杜国の最期
冬にもかかわらず暑さを感じるほどに降り注ぐ昼の日差しの中に立っていたのはショウだった。戸惑った様子で岬の景色を眺めるショウの耳に去来の声が聞こえた。
「ショウ殿!」
見れば、少し離れた古い屋敷の前に五人が立っている。ショウがそちらに走り出そうとした時、ショウの姿は宗鑑に変わった。去来が低く呻く。
「くっ、宗鑑……」
「本来はショウ殿のままであるべき姿と意識を、無理やりに己に置き換えているのだ。宗鑑、やはり許せぬ」
怒りに満ちた其角の言葉に嵐雪と許六も相槌を打つ。が、杜国だけは顔色も変えず他の四人をそのままに、宗鑑に向かってゆるゆると歩き始めた。近づく杜国に宗鑑が声を掛ける。
「ほう、杜国を連れてきたか。久しいのう、繋離詠の遣い手よ」
杜国は宗鑑の前まで来ると足を止め頭を下げた。
「宗鑑殿、お久し振りです。その節はお世話になりました」
「己の命を削ってまで、この宗鑑の業を欲しておきながら、未だ蕉門と縁を切れぬとはな。それとも、今こそ奴らに見切りを付け、わしと手を組む気になったのか」
「そうですね、私が存命だった頃に再会していたならば、あなたと手を組むこともあり得たかも知れません」
屋敷の前に立つ其角はやきもきしながら二人の会話を聞いていた。
「去来殿、杜国殿は本当に大丈夫なのか。宗鑑に寝返ったりはせぬだろうな」
「其角殿、落ち着きなされ。先ずは成り行きを見守ろう」
去来にも全く不安がない訳ではなかった。が、この吟詠境を開いたのは嵐雪、いざとなれば挙句を詠んで閉じればよい。逃げ道を持っていることが、去来の心に余裕を与えていた。
宗鑑と顔を合わせても杜国は眉一つ動かさなかった。何の感情も読み取れぬ表情のまま、杜国は言う。
「時に、宗鑑殿。ひとつお尋ねしたいことがあります」
「申してみよ」
「繋離詠は人を幸せにできますか」
宗鑑はからかわれているのかと思い、杜国の顔をまじまじと見た。杜国の能面の如き顔に、ふざけた様子は全くない。宗鑑は鼻で笑った。
「ふっ、こんな下らぬ戯言を繋離詠の遣い手から聞くとはな。よいか、人の世の幸、不幸など銭金と同じ。誰かが富めば誰かが貧する、それが道理だ」
「なれど、繋離詠ならば全ての人に幸を与えるのも可能ではないのですか」
宗鑑には杜国が全く理解できなかった。他人の幸福など何故気にする必要があるのか。言い聞かせるのも汚らわしいとばかりに、吐き捨てるような口調で話す。
「逆だ。繋離詠は少数に幸を集め、多数を不幸にする業。他人の為に業を使う者など居るはずがなかろう。お主とて、自分の望みの為だけに業を使っておるのではないのか。自分の幸の為に業を使い続ければ、他者はますます不幸になる。こんな道理もわからぬとは、蕉門の方々にも呆れたものよ」
杜国が薄っすらと笑いを浮かべた。宗鑑は怪訝な顔で尋ねる。
「何が可笑しい」
「ようやくわかったのです、私の何が間違っていたのか、そして宗鑑殿のお心も。やはりあなたは尊敬できるお方ではございません」
「ほう、ではお主もわしと遣り合うと申すのか」
宗鑑の目付きが険しくなった。今にも何かの詞を言わんとばかりに口は半開きになっている。杜国は静かに言った。
「無駄ですよ。私の業には無季も現し身も意味をなしません」
「何?」
「しらじらと砕けしは人の骨か何」
まるで会話の途中の話し言葉のように杜国は淡々と句を詠んだ。宗鑑はあ然とした後、声を出して笑った。
「ふははは、何を言い出すのかと思えば、季の詞さえ持たぬ平句ではないか。これで何をしようと言うのだ」
