母の墓


 その日の夕食は父と取った。今日の午前中まで頭の中の大部分を占めていた「国語の追試とその後の結果について」という項目はすっかり鳴りを潜め、現在は「最後の片鱗と丈草について」という極めて難解な項目が僕の頭を席捲している。

 食事中も上の空な僕に「一回の追試で、そうくよくよするな」と父が励ましの言葉を掛けてくれる。ポイントがずれてはいるけれど、そんな父の心遣いは素直に嬉しい。平日はほとんど顔を合わせない父と会話をするのは土日、しかもこうして食事を取る時くらいだ。やはり思い切って聞いてみよう、僕は箸を置いた。


「ね、父さん、母さんのことについて話してくれないかな」

「母さんのこと」

「うん、どんな人だったかとか、どうして一緒になったかとか、それから、どんな風に亡くなったか、とか」


 父は黙っていた。母の話題が父を苦しめるのは小さい頃からわかっていた。だから今まで聞かない様にしていたのだ。けれどもいつまでもそんな状態じゃいけないとも思う。それに最近は父も母の思い出を話し始めてきている。この話題の封印を解くいい機会かもしれない。しばらく黙っていた父はやがてポツリポツリと話し始めた。


「母さんか。これまでお前には余り話してやらなかったからな。小さい頃に亡くなったから、ほとんど記憶がないだろう。母さんが病気で亡くなったのは覚えているか?」

「うん、悲しくて泣いたことも覚えている」

「母さんは子供の頃から体が弱かったそうだ。一人娘だった母さんの両親は結婚に反対だったし、お前を産むのも反対だった。けれども母さんはそんな反対をことごとく撥ね退けた。向こうの両親からは、随分親不孝な娘に見えただろうな。お前が産まれる時も、産まれた後も、父さんはできるだけの協力はした。しかし、母さんの病気が重くなり、付き添いの看護が欠かせなくなると、仕事との板ばさみで、やむを得ず、母さんを実家に帰した。そしてそのまま亡くなった。父さんは死に目にも会えなかった。葬式に出ただけで、それ以来、母さんの実家と付き合いはない。お前を母さんの両親に会わせたこともない。父さんもまた親不孝な義理の息子と思われているだろう」


 母の話題を父が嫌っていた理由が何となくわかった。父の両親は早くに他界していたので、これまで祖父母に会うという経験は一度もなかった。母を不幸にしたのも、義理の両親の不幸も、そして僕の不幸さえ、その原因は自分自身にある、そんな想いを心に抱いて父は過ごしてきたのかも知れない。


「母さんの墓に一度だけ行ったことがある。大きな寺の墓地の片隅に小さな墓が立っていたよ。母さんの好きだったミカンが一つ供えられていた」

「そうなんだ」


 僕には母の思い出はほとんどなかった。写真も形見の品も父がほとんど整理してしまったらしく、母の面影すらはっきりと思い出せなかった。母の墓、それは今の僕が触れることのできる、たったひとつ残された母の想いのような気がした。


「ねえ、父さん、僕も墓参りに行ってもいいかな……」


 * * *


 翌日、日曜日の行楽地へ向かう電車に僕は乗っていた。母の墓のある都市は大きな川のほとりに古城が立ち、近くには大型の遊園地もある、ちょっとした観光地だった。

 僕は父からもらった小さな紙片をもう一度取り出した。寺の住所と地図、母の墓を示した墓地の見取り図。昨晩わざわざ父に書いてもらったのだ。


「すまなかったな、今まで墓参りにも連れて行ってやれなくて」


 昨晩の父の言葉が頭をよぎる。いや、むしろ母の話題にほとんど触れなかったからこそ、母の居ない悲しみを感じずに済んだのではないか、とも思う。既に母を恋しく思うような年齢ではない今だからこそ、こうして冷静に受け止められるのだろう。やがて電車は目的の駅に着いた。

