第四章

 何者かに体をゆさゆさと揺り動かされる感覚に、叶光かのみは沈んでいた意識を浮上させた。

 重たい瞼をゆっくりと持ち上げ、数度瞬きをする。

「あ、起きた」

 真横から聞こえてきた無機質な声に、叶光は心臓をどきりとさせた。

 がばりと跳ね起きた叶光は、声の元へと視線を落とす。

「びゃ、びゃく?」

 闇夜に包まれる部屋の中でさえも輝くような真っ白な髪。

 床に座り込んでいた白は、さらりと髪を揺らして叶光を見上げる。

「白、もう体調は大丈夫なの?」

 心配げな表情を浮かべて問う叶光に、白はこくりとひとつ頷いた。

「キミのほうこそ大丈夫だった? なにもなかった?」

 白は膝をつき、ベッドの上へと手を置いて叶光の顔を覗き見る。表情こそ普段と変わりないが、白なりに心配しているのであろう。

 叶光は僅かに表情を曇らせて毛布をぎゅっと強く握った。

「あのね、私……もしかしたらなにか失っていることがある、かもしれないの」

 白は小首を傾げて叶光を見つめる。

「私は紅真こうまのこと知らないのに、紅真は私のことを知っている。白だって言っていたでしょう? 元々ここが私の居場所なんだって」

 白は叶光の言葉に言葉を返すことなく、ただ黙って叶光を見つめ続ける。

 そんな白に叶光は、だからね、と長い睫毛を伏せた。

「私は知らないんじゃなくて、失くしちゃってるのかな……って。記憶喪失って言うのかな?」

 最後にぎこちない笑みを浮かべてみせた叶光。

 それまで叶光の言葉を聞いているだけだった白は、思案するように視線を斜め上へと泳がせた。

「……失くした訳ではないよ」

 ぼそりと呟くようにそれを口にした白に叶光は思わず、えっ、と顔を上向かせた。

「ねえ、それって」

 目を瞬かせ、その言葉の意味を問おうとする叶光であったが、全てを口にするよりも早く白が立ち上がる。

「キミが無事なのは確認したからボクはもう寝るよ」

 部屋の隅っこへと移動してそのまま床へと寝転がった白に、叶光は慌ててベッドから抜け出した。

「そんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ!」

「平気」

 冷たい床の上で猫のように丸くなる白の肩を揺らして、でも、と叶光は困ったように眉を寄せる。

「おやすみ」

 それだけを口にして白は瞼を閉じた。

 叶光は困ったようにため息を吐くと、白の肩から手をそっと下ろす。

 そうして静かにベッドへまで戻ると、先ほどまで自分が使っていた毛布を掴んだ。

 毛布を持ち、再度白の元へと戻るとそれを優しく掛ける。

「……おやすみ」

 早くも寝息を立てている白にそう言葉を落とし、叶光は窓のほうへと視線を移した。

 外はまだ暗く、活動を始めるには随分と早そうな時間帯だ。

 叶光は二度目のため息を吐くと、部屋の扉を開いて長い廊下へと出る。

「飲み物ってどこにあるのかな?」

