私は晴れも曇りも好きだけど……でも、今日はどうしたんだろうね? 昨日までは少し寒いくらいだったのに」

 叶光は着ているセーラー服の袖を少し上げる。

「確かにそうだな。暑くなり始める時期でもないはずなのだが……」

 紅真はいつもきっちりと上まで閉めているワイシャツのボタンを二つほど開け、ぱたぱたと中に風を通す。

「……これが異常気象ってやつなのかねえ」

「そうかもしれませんね」

 きらきらと輝く太陽の下。四人は表情を難しそうなものにしながら歩くのであった。


 住民区へと到着した四人は、銀河の案内で小さな本屋へとやってきていた。

 狭い店内の中に並ぶ書棚にはぎっしりと本が並べられていて。叶光は瞳を輝かせながらくるりと店内を見回す。

「俺は奥で店の爺さんと話をしてくるから、お前らは好きなように見ていてくれ」

「わかりました」

 頷く叶光に笑顔を一つ残し、銀河は奥にいる眼鏡の店主となにやら会話を始めた。

「……それにしてもすごい量だな」

 感心したように声を上げた紅真は書棚から適当に一冊手に取ると、ぱらぱらとそれを捲って中身を流し読む。

「本当だね」

 叶光も紅真を真似て気になったタイトルの本を引っ張り出す。

「キミっていつも本ばかり読んでいるよね。そんなに楽しいの?」

 白が叶光の手元を覗き込む。

「うん、楽しいよ。白はあまり読まないの?」

「研究に必要な資料なら読むけど、物語は読んだことないかな。……でも、キミがそんなに楽しいって言うのならボクも読んでみるよ」

 興味を示した様子の白に、叶光は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「――待たせたな」

 店主との話を終えた銀河が奥から戻ってくる。

「随分と早かったな。もういいのか?」

 紅真は手にしていた本をぱたりと閉じて書棚へと戻す。

「ああ、ばっちりだ」

 ずっしりと重そうな白い紙袋を片手に頷く銀河。

「重そうですね」

 叶光は本を元の位置へと戻して紙袋に視線を落とした。

「今回は結構数が多かったからな。でもまあ、これくらいならどうってことはないさ」

 銀河は白い歯を見せると、よし、と声を上げる。

「用事も済んだことだしそろそろ戻るとするか」

 その言葉を合図に四人は狭い店内から外へと出た。


 それは本屋から少し離れた頃のことだった。

 叶光と肩を並べて歩いていた白が不意に立ち止まり、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだのだ。

「び、白!」

 叶光は慌てて白の横で膝を折り、俯く顔を覗き込む。

「どうしたの?」

 白の背中に軽く手を添えて問う。

「……なんか……気持ち、悪い……」

 くぐもった声で振り絞るように白は答える。

「日差しにでもやられたか? ……紅真。ちょっとこれを持っていてくれ」

「あ、ああ」

 銀河は持っていた紙袋を紅真へと渡すと、白の正面に背を向けてしゃがんだ。

「ほら、おぶされ」

 こくりと頷いて腕を伸ばした白は、銀河の背中に倒れ込む。

 銀河はしっかりと白を背負って立ち上がると、僅かに考えを巡らせる。

「……ここからだと広場のほうが近いな。とりあえず広場まで行って日陰で休ませるぞ」

 叶光と紅真は大きく頷き、銀河のあとに続いたのであった。


 銀河は広場の奥に設置してある白いベンチの前で足を止めると、その上に白をそっと横たえた。

「……気分はどう?」

 地面に膝をつき、心配げな表情で問い掛ける叶光に白は閉じていた瞼を薄らと開かせる。

「さっきよりはいい……かも、しれない」

 そう言った白の顔は青白い。

「無理しなくていいからね。ここでゆっくり休んで、よくなったら戻ろう?」

「叶光の言う通りだぞ。なにも気にせずに寝ておけ」

 白は叶光と銀河の言葉に力なく頷いたあと、そっと瞼を閉じた。

「……こういうときは水分を摂らせたほうがいいのだろうか?」

 顎に手を添えて考える紅真。

 叶光は、そっか、と手を叩く。

「お水を飲めば少しすっきりするかもしれないよね! ……私ちょっと買ってくる!」

 言うが早いか、叶光はばっと立ち上がるとベンチから背を向けて走り出す。

「おっ、おい! 待て、叶光!」

 目を丸くしながらも慌てて呼び止める紅真。

 しかし、紅真のその呼び止めが叶光の耳に届くことはなかった。


「……どうしよう…………」

 叶光は広場の片隅で困ったように立ち尽くしていた。

 水を買いに行くと言って走り出した叶光であったが、その途中ではたと気づく。この第二都市で物を買うということはできないのだった、と。

 第一都市ではお金を払えば誰にでも買うことのできていた物でも、こちら側では配給されるのを待つしかない。

 水であればこの広場にも水道があるため手に入れることもできるのだが、白の元まで運ぶためにはコップやペットボトルなどの入れ物が必要になる。しかし、それらを都合よく持っているはずもなかった。

