揺れた邂逅


「いってえ!」


 大きな叫び声で我に返った。地面に座り込んだ先輩が、顔をしかめて左手に息を吹きかけている。その左手は甲が擦りむけて血が滲んでいた。


「おい、リクっち。どんな遣り方をしたらこうなるんだよ。血が出てるじゃないか。しかも甲に付いてるの、これ靴の跡だろ。お前、踏んだな」

「いや、だって、ライ先輩があんまり強く握っているから取れなくて。下手に力を入れて小柄を壊したら元も子もないし……」

「だからって、お前、手加減ってものがあるだろ」


 バツが悪そうに俯くリク。どうやら小柄を取り上げるために、相当手荒な真似をしたようだ。まあ、先輩は左手でもリンゴを潰すくらいの握力だから、本気で握られればリクじゃなく僕だって簡単には取り上げられないだろう。むしろ、踏みつけてまで小柄を奪い取ったリクには努力賞をあげたいくらいだ。


「でも、怪我をさせたことは謝ります。ごめんなさい、ライ先輩」


 普段は生意気だが、自分に非があれば素直に認めて謝罪するのがリクという女の子だ。深々と頭を下げるリク。その頭をポンポンと叩く手、ソノさんと同じ仕草をしたのはセツだった。


「大目に見てあげてください、ライさん。リクさんを取り上げ役に選んだのはライさんなのですよ」

「そうそう、セツちゃんの言う通りよ。それに縫うくらいの怪我をしたトツちゃんに比べれば、そんな傷、カワイイものじゃない。舐めとけば治るわよ。あ、あたしが舐めてあげようか」

「いや、ソノさん、それは勘弁してくれ。まあ、しかしリクの非力を考えなかったのは俺のせいだな。それにきちんと役目を果たしてくれたんだから、むしろ感謝すべきか」


 セツとソノさんの弁護を聞いて先輩も考えを改めたようだ。立ち上がってリクの頭を撫でる。


「怒ったりしてすまなかったな、リク。礼を言うよ」

「いえ、そんな」


 リクは照れくさそうに笑うと、ペンチに挟んだままの小柄を先輩に手渡した。


「もう素手で触っても大丈夫、のはずだな」


 先輩は直に手に取ると、それをじっくりと眺めた。僕らも側によって先輩の手の平の上に置かれた小柄を見る。錆だらけの古ぼけた小刀。それはもうそれだけの存在に過ぎなかった。


「完全に消えましたね」


 嵐雪と同じく安堵した声でつぶやくセツ。そして、それはセツが言い終わるのとほとんど同時だった。何の前触れも、何の気配も感じることなく、その声が聞こえてきた。


「一足、遅かったようじゃのう」


 この声! 聞き覚えがあるこの声。僕は桜の木の下を見た。そこにこの声の主は立っていた。これまで幾度か会った時と同じ格好、同じ表情で杖をついて立つ老人。


「ぶ、蕪村さん……」


 僕の声を聞いて、残り四人は全員桜の木に目を遣った。ソノさんが驚きの声を上げる。


「蕪村、確かに蕪村だわ!」

「久し振りじゃのう、其角よ。わしが姿を隠す前に、言霊の宿り手を通してお前さんに会って以来か」


 十哲の中で唯一人、封じられることなく、何度も宿り手を替えて数百年の時を過ごしてきた其角。多くの俳諧師、俳人たちと出会いを繰り返してきたに違いない其角。蕪村さんもまたそんな大勢の中の一人なのだろう。


「そして去来に許六と、嵐雪か。この短期間の内によくもこれだけ門人を集めたものじゃな」


 優しく愛想の良い蕪村さんの表情は以前と全く変わらない。しかし、今の僕にはその笑顔ですら不気味に思えて仕方がなかった。数百年間、己の肉体を保ち続け、しかも身の内に宗鑑の言霊を宿しているのかも知れない老人。それだけで人を超えた存在のように思えて仕方なかった。

 小柄を始末して和んでいた雰囲気は一変していた。今は胸が苦しくなるくらいに張り詰めた空気が、僕ら全員を取り巻いていた。ソノさんは無言で蕪村さんを見詰めている。ソノさんだけではない、僕も含めて全員が蕪村さんに全神経を集中させていた。宿っているかも知れない宗鑑の言霊、それを見出したいのだ。


「ライちゃん、どう」


 しばらくしてソノさんが口を開く。先輩は首を横に振った。続いてリク、そして僕も。やはり誰も蕪村さんに言霊は見出せない。目の前に居るのは杖をついた老人、外見上はそれ以外の何者でもなかった。