 しんと静まり返った廊下で独り言を漏らす。

 喉の渇きを感じて出てきてみたはいいが、ここへ来たばかりの叶光にはどこになにがあるのかさえわからない。

 ちらりと隣の部屋に視線を向けて一歩踏み出したところで、叶光は頭を振った。

「起こしちゃ悪いよね」

 紅真からは『なにかあれば呼んでくれ』とそう言われていたが、真夜中に起こしてしまうのは迷惑だろうと思いとどまる。

 しかし、下手に移動して迷ってしまうのも困るのであろう。叶光は自室の前でうーんと唸りながら考え込んでいた。

「……てめえ、そんなところでなにしてるんだよ」

 不意に後ろから聞こえてきた声に、叶光はびくりと肩を揺らして振り返った。

「あっ、狼琥ろくくん」

 どこか気まずげに呟いた叶光の視線の先には、訝しむように眉を寄せて睨みを利かせている狼琥の姿があった。

「真夜中にこそこそとしやがって。敵情視察、ってか?」

 口元を歪めて冷たい視線を送る狼琥に、叶光は否定するかのようにぶんぶんと首を横に振ってみせる。

「そんなんじゃ……! 私はただ喉が渇いちゃったからお水が欲しくて……」

 じろじろと探るような狼琥のその視線に、語尾が小さくなってしまう。

 居心地悪そうに視線を動かす叶光に、狼琥は面倒くさそうなため息を吐いた。

「付いてこい」

 くるりと背を向けて歩み始めた狼琥に叶光は数秒反応を遅らせて、はいっ、と返すとおたおたした様子で狼琥の背中へと付いて行った。


 階段を下り、三階にあるガラス張りの扉を開けると、そこは広い集合スペースのような作りになっていた。

 大きめのテーブルにパイプ椅子が並んでいるその横には、ホワイトボード。部屋の隅には段ボール箱が大量に積まれている。

「そこで待ってろ」

 狼琥は積まれている段ボール箱のひとつを手に取ると、その中身を漁りだす。

 すぐに目的の物を見つけると、ほらよ、と叶光へと放り投げた。

「えっ、あ! うわっ」

 投げられたそれを叶光は慌ててキャッチする。

 ギリギリのところでなんとか掴んだのは水の入ったペットボトルだった。

「これ、いいの?」

「ダメだったらやらねえよ」

 狼琥は叶光に渡した物と同じ種類のペットボトルを手にすると、テーブルの上に腰を下ろす。

 ペットボトルの蓋を緩め、ごくごくと喉を鳴らしながら水を流し込んでいく狼琥。

「ありがとう」

 遠慮がちに言葉を返して、生温い水に口を付ける。

 そうして叶光はそわそわとどこか落ち着きがない様子で視線を泳がせながら、ちらりと狼琥を盗み見た。大きな窓から入り込む月明かりが狼琥の髪を鮮やかに照らし出し、その臙脂色えんじいろをきらきらと輝かせている。

 綺麗だな、と素直にそう思いぼんやりと見つめていれば、それに気が付いたのか。ばちりと叶光と狼琥の視線がぶつかり合った。咄嗟に視線を外した叶光に狼琥は、おい、と機嫌の悪そうな声を投げつける。

