第三話

 スラム街の中心にそびえ立つ廃ビル。その最上階にある部屋に叶光かのみはいた。

「……で、だ。事情も聞かずにお嬢ちゃんたちをここまで連れてきちまった訳なんだが……これでよかったのか?」

 壁際にあるベッドへと白を寝かせた男性は、叶光と向かい合うようにしてソファーへと腰を沈める。

「は、はい! 助かりました。ありがとうございます」

 がばっと頭を下げた叶光に男性は、それならよかったよ、と笑ってから難しそうな顔で両腕を組んだ。

「それにしても……あれはJusticeジャスティスの人間だぞ。お嬢ちゃんは一体なにをやらかしたんだ?」

「Justice……?」

 小首を傾げる叶光に男性は、おいおい、と目を見開く。

「まさかを知らない、だなんて言わないだろうな?」

 冗談交じりに笑いをみせる男性を叶光は気まずげに見つめたあと、遠慮がちに頷く。

「マジかよ」

 それまで入口付近の壁に寄りかかり傍観していた狼琥ろくが目を見張り、そう呟いた。

 男性は思いあぐねた様子で、あー、と短く言葉を吐き出してからパンと軽く両膝を叩いた。

「まあ、あれだ。色々と聞く前にまずは自己紹介でもしておくか」

「あっ、はい」

 背筋をピンと伸ばし、座り直した叶光に男性は笑顔を向ける。

「俺は銀河ぎんが。情報屋で、今はこのThirdサードをまとめている……まっ、リーダーってやつだ」

 にかっと白い歯をみせた銀河は、ほらお前もだ、と狼琥へと視線を投げた。

 狼琥はため息を吐くと、壁に寄り掛かったままの状態で叶光をちらりと見る。それから数秒の間を開け、狼琥だ、と渋々といった様子で名乗った。

「私は叶光です。よろしくお願いします」

 再度頭を下げて自己紹介した叶光に銀河は、よろしくな、と返してからベッドのほうへと顔を向ける。

「そこで寝ている白いやつは叶光の友達か?」

「えっと……彼の名前はびゃくで……友達というか、私も昨日知り合ったばかりなので名前だけしか知らないんです」

 困ったように笑う叶光に銀河は驚いたような様子で、それは、と口を開く。それと同時にコンコンと部屋の扉を叩く音が聞こえ、叶光、銀河、狼琥の意識が部屋の出入り口へと移った。

「少し相談があるのだが」

 中の返事も待たずに開かれた扉から現れたのは一人の青年。

 肩にかかる藍鉄色あいてついろの髪を揺らす青年の視線がゆっくりと上がり、銀河を捉える。

 叶光はその青年の姿に思わず、えっ、と声を漏らした。その声に青年の視線が叶光へと逸れ、二人の視線がかち合う。

「なっ、お前!」

 青年の目がカッと見開かれる。

「おっ? なんだ、お前ら知り合いか?」

 銀河の問い掛けなど聞こえていないのか。青年はなんの反応も示すことなく、大股で銀河の前を通り過ぎる。

 そうして叶光の目の前で足を止めると、叶光の両肩を勢いよく掴んだ。

「心配っ、していたんだぞ! なぜあんなやつに付いて行ったんだ!」

 物凄い剣幕で怒鳴り、叶光の肩をガクガクと揺さぶる。

「あっ、わ、私」

 目の前にいる青年は、叶光が目を覚ましたとき最初に出会ったあの青年。

 あのときは追いかけられ、訳がわからず恐怖を感じていた叶光であったが、今は恐怖というよりも戸惑いの感情の方が大きい。それは青年の様子があまりにも必死に見えるからなのであろうか。