杜国はそこにじっと立っている。何もしていない様にも見えるし、何かに集中している様にも見える。宗鑑は物言わぬ杜国に一抹の不気味さを感じた。詞を発せられる前に無季でも発しておくか、そんな考えが浮かんだ時、足に何かがまとわりつくのを感じた。
「うおっ!」
その正体を見て宗鑑は叫び声を上げた。知らぬ間に無数の人骨が地から湧き上り、宗鑑の両足に絡みついていたのだ。その人骨は見る見るうちに数を増やし、膝から腰へと宗鑑を覆い隠す。
「杜国、お主、何を……」
宗鑑は季の詞を発しようとしたが詞が出ない。同じだった。かつて芭蕉と戦った時、最後に自分を宿り手から追い出した業。あの業を受けた時と同じ感覚……
「まさか、封印詠か!」
地より湧き上る人骨は宗鑑の上半身を覆い始めていた。身悶えしながらそれを払い除けようとするが、まとわりついた人骨はその数を増やすばかりだ。捩り続ける上半身を包み込み、口を半開きにしたままの顔を覆い、遂に頭までを隠し切ったところで、人骨の増殖はその動きを止めた。
杜国はふっと息を吐いた。その顔には喜びも悲しみもない、一仕事終えた後に似た虚無感だけが漂っていた。杜国は宗鑑に背を向け、四人が立つ屋敷に向かって歩き始めた。
「閉じた吟詠境では、この人骨が作る空間を保つことはできません。挙句を詠んでください。このまま吟詠境を閉じれば、人骨の空間は消え、宗鑑は封をされて宿り手から離れます」
「おお!」
屋敷の前に立つ四人は歓喜の声を上げた。これ程見事に、そして軽々と宗鑑を封じ込めるとは思ってもみなかった。
「杜国殿!」
其角は感極まって大声を上げると、杜国に向かって駆け出した。
「やりおった、やってくれおった。感謝するぞ、杜国殿。これで宗鑑も数百年は出て来られまい」
小躍りして杜国の肩を抱く其角。杜国は満更でもない様子でそんな其角を眺めた。が、不意に其角の動きが止まった。
「其角殿?」
其角の体が杜国にもたれかかる、その右胸には一本の鋭い人骨が突き刺さっていた。
「まさか……」
杜国は後ろを振り返った。人骨の塊が小刻みに震えている。すぐさま両手を組み季の詞を発す。
「侘助!」
「山茶花!」
去来もまた同時に季の詞を発した。それぞれの前に生垣が出現し、宗鑑と五人の間を遮蔽する。瞬間、宗鑑の体を覆っていた人骨が、まるで爆発でもしたかのように四方八方へ飛び散った。去来と嵐雪と許六、そして杜国と其角はそれぞれの生垣の中で身を潜め、人骨の飛散が収まるのを待った。
「封印詠の中では詠唱は不可能なはず、なのに何故……」
去来は生垣に突き刺さる人骨を眺めながらつぶやいた。封印詠が破られたのは最早疑う余地がない。が、その理由がわからない。やがて飛散する音が弱まった。去来達三人は山茶花の生垣を飛び出し、杜国と其角が身を潜める侘助の生垣へと走る。
「其角殿、しっかりいたせ」
二人の元へたどり着いた去来は、直ちに地に横たわる其角の着物の前をはだけ、右胸に刺さった骨を抜いた。其角の口から血が吹き出す。
「これはいかん。肺の腑まで達しておる」
医術の心得のある去来はその傷を見て顔を曇らせた。かなりの深手である。去来は其角の腰に結びつけられた瓢箪を外した。
「うむ。去来殿、すまぬな。この程度の傷は酒を飲めば治る。まずは一杯」
「馬鹿者、傷の手当に使うのだ。それと無駄口を叩くでない」
去来は瓢箪を口に当て酒を含むと、其角の傷に吹きかけた。顔をしかめる其角。構わず両手を組んで季の詞を発す。
「さしも草!」
去来の両手に蓬が現れた。揉み解して其角の傷口に当て両手で押さえる。
「うむうむ。さすが名医の去来殿。わしの詠むさしも草よりも霊験あらたかであるな」
「黙っておれと申したであろう。しばらくこのまま動くでないぞ」