「は、はい」

 叶光は恐る恐る顔を上げて狼琥を瞳の中へと映す。

「てめえの目的はなんだ?」

「……目的?」

Justiceジャスティスのやつらから銀河ぎんがを潰すようにでも命令されたのか?」

 見下げたように狼琥は笑った。

 叶光はそれを強く否定するかのように首を大きく横に振ると、真っ直ぐに狼琥を見据える。

「誰からも命令なんてされていません! 私はJusticeなんて知らない。だから狼琥くんが考えているようなことなんてありませんっ」

 叶光はぎゅっと手に力を入れ、ペットボトルを両手で強く握りしめる。そうして、私は、と続けた。

「本当になにも知らなくて……信じてもらえないかもしれないですけれど、気が付いたらここにいたんです」

 叶光は必死な表情で言葉を紡ぐ。

 そんな叶光に狼琥は聞き取れないほどの大きさで、チッと舌打ちをした。

「ああ、信じられねえな」

 狼琥は腰を上げると、そのまま扉の前にいる叶光へと歩き出す。

 そうして叶光の目の前で足を止めると、冷たい眼差しで見下ろした。全てを見透かすように冷たく光る琥珀色こはくいろが、叶光の瑠璃色るりいろを射抜く。

 叶光はその視線から目を逸らすことはせず、同じように真っ直ぐに見上げて返した。

 どれくらいの時間そうしていたのだろうか。張りつめた空気の中で狼琥はほんの僅かに口元を緩め、軽く息を吐いた。

「……信じられねえけど……まあ、あっち側の人間じゃねえって話は信じてやってもいい」

「えっ、ほ、本当ですか?」

 叶光は目をまん丸くさせ、表情をぱっと明るくした。そんな叶光に対して狼琥は、なに喜んでいやがる、と眉間に皺を寄せる。

「全部を信じた訳じゃねえよ。Justiceのことに関してだけだ! てめえが得体の知れない人間だってことに変わりはねえからな」

「……そう、ですか」

 叶光はがっかりしたように肩を落としたあと、でも、と僅かに口元を綻ばせた。

「嬉しいです」

「あ?」

 狼琥は訝しむような視線を叶光へと送る。

「私の言うことを少しだけど信じてもらえたから」

 満足したような表情を浮かべる叶光。

 狼琥はぶっきらぼうに、そうかよ、とだけ返した。

 そうしてそのまま叶光の横を通り抜け、ガラスの扉へと手を掛けると顔だけを振り向かせる。

「オレはもう部屋に戻って寝る。てめえも用が済んだのならさっさと戻れ!」

「は、はい! お水、ありがとうございました。おやすみなさい」

 叶光はぺこりと小さく頭を下げ、狼琥の背中を見送ったのであった。


 狼琥を見送ったあと。叶光は与えられた部屋へと戻るため、長い廊下を一人静かに歩いていた。

 いつの間にか夜は明け、柔らかな朝日が窓から差し込み叶光を包み込む。

 叶光は大きな窓の前で足を止めると、窓枠へと手を掛け眩しそうに目を細めた。

「……叶光?」

 不意に聞こえてきた呼び声に、叶光は驚いた様子で声のしたほうへと振り返る。

 ゆっくりと近づいてくる人物の姿を確認すると、叶光は安心したように小さく息を漏らし、紅真、と表情を和らげた。

「こんなところでなにをしているんだ?」

 叶光へと歩み寄り、不思議そうに首を傾げた紅真。そんな彼に叶光は手にしていたペットボトルを軽く持ち上げてみせる。

「ちょっと喉が渇いちゃって……下で狼琥くんにお水をもらっていたの」

 叶光の言葉に紅真は僅かに目を開く。

「狼琥って……! なにかあれば俺を呼べと言っただろう。あいつは叶光のことを疑っているんだ。二人きりになるのはあまりよくない。……なにか言われたのではないか?」

 捲し立てるように言葉を並べる紅真に叶光は驚きつつも申し訳なさそうに、ごめんなさい、と謝るとそのまま、でも、と続けた。

「狼琥くんね、そんなに怖い人じゃない気がするんだ。私のことも少しは信じてくれたみたいだし」

 先ほどの出来事を思い返しながら叶光は嬉しそうに微笑んだ。

「そ、そうか……」

 どこか納得のいかない面持ちの紅真。そんな紅真を叶光は真っ直ぐと見つめた。

「……だけど、ありがとう。私のことを心配してくれて。紅真は優しいね」

 にこりと向けられた笑みに、紅真は戸惑ったように視線をさ迷わせる。

「別に優しさなどは関係ない。俺はお前のことだから心配になる……ただそれだけのことだ」

 さらりと告げられた飾ることのない真っ直ぐな言葉。その言葉に今度は叶光が視線をさ迷わせる。