 駅からはバスで数十分揺られ、降りてからしばらく歩くと、目的の寺が見えてきた。手前に川、背後に山が迫るその寺は難攻不落の山城のような佇まいをしている。

 石段の先にある立派な山門をくぐって中へ入る。近くを流れる大きな川音が聞こえてきそうなほど静かな境内だ。休日とはいえ、観光名所でもない普通のお寺である、僕の他に人影はない。しばらく歩くと境内の外れに堀があり小橋が掛かっている。そこを渡ると墓地だった。

 父に貰った見取り図を頼りに探していくと、その墓はすぐに見つかった。母の旧姓が書かれた墓石。それほど古さを感じないので、母の為に新しく作られた物なのかも知れない。


「これが母さんの墓……」


 この中に母の遺骨が眠っている、そう思っても僕にはどれほどの感慨も湧いてはこなかった。義仲寺で芭蕉の墓を前にした時と同じように、故人の思い出が余りにも希薄すぎるせいだろう。花も線香も持参しなかった僕は墓の前にしゃがんで手を合わせた。

 誰が供えたのか、花立てには緑の葉を付けた一輪の白い花がこちらを見ていた。その花を眺めながら母と丈草を想う。何か手掛かりは掴めないだろうか、何か心に感じるもはないだろうか、そう思いながら、甘く爽やかな香りのするその花を、僕は眺め続けた。

 どれくらいそうしていただろうか。背後から声が聞こえた。


「おや、先客がおられましたか」


 振り向けば、そこに立っているのは年取ったお坊さんだった。手には供えられているのと同じ白い花を持っている。


「あなたがこの花を?」

 僕が尋ねると、

「はい、私はこの寺の住職です」

 と答える。


「どうして住職さんが僕の母のお墓にお参りを?」

 と再び問うと、少し驚いた顔を見せながら、

「そうですか、あなたがあの子の息子さんですか」

 と言い、僕の横にしゃがんで花を差し替える。


「その花は?」

「これは蜜柑の花です。蜜柑の好きな子でしたから」


 不思議だった、どうして寺の住職が僕の母をこれほど気に掛けてくれるのだろう。住職は僕の顔を見ると

「言われてみれば、あの子の面影がありますね」

 と笑顔になる。


「あの、住職さんは僕の母とどんな関係だったのですか。わざわざお墓参りをする理由が何かあるのですか?」


 僕は思い切って尋ねてみた。住職は一瞬当惑した表情を浮かべた。が、すぐに元の温和な顔に戻り、

「疑問に思われるのも無理はないですね。何からお話しましょうか」

 そう言いながら差し替えた白い花を眺めた。まるでその花に何か問うてでもいるかのように。


 墓地を取り囲む木々の葉がざわざわと鳴った。初夏の風に吹かれて、白い花は頷くように揺れる。甘い香りが僕らの周囲に漂う。住職は口を開いた。


「こんな話をしてもあなたには理解できないかもしれませんが、私もこの子も自分の中に一人の俳人を住まわせていたのです」

「言霊ですね」


 即答した僕の言葉はさすがに住職を驚かせたようだ。


「ご存知でしたか」

「はい、僕にも宿っているんです」

「そうでしたか。それならば話が早い。残念ながら私に宿っていた言霊はこの子が生きているうちに消えてしまいました。ですから、今の私には言霊の記憶はほとんどありません。何の言霊だったかさえ覚えていないのです」


 言霊が消えればその記憶も消える。文芸部の部長や凡兆を宿していた老医師と同じく、この住職もまた、同じ宿命から逃れることは出来なかったのだろう。


「けれども私と私の言霊は数十年も共に過ごしてきました。その間に私の中に蓄積された記憶は、忘れようとしても忘れられるものではありません。この子に言霊が宿っているのを知って、何度か一緒に吟詠境にも行っていたようです。この子が結婚してここを離れてからは、会うことはありませんでしたが、病がひどくなりこちらに戻って来た時、ほとんど寝たきりになってしまったあの子の枕元で、一度だけ吟詠境に行ったように覚えています。そしてその時、私の言霊は消えたのです。あの子が亡くなったのはそれから間もなくのことでした。この墓にこの子の名が刻まれてから、私は毎日ここにやって来るようになりました。理由はわからないのですが、そうせねばならない義務のようなものを感じるのです。あるいは言霊同士が何か約束事でもしていたのかも知れませんね」


