第九話

 うららかな午後の日差しが廊下の窓を通して、叶光かのみを優しく照らしている。

 叶光は自室の前にある大きな窓から、青く澄み渡った空を見上げていた。

「……やることがないなあ」

 小さくため息を吐き、ぽつりと呟く。

 紅真こうまは用事があると言って朝から出掛けてしまっているし、びゃくはまた自室に籠ってなにやら新たな作業を始めてしまった。

 そのため、叶光は一人で一日を過ごすことにした訳なのだが、やるべきことが見つからずにこうしてただ無駄に時間を潰しているのだ。

 はあ、と今一度ため息を吐き出した叶光の背後から、おい、と呼び掛ける声が聞こえてきた。

「なに阿呆面晒してるんだよ」

「あ、阿呆面だなんて……!」

 叶光は声に反応して勢いよく振り返る。

「違うのかよ?」

 叶光の目線の先には狼琥ろくがいて。狼琥は叶光を小馬鹿にしたように口角を上げて笑っていた。

「……違います!」

 頬を膨らませて否定する叶光に狼琥は、あっそう、と興味なさげに返す。

「そんなことよりも、てめえに仕事を持ってきてやったぞ」

「……仕事、ですか?」

 叶光は小首を傾げる。

「なにかしたいって昨日言っていただろう。雑用だよ、雑用」

 面倒くさそうに叶光を見下ろす狼琥。

 叶光は昨夜の会話を思い出して、ああ、と頷いた。

「お手伝いですね! やります!」

 ぱっと表情を明るくさせて狼琥を見上げる。あまりに嬉しそうなその表情に狼琥は若干引きぎみに、おう、と返す。

「……とりあえず、オレに付いてこい」

「わかりましたっ!」

 叶光は元気よく返事をすると、狼琥の背中に続いた。


 二階の一番奥にある部屋の前で足を止めた狼琥と叶光は扉を開くと、薄暗い室内へと足を踏み入れる。

 長方形の小さな窓が一つあるだけのそこは、昼間だというのに電気を点けなければ不自由なほどだ。

 部屋へと入ってすぐに狼琥は扉の付近にあるスイッチへと手を伸ばす。

 ぱちんと軽い音を立てて明かりが灯れば、そこには無数の書棚が立ち並んでいた。

 たくさんの本に囲まれたその場所に叶光は思わず、わあっ、と興奮したような声を上げながらくるりと室内を見回すと、真横に立つ狼琥を見上げた。

「ここにある本って誰でも読めるんですか?」

「ああ。ここに置いてあるのは全部銀河ぎんがの物だけど、一応自由に持ち出していいことになってるぜ。……って言っても、ここには本を読む真面目なやつなんて紅真くらいだけどな」

 奥へと進む狼琥を追い掛けながら叶光は、それなら、と投げ掛ける。

「私も借りていいですか?」

「あ? 別にいいんじゃねえの。好きにしろよ」

 テーブルの前で立ち止まった狼琥は顔を振り向かせて、つうかさ、と不機嫌そうに眉を顰める。

「その敬語、なんだかうぜえ」

「う、うざい……ですか?」

 叶光は大きく目を見開く。

 狼琥が醸し出す雰囲気に押されてしまっているのか、叶光は紅真や白に対するものと同じようにすることができずにいた。

 そのため今の今まで敬語を使っていたのだが、それを『うざい』と言われてしまうとは。そんな風に思われているとは考えもしていなかったのだろう。叶光は困ったように眉尻を下げた。