両手に力を込めた去来は、目を閉じ、深く深呼吸した後、経文を唱えるが如き口調にて発句を詠んだ。
「手の上に悲しく消ゆる蛍かな」
去来の手が淡く光り始めた。許六がため息混じりの声を出す。
「去来殿の手当て、何度見てもお見事でござるな」
去来の治癒詠は丈草と並んで蕉門随一である。だが、これだけの深手となれば止血し、傷口を塞ぐまでには相当な時間が掛かりそうだ。両手に言霊の力を集める去来の額には汗が滲み始めていた。
「宗鑑殿、現れましたね」
杜国が立ち上がった。いつの間にか人骨が飛散する音はやみ、周囲は遠くに波の音が聞こえる岬の昼下がりに戻っている。
「嵐雪殿、お願いがあります。あなたの防御詠、この杜国の為に使ってはいただけませぬか」
杜国はそれだけを言うと、嵐雪の返事を待たずに歩き出した。生垣を離れて、姿を現した宗鑑に向かっていく。嵐雪は一瞬躊躇したが、其角と去来が頷くのを見て杜国の後に従った。
「許六殿、貴殿も二人に付いて下され。杜国殿は既に相当の力を使っておられるはず。嵐雪殿一人では心もとない。いざという時には貴殿も杜国殿を守ってくだされ」
「わかり申した」
去来にそう返事をして、許六は二人の後を追う。
「去来殿も行かれるがよい。わしはもう大丈夫だ」
「静かにしておれ、其角殿。吟詠境で言霊の体を失えば、言霊の存在自体が消えることは貴殿もわかっておろう。もう少し傷の手当をさせてくれ」
去来は傷を押さえている両手に力を込めた。それでもその目は杜国の後ろ姿を追っていた。杜国、何をする積りなのだ。封印詠を破られた今、何か手立てはあるのか。心の中でそうつぶやきながら……
宗鑑は元のままだった。まるで何事もなかったかの様にそこに立っている。そして杜国もまた、何事もなかったかの様に話し掛けた。
「さすがは宗鑑殿。封印詠を破る業をお持ちでしたか」
「ふっ、甘いわ。わしが何もせずに三百年も封じられていたと本気で思っておったのか。同じ業を二度食らう程この宗鑑は甘くはないぞ。宗房以外にも封じる業を持つ者がいたことには驚いたがな」
宗鑑は改めて杜国を見る。初めて会った時からその非凡さは見抜いていたが、これ程の力を持つ言霊になろうとは、想像だにできなかった。いや、これ程の力を持ちながら、存命中は無名の俳諧師であったことが逆に驚きであった。
「杜国よ、これでわしに抗うのは無駄だとわかったはず。悪いことは言わぬ。わしの側に付け。破門同様の扱いを受けた蕉門に、これ以上義理立てする必要がどこにある」
「そうですね。私ひとりではあなたには到底敵いません。それは認めます。でも、ここには私の他に四人もいるのです」
「ふっ、あの四人の力量など、たかが知れておる。それにお主とて、もう何の策もなかろう」
「そう、思われますか?」
宗鑑に探りを入れられても杜国の表情は変わらなかった。本当に策がないのか、策はあるが隠しているのか、その表情からは読み取れない。先程、封印詠を使った時と同じ不気味さが漂っている。
宗鑑は考えを変えた。これ以上争わず、早々に現し身を発した方が良い。何か策があろうとも現し身を詠まれた吟詠境では何もできなくなるのだから。そう考えた宗鑑の口が開きかけた時、杜国の澄んだ声が宗鑑目掛けて発せられた。
「無詞!」
「ぐっ!」
宗鑑の声が詰まる。その顔が一気に蒼ざめる。それでも諦めず、杜国に掴みかかろうとした宗鑑の前に、粉雪の壁が立ち塞がった。杜国の声と同時に嵐雪も発句を詠んでいたのだ。
「うぬっ、嵐雪の防御詠か」
無数の粉雪が杜国と嵐雪を取り巻いている。あたかも小さな雪山の中に埋もれたような二人を挟んで、宗鑑と許六はただ立ち尽くしていた。