「おいおい、紅真こうま。叶光がびっくりしているぞ?」

 立ち上がった銀河が青年――紅真の肩をぽんと叩く。

 振り向いた紅真は、黙っていてくれ、と声を荒らげた。

 それから銀河へと向けていた視線が不意にその後ろへずれると、途端に紅真の表情は怒りに染まっていく。

「……あいつ」

 紅真が睨み付けるその先にあるのは、ベッドの上で眠る白。

 紅真は素早い動きで腰にある刀に手を掛けた。

「お前! なにをする気だ! 落ち着けっ」

「これが落ち着いていられるか! あいつは叶光を攫った犯人なんだぞっ」

 銀河が紅真の肩を押さえる。なんとか宥めようとするも、ひどく興奮した様子の紅真は言うことを聞きそうにない。

 叶光は、待ってください、と声を張り上げた。

 そうして今にも斬りかかりに行きそうな紅真の腕を慌てて掴む。

「白は私のことを助けてくれただけなんです!」

「助けてくれた……だと?」

 ぴたりとと動きを止めた紅真が叶光へと振り向く。

「どういうことなんだ」

 眉を顰める紅真に、叶光はそっと手を離すと顔を俯かせた。

「どういうことだと聞かれても……あなたこそなんですか? どうして私のことを追い掛けたりしたんです?」

「なにを言っているんだ? ……まさか俺のことを忘れている訳ではないのだろう?」

 紅真は不安定に瞳を揺らし、俯く叶光を見下ろす。

「私はあなたのこと……知らない、です」

 困ったように眉尻を下げ、きっぱりと言い切った叶光に紅真は乾いた笑みを浮かべる。

「な、んの冗談だ? 笑えないぞ」

 紅真は動揺したように声を震わせた。

「冗談なんかじゃないです。ここら辺にきたのも昨日が初めてだし、どうしてここにいるのかもわからないし……なのに、あなたのことを知っているはずなんてないじゃないですか」