 住職はそこで一旦話を切ると、両手を合わせて目を閉じた。


「淋しさの底抜けて降るみぞれかな」

「それは、丈草の句」

「そう、この句を詠むのも日課になっています。この子が好きだった句のようですね。ほら、墓誌にも刻まれています」


 住職が指差した墓石の横には、戒名や没年を記した大理石の立派な墓誌が据えられている。数名が並ぶ最後の戒名が恐らく母なのだろう、そして、その横には文字が刻まれている、丈草の句だ。


「これは……」


 僕は感じた。腰を上げてその墓誌に近寄り、母の戒名に並ぶように刻まれている丈草の句を指で撫でた。確かに感じる、これは言霊だ。弱弱しくてその姿さえも見えてこないが、ここに刻まれた句には間違いなく言霊が宿っている。


「どうかしましたか」

「言霊を感じるんです、この文字に」

「墓誌の字に言霊を……」


 住職も腰を上げると僕の横に来て丈草の句を見詰めた。しかし、言霊を持たない住職に言霊が見えるはずもない。


「私には何も感じませんね。そもそも人ではなく、物を宿り手に選ぶ言霊があるでしょうか」

「物に宿った、いや物と同一化した言霊を僕は知っているんです。だから、この墓誌にだって宿っていても不思議じゃないはずです」


 住職は疑わしげに僕を見た。それから墓誌を見て、再び僕を見てそのまま黙り込む。何か考えているようだった。しばらくして住職はようやく口を開いた。


「そうですね、あなたの言う様にあり得る事なのかも知れません。言霊は本来言葉に宿るものです。俳諧師は宿り身の業を使って、人々の言葉の意識の総体の中にある自分の言葉に宿り、その中から宿り手を選んで、宿り手の意識の中にある自分の言葉に宿るのです。この墓誌の言葉にも宿れないわけではないでしょう、しかし」

 住職の表情が険しくなった。

「それでは言霊の力はすぐに尽きてしまいます。人に宿るのと違って、文字に宿ってしまっては、言葉に対する宿り手の共感から力を得ることができませんから」


 住職の説明を聞きながら、僕は刻まれている丈草の句を心の中でつぶやいていた。吟詠境に入れるかも知れないと思ったのだ。言霊の存在にほとんど気づかなかった、あの雨の日のモリでさえ吟詠境に入れたのだ。もし言霊が宿っているのなら、入れないはずがない。僕は何度も心の中でつぶやいた。だが、それに呼応してくれる言霊は居なかった。食い入る様に墓誌の句を見詰める僕に住職が穏やかに話す。


「あるいは、それはあなたのお母さんへの想いの反映に過ぎないのかも知れませんよ。形見の品に特別な感情を抱くのはよくあることです。それと同じではないのですか」


 僕には判断できなかった。何れにしても僕一人の力では何もできそうにないのだけは確かなようだ。僕は住職に礼を言った。


「母の話を聞かせていただけて嬉しかったです。ありがとうございました。それと、これからも母の墓をよろしくお願いします」

「いえ、私こそ、この子の息子に会わせてくれた今日の幸せに感謝したいくらいです。私が毎日ここへ足を運んでいたのは、もしかしたらあなたに会う為だったのかも知れませんね」


 その後、住職は僕を山門まで送ってくれた。僕は「必ずもう一度来ます」と言って、住職に別れを告げた。


 帰宅後、先輩の家へ行き今日の出来事を報告した。先輩はすぐにソノさんに連絡、ソノさんは直ちにコトとセツへ連絡、コトは即座にリクとモリに連絡し、翌日登校して来た時には、僕が日曜日に何をしたのか、父つぁん以外は全員知っている状態だった。更には次の土曜日に、みんなでそのお墓に行く段取りまで話し合われているようだった。この手際の良さには脱帽すると共に正直嬉しかった。