「無詞……去来殿、杜国殿は今、無詞と言われたのか」
驚いた声で去来に尋ねる其角。去来もまた己の耳を疑いたくなる程に、杜国の言葉に驚きを感じていた。無詞……発句も季の詞も含めた全ての詞の業を封じる業。宗鑑と共に俳諧の祖と言われた
「去来殿、何をぼんやりしておる!」
其角の声にはっとして我に返った去来の目に、茫然自失の宗鑑を見詰めたまま立ち尽くす許六の姿が映った。
「許六殿!」
去来が叫んだ。許六は十哲の中で最も言霊の業に疎い。無詞の業についても知らないのだろう。
「奪霊を使われよ。無詞は全ての業を封じる。今の宗鑑は最早無季も現し身も使えぬ。奪霊で言霊の力を奪い尽くすのだ」
「承知」
去来の言葉で全てを悟った許六は、右手を顔の前に掲げた。手の平全体がぼんやりと光り始める。
「お、おのれ」
顔をゆがめる宗鑑。半開きの口は何かを言おうとしているが、声になって出てこない。輝きを増した許六の右手が宗鑑に向かって伸びた。
「奪霊!」
強く輝いた右手から光の玉が放たれた。ゆっくりと確実に宗鑑を飲み込もうとする光、が、その光に向けて伸ばした宗鑑の左手の前に、突如、幾本もの冬木立が現れた。光はその木立を飲み込んで強く輝いたかと思うとそのまま消えてしまった。
「馬鹿な!」
許六と去来は我が目を疑った。宗鑑は間違いなく季の詞を発していない、いや声すら出していない。なのに何故木立が現れたのか。去来はもう一度宗鑑を見た。その右手に何かを持っている。細長い紙のようなもの……
「そうか、短冊詠!」
全ての謎が解けた。封印詠も無詞も縛る対象は声だけ。書き文字にはその力は及ばない。宗鑑は封印詠を破る発句をあらかじめ短冊に書いておいたのだ。人骨に覆われた時はその短冊を使い、今は、用意しておいた季の詞を書いた数枚の短冊の中から一枚を使ったのだ。其角が叫ぶ。
「行かれよ、去来殿。いかに杜国殿でもこの業は長くは持たん。嵐雪殿も同様だ。この機会を逃したら二度と宗鑑は討てぬぞ」
こうなっては一刻の猶予もない。宗鑑が季の詞を使える以上、簡単には言霊の力は奪えない。ぐずぐずしていては杜国も嵐雪も力尽きる。去来は意を決すると懐から晒を取り出し、其角の上半身にきつく巻きつけた。
「其角殿、わしは行く。だが貴殿は傷がふさがるまで大人しくしておるのだぞ」
そう言い残して去来は生垣を出た。そのまま宗鑑の右側に回りこむ。許六とは別の方角から攻めた方が宗鑑も守りにくいはずだ。走りながら粉雪に囲まれた杜国と嵐雪を見る。雪の壁の向こうに薄っすらと見える二人は、宿り手の面影を消して、完全に本来の自分の姿になっている。全力を出し切る為に宿り手への負担をも省みない二人に、この戦いに懸けた覚悟の大きさを去来は感じた。
「杜国殿、嵐雪殿、今しばらく踏ん張ってくだされ」
去来も己の体に力を込めると、ライの面影を消して己自身へと姿を変えた。更に右手を掲げ意識を集中する。その手が輝き出す。
「むっ!」
宗鑑はすぐに気づくと、去来に向かって短冊を持った右手を突き出した。その手から雪混じりの風が吹き出す。去来はすぐさま奪霊の業を中断し、季の詞を発した。
「北風!」
去来から吹き出た風が宗鑑の風を吹き返す。一方、二度目の奪霊を発しようとした許六もまた、宗鑑の短冊詠によってその中断を余儀なくされていた。
「奪霊では時間がかかりすぎるか」
ある程度力を溜めなければ奪霊は発動しない。しかし短冊詠は短冊をかざすだけで発動する。いくら二人掛かりでも、これでは容易に宗鑑に防がれてしまう。