「えっ? ……そ、そっか」

 ほんのりと頬を染め、気恥ずかしげに述べる叶光。

「どうかしたのか?」

 落ち着きのない様子の叶光に紅真は首を傾げて問い掛ける。

「う、ううん! なんでもないよ! それよりもそろそろお部屋に戻らないとっ」

 叶光は急かすように紅真の背中を押した。

「ああ、そうだな」

 特に不振がることもなく、素直に頷いて歩みを始めた紅真に並んで廊下を進む。

 軽い会話を交わしながら角を曲がり、五つの扉を通り過ぎれば叶光が使っている部屋の前へとたどり着いた。

「それじゃあ、私は少しだけ休むね」

 叶光は扉を開くと、目の前に立つ紅真へと小さく手を振る。

「ああ。朝食の時間になったら呼びに……」

 途中までは柔らかな表情を浮かべていた紅真であったが、言葉が途切れるのと同時にその表情は一変した。

「……紅真?」

 不思議そうに見上げる叶光にさえも気が付いていないのか、眉間に深い皺を刻んだ紅真の視線は叶光の後ろ。部屋の中へとある。

「あいつ……!」

 苦々しい口ぶりで呟いた紅真は叶光の横をすっと通り抜け、室内へと足を踏み入れた。

「えっ、どうしたの?」

 叶光は驚いた様子で声を上げ、紅真の姿を目で追う。

 紅真は迷うことなく真っ直ぐに足を動かす。

「おい、お前! ここでなにをしている」

 部屋の隅で足を止めた紅真は、蹲るようにして眠っている白い塊――白の頭上めがけて怒声を浴びせると、眠る白の腕を掴み上げた。

「こ、紅真!」

 叶光は目を開き、慌てた様子で二人の傍へと駆け寄る。

 眠りを妨げられた白は、んっ、と掠れた声を漏らしゆったりとした動作で瞼を持ち上げた。

「……おはよう」

 白はまだ寝ぼけているのか、視点の定まらない目で叶光を捉えてのんびりとした口調で挨拶をする。

「おはよう、じゃない! 何故お前が叶光の部屋で寝ているんだ!」

「ん? ……ああ、キミか」

 たった今気が付いたとでもいうように視線を紅真へとずらした白は言葉を続ける。

「キミ、Third《サード》の人間だったんだね。銀河って人から聞いた」

「だったらなんだ? そんなことよりも俺の質問に答えろ」

 紅真は掴んでいたままだった白の腕を乱暴に離し、自分よりも低い身長を見下ろす。

「その子がこの部屋にいるって聞いたからボクもこっちに移動してきただけ」

 隣でおろおろとしている叶光にちらりと視線を向けて答えた白に、紅真の眉間の皺が深まる。

「移動してきただけって……そもそもお前はっ」

「待って! 紅真っ」

 白へと食って掛かる紅真を叶光の声が遮った。

「ここで会ったときにも言ったけどね、白は私を助けてくれたの。この部屋にきたのだって私のことを心配してくれてだし……。白のこと、私だって知らないことだらけだけど悪い子じゃないよ! だから紅真もそんな風に怒らないであげて?」

 真剣な表情で紅真を見つめる叶光。紅真はそれをどこか居心地が悪そうに受け止める。

「キミ……」

 そんな二人の間で白は目を丸くさせている。

 しばしの沈黙のあと。紅真は諦めたように大きなため息を吐き出した。

「……わかった。叶光がそこまで言うのであれば俺はもうなにも言うまい」

「ありがとう!」

 紅真の出した答えに叶光は口元を綻ばせたのであった。


 ――政府塔せいふとうにある一室。

 大きなモニターの前で二人の男が向かい合っていた。

「……叶光ちゃんに逃げられちゃったんだって? 君が失敗するだなんて珍しいね」

 にこやかな笑みを貼り付けた男は相手の失敗を責める風でもなくどこか興味深げに口にすると、彼が残念がっていたよ、とそのまま言葉を続けた。

「申し訳ありません。邪魔が入ってしまいまして」

 気まずげに視線を落とし頭を下げた相手に、男は僅かに目を開く。

「ふーん。君の速さに付いてこられる邪魔者かあ……」

 男は思案するように顎に手を当て、青磁色せいじいろの瞳をモニターへと動かす。

 モニターには本人にしかわからないであろう英数字が溢れている。

 実際、頭を下げている男にもその内容は理解出来ていない。

「きっと、とっても速い子……なんだろうね」

 男は顎に手を置いたままそこではない遠くを見るように、目を細めて笑った。

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