 次の日からソノさんの教育実習が始まった。最初の二週間は教室の後ろで授業の見学、残りの二週間は実際に教壇に立つというスケジュールだ。月曜日は丁度二時間目が国語の授業で、椅子に座って大人しく授業を聞いているソノさんは別人のようで可笑しかった。

 国語の追試は合格点だった。それを告げると、モリはさっそくお願い事を持ちかけてきた。


「ショウ君と一緒に一日遊園地で遊びたい」


 と、まるで休日どこにも遊びに連れて行ってもらえない子供みたいなことを言う。


「あら、じゃあ土曜日がいいじゃない。ついでに寄っていきましょう」


 放課後、用もないのに僕らと一緒に図書室に居るソノさんが提案した。母の墓のある都市には大きな遊園地やテーマパークがある。墓に行く前にそこで楽しもうという目論見らしい。それに、モリが行くとなればセツも必ず来るだろう。もし本当に母の墓誌に丈草の言霊が宿っているのなら、言霊を持つ者が一人でも多い方がいいとのソノさんの意見だ。


 やがて土曜日が近づくにつれ、お墓に行くよりも遊園地に遊びに行くことがメインな雰囲気になり始めた。コトやモリは昼食時には、土曜日に持参するお弁当の相談や、日焼け対策やら、服装やら、そんな話ばかりしている。

 今回ばかりは父つぁんを同行させるつもりはなかった。ところが結局一緒に行くことになってしまった。先輩と父つぁんが賭けをして先輩が負けたからという理由だった。


「どんな賭けをしたんだよ」


 と、父つぁんに訊くと、得意げな答えが返ってきた。


「一分間に何回腹筋ができるか勝負したんだ。土曜の昼食を賭けてな」


 腹筋は大食いの先輩の唯一の弱点である。余分な腹肉が腹筋運動の障害となるからだ。父つぁんも良い所に目を付けたものだと感心した。


 セツは土曜日の打ち合わせと称して、毎日モリに会いに来ていた。中間試験が終わるまで会うのを我慢していた鬱憤が一気に爆発したかのような熱心さだ。モリの態度は相変わらず素っ気無いので一言二言喋ってすぐに帰るのだが、遊び人風な態度に反して、根は意外と純粋なのかもと思ったりもする。

 みんな浮かれていた。重石だった中間試験が終わって、すっかり解放された気分になっていたのだ。そんなこんなであっという間にその週は過ぎていき土曜日になった。


 今回は人数が多いので、ソノさんの車ではなく電車で現地集合という形である。珍しく先輩が寝坊をして、僕ら二人は予定よりひとつ遅い電車になってしまった。僕と先輩が遊園地の入り口に着いた時には、既に全員が揃っていた。まるで高校生みたいな格好のソノさんからは、いつものお言葉、

「ちょっとー、遅いよー」

 を聞かされてしまった。今回は本当に遅れてしまったので言い訳のしようもない。罰として二人で全員に缶飲料を一本ずつおごる罰を科せられてしまった。


 二人だけで楽しみたいというモリの希望に沿って、僕ら二人だけ別行動となった。モリは絶叫マシンが大好きらしく何度も繰り返し乗るので、僕は気分が悪くなってしまった。


 途中、ポップコーンを買った時に見知らぬお兄さんとぶつかって、互いに中身を地面にこぼしてしまった。向こうも僕もこぼしているのでどちらが悪い訳でもないのだろうが、向こうのお兄さんは「弁償しろ」と言ってくる。「それはおかしい」と僕が答えると、殴りかかってきそうな勢いだ。