「あいつらにしてるみたいに普通に喋れよ」

 わかったな、とそう圧力を掛ける狼琥に叶光はなにも言い返すことができず、こくりと首を縦に振る。

 そうすれば狼琥はどこか満足げに二、三度頷いた。

「……じゃあ、始めるか」

 大きめのテーブルへと視線を向けた狼琥に、叶光も釣られるようにして視線を移した。

「えっと、これはを戻せばいいのかな……?」

 乱雑に積み重ねられている本の山。その中から一冊を手に取って問い掛ける。

「ああ、そうだ。銀河のやつ集めるだけ集めておいて、いつもこうやって放置しやがるんだ」

 呆れた様子でため息を吐く狼琥は、普段の態度とは見合わず意外と几帳面な一面を持っているようだ。

「そうなんだ。……じゃあ、いつもは狼琥が一人で片付けているの?」

 叶光は分厚い本を数冊まとめて持ち上げ、空いている棚へと並べていく。

 同じように本を抱え、叶光の真後ろにある棚に向き合っていた狼琥は慣れた様子でてきぱきと手を動かしながら、まあな、と返した。

「こんなこと、ここじゃオレくらいしか気が付かねえし」

「狼琥くんってしっかり者なんだね」

「……はあ?」

 数秒の間を空けて、狼琥の口から間抜けな声が漏れる。

「他の人たちが気が付かないようなことに気が付いて、それを一人で片付けていただなんてしっかり者の証拠でしょ?」

 テーブルへと戻り、先ほどと同じように本をまとめながら狼琥へと笑い掛ける叶光。

 狼琥は書棚から目を離さず、そんなんじゃねえよ、とぶっきらぼうに答えた。

「オレもてめえと同じで世話になってる身だからよ。自分にできることはしときてえって言うか……って、オレの話はどうでもいいんだよ! それより、てめえ記憶のほうはどうなんだ?」

 途中で話題を逸らした狼琥は叶光を見遣る。

 叶光はゆるゆると頭を振って、まだなにも、と肩を落とした。

「ふーん……まっ、そんなに早く思い出せることでもねえってことか」

 狼琥はそう言いながら新たに本を積み重ねて棚へと移動しながら、じゃあ、と言葉を続ける。

「自分の能力についてもわからねえんだろ? この間みたいに政府の連中に襲われでもしたら面倒だな」

 狼琥の言葉に叶光ははっとした様子で動きを止めた。

 数日の間に様々なことがありすぎてすっかり忘れてしまっていたが、叶光は一度攫われそうになっているのだ。

「ねえ、どうして私は狙われたのかな?」

「そんなことオレが知るかよ」

 狼琥は表情を曇らせる叶光をちらりと見遣り、でも、と呟く。

「あいつらが一般人を狙うなんてことは今までなかった。Justiceジャスティスが追うのは旧政府の残党くらいで、あとは自分たちに刃向かう連中を追い払う程度だしな」

 狼琥はうーんと唸るように考え込んだ。

「……てめえ、確か島浦しまうらって博士から逃がされたんだったよな? それならJusticeに関する重大な秘密でも握っていて、それを隠蔽するために狙われてるんじゃねえの?」

「そ、それって……もしも見つかれば私は殺されちゃうってこと……?」

 叶光は怯えたような瞳で狼琥を見る。

「その可能性もある、ってことだよ」

「ど、ど、どうしようっ……私まだなにも思い出せていないし、能力の使い方どころかまともに戦うことすら……」

 慌てふためく叶光に対して狼琥は至って冷静に作業を続けながら、まあ、と続けた。

「そんときゃ紅真が喜んで守ってくれるだろ。白ってのもてめえのことを島浦から任されたって話していたしな。心配することはねえだろ」

「……でも…………」

 狼琥の言うように、叶光に危険が迫れば紅真も白もその身を挺して守ってくれるだろう。

 けれど本当にそれでいいのか、と叶光は思った。なにも知らないとはいえ、狙われているのは叶光だけで。紅真や白を巻き込んでしまうというのは、弱い自分の我が儘なのではないのだろうか――と。

「なんだよ? あいつらにちゃんと守りきってもらえるか不安か? 白のほうはともかく、紅真なら心配いらねえだろ。A塔出身ならそこらのやつよりかは強いだろうし」

 狼琥の言葉に叶光は勢いよく首を横に振って否定する。

「そういうことじゃないの! そうじゃなくて……巻き込んじゃっていいのかな、って。私がなにも知らない……覚えていないせいで紅真や白を巻き込むこと……それって、単なる私の我が儘なんじゃない?」

 叶光は狼琥から視線を外して床へと落とし、それに、と声を弱めた。

「私がここにいるってことは、狼琥くんや銀河さんにも迷惑が掛かることになるかもしれない……」

 どうして今まで気が付かなかったのだろう、と俯く叶光に狼琥は盛大なため息を吐く。

「……んな面倒くせえこと考えるなよ」

 がしがしと後頭部を掻きながら書棚へと寄りかかった狼琥に、叶光は顔を上げる。

「面倒くさいって……」

「だってそうだろ。てめえがそうやって余計なことを考えたところで、あいつらの意志は変わらねえ。巻き込まれるのを承知の上で傍にいるんだろう。……銀河だって同じだ。厄介事を抱え込みたくなけりゃ、てめえらを見掛けたあのときに素通りしていれば済む話だったんだからよ」