「いや、居る」


 セツだった。その顔を見ると、牛丼店で見た時とは比べ物にならないほど強烈な銀色の輝きが、二つの瞳から放たれている。セツには蕪村さんが生きていることも、宗鑑の言霊が宿っている可能性についても話していない。しかし何も言わずとも、この瞬間に全てを悟ってしまったのだろう。


「なるほど。言霊の俳諧師が存在するのなら、それを宿り手に選ばぬはずがない。蕪村、そなたは宗鑑の言霊の宿り手と成り果てたのか」


 それはもう嵐雪の口調だった。既にセツの体からは言霊の影が色濃く立ち上り始めている。蕪村さんの表情が変わった。


「ほう、さすがは蕉門随一の眼力の持ち主。わしの言霊隠しの業を見破るとはのう。だが、嵐雪よ。見えるのは優れた眼力の為だけではない。お前もまたかつての宗鑑の言霊の宿り手。その繋がりは完全には切れておらぬ!」


 語気を強めた蕪村さんが右手に持った杖を地に突き立てた。その杖の先が何かを突き破りでもしたかのように、おびただしい言霊の影が噴出した。そこから感じられるのは小柄と同じ気配、紛れも無く宗鑑の言霊。何より身震いするほどに恐ろしかったのは、影自体が赤い光を放っていたことだ。


「見破られた以上、隠しても仕方あるまいて。この蕪村、身の内に宗鑑の言霊を宿しておる」


 言霊の影が発する赤光は、心の中にまで射し込んでくるような強烈な輝きを放っていた。僕の横に立っていたセツや先輩が前に進んでいく。いや違う、動いているのは僕だ。無意識の内に後ずさりしていたのだ。


「宗鑑……」


 セツがつぶやく。その体は有り得ないほどの濃度で、嵐雪の言霊の影に覆われている。セツだけでなく、ソノさんも先輩もリクも、姿が見えなくなるほどに濃い言霊の影が体を覆っている。


「さて、どうされる蕉門の方々よ。ここで一戦交えるか!」

「言うまでもないわ、宗鑑!」


 セツが両手を組んだ。吟詠境を開くつもりなのか。いや、駄目だ。勝てない。絶対に勝てない。今の僕らの敵う相手ではない。セツも嵐雪もそれはわかっているはずだ。僕はセツの肩を掴んだ。


「セツ、駄目だ。今はまだその時じゃない」


 返事はなかった。僕の声はもうセツには届いていないのだ。焦りと共に得体の知れない感情が湧き上がってきた。どうあっても止めねばならないという激しい使命感で頭が一杯になると、僕の体は知らぬ間に動き、セツの前に立ち塞がった。


「嵐雪、そして蕉門の方々よ。落ち着かれよ! 今、ここで争う事はこの芭蕉が許さぬ!」


 僕のものではない声と言葉が僕の口から放たれた。瞬間、まるで雷にでも撃たれたかのように、前に並んだ四人の顔に緊張が走った。各々の言霊の影が薄くなっていく。不意に僕は自分の体が揺れるのを感じた。小さく、やがて大きく揺れるこの感覚……


「むっ、地震か。しかもこの揺れは……」


 背後で蕪村さんの声がした、振り向けば、そこにはもう宗鑑の言霊の影はなかった。一人の老人が杖をついて立っているだけだった。


「今の揺れで記憶が蘇ったようじゃのう、蕉門の方々よ。そろそろ封も解ける頃じゃな。宝永四年、其角と嵐雪の命を奪った富士の鳴動。十哲が揃わねば、あやつを再び封じることはできまい。宗鑑よりも手強い相手かも知れぬのう。ほっほっ」