 仕方ないので自分のポップコーンを相手の容器に入れてやろうかと思った時、突然、セツが現れた。


「そんな必要はありませんよ、ショウ君」

「なんだよ、お前。関係ない奴は引っ込んでろ」


 一瞬、これはセツが、モリにカッコイイシーンを見せる為に演じているお芝居じゃないのかと思ってしまった。漫画や小説では最早定番のアレである。そうなれば当然、あらかじめ打ち合わせをしておいた柄の悪いお兄さんを、セツがコテンパンに叩きのめしてメデタシメデタシになるのだが、現実はどうも違っていたようで、セツはお兄さんが右手に持っていた紙コップの飲料をタップリと顔面に浴びせられてしまった。どうやらお芝居ではなかったようだ。


「君、ポップコーンを弁償しろと言っておきながら、飲み物を惜しげもなくぶちまけるなんて、行動規範に矛盾を生じているじゃないか。恥ずかしくないのかい」

「うるさいな、おま、え……」


 柄の悪いお兄さんの声が急に尻つぼみになった。顔色も変わっている。何事かと後ろを振り向けば、体のでかい先輩とごつい体格の父つぁんがこちらを睨んで立っている。相手のお兄さんはそれ以上何も言うことなくどこかへ行ってしまった。


「まったく、最低な奴だな、あいつ」


 先輩はかなりご立腹のご様子だ。僕も相槌を打つ。


「そうですよね。せめて遊園地では多少のことには腹を立てずに楽しむべきですよね」

「うん、それもあるが、何より許せないのは故意にジュースをぶちまけたことだ。食べ物飲み物を粗末にする奴は許せない」


 先輩! 怒りの矛先はそっちですか。あのお兄さんがセツに紙コップの中身を浴びせなかったら、きっと助けに来てはくれなかったのだろう。さすが先輩、行動にブレがない。


「モリさん、ご無事でなによりでした。ところでショウ君と二人だけでは心許ないのではないですか。よろしかったら私がエスコートして差し上げますが」

「いいえ、結構です。それよりも、その顔、早く洗ってきてください。蟻にたかられても知りませんよ」


 癒し系のモリでもセツに対してだけはコトのように冷淡である。それでもセツはモリの言葉なら、その内容に関係なく何でも嬉しいようだ。顔をニコニコさせながらお手洗いへ歩いていった。


「あ~、もう、今日はサイコー!」


 振り向かなくても声を聞いただけで誰だかわかる。やれやれと思いながらそちらを見ると、カメラを構えたソノさんがこちらを狙っていた。その隣にコトとリクが冷めた目をして並んで立っている。どうやらこの六人はこっそりと僕らの後を付いて回っていたようだ。


「だって乗り物で遊ぶより、二人を見ていた方が面白いんだもん。それとセツちゃんの反応、たまらないわ」


 ソノさんの悪趣味ぶりはここでも健在であった。聞けばセツは、僕ら二人の後を追いながら、モリに対する僕の一挙一動に、「それじゃ男として失格」とか「もっと気を遣って、ショウ君」とか一々反応していたそうだ。本日のソノさんの真のお楽しみはこれだったに違いない。


 もうお昼が近かったので、そのまま無料休憩所に入って昼食を取ることにした。食べたのは、「私たちに任せてください」と自信満々に製作を引き受けていた、モリとコトの手作りお弁当。豪語しただけあって見事な出来だった。特に三色海苔巻き特大おにぎりは、陸海空の三種の具が埋め込まれた、絶品と呼ぶに相応しい代物で、毎日おにぎりを作ってマンネリ化していた僕にはいい刺激となった。

 他の六人が僕らの後を付いて回っているとわかった以上、二人だけの行動にあまり意味はない。結局午後からは八人一緒に遊園地を楽しんだ。こんなにはしゃぐのは本当に久し振りだった。みんなの明るい顔や声が僕の心を更に明るくしてくれた。このまま閉園まで遊びたい、だが、今日の本当の目的は遊園地ではないのだ。三時のおやつを食べて僕はみんなに提案した。