 狼琥は普段みせないような真面目な面持ちで、だから、と続けた。

「難しく考えねえでこれまで通りにいればいいんじゃねえの?」

 狼琥の言葉を聞き終えた叶光は、琥珀色こはくいろの瞳を真っ直ぐ見つめた。

「……狼琥くんはそれでいいの?」

「あ?」

「私のせいで狼琥くんも巻き込まれるかもしれないよ? それでもいいの?」

 叶光はおずおずと口にする。

「別に構わねえ。銀河がてめえを受け入れているんだから、オレはそれに倣うまでだ。……まあ、てめえの素性がわからねえままだったら力尽くにでも追い出していただろうけどな」

「……そっか」

 叶光はそれまでの緊張を解し、小さく笑った。

 狼琥は書棚から背を離すと叶光へと向き直り、ほら、と声を掛ける。

「この話は終わりだ! さっさと片付けちまうぞ」

「……そうだね!」

 叶光は本を持ち上げた。

 テーブルにはまだ数多くの本が積まれている。

 叶光と狼琥はテーブルと書棚の往復を繰り返しながら着々とその山を減らしていったのであった。


 ――本の片付け作業を開始してから二時間余りが過ぎた頃。漸く作業を終えた叶光と狼琥の二人は書庫から出ると、三階にある集合スペースへと移動していた。

 食事のときに自分が座る椅子へと腰を下ろしている叶光と狼琥。

 叶光は書庫から借りてきた童話の表紙を開き、嬉しそうに文字を眺めている。狼琥はそんな叶光の右斜め前で、ペットボトルの水をごくごくと喉の奥へと流し込む。

「……そんなの読んで楽しいのかよ?」

 叶光の手元にある本を横目で見ながら、狼琥はそう問い掛ける。

「うん、楽しいよ。狼琥くんも次に読む?」

 叶光は文字の列から顔を上げて、にこりと笑んだ。

「いや、オレはいい。……それ、前に読んだし」

「えっ? これを? 狼琥くんが……?」

 ぱちぱちと瞼を上下させ、狼琥と手元の本を交互に見る。

「……なんだよ。なんか文句でもあんのか?」

 じろりと睨みつければ、叶光は胸の前で両手を振った。

「ち、違うよ! ただ、狼琥くんでもこういうお話を読むんだなあって……」

 叶光は手元の本へと目線を落とし、ぱたりと表紙を閉じる。

 少し分厚いその本の表に描かれているのは可愛らしいお姫様と、白馬に乗った王子様。これを狼琥が手に取るとは到底思えないが、それを素直に口にすれば狼琥の機嫌は更に下がるであろうことは目に見えているので、叶光は曖昧な笑みを浮かべてその場を濁す。

「暇だったから読んだだけだよ。……まっ、ありきたりな夢物語すぎてオレには合わなかったけど」

「そこがいいんだと思うけどなあ……」

 叶光は唇を尖らせながら狼琥に視線を向ける。

 すると、部屋の入り口付近から、あれっ、という第三者の声が飛び込んできた。

「お二人ともこんな時間にどうしたんですか?」

「あ? ……なんだ、満澄みすみか」

 傍へと近寄ってきた満澄を狼琥は気怠げ見上げる。

「狼琥くんと書庫の片付けをして疲れたから、ここでちょっと休んでたの」

「そうだったんですか」

 満澄は柔らかく微笑むと、あっ、と声を上げた。

「叶光さんも本が好きなんですか?」

 叶光の手元にある童話に視線を移して問うた満澄に、叶光は明るく頷き返す。

「うん! 好きだよ。満澄くんも?」

 首を横に小さく倒して問い返せば満澄は、いいえ、と笑う。

「本が好きなのは俺じゃなくて狼琥さんですよ。……ですよね?」

 満澄が狼琥へと顔を向ける。

「別に好きとかじゃねえし」

「でも、書庫にある本は全部読んだって……前に話していたじゃないですか」

「やることもねえから暇つぶしに読んでたらそうなってた、ってだけだよ」

 満澄と狼琥のやり取りに、叶光は前へと身を乗り出す。

「それなら今度狼琥くんのおススメの本とか教えてほしい!」

「はあ? そんなの自分で探せばいいじゃねえか」

 拒否された叶光は、そっか、としょんぼりとする。

 そんな叶光の姿に狼琥はため息を吐いた。

「……わかった。わかったよ。オレが暇なときなら相手してやるよ」

「えっ! 本当?」

 叶光は途端に瞳を輝かせ喜びを露わにすると、ありがとう、と破顔する。

 狼琥は叶光に向けていた視線を横に逸らして、おう、とぶっきらぼうに返した。

「よかったですね」

 満澄はそんな二人の様子をすぐ傍で眺めながら、くすりと小さく笑ったのであった。

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