「許六殿、こうなっては奪霊は無理だ。武の力にて直接宗鑑の命を奪うよりあるまい」
短冊詠は声に出して詠む発句や季の詞より力は劣る。それでも宗鑑ほどの俳諧師ならば、去来や許六の言霊の業を遥かに凌ぐ力がある。詞の遣り取りより武力で挑んだほうが勝ち目はあるはず、それが去来の読みだった。
「おう、その言葉、待っておりましたぞ、去来殿」
水を得た魚の如く顔を輝かせて許六は肩衣を脱ぎ捨てると季の詞を発した。その手に鎌十文字槍が現れる。同時に去来も発句を詠む。その装束が射手に変わる。二人の変化を見た宗鑑は鼻で笑った。
「ふっ、吟詠境で武人が俳諧師に勝てるとでも思っておるのか」
「貴様如き、槍一本で十分」
居丈高に槍を構える許六に宗鑑が左手を突き出した。と、許六の足元から影法師がむくりと起き上がった。許六の姿を写し取った真っ黒な影法師は、本体と同じくその手に槍を持っている。
「わしが手を煩わすまでもない。己の影とでも戦うのだな」
影法師は起き上がるや、問答無用で許六に槍を突き出した。それを受けて槍を突き返す許六。両者の戦いは互角である。技量も力も同等の影法師と戦うのは、己自身を相手にするのと同じだ。さすがの許六も苦戦を強いられている。
「許六殿、助太刀いたすぞ」
去来は弓に三本の矢を当てがうと「秋風」の季の詞と共に放った。三本の矢は去来の意志の籠もった風に乗って軌道を変え、頭上と左右から宗鑑を襲う。
「うるさい蝿が飛んでおるな」
宗鑑の右手が天に向けられた。その手が風を呼び寄せたかのように、宗鑑の足元から砂煙が舞い上がった。つむじ風に乗って無数の砂が宗鑑の体を包み、去来の放った矢を弾き返す。
「防御詠は嵐雪だけのものではない。お主たちの武の力など砂と影にも劣っておるわ」
宗鑑は守るだけでよかった。無詞の業も防御詠も長くは続かぬ。二人の力が尽きるまで、ただ待っているだけでよいのだ。旋回する砂の中から己の影と戦う許六を眺めて、宗鑑は余裕の笑みを浮かべた。
去来は既に三度目の矢を弓に当てていた。しかし一度目の矢に続いて二度目の矢も砂の幕によって弾かれたのを見て、矢と弓を捨てた。奪霊も武の力も及ばぬとなれば、師の発句の力を使うしかない。
「猿蓑!」
去来の声と共に和本が現れた。素早く頁をめくり発句を詠む。
「日の道や葵傾くさつき雨!」
晴れ渡っていた吟詠境に雲が広がり始めた。昼の日差しが翳るにつれて、許六と戦っていた影法師の姿は薄くなり、やがて一面の黒雲から雨が降り出して日差しが完全になくなると、闇に飲まれる烏のようにその姿は消えてしまった。同時に宗鑑を取り巻いていた砂煙も雨に濡れ、打ち水された砂塵の如く鎮められた。
発句一つで己の二つの業を打ち消された宗鑑は顔をしかめた。既に雨はやみ雲も切れ始めているが、去来程度の俳諧師にしては大業すぎる発句である。怪訝な心持ちで去来に目を遣れば、力なく顔を下に向け肩で息をしている。その手に和書があるのを見て、宗鑑はようやく合点がいった。芭蕉七部集の存在は、既に耳に入っていたのである。
「なるほど書詠か。となれば宗房の発句でも詠んだのだろうな。だが去来よ、身分不相応に過ぎたのではないか。相当な力を使わされたようじゃのう」
宗鑑の言葉通りだった。書詠ではその発句の元の詠み手と同じ威力を発揮できるが、その為に使われる力の大きさも同じ。芭蕉に比べて言霊の力が圧倒的に小さい去来にとっては、かなりの負担であった。
去来は返事をしなかった、できなかった。これ程までに芭蕉の書詠が身に堪えるとは思ってもみなかったのだ。許六に目を遣れば、休むことなく影法師と打ち合って疲れたのだろう、片膝を着いて息を乱している。