「母の墓のある寺へはここから少し時間が掛かる。ちょっと早いけどこの辺で遊園地を切り上げ、遅くなる前に用事を済ませてしまおう。時間が余ったらまた別の場所で楽しめばいいよ」


 僕の意見に異を唱える者は居なかった。僕らは名残を惜しみながら遊園地を後にして、母の墓のある寺へ向かった。

 住職に挨拶をした後、みんなで墓地へ行く。さすがに遊園地での高揚した気分は収まり、しんみりとした雰囲気になった。母の墓に着き、墓石の横に据えられた墓誌を僕が指差す。ソノさんがその前にしゃがんで、刻まれた丈草の発句を指でなぞった。


「居るわね、間違いなく居るわ、でも」

 ソノさんは、立ったまま墓誌を見ているセツを見上げた。

「セツちゃん、どう思う」

「弱すぎますね」


 セツは何の迷いもなくそう言った。


「弱すぎるって?」


 僕が訊くと、セツは淡々と説明する。


「吟詠境に入るにはある程度の力の強さが必要なのですよ。木を燃やそうとして火を近づけても、発火温度に達しなければ点火しません。それと同じで、力が弱すぎると発句を詠んでも吟詠境には入れないのです。そして、この言霊は入れるほどの力を持っていません」

「僕ら全員が力を合わせても、それでもダメなの?」

「残念だけど、セツちゃんの言う通りよ」

 ソノさんが暗い顔で立ち上がった。

「どんなに他の言霊の力が強くても、入れる力を持たない言霊は入れない。あの小柄がそうだったでしょう。ライちゃんの生命力を取り込んで、ようやく入れるようになった。でもこの言霊はそんな業を持っていない。丈草かどうかさえも定かでないこの状況では、消滅してしまうのも時間の問題だわ」

「とんだ骨折り損でしたね。それから念の為に言っておきます。これは丈草です。間違いありません」


 セツの言葉が冷たく響く。僕らには姿も見えない弱々しい言霊でも、セツの目にはそれが誰かはっきり見えているのだ。そして、ここに居るのが丈草だと聞かされて僕の感情は高まった。絶対に諦められない。丈草が居るんだ。このまま見捨てることなんてできっこない。


「丈草だったら、尚更放ってなんかおけないじゃないか。芭蕉の言霊の片鱗はどうなるんだい。丈草の言霊が消えてしまったら」

「言霊が消えれば預けられていた片鱗も消えます。残念ですが」


 まるでよそ事のようなセツの言い方に、思わず語気が強くなる。


「片鱗が消えれば芭蕉は姿を現せない。僕はいつまでもショウのままだ!」

「いいじゃないですか、それでも。片鱗は芭蕉が作り出した物。消えたところで芭蕉が存在してさえいれば幾らでも作り出せます。それにね、ショウ君。芭蕉が姿を現せないのは、あなたの宿り手としての未熟さもあるのですよ。知識も共感力も豊かな宿り手ならば、片鱗なぞ集めなくても、宿り手の体に負担を与えることなく、姿を現せるのです。私やソノさんのようにね」

「そんな、セツ……」


 反論できなかった。僕の未熟さ、それは僕自身が一番良く知っている。これまで会った言霊の宿り手は常に優秀な人間ばかりだった。あの牧童も、発句も季の詞も使えぬ故に、肉体において優秀な父つぁんを選んだ。だが、僕には宿り手としての優秀さは微塵もない。もし僕が宿り手としてふさわしい人間だったら、芭蕉は最初からその姿を現して、片鱗や門人を探していたのかも知れない。こんな努力をしなくて済んだのかも知れない……僕はもう何も言えなかった。大きな徒労感が体全体を包んでいくような気がした。


