蜜柑の木の下で


 体も頭もひどく疲れていた。吟詠境で裂かれた右手がじわじわと痛みだす。このまま休んでいたい、眠り続けていたい、そんな欲望を払い除けると、ライは重い瞼を開け、自分の体を起こした。


「ライさん」


 聞こえたのはコトの声だった。モリを膝枕している。


「モリさんから、杜国の気配が消えた……」


 呟くようなコトの言葉にライは何も言えなかった。もうそれだけで宗鑑を封じられなかったことはコトにはわかっているはずだ。ライは周りを見た。ソノとリクは目を閉じて横たわっている。少し離れた場所にセツが、やはり目を閉じて横たわっていた。


「ショウ、ショウは」


 隣の別間にショウの布団があった。その枕元には住職と父つぁんが座っている。


「五人が倒れ始めたので、こちらに移動させたんですよ」


 父つぁんの説明に耳を貸そうともせず、ライはショウの枕元に駆け寄った。まるで死人の様に顔が土気色になっている。共感を超える力をあれ程までに宗鑑に使われ、しかも現し身を詠んだ吟詠境で、繋離詠を奪う業まで使っているのだ。命を取り留めているのが不思議なくらいだった。


「差し出がましいとは思いましたが、医者を呼ばせてもらいましたよ。この子の衰弱はひどすぎる。とても放ってはおけませんでしたから」


 住職の心遣いにライは返す言葉がなかった。両手の拳を固く握り締め、四つん這いになって畳を叩いた。


「すまん、ショウ。いつも先輩風を吹かしている癖に、こんな時にお前の為に何もしてやれないなんて……くそっ、くそっ」


 ライは嬉しい時に泣くことはあっても、悔しさで涙を流すような男ではなかった。悲しみよりも怒りが先に立つからである。だが、こんなに弱りきったショウを前にして、涙の一つも流せない自分の剛直な心を、ライは今ほど憎く思えたことはなかった。


「せめて、凡兆の丸薬があれば……」


 それは無意識の内に出た言葉だった。言った後で、ライはコトを振り向いた。暗い顔をしていた。


「す、すまん。コトさんが悪いわけじゃないのに、変な事を言っちまったな」

「ううん、ライさんがそう思うのも当然だわ。あんな大事な物を使わせておきながら、肝心な時に私は何の役にも立てていないのだもの」

「い、いや……」


 口籠るライ。コトのせいではない、それはライ自身もよくわかっている。それでも口惜しい気分は消えなかった。やはり自分達の選択は間違っていたのではないか、そう考えずにはいられなかった。ショウの枕元にうずくまったまま身動きできずにいるライ、その背中に威勢のいい声が掛かった。


「らしくないですよ、ライ先輩」


 父つぁんだった。いつもの仕返しとばかりに、丸まったライの背中を平手で叩く。


「何を悔しがる必要があるんですか。誰が怪我した訳でも、病気になった訳でも、居なくなった訳でもない。ただみんなが疲れている、それだけじゃないですか。これくらいで弱音を吐くなんてライ先輩らしくないですよ」

「そうよ、ライちゃん」


 ソノが起き上がった。右胸を手で押さえ、ふらつく足取りでライに向かって歩いてくる。


「ソノさん、大丈夫なのか。無理しない方が……」

「平気よ。怪我をしたのは現し身が詠まれていない時だったし、詠まれていた時間だって短かったんだもの。それに、誰かさんが手厚い治療をしてくれたしね」


 ソノは疲れた顔に笑顔を浮かべてライを見た。


「ね、ライちゃん。私たちは精一杯頑張った。今も、そして今までも、その時に出来る全ての事をやり抜いてきた。振り返ってみれば間違っていたと思う事もあるかも知れない。でも、もし出来る事をやらずに済ませてきたとしたら、それは物凄く後悔していると思う。だからライちゃん、それでいいじゃない。後はお医者さんに任せましょう。脳天気じゃないライちゃんなんて、ライちゃんじゃないぞ」

「そうか、そうだな」


 二人の言葉はライに元気を取り戻させた。俺たちが落ち込んだらショウの具合も余計ひどくなる。だったら、せめて明るく振舞おう、ライは大声を上げた。


「よし、じゃあ俺たちも寝よう!」

「寝る?」

「そうだよ、みんな疲れただろう。こんな時は寝るに限る。それに俺達の気力や体力が回復しなきゃ、言霊達の力や怪我も回復しないからな。一晩寝たらいい考えも浮かぶだろう」