「情けないのう、二人共。それでよくこの宗鑑に立ち向かう気になったものだな」
挑発的な宗鑑の言葉が二人を奮い立たせた。許六は再び槍を構え、去来は和書を懐に入れて腰の刀を抜いた。その姿を愉快そうに眺める宗鑑は心の中でつぶやいた。どれ、少し遊んでやるとするか。
宗鑑の両手が去来と許六に向けられた。その手から伸びた朝顔と夕顔の蔓が、二人の体に巻きつき絞めあげる。季の詞を発する間もなく二人の体は持ち上げられ、そのまま地に叩きつけられた。起き上がり蔓を切ろうとする手に別の蔓が絡みつく。季の詞を発する為の僅かな集中さえもできぬ程に、巻きついた蔓は二人の体を翻弄し続けた。
去来は圧倒的な力の差を感じていた。宗鑑はあの戦国の世をたったひとりで多くの言霊と競い合い、芭蕉に封じられるまで一度も破れたことがなかったのだ。やはり我らとは格が違う……去来の心にそんな弱気の風が吹き始めた時、吟詠境に大音声が響き渡った。
「春嵐!」
砂煙を巻き上げて竜巻の如き暴風が宗鑑に襲い掛かった。許六と去来の為に両手を塞がれている宗鑑にそれを防ぐ術はない。
「うおぉ!」
暴風の直撃を受けて宗鑑の体は勢いよく吹き飛ばされ、背後の巨木に打ちつけられた。同時に去来と許六に巻きついていた蔓が消えた。
「もう一本、腕が足らなんだのう、宗鑑」
右胸を押さえた其角が大声を出す。怪我を押して季の詞を発したのだ。手負いの状態での業ゆえ、本来の力は発揮できなかったが、それでも宗鑑はすぐには起き上がれなかった。其角は更に大声を出す。
「去来殿、許六殿、今だ。宗鑑の言霊の力、奪い尽くさん!」
三人の右手が輝き始めた。宗鑑は体をさすりながら身を起こし顔を上げた。遠くに其角、離れて許六、そして去来。各々の右手の輝きが増していく。
「奪霊!」
同時に叫んだ三人の右手から光の玉が放たれた。すぐさま懐に手を入れ短冊を取り両手を光に向ける。だが、向かってきているのは三つ。奪霊の如き大業は一枚の短冊で一つを防ぐのがやっと、全てを同時に防ぐのは不可能だ。
宗鑑の顔に煩悶の色が浮かんだ。遊び心を出した自分を悔いると共に、最早これまでかと諦めかけた……と、その時、嵐雪の体がふらりと揺らぐと、そのまま音もなく地に崩れ落ちた。二人を取り巻いていた粉雪が消える。宗鑑は間髪入れず左手を杜国に向けた。そこから放たれた寒風が杜国の体を地に転がす。途端に宗鑑は縛りから解放された己を感じた。
「解けたわ!」
今度は宗鑑の大音声が吟詠境に響き渡る。
「氷壁!」
宗鑑を取り巻くように、巨大な氷壁が地から立ち上がった。三人が放った奪霊の光が激突すると、氷壁は明るく輝き、光の玉と共に消滅した。
「惜しかったな、蕉門の方々よ。頼みの二人は力尽きたようだ」
「くっ、あと一歩のところで」
去来も其角も許六も勝ちを確信していただけに、落胆もまた大きかった。奪霊を放った後の疲労感と相まって、三人の意気は明らかに落ちていた。その隙を突く様に宗鑑の季の詞が発せられた。
「氷雨!」
まるで宗鑑の体が炸裂したかの様に無数の氷塊が周囲に弾け飛んだ。季の詞を発する間もなく三人の体は氷塊に打ちつけられ、同時に巻き起こった突風により宙に舞い上げられると、氷塊の連打を浴びながら地に落ちた。
呻き声を上げて身を起こす去来。既に己自身の姿を保つだけの力もなく、宿り手の面影が戻っている。氷塊による打撲で体中が痛む、特に右手の痛みが激しい。見ると親指と人差し指の間が裂けていた。
「これでは刀は持てぬな」
遠くに許六が倒れている。気を失って倒れたままの許六が握り締める槍はその柄が折られていた。生垣に体を持たれかけさせた其角の着物ははだけ、晒の右胸の部分を血で赤く染めて、やはり気を失っていた。