 蕪村さんが笑いながらこちらにやって来た。みなぎっていた殺気は消え、いつも見せていた温和な表情に戻っている。


「お前さん、随分と成長したものじゃな。一喝で門人共を静まらせるとはのう。時に、わしが教えた凡兆の宿り手にはもう会われたのかな」

「あ、はい。あの後すぐに会いに行きました。でも凡兆さんは僕らに丸薬を渡して自ら消えてしまいました」


 僕の返事を聞いても蕪村さんに驚きの表情はない。そうなる事が最初からわかっていたかのようだ。


「残る片鱗は丈草だけか。わしはもう手助けをしてやれぬが、今のお前さんなら見つけるのに、さして時間はかからぬじゃろう。ところで去来の宿り手よ」

 いきなり話し掛けられて、とっさに背筋が伸びる先輩。

「その小柄、わしに譲ってはくれぬか。最早ただの古刀に過ぎぬ。わしが手にしたとて何の益にもならぬものじゃ」


 先輩はすぐには答えられなかった。同意を求める様に僕らを見回す。異議を唱える者は一人も居なかった。


「構いませんよ。俺たちもこれには苦い思い出しかありませんから。持っていても邪魔なだけですし」


 そう言うと、少し離れた場所に落ちている小箱を拾い上げ、小柄を中に入れて蕪村さんに渡した。


「ふむ、牧童の句か。あやつもまた哀れな言霊であった。手厚く葬ってやらねばな。感謝致しますぞ、去来の宿り手よ」


 蕪村さんがこちらに背を向けて歩き始めた。今日、ここに現れた目的は、きっとこの小柄だったのだろう。用がなくなればすぐに立ち去ろうとする態度も以前と全く変わらない。僕は思わずその背中に声を掛けた。


「待ってください、蕪村さん。ひとつ訊かせてください。あなたは僕らの敵なのですか、味方なのですか」


 蕪村さんの足が止まった。しかし、こちらを振り返らず、ただ声だけが聞こえてきた。


「そうじゃのう。お前さんたちの心を乱し、その身と言霊を危険に晒そうとしている点では敵かも知れぬ。じゃが、お前さんたちの望む結果に導こうとしている点では味方かも知れぬ。敵も味方も表裏一体。次に会う時どちらになるかは、神も仏もわかるまいて。ほっほっほ」


 蕪村さんは歩き出した。僕らはもう何も言わずその後ろ姿を眺めていた。桜の木を通り過ぎ、土手に上ってその姿が見えなくなると、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。


「あの木……」


 ソノさんが桜の木に近づいた。緑の葉が生い茂った枝を見上げたり、幹を両手でさすったりしている。


「ねえ、ショウちゃん、あなたが蕪村さんに会ったのはこれで何度目なの」

「えっと、四度目かな」

「出会った場所はいつもここ? ここ以外で会ったことはある?」

「そう言われてみると、ここでしか会ったことがないですね」


 ソノさんはまた桜の幹を撫で始めた。質問の意図がまるで見えない。四回とも同じ場所で会ったのは偶然が過ぎるような気もするが、それほど不思議でもないだろうとも思う。


「挙句の木、ですか。ソノさん」


 セツもまた桜の木に近づくと、その幹に手をやった。


「そうよ。最初に感じた特有の気配はそれだったのね。突然姿を現したのも、それで説明がつくわ」

「あの、挙句の木って」

「言霊の俳諧師にしか出来ない業だ。」


 今度は先輩が口を開いた。どうやら僕以外は全員わかっているらしい。


「吟詠境に入る場所と出る場所が違うんだ。発句から入り挙句から出る。蕪村にとってこの木が挙句になっているんだ。きっとこの桜には相当な想い入れがあって、気に入っているんだろうな。でなければ挙句にはできないからな」

「逆宿り身の業を使ってしまったら吟詠境に入れないはずなのに、この業は使えるんですね」

「リクちゃんの疑問はもっともね。多分、この業の吟詠境は特殊だからだと思うわ。半分現世に居るようなものだもの」


 全く話に付いていけない。茫然自失状態の僕を見て先輩が背中を叩く。


「いいんだよ、わかんなくても。この業だけはどんなに強い言霊を持った宿り手でも使えない。俺たちには無縁の業なんだから」


 業を理解できないのが辛いんじゃなくて、仲間外れになっているのが辛いんだよな。まあ、でも、蕪村さんは紛れもなく言霊の俳諧師で、宗鑑の宿り手であることははっきりした。それだけでも大きな前進と言えるだろう。


「こうなると、早く丈草の宿り手を見つけて、芭蕉の完全な姿を出現させたいですよね。ショウ先輩、何か今後の方針とかはないんですか」


 そう言ってこちらに向けられたリクの真剣な眼差し。圧倒されそうだ。どうしよう、言ってしまおうか。迷っているとセツがリクの頭をポンポンと叩いた。


「リクさん、別に芭蕉なんて必要ありませんよ。これだけ門人が居るんです。私たちだけで何とかなりますよ。ショウ君はショウ君のままでいいですよ」

「セツ、それはあんまりだよ。僕だけ文字通りの門外漢になっちゃうじゃないか」


 不平顔の僕を見てセツは笑っていた。しかしその目は笑ってはいない。眼鏡の奥で冷たく光る瞳。吟詠境で僕に向けられた嵐雪と同じだった。やはり彼は芭蕉の出現を望んではいない、そう感じずにはいられなかった。