 ライが言うまでもなく、夜は大分更けてきていた。そしてリクやセツやモリがようやく起き上がれるようになった頃、医者がやって来た。住職の古くからの友人であるという老医者は、ショウは衰弱が激しく心臓も弱っているので、夜が明けたら入院するようにと言い、注射を一本打ってくれた。その他の者には休養を十分取るようにとだけ言って何もせず帰って行った。医者が帰ると、住職は布団を用意し、部屋を襖で区切って男女を分けてくれた。そしてショウ以外の七人はようやく眠りに就くことができた。



 不意にコトの目が覚めた。部屋が薄暗いのでまだ夜は明けていないようだ。コトは妙な胸騒ぎがした。もう一度眠ろうと思っても、その胸騒ぎが気になって寝付けない。

 コトは布団から出ると、部屋を仕切っている襖をそっと開けた。隣の部屋には布団が四組並んでいる。コトは息が止まりそうなった。ライと父つぁんの間に寝ていたはずのショウの姿がないのだ。音を立てないように注意しながら部屋に入り、父つぁんの枕元に近寄ると小声で囁いた。


「トツさん、起きて。トツさん」

「う、うーん」


 父つぁんが眠そうな声を上げながら目を開ける。


「コトさんか。悪い、もう少し寝かせてくれ」

「ね、驚かないで聞いて。ショウ君が居ないのよ」

「ショウが」


 父つぁんは目を開くと上半身を起こした。確かにショウの姿はない。


「ホントだ。とにかくみんなに知らせなきゃ」


 父つぁんの言葉にコトは首を振った。


「ううん、みんな疲れているから眠らせてあげましょう。トツさんは住職さんに知らせて。私は近くを探してみる」

「わかった。でも、ショウの奴どうして。まさか……」


 コトはそれ以上はもう何も言わなかった。父つぁんも布団から出ると、音を立てないように注意して住職の住まいに向かった。



 崖の様に切り立った岩場の下を大きな川が流れている。その川を見下ろすように蜜柑の木が立っていた。今が盛りなのか、沢山の花が月明かりに照らされて白く浮かび上がっている。ショウはその中の一つを手に取った。爽やかな甘い香りがする。住職が墓に供えてくれているのはこの木の花なのかも知れない、そんな考えが浮かんだ。


「ショウ君」


 それが誰かショウには声でわかった。少し離れた場所にコトが立っている。


「どうしてこんな所にいるの。寝てなくちゃダメじゃない」


 コトにそう言われて、ショウは殊更元気そうな声で答えた。


「お医者さんを呼んでくれたんでしょ、何となく覚えている。それで随分気分が良くなったから散歩していたんだ」

「そう」


 コトはじっとショウを見ている。月明かりがショウの顔を蒼白く照らす。コトが震える声で言った。


「ショウ君……死ぬつもりなの?」


 コトの言葉にショウの表情が笑顔に変わった。


「コトさん、考えすぎだよ。ホラ、ミカンの花。この花が気になってここに来ただけなんだ。すぐに戻るから先に帰っていて」


 白い花を見せるショウを、コトはやはりじっと見詰めている。


「ね、ショウ君。あなたは気づいていないと思うけど、ショウ君が何かをごまかそうとする時、頭が僅かに右に傾くのよ。そして、今のショウ君の頭はさっきからずっと右に傾いている」


 コトがショウに向かって歩き始めた。


「本当はそうやって立っているのも辛いほど疲れているんでしょう。そして本当は……」


 その続きをコトは言えなかった。ショウは諦めたような笑いを漏らした。


「ふふ、コトさんはいつも鋭いね。わかったんだ、宗鑑の記憶を知って。彼は自分の意に従わない宿り手の命を、冬の女神、黒姫の業を使って情け容赦なく奪ってきた。そして多分、遅かれ早かれ、僕もそうなる」