「まさか無詞の業まで使えるとはな」
地に伏したままの杜国に歩み寄る宗鑑。その着物は乱れ、顔には疲労の色が浮かんでいるが、眼光は全く衰えていない。
「一門を率いるだけの力を持ちながら、惜しい男よ」
杜国の体が動いた。手足に力を込め、ふらつきながら立ち上がると、目の前の宗鑑に向かい合った。杜国の眼光もまた衰えてはいない。
「ほう、立ち上がれるだけの力をもう回復したか。お主と宿り手の共感は相当強いようだな」
「私には勿体無い、良き宿り手でした」
疲れ切った杜国を見る宗鑑の右手が光り出した。
「わしとここまで遣り合ったお主にはもう何の未練もなかろう。その言霊の力、全てわしが奪い取ってやる」
「杜国殿をお助けせねば」
去来は左手に持った刀を杖代わりにして立ち上がると、顔の前に右手をかざした。宗鑑が去来に左手を向け「無季!」を発す。季の詞を封じられた去来はそれでも諦めず二人に向かって歩き出した。宗鑑の右手の光は一層強くなる。
「宗鑑殿、感謝いたします。この杜国、あなたと再会してようやく蕉風の目指すものが見えたのですから」
「戯言はそれくらいにしておけ、杜国よ」
宗鑑は右手を杜国に向け、怒声に近い声をあげた。
「奪霊!」
言葉と共に放たれた右手の光が杜国の体を覆う。その光の中で杜国は笑みを浮かべた。
「これで我が体には他の詞の業は使えませんね」
「何!」
杜国は宗鑑の両腕をしっかり掴むと、挑むように言った。
「宗鑑殿、杜国の冥土への旅の土産に、あなたの繋離詠の業、いただいていきます」
「うぬっ」
唸り声を上げて宗鑑は手を振りほどこうとするも、杜国の両手はしっかりと握り締められて動くこともできない。杜国はその姿勢のまま、こちらに歩いてくる去来に顔を向けて言った。
「去来殿、お約束、果たせそうにありません。お許しください」
「杜国殿、何をするつもりだ」
既に体の影が淡くなり始めた杜国は、天を仰ぐと発句を詠んだ。
「師のかげに星落ちにけり伊良湖浜」
昼の日差しが翳り始めた。見る間に辺りは闇に包まれ、暗くなった空には星と月が輝き始めている。それはかつて師と共に見上げた懐かしい伊良湖の夜空であった。
杜国は思い出していた。訪ねてきてくれた師の心遣いを素直に喜べたあの頃の自分。宗鑑の業に魅了され身を落とす前の蕉門としての自分。郷愁を帯びた思い出と共に、今、杜国は、己があの時の杜国に戻ったのを感じた。
「芭蕉翁、一目お会いしとうございました」
杜国は目を閉じ最期の季の詞を発した。
「星落つ!」
全天の星が落ち始めた。どの星も例外なく全て落ちていく。そしてその中の星が二つ、宗鑑目掛けて落ちてきた。
「ぐぉ!」
落ちてきたのは星と言うより二つの眩しい光だった。その光は吟詠境全体を目が眩むばかりに輝かせた。去来は目を閉じた。まぶたの裏までも透いてみせる激しい光。
しかしそれは次第に弱まっていく。光が消えたのを感じた去来が目を開けると、そこにはもう杜国の姿はなかった。
「杜国め。己の言霊と引き換えに、我が繋離詠の業を奪っていくとは……」
呆然として立ち尽くす宗鑑に去来は言った。
「繋離詠の業を奪われては、宗鑑殿の望み、最早叶いませぬ。これ以上宿り手に留まることに意味はないはず。お願い申す、宿り手から離れてくだされ」
去来は力なくその場に崩れると両手を着いた。杜国を犠牲にし、四人の門人の力を以ってしても、この程度の事しか出来ぬ己が情けなかった。だが、今はこうして宗鑑の情けに縋るより他に道は見えなかった。