「おい、ショウ。あの事だけど」


 先輩が呼び掛けてきた。何の用事かはわかっている。


「はい。やはり話した方がいいですか、先輩」

「ああ、宗鑑の所在が明らかになった以上、みんなの耳に入れておくべきだろう。ショウ、お前から話せよ」

「あら、何、ショウちゃん。まだ秘密にしていることがあるの、いけない子ね。隠しているモノは全てお姉さんの前に曝け出しなさい」


 ソノさんの変な言い方は無視して、取り敢えず僕は昨晩、父から聞かされたことをみんなに伝えた。母の好きだった句。父に伝えた言葉。そしてそれらから導き出した、亡くなった母に丈草が宿っていた可能性など。

 僕の話を聞き終わったソノさんは、少し考えた後、明るい声で言った。


「ショウちゃん、考えすぎね。お母さんが亡くなったからって、丈草の言霊も消えたとは言えないわよ。其角だって何人も宿り手を替えているんだもの。亡くなる前に別の人に宿っている可能性の方が高いわよ」

「確かに、その通りですね。不測の事態が起こりさえしなければ、ですけど」


 セツの眼鏡の奥で両目が冷たく光る。僕は不安に駆られながら訊いた。


「不測の事態って?」

「宿り手が命を失うと言霊自身も消えてしまうので、その前に言霊は宿り手から離れ、元の自分の言葉に還ります。ただし、それができない場合もあります。吟詠境に居る時です。吟詠境から出られないまま宿り手が命を失えば言霊は消えてしまう、そうですよね、ソノさん」

「え、ええ。その通りね。でもその可能性は低いでしょ」

「低くてもゼロではないでしょう。しかも丈草は己を捨ててまで他者に尽くす仁愛篤き男。簡単に宿り手を見捨てるとは思えません」

「待って、北枝は吟詠境に居ながら宿り手を離れたじゃないか。それが出来るんだったら……」

「あれは本来の宿り手でない者に無理やり宿っていたからよ。強引に結んでいた宿り手との絆。それは力を加えるのをやめれば自然と切れる。だから宿り手を離れられた。でも本来は逆。宿り手との絆は力を加えなくては切れない。吟詠境に居る言霊には、それは出来ないし、出来る業もない」


 ソノさんの解説もセツの言葉も、僕の不安を一層強くするだけだった。その不安が何の根拠もない空論、しかも最悪の事態を想定した仮説に過ぎないことは十分に承知していた。しかし、丈草の言霊が既に存在していない可能性は、それ程低くはないのかも知れないと思わずにはいられなかった。


「また暗くなっていますね、ショウ先輩」

 リクがこちらを睨みつけている。一番年少の癖に態度だけはでかい。

「そんなの悩んだって仕方ないでしょう。それにボクらの事、考えてみてください。お互いに出会おうなんて思っていましたか。まるで何かに引き寄せられるみたいに、こうして仲間が集まったんじゃないですか。それなら丈草だって同じですよ。会うべき運命の言霊ならば、いつかきっと会えますよ」

「リクっち……」


 まったく、いい所でいいセリフを吐く奴だ。普段の生意気な言葉は怒りを増幅させるが、こんな時の言葉は元気を増幅させてくれる。


「そうね。宗鑑の宿り手がわかって、あたしたち、ちょっと焦り気味だったかもね。リクちゃんの言うように、のんびりいくのも一つの手だわ。さあ、じゃあ今日はこれでお開きにしましょう。さすがのあたしも疲れちゃった」

「俺もだよ。吟詠境では其角に縛られ、現実ではリクっちに足蹴にされ、踏んだり蹴ったりとはこのことだな。すっかり腹が減っちまった。牛丼食って帰るとするか」


 先輩の言葉に笑いが起きる。そしてそれが解散の合図となった。僕らに別れの挨拶をしてリクは自転車を押し始め、セツは土手の斜面に立てかけておいた自転車を起こす。


「おっ、カッコイイ自転車があると思ったらセツのか。どこから通っているんだよ」


 先輩に答えたセツの返事を聞いて僕らは驚いた。モリと同じ町だったからだ。


「セツ、それってもう自転車通学の距離じゃないよ。二十五キロ、いや道のりなら三十キロはあるんじゃないか。電車で通えばモリさんと一緒の時間も増えるのに」

「そうですね。でもまあ、人にはそれぞれの事情があるってことですよ。それでは皆さん、御機嫌よう」


 セツは僕らに軽く会釈をして土手に乗り上げると、川沿いの道を颯爽と自転車を走らせて去って行った


「毎日往復で六十キロか。あいつ、ただのガリ勉じゃないな」


 先輩の言葉に珍しく共感したくなる土曜の午後だった。

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