「戻るしかないよね」

 はあとため息を吐く。

「……馬鹿だなあ」

 なぜもっと早くに――走り出す前に気が付かなかったのかと、叶光は自分を責める。

 きっと紅真と銀河の二人も今頃呆れているのだろう、とそう考えながら来た道を戻り始めた叶光は、不意に感じた何者かの視線にぴたりとその足を止めた。

 叶光が進むその道の先。少し離れたその場所でじっと叶光を見つめる男。

 男の燃えるような紅色べにいろと叶光の瑠璃色るりいろがぶつかり合う。

「――やっと見つけたよ」

 真っ直ぐと向けられた男の言葉に叶光はどきりと心臓を鳴らした。

「……み、かげ……」

 口から自然と零れ落ちれる名前に、叶光ははっとした様子で口元を覆った。

 なぜ知りもしないはずの名前が自身の口から出てきたのか、と叶光は戸惑いをみせる。

 そんな叶光に深影みかげは嬉しそうに目を細めると一歩、また一歩と近づいて行く。

「……さあ、帰ろう」

 深影は叶光の真正面からそっと右手を差し出す。

 叶光は差し出された右手を取ることはせず、怯えたような瞳を深影へと向けた。

 目の前の男はなぜ自分を知っているのか。そしてなぜ自分は『深影』と、知らないはずの名前を紡いだのか。得体の知れないそれらに、叶光の心の中に恐怖が生まれていく。

「どうしたんだ? ……さあ、早く」

 深影の右手が叶光の腕に向かって伸びてくる。捕まえられてはいけない、と叶光の本能がそう叫ぶ。

 叶光は咄嗟に、いやっ、と悲鳴にも近い声を上げた。

 あと少しで深影の右手が叶光の腕まで届くというその瞬間――二人の間に黄緑色の淡い光が円になって現れ、ばちっという音と共に深影の右手を弾き返したのだ。

「なっ……!」

 深影は驚きをみせ瞬時に右手を引っ込めた。

「こ、これ……」

 叶光の目の前から黄緑色の淡い光が緩やかな速度で消えていく。

「……プロテク、か。余計な真似を」

 深影は叶光の右手首に嵌められている白い電子バンドを睨みつけ、忌々しげに呟いた。その呟きに叶光は白から渡されていたそれの存在を思い出す。

 電子バンドを叶光へと渡したときに白は言っていた。『キミの感情に反応して自分自身を守れるようにしてあるから』と。

「――おーい! 叶光、どこにいるんだ?」

 不意にこの場へと届いてきたのは叶光を探す銀河の声。

「……どうやら今日はここでお別れのようだな」

 深影は残念そうに溜息を吐いてから、でも、と言葉を続ける。

「またすぐに会えるよ」

 口元に弧を描き、意味ありげな言葉を残して横を通り過ぎて行った深影。

 そんな深影に叶光はなにも言うことができず、ただ黙って見送ったのであった。


「まったく。心配したんだぞ」

 子供を叱りつけるようにそう口調を強めた紅真に叶光は、ごめんなさい、としょんぼりした様子で俯く。

「いきなり走って行くんだもんなあ。俺も驚いちまったよ」

 銀河はわっはっはと豪快に笑った。

「ちょっと焦っちゃってたみたいで……本当にごめんなさい!」

 がばっと頭を下げて謝る叶光の肩を銀河はぽんと叩く。

「こうして無事に戻ってこられたんだ! そんなに気にするな」

「……は、はい」

 どこか難しげな顔つきで俯いた叶光に紅真は心配そうな面持ちで、なにかあったのか、と問い掛けた。

「えっ? 大丈夫! なにもないから!」

 叶光は胸の高さで両手を振って笑う。

「……そうか? それならばいいのだが……」

 どこか納得いかないような表情をしながらも頷く紅真。

 叶光は言い出せなかった。深影との出来事を。白の体調がよくないこんなときに、余計な心配を掛けさせたくなかったのだ。

「……キミ、戻っていたんだ……」

 ベンチに横たわっていた白が目を開く。

「まだ気分は悪い?」

 叶光の問いに白はゆっくりと体を起こす。

「自力で帰れるくらいには回復したかな」

 立ち上がろうとする白に叶光は手を貸しながら、ほっとしたように息を吐く。

「よかった。でも無理はしないで? つらくなったらすぐに言ってね」

「……キミっていつも心配してばかりだよね」

 表情を変えることが少ない白が僅かに頬を緩める。

「そうかもしれないね」

 叶光はどこか恥ずかしそうにふふっと微笑んだ。

「――よしっ! お前ら、戻るぞ!」

 話の区切りがついたところで声を掛けた銀河に、三人がそれぞれ頷いた。

 一番に歩き出した銀河に、紅真、白、叶光、と続く。

 広場を真っ直ぐと進んで出入り口へと差し掛かった叶光は、ふと振り返った。脳裏に深影の姿が過り、思わず顔が強張る。

 深影も叶光が忘れている記憶となにか関係があるのかもしれない、とそこまで考えたところで大きく頭を振った。

 叶光はざわつく気持ちに蓋をするようにして広場から抜け出したのであった。

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