「だからって、自分でその命を奪っていいはずがないでしょう」

「どうせなら宗鑑の言霊を道連れにした方がいいかなと思って」

「無駄よ。ショウ君が死に掛けたら、宗鑑は宿り手から離れて自分の言葉に還るだけだわ」

「知っているはずだよ。吟詠境に留まったまま宿り手が死ねば、言霊も消えるってこと。宗鑑ほどの力があれば一人でも吟詠境を開けるんだ」

「それだって同じよ。吟詠境では宗鑑の意識なのですもの。すぐ挙句を詠んで閉じてしまうわ」


 自分の意見にことごとく反論するコトに、やはり口では勝てないなとショウは改めて思う。だが、今回は違うのだ。


「コトさんは知らないんだね。吟詠境を開いた時、少しの間だけど僕の意識と姿のままなんだよ。宗鑑にほとんど共感していない、それが僕の本来の状態なんだ。その後、宗鑑は自分の姿と意識を移す。でもそうされる前に僕が現し身の業で自分の意識を固定してしまえば、宗鑑は自分の意識を移せなくなる。僕はそのまま挙句を詠まず、吟詠境を開いたまま自分の命が尽きるのを待つ」

「そう、ショウ君、そんな事を考えていたの」


 コトの声は冷たかった。しかし、それは意識してそう振舞おうとしているようにも見えた。


「ショウ君が死んじゃったら、夏休みにスイカの収穫を手伝ってくれる人が一人減るわね。トツさんに恨まれるわよ」

「きっと、先輩が僕の分も働いてくれるよ」

「モリさん、新しい水着を買うって言っていたわよ。ショウ君に見てもらえないんじゃ、ガッカリするでしょうね」

「きっと、セツが僕の分まで見てくれるよ」


 コトの両拳が固く握り締められた。その顔に怒りの色が浮かぶ。自分の言葉の真意をわかってもらえないもどかしさに、コトは声を荒げて言い放った。


「ショウ君、あなた……あなたはいつもそう。いつだって人の気持ちをわかろうとしない。どうしてそんな風に考えられるの。ソノさんやライさんが、ううん、其角や去来が何の為に死力を尽くして戦っているかわかっているの。あなたを助けたいからでしょう。あなたを宗鑑から救いたいからでしょう。例え宗鑑を消し去ったとしても、その為にあなたを失ってしまったとしたら、一体誰が喜ぶって言うの。私たちも言霊たちも、もう宗鑑なんかどうだっていいのよ。ショウ君が生きてさえいてくれれば、それだけでいいのよ。なのに、あなたはそんな私たちの気持ちを踏みにじろうとしている。こんなに人の気持ちを読み取れないあなたは間違いなく落第生だわ。次の試験も赤点確実、もう追試の勉強の手伝いなんてしてあげないわよ」


 それはまたコトの毒舌のひとつには違いなかった。けれどもショウにはその言葉のひとつひとつが嬉しかった。自分を思うコトの気持ちが、それらの言葉には溢れていたからだ。ショウは首を横に振ると、優しい声で言った。


「ううん、コトさん、わかってる。みんなの気持ちはよくわかっている。でも、だからこそなんだ。あんなに強かった杜国は僕の為に消えてしまった。其角や去来だって、自分の言霊を消し去る事を厭わず戦おうとするだろう。それは宿り手のソノさんや先輩の命をも危険に晒すことになる。僕の為に他の人を危ない目になんか遭わせられないよ。僕はそんな価値のある人間じゃないんだ」


 コトは唇を噛み締めた。反論できなかった。牧童の吟詠境で現し身が詠まれているにもかかわらず、言霊の業を使おうとした三人の姿が思い出された。去来はともかく、其角と嵐雪はその強大な力ゆえに、宿り手に掛ける負担は尋常ではないはずだ。現に其角は、かつて現し世の業を使って、自分の宿り手を死に追いやっているのである。彼らの戦い方によってはソノとセツが命を落とすことは十分あり得ることだった。


「それなら……」

 それでもコトは諦めなかった。なんとしてもショウを説き伏せてここから連れ帰りたい、それだけが今のコトの願いだった。

「それなら宗鑑に従えばいいじゃない。繋離詠でも何でも使わせてあげればいいじゃない。自分の言い成りになる宿り手なら、宗鑑だって黒姫の業を使わないのでしょう。ショウ君の命が奪われることだってないはずだわ」