「なにを言って……あのときのことを怒っているのか? だから俺を困らせようとそんな嘘を……」

「私は本当になにも……」

 顔を上げて力なくゆるゆると首を横に振る叶光を、紅真は悲しげな瞳で見つめた。

 それはまるで捨てられた子犬のようで。叶光の心の中に小さな罪悪感のようなものが生まれた。

「はいはい、おふたりさん! そこまでだ」

 なんともいえない雰囲気で見つめ合う叶光と紅真。見兼ねた銀河がパンパンと手を叩きながら二人の間に割って入る。

「紅真。叶光は本当にお前のことを知らないようだぞ? 人違いじゃないのか?」

 片手を腰に当てて問う銀河に紅真は、そんな訳あるかっ、と怒声を上げた。

「俺が叶光を見間違えるはずがない! 確かにあの頃に比べれば成長もしているが間違いなどなく俺の知る叶光だ」

 早口で捲し立てる紅真に銀河は重たいため息を一つ吐き、叶光を見遣る。

「まあ、名前もお前のものと一致しているしなあ……。叶光、本当に見覚えはないのか?」

 柔らかい態度の銀河に叶光は申し訳なさそうな顔をして、ごめんなさい、と首を横に振った。

「……そうか」

 銀河は考え込むように両腕を組んだ。

 叶光も紅真もなにも発することはせず、ただ黙って床を見つめている。

 この部屋から聞こえるのはカチカチと時計の秒針が進む音と、五人分の呼吸音のみ。

 そんな重たく、気まずい空気が漂う中。んで、と口を開いたのは狼琥であった。

「結局てめえは何者なんだよ? ここらじゃ見ねえ顔だしよ。……住民区の人間か?」

 橄欖色かんらんしょくのカーゴパンツのポケットに手を突っ込み、気怠そうに叶光を視界の中に入れる狼琥。

 叶光は、えっと、と言葉を詰まらせながら狼琥を見返す。

「私はどうして自分がここにいるのかよくわからなくて……光之町ひかりのちょうのマンションに帰ってる途中だったはずなのに、気が付いたらここにいたんです」

 叶光の返答に銀河は、ふむ、と難しい顔をした。

 そうして叶光に視線を向けると、一呼吸置いてから切り出す。

「……なあ、叶光。三年前にこの世界で大きな事件が起きたことは覚えているか?」

 真面目な顔でそんな質問を投げた銀河に、叶光は少し考え込むような素振りをみせたあと、なにかありましたっけ、と首を傾げた。

 その答えに、狼琥と紅真は呆気にとられたようにぽかんと薄く口を開けて叶光を凝視しする。

「はあ? てめえ、ふざけてるのか? 三年前と言えば政府交代があったじゃねえか!」

 苛立たしげな様子の狼琥に紅真が、そうだ、と頷き同意を示す。

「あの事件が起きなければ、俺たちは今ここにいることはない。それにあのとき俺とお前は……」

 途中で言葉を詰まらせ、ぐっと拳を握る紅真の隣で銀河が気遣うような視線を叶光へと向けた。

「記憶喪失か?」

「ち、違いますっ。私はちゃんと覚えてますよ! 自分のことも、周りのことも」

「じゃあ……叶光がどこで、誰と、どうやって暮らしてたかを話してくれ」

 叶光は銀河に、いいですよ、と力強く頷く。

「まずは、どこで誰と暮らしていたか、だ」

「光之町にあるマンションで母親と一緒に暮らしていました」

「親父さんは?」

 父親の存在を聞かれた叶光は悲しげに、私が幼い頃に亡くなったらしいです、と声を小さくした。

「……そうか。じゃあ、お袋さんと二人きりだった訳だな」

 こくりと頷いた叶光に銀河は難しそうな顔をする。

「じゃあ、叶光とそのお袋さんはどういう生活をしていたんだ?」

「母は隣町の会社に勤めていて、私は近所の高校に通っていましたよ。忙しい母の代わりに家事をするのが私の役割で……」

 母親と暮らしていたときのことを思い出しているのか。叶光は目を細めて表情を和らげている。

 そんな叶光を銀河は複雑そうに見守り、思案するように黙り込んだ。

「なあ、やっぱりこいつ俺らのことおちょくってるんじゃねえの?」

「おい、狼琥!」

 不信感を隠すこともしない狼琥を、紅真は非難するように声を上げた。

「なんだよ? 紅真、てめえだってそう思ってるんだろう?」

「それはっ……」

 紅真は視線をさ迷わせ言い淀んでしまう。

「銀河が言うから助けてやったけどよ。こいつはJustice側の人間で、俺らになにかを仕掛けるのが目的かもしれねえぜ?」

「叶光があちら側の人間だと? ふざけるな! そんなことがある訳がないだろう!」

「はっ! 随分とこいつの肩を持つじゃねえか。こいつはてめえのことなんざ知らねえって言ってるのによ」

 激高する紅真を狼琥は嘲笑するかのように口の端を歪めた。

「狼琥……お前っ!」

 紅真は壁に寄り掛かる狼琥の胸ぐらを鷲掴み、鋭く睨みを利かせる。

「あ? なんだよ。俺とやろうってか?」

 狼琥は掴まれた胸ぐらを不愉快そうに一見し、ガンを飛ばす。

「お前ら! いい加減にしないか!」

 一触即発。そんな雰囲気の二人の間に割り込んだのは銀河だ。

 狼琥の胸ぐらから紅真の手を離し、無理やりソファーへと座らせる。そうして狼琥へと振り返った。

「なんでも疑ってかかるのはお前の悪い癖だといつも言っているだろう?」

 銀河に咎められた狼琥はそっぽを向き、不機嫌そうにふんっと鼻を鳴らす。

