第二章
第七話
昼食を終え、与えられた自室でぼんやりと過ごしていた
「はい、どうぞ」
叶光の返事を待ち開かれた扉。
「あ、
そこから顔を出した紅真に、叶光は柔らかな微笑みを向けて迎え入れる。
「いや、特に用がある訳ではないのだが……お前が退屈をしているのではないかと思ってな」
叶光は長い睫毛をぱちぱちと上下させたあと、控え目に頷いた。
「実はちょっと退屈していたところなんだ。白はさっきから部屋に閉じ籠っちゃって出てこないし、なにをしていればいいのかわからなくて」
困ったように笑った叶光に紅真は、それなら、と口を開く。
「少し外に出てみないか?」
「お散歩ってこと? うん、行きたい!」
瞳を輝かせて紅真を見上げる叶光。その姿に紅真は僅かに口元を緩めると、叶光の手を取る。
「よし、それじゃあ行こう」
「う、うん!」
叶光は繋がれる手に動揺しつつも、その手に引かれるまま扉を通り抜けるのであった。
木々は枯れ、大地は潤いを失い、荒れたアスファルトの上に立ち並ぶ建物はそのどれもが本来の形を保ちきれずにいる。叶光がこの第二都市で目を覚ましたときもそうであったが、この周辺はそこよりもより一層ひどいようで。
「……ん? どうかしたのか?」
そんな叶光の様子に気が付いたのか、隣を歩く紅真が顔を向けて問う。
「な、なんか寂しいな……って」
「寂しい……?」
その言葉の意味を測りかね、紅真は首を傾げる。
「私の知ってる場所……その、第一都市はもっと人が沢山いて、緑も多くて……こんな寂しい風景じゃなかったから」
「ああ、そういうことか。……ここら辺はスラム街の中でも特に荒れている場所だからな。住民区や政府管理区であれば、こことは違ってきちんと整備されているぞ」
「スラム街? それに住民区に政府管理区って?」
紅真の口から出てきた聞き慣れぬ単語に、叶光は小さく首を横に倒した。
「俺たちが今いるこの周辺がスラム街。政府……今だと
紅真はそこで一旦言葉を区切り立ち止まると、そして、と遠くを指差した。
「あそこに小さくみえている建物があるだろう? あれが政府管理区で、今はJustice関係者のみが出入りを許可されている場所だ」
紅真が指し示すその先を、叶光はゆっくりと辿る。高い石垣の上に幾つもの建物が存在しているのが遠目からでも確認できた。
そうなんだ、と遠くに聳えるそれを眺める叶光。紅真はその手を軽く引いて再び歩き始める。
「政府管理区は危険だから近づかないほうがいい。だが、住民区くらいまでは俺も一緒にいれば安全だ。住民区には大きな広場がある……行ってみるか?」
「うん」
叶光は元気よく頷いた。
肩を並べて歩みを進める叶光と紅真の二人は、荒れ果てたスラム街を抜けると住民区へと足を踏み入れた。
先ほど紅真が説明していた通り、住民区はスラム街とは違っていて緑も多く、建物も綺麗な状態を保っているようだ。
「……全然違うんだね」
叶光は、わあ、と感嘆の声を漏らしながらきょろきょろと辺りを見回す。
「ああ、そうだろう? ……っと、こっちだ」
紅真は叶光の手を引き横の細道へと入る。
そうして少し進んだ先に見えたのは広場の入口だ。入口を通り抜けると中央には大きな噴水があり、その奥には芝生が広がっていることが確認できた。
「少し休憩するか」
紅真はそう言うと噴水の近くにある白いベンチへと腰を下ろした。紅真を真似るようにして叶光もその隣に座る。
分厚い雲に覆われた曇り空の下。叶光と紅真はなにを話すでもなく、ただ黙って空を見上げていた。少し先のほうからは子供たちの騒がしい声や、噴水から勢いよく水が噴き出る音が風に乗るようにして耳の中へと伝わっていく。
どれくらいの間そうしていただろうか。それまで黙って空を見上げていた紅真が不意に口を開いた。
「……なあ、叶光。お前は白の話や、記憶にない自分のことを聞かされてどう思った?」
紅真は真剣な面持ちで叶光へと視線を落とす。
「どう、って?」
叶光は目を瞬かせて不思議そうに訊ね返した。
「知らないほうがよかった、と……そうは思わなかったのか? 知らないまま今お前が持っている記憶だけを信じて過ごしていれば、少なくとも余計な苦しみは背負わずにいられたはずだ」
叶光は紅真の
それから少し間を置き、でも、と続ける。
「知らないでいるほうがきっと……もっとつらくて苦しいことだと思うから、私は本当のことを聞けてよかったんだって思っているよ」
紅真を真っ直ぐと捉えて言い切った叶光に紅真は、ふっ、と笑みを零した。
「……お前は変わらないな。強いままだ」
独り言のように発せられた言葉。叶光がその言葉の意味を問おうと声を上げようとした瞬間。
広場の入口付近から騒がしい声が聞こえ始め、叶光は思わず口を閉ざしてしまう。
「ん? もう配給の時間なのか」
入り口付近に出来上がっている人だかりに目を向けながら、紅真が呟く。
「配給って?」
叶光は紅真と同じように人だかりに目線を送りながら問うた。
「ここでは一日一回、Justiceから住民へと無償で食料や、生活に必要なものなどの配給が行われているんだ」
そうなんだ、と紅真の説明に頷きながら耳を傾けていた叶光はなにかに気が付いたように、あ、と声を上げる。
「あのカードはなに?」
叶光が指を差したのは、列に並ぶ者たちが握りしめているそれだ。