「ううん、駄目だよ。繋離詠は使わせちゃいけない。だって、繋離詠の本質は、言葉が持つ僕らの想いを奪い去ることなんだもの。コトさんが教えてくれたシトラスという言葉にも、僕の母がいつも作ってくれたオレンジジュースという言葉にも、沢山の思い出が詰まっている。でも宗鑑は、それらの言葉に憎しみや嫌悪を結びつけて、使わせないようにするだろう。それは言葉に宿る僕らの想いも消し去ってしまうことなんだ。虚ろな言葉を抱いて生きることがどれ程辛いか、繋離詠を使われた寿貞尼を宿しているコトさんならわかっているはずだよ。みんなをそんな目に遭わせないように出来るのなら、僕の命を捧げる価値は十分あると思うんだ」


 コトはもう何も言えなかった。ショウの言う通りだった。そしてショウはそこまで考え、それだけの決意をして、疲れ切った体をここまで運んで来たのだ。その覚悟の強さを目の当たりにして、コト自身も覚悟を決めた。それ程までに深い想いなら全て受け止めてあげようと。


「そう、わかったわ。それがショウ君の結論なら、私はもう止めない」

 コトはショウの間近に寄るとその手を握った。

「でも、それなら私も一緒に吟詠境に行くわ」


 ショウは驚いて首を振った。


「無理だよ、寿貞尼は芭蕉の言霊がなければ吟詠境には入れない」

「ううん、知っているのよ。宗鑑や芭蕉のように強い力を持った言霊の宿り手は、言霊を持たない者でも吟詠境に入れることができる。私は寿貞尼ではなくコトとして吟詠境に入るのよ」

「で、でも」

「ショウ君が決めたことに私はもう口出ししない。だからショウ君も私が決めたことには口出ししないで。いいから、私を吟詠境に連れて行きなさい」


 いつもと変わらない命令口調にショウは可笑しくなった。自分と一緒に閉じることのない吟詠境に行く、それが何を意味するのかコトにわからぬはずがない。それでも行くと言うコトにショウはもう歯向かいはしなかった。

 互いの決意を確かめる様に二人は手を強く握ると、岩場の端に向かって歩き出した。ゆっくりと、一歩一歩を惜しみながら、寄り添って歩いていく二人。


「本当のことを言うとね、さっきまで一人でいた時、凄く怖かったんだ。でも不思議だね。こうして手を繋いでいると、もう何も怖くない気がする」


 岩場の端の近くで二人は立ち止まった。その下を流れる川は淀んでいる。流れがほとんどない水面は湖のようだ。


「ね、コト」

「何?」

「今まで君に対して怒ったり悪口言ったり、それから色々あったけど、やっぱり僕はコトが好きなんだと思う」

「うん」

「だから……」

 ショウは繋いでいた手を離すとコトに向き合った。

「君はここに残って欲しい」


 ショウの両手がコトの両肩に乗せられた。今までに見たことのない優しい笑顔に、コトは言いようのない不安を感じた。


「ショウ、何を……」


 言い終わらぬうちにコトの両肩が強い力で押された。勢いよく後ろに倒れるコト。すぐに起き上がろうとするが、足に激痛が走る。どこか挫いた様だ。


「痛っ、足が……」

「ごめん、乱暴なことをして。でも最後くらいは僕のわがままを聞いて欲しい」


 ショウはコトを見詰めたまま後ずさりを始めた。立ち上がれないコトは両手を地に着け、這ってショウを追おうとする。


「吟詠境での僕はいつも弱かった。いつも其角や去来に助けられてばかりいた。もっと力が欲しい、もっと強くなりたい、そう願っていた僕の望みは、今、叶っている。わかるかい、コト。宗鑑の全ての記憶と全ての業を手に入れた僕は、今や最強の言霊として吟詠境に存在しているんだ。でも、その時、僕はショウではなくなっていた。手に入れた力は杜国を葬り去り、手に入れた強さは蕉門の俳諧師たちを苦しめている。こんな力なら欲しくなかった。こんな強さなら欲しくなかった。いつまでもショウのままでいたかった……」

「ううん、ショウよ。どんな言霊が宿ろうと、あなたはショウのままよ」

「そう言ってくれて嬉しいよ、コト。最後に君と話せてよかった。これで何の迷いもなく行くことができる。さよなら、コト」


 ショウは天を仰いだ。星と月が輝く夜空に、義仲寺で見た芭蕉の墓が見えた。己の死を悟って巴御前を逃がした義仲、そんな義仲が好きだった芭蕉。二人の心情が少し理解できた気がした。


「待って、ショウ……ショウ!」


 コトの叫び声を聞きながら、ショウの体は仰向けに川面へ落ち始めた。発句を詠もう、ショウはそう思った。

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