「去来よ、見苦しいのう。おぬし達、太平の世に生きた俳諧師は戦い抜くことを知らぬな。どうやら天は余程わしに味方したいと見える」
宗鑑が歩き出した。その先には意識を取り戻して起き上がろうとしている嵐雪が居る。
「この座に嵐雪を連れて来たのがお主らの運の尽きよ」
「嵐雪殿、挙句だ、吟詠境を閉じよ!」
叫ぶと同時に両手を組み、季の詞で宗鑑の行く手を阻もうとする去来。だがそれは宗鑑の業によって中断を余儀なくされた。
「現し身!」
たちまちのうちに宿り手の姿になる四人。ショウの姿に戻った宗鑑は制服のポケットから短冊を取り出すと、同じく制服姿の嵐雪の体を抱え上げた。
「もっと早く現し身を使っておれば、無駄な争いをせずともよかったな。すまぬのう」
口を開いて挙句を詠もうとする嵐雪の首に、宗鑑は短冊を突きつける。たちまちそれは刃物のように鋭く尖った氷柱に変わった。
「嵐雪よ、一言でも口を利けば、この氷柱がお主の首を掻き切るぞ」
「宗鑑殿、何を」
「ふっ、繋離詠の業を返して貰うのよ。嵐雪の繋離詠の業はわしが与えたもの。再びわしの物にして何が悪い。返す業は先程杜国殿に教えていただいたしのう」
「くっ!」
「おっと去来、お主も下手な手出しはせぬ方がよいぞ。嵐雪の宿り手を死なせたくはなかろう」
宗鑑は右手の氷柱を嵐雪の首に当てたまま、左手を高く天に向け、力をそこに集中させた。元通りに星が輝き始めた夜空に向けて宗鑑は季の詞を発す。
「流星!」
ひとつの大きな流れ星が空より落ちてきた。嵐雪と宗鑑の体が光に包まれる。去来は目を閉じ、再び目を開けると、宗鑑の足元に嵐雪が倒れていた。
「杜国よ、無駄死にだったな。繋離詠の業、再び我が物となったわ」
去来は疲れた体を刀から変わった左手の木刀に預け、嵐雪に向かって歩き始めた。現し身を詠まれた以上、一刻も早くこの吟詠境を閉じるしかない。嵐雪に挙句を詠ませるより他に何の手立てもない。そんな去来の胸の内を悟ったのか、宗鑑はにやりと笑いながら言う。
「わしも些か疲れた。この吟詠境もそろそろ閉じたいところだが、嵐雪には挙句を詠む元気はないとみえる。仕方ない、わしが言霊の力を奪い尽くしてやろう。座を開いた言霊が消えれば吟詠境も閉じる、良き考えじゃろう」
宗鑑は氷柱を捨てるとその右手に意識を集め始めた。奪霊の業を使うつもりなのだ。去来は唇を噛み締めて天を仰いだ。何も出来ぬ。現し身を詠まれた今となっては何も……許せよ嵐雪。
その時、去来の目に夜空を横切る微かな光が見えた。あれは……その正体に気づいた去来は口に指を当て吹いた。
「ピィー」
「むっ」
甲高い口笛の音を耳にして、後ろを振り向いた宗鑑の顔目掛けて、一羽の鷹が舞い降りた。吟詠境を開くと共に空を舞い、かつてここに来た去来をいきなり襲ったあの鷹である。
「うぉ!」
鷹は鋭い嘴と爪で宗鑑の顔を執拗に狙う。宗鑑は地に倒され両手で鷹を払おうとするが、鷹はけたたましく鳴き声を上げながら攻撃の手を緩めない。その隙に去来は嵐雪の体を助け起こした。
「嵐雪殿、しっかりしろ。挙句だ、挙句を詠め」
去来に頬を叩かれて意識を取り戻した嵐雪は、切れ切れの声で挙句を詠む。
「嵐雪、挙句を、申す。師のかげ照らせ、我が星月夜」
夜空の月と星が明るく吟詠境を照らし出した。だがそれはほんの束の間でしかなかった。星も月もその輝きを失い、やがて辺りは深い闇に包まれていく。その吟詠境に一羽の鷹の鳴き声だけが聞こえていた。失った主を探し求めるかのような悲しみに満ちた鷹の鳴き声だけが……
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