「やってられねえぜ。オレはこんな胡散臭い女と関わるなんて御免だからな」

 狼琥は叶光をひと睨みすると真横の扉を乱暴に開き、部屋の中から出て行く。

 バタンとうるさい音を立てながら閉まった扉に銀河は大きなため息を零した。

「……すまんな。狼琥も根は悪いやつではないんだがなあ……」

 眉尻を下げて困ったように頭を掻く銀河に叶光は、大丈夫です、とぎこちない笑みを見せる。

「まあ、あれだ。とりあえず話はここまでにして、叶光はゆっくりしておくといいさ」

 人のいい笑顔で明るく切り出した銀河は、座っている紅真の肩を軽く叩く。

「紅真は叶光を空いている部屋に案内してやってくれ」

「あ、ああ。わかった」

 ソファーから立ち上がり叶光へと視線を移した紅真は、こっちだ、とそれだけを告げて背を向ける。

 叶光は慌てた様子で紅真の元へと小走りに駆け寄った。

「あのっ、それじゃあ失礼します」

 そう言って叶光は銀河にぺこりと頭を下げると、扉を開いた紅真のあとに付いて行ったのであった。


 階段を使い四階へと下りた叶光と紅真は、長い廊下をゆっくりと進んでいた。

 しばらくしたところで紅真がふと足を止める。

「この部屋を使ってくれ」

「あっ、はい」

 紅真に言われた部屋の扉の軽く開けば、そこには八畳ほどの広さの部屋があった。

 簡易ベッドと丸テーブルに椅子といったシンプルな作りだ。

 叶光は部屋の中に一歩足を踏み入れてから紅真へと振り返った。

「紅真さん、ですよね? ありがとうございます」

 僅かに表情を緩める叶光に、紅真は悲しげな笑みを浮かべた。

「俺のことは呼び捨てで構わない。それと敬語も使わないでくれ」

「えっと……うん。わかった」

 控えめな声で頷く叶光のその姿を、金色こんじきの瞳が静かに映している。

 しばしの沈黙のあと。紅真は遠慮がちに叶光の頭へと手を伸ばし、さらりと優しい手つきで頭を撫でた。

 叶光はびくりと肩を揺らす。

 そうして見上げた紅真の表情には、どこか迷いのようなものが窺える。

「お前は叶光なのだろう? 本当に俺のことを知らない……のか?」

「……うん、ごめんなさい。きっと紅真の言っている叶光と私は別人なんだと思うの」

 何度それを問われようが、叶光の記憶の中に紅真という人物は存在していない。

 けれど叶光が紅真を否定する度に紅真はひどく傷ついたように顔を歪めるのだ。その事実が叶光の心を痛める。

「いや、俺はそうだとは思わない。お前は俺が知っている叶光だ。間違いない。どれだけ一緒に過ごしていたと思っているんだ」

 紅真はそうきっぱり断言した。

「ずっと……一緒にいたの?」

 どうしてそう思うのか、という疑問よりも先に浮かんだのはその言葉であった。

 ああ、と首を縦に振った紅真はなにかを思い出すかのようにしながら叶光を見つめる。

「お前を守らなければいけないと、幼い頃からずっとそう思っていた。けれどあの日……俺は守らなくてはならないはずのお前を見失ってしまった」

 過去を悔いるように唇をか噛む紅真を、叶光はただ黙って見守る。

「後悔していたんだ。あの瞬間……その手を離してしまったことを。だから俺はこの三年間、必死にお前を……叶光のことを探していた」

 真っ直ぐと叶光を映す紅真の瞳のその強さに、でも私は、と叶光は逃げるようにして顔を俯かせた。

「……いいんだ。叶光が俺のことを知らないというのであれば、それでもいい。俺がお前を知っている……覚えているのだからな」

 紅真は叶光の手を静かに取ると、優しく握りしめる。

「やっと見つけることができたんだ。もう独りにさせたりはしない」

 手を握られたことに僅かな戸惑いをみせる叶光に、紅真は微笑んだ。

「約束だ」

 紅真がその言葉を口にした瞬間。叶光の頭の中で幼い声が響いた。紅真と同じように『約束だ』と、微笑む少年の姿が脳裏に移り込む。

 今のは誰だったのか。そう考えようとした叶光は突如走った頭の痛みに、眉を寄せて額を押さえた。

 うっ、と小さな悲鳴を漏らしてしゃがんでしまった叶光に、紅真が慌てた様子で膝を折る。

「どうした! 大丈夫か?」

 紅真はそう言って叶光の顔を覗き込んだ。

「……だい、じょうぶ」

 叶光は差し出された手を取り、ゆっくりと立ち上がった。

「疲れているのだろう。無理はせず今日はもう休んだほうがいい」

「そう、だね」

 叶光はまだ僅かに痛む頭を軽く押さえ、紅真に支えられながらベッドへと移動した。

 靴を脱ぎ、ギシリとスプリングを沈ませながら毛布の中へと足を入れる。

「俺の部屋は隣だから、なにかあればすぐに呼んでくれ」

「……うん」

 叶光が頷くのを確認してから紅真は、おやすみ、と自室へと戻っていった。

 独りきりになった空間で、叶光は先ほど見えた少年のことを考える。

 あれは誰だったのだろうか、とぼやける少年の面影を手繰り寄せようとすればズキズキと頭が痛みを訴える。

 早く、早くと急かされるような気持ちを抱きながら叶光は瞼を閉じた。

「……私は……本当になにも知らない、の?」

 ぽつりと呟いた自らの問い掛けに、叶光は心がざわめくのを感じていた。

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