「あれは住民区の者に配られている個人カードだ。あれには持ち主の情報や、最近配給された物などが全て記録されていて、配給する奴らはそれを確認してから渡しているんだ」
「紅真も持っているの?」
叶光の質問に紅真は首を横に振る。
「いや、俺は住民区の人間ではいからな」
「えっ! それじゃあ、必要な物とかはどうしているの?」
「住民区に住む人間から横流ししてもらったり、配給するやつらの隙を突いて盗んだり……だな」
至って真面目な表情で答える紅真に、叶光は目を丸くさせた。
この第二都市という場所は叶光の知っている世界とは大きく掛け離れている、と改めてそう実感したのであった。
住民たちへの配給作業も終わり、先ほどまでの人だかりも落ち着いてきた頃。
「そろそろ日が沈むな。もう戻ったほうがいいだろう」
「そうだね」
紅真と叶光は白いベンチから腰を上げた。
行くか、とそう言って自然な動作で叶光の手を取った紅真。
叶光は繋がれた手をじっと見つめながら、ねえ、と控えめに問い掛ける。
「なんだ?」
ゆったりとしたスピードで歩む紅真を叶光は見上げた。
「さっきから気になっていたんだけどね……その、なんで手を繋いで歩くのかな?」
恥らった様子でもごもごと口にした叶光に、紅真はきょとんとした顔をする。
「別に可笑しなことではないだろう?」
「そ、それはそうなんだけど……ちょっと恥ずかしいというか……慣れていなくて」
「慣れていない……?」
紅真は歩みを止める叶光を見つめてから、そうか、と一人納得したように頷いた。
「すまない。これは俺の癖のようなものなんだ」
「癖……?」
「ああ……と、言ってもお前に対してだけのものなのだがな」
紅真は叶光と繋いでいないほうの手を使って頬を掻く。
「私に対してだけって……どういうこと?」
叶光は頭にクエスチョンマークを浮かべる。
そんな叶光に紅真は昔を思い出すかのように目を細めると、それはな、と口を開いた。
「幼い頃、旧政府の連中に連れ去られた俺は毎日泣いてばかりいてな。そんな俺を気に掛けてか、お前はいつも俺の傍にいてくれた。どこかへ移動するときは必ず俺の手を握って、な」
幼い頃の自分を思い出してか、紅真は気恥ずかしげな笑みを浮かべながら続ける。
「……どれくらいだったか。そんな日々が続いて、俺もいつしか泣くことをしなくなった。代わりに俺はどこへ行くのにもお前の手を握って歩くようになった……と、いう訳だ」
紅真の話を聞き終え、叶光は再び繋がれているそこへと視線を落とす。
紅真の話を聞いた後だからなのか。まだ恥ずかしさは残っているものの、その繋がれた手がしっくりと馴染んでいるように感じた。
「そっか! じゃあ、こうしているのが私たちにとっては普通のことなんだよね?」
繋いでる手を少しだけ上へと持ち上げる。
「まあ……そういうことになるな」
頷いた紅真に明るい笑顔をみせた叶光は大きく一歩を踏み出し、紅真の手を力強く引く。
「行こう! 早くしないと真っ暗になっちゃうよ?」
突然手を引かれたということに驚きをみせつつも、紅真は柔らかな笑みを叶光へと返した。
「そうだな。少し急ぐか」
足早に帰路に就く二人の距離は数時間前と比べると、確実に縮まっていたのであった。
――その晩。叶光は深く暗い眠りの淵にいた。
ぼんやりとした意識の中『これは夢なのだ』ということを理解すれば、まるでチャンネルを変えるかのように辺りが一変する。
驚きに思わず目を瞑った叶光の耳に届いたのは、押し殺すような小さな泣き声。
その泣き声が気になり目を開ければ、そこは白に囲まれた小さな部屋だった。
「……っ、うっ、う」
先ほどよりも大きく聞こえてきた泣き声に、叶光ははっとして視線を動かす。
すると部屋の隅で小さく体育座りをしている少年が視界へと入った。
叶光は少年の元へと駆け寄ると、驚かさぬようにそっと声を掛ける。
「……ねえ、どうしたの?」
心なしか自分の声が幼く感じたが、今はそれを気にしている暇などはない。
「……え、りたいっ、だ」
膝の上に乗せた腕の中に顔を埋めたまま、少年は呟く。
少年がひくひくと嗚咽を漏らす度に、
「かっ、えりたい、んだ……お、うちに」
帰りたい、とそう言って泣く少年に叶光は困ったような表情を浮かべた。
「……そっか」
そんな言葉が自然と口を衝いて出る。
叶光はゆっくりと少年の頭へと手を伸ばすと、優しく撫でた。そうすれば、びくりと少年の肩が跳ね上がる。
それを気にすることなく叶光は、ねえ、と問い掛けた。
「あなたのお名前は? 私は叶光って言うの」
叶光の問い掛けに少年がゆっくりと顔を上げる。
幼いながらも綺麗に整った顔立ちはどこか見覚えのあるものだった。
「……お、俺の名前は――」
涙に濡れた金色の瞳で叶光の姿を映し、その名を告げようとした少年。
しかし、それを聞く前に叶光の意識はこの夢の空間から放り出されてしまったのであった。
目覚めたとき、叶光は少年との出来事を覚えているのであろうか。――いや、きっと覚えてはいないのだろう。
閉じていた瞼を持ち上げた瞬間。少年とのやり取りは記憶の奥底へと埋もれていってしまうのだ。本来夢とはそういうものなのだから――。
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