「これ以上ここに居ても仕方ないですし、そろそろ帰りますか」

「待って」

 歩き出そうとするセツをコトが引き止めた。

「力が足りないなら与えればいいのよ」

「与える? コトさん、何を言っているのですか。吟詠境ならまだしも現実の世界でそんな……」

「そうよ、その手があったじゃない」


 ソノさんが、まるでセツの口を封じようとでもするかのように、思いっ切り両手を打ち鳴らした。


「やだ、私ったら、すっかりセツちゃんの諦めムードに酔わされちゃっていたわ。諦めるのはまだ早いわよ、ショウちゃん」


 セツの眼鏡の奥で両目が光った。何かを思い出したかのように頷くと、今度は独り言のように話し出す。


「そういう事ですか。確かにできるかも知れませんね。でもかなり難しいでしょう。力を奪う業はほとんどの言霊が持っていますが、力を与える業を持つ言霊は滅多に居ません。十哲の中でもその業を持つ俳諧師は丈草だけ。芭蕉も勿論持ってはいますが……」

「そうよ、だからショウ君にやってもらうのよ」


 突然のコトの提案。そしてその断固とした口調は、むしろ僕を弱気にさせてしまった。


「いや、でも僕はそんな業は知らないし、そもそも吟詠境に行けないんだから無理なんじゃ」

「業を使うんじゃないわ。宿り手が言霊に力を与えるのと同じ、共感することで力を与えるのよ。蕉門の言霊の俳諧師たちは全て芭蕉から言霊の業を貰った、つまり全ての言霊は芭蕉と繋がれているのよ。宿り手と言霊が繋がれているのと同じようにね。だからショウ君なら共感することで力を与えられるはず。この句が好きだったのも、言霊を宿していたのもあなたのお母さんでしょう。共感の力はショウ君が一番強いはずよ。ね、ショウ君、この句を心に感じて。そしてこの句に共感してあげて。そうすればあなたの力がこの言霊を蘇らせるはず」

「僕に、そんな事……」

「できるわ、大丈夫、きっとできる」


 コトの自信に満ちた言葉は僕の迷いを吹き払った。僕は墓誌の前にしゃがみ、冷たく滑らかな石肌に手を触れると、その句を詠んだ。


 淋しさの底抜けて降るみぞれかな……


 底が抜けるほどの淋しさ、それは僕には想像もできなかった。生きているうちに次第に募っていく淋しさ、その重みに耐え切れなくなった時、人の心はどうなるのだろう。吹雪でも粉雪でもなく丈草の心はみぞれだった。

 目の前に母の面影が浮かんだ。涙を溜めて微笑む母の顔。娘としても妻としても母としても満足に生きられなかった母は淋しかったことだろう。

 そしてそれは丈草も同じだった。武士の家に生まれながら、刀を持てぬよう自ら己の手を傷つけて家督を譲り、出家しても禅僧として悟りきれなかった丈草。彼もまた母の様にその目に涙を溜めていたのだろう。

 そう、僕らは結局、泣きながら諦めるしかないのだ。強者の如く荒れる吹雪にもなれず、聖人の如く静かな粉雪にもなれず、僕ら凡人はみぞれのような冷たい涙を頬に感じながら、淋しさに降られていくしかないのだ。

 目の前の母の姿がいつの間にか一人の僧の姿に変わっていた。古びた僧衣に身をまとい、目を閉じて瞑想している男の姿……誰かが僕の肩に手を置いた。コトだった。


「やったわね、ショウ君」

「これは驚きました」

「ショウ先輩もやる時はやるんですね」

「やってくれると思っていたぜ、ショウ」

「間違いなく丈草だわ。ショウちゃん、お見事」


 僕は立ち上がった。できたのだ。今はもう墓誌の句の中に言霊の姿を見ることもできる。これで吟詠境で丈草に会える。


「こうなったら早くした方がいいわ。あたしが発句を詠む。みんな行くわよ、準備はいい」

「おう、バッチリだ。父つぁん、モリゾウ、みんなが行っている間、よろしく頼むぜ」


 ソノさんと先輩は俄然元気になっている。僕ら六人は狭い墓所の中、墓誌を囲むように身を寄せ合って座った。ソノさんが発句を詠む。丈草の姿が一際大きくなったと思うと、吟詠境はもう開いていた。

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