絶対防御詠


「へえ~、いい所ね」


 川を渡って吹いてくる五月の風が、歩き続きて火照っている僕らの頬を心地よく撫でていく。セツさんは歩きながら気持ち良さそうに伸びをした。目当ての桜の大木はもう前方に見えている。


「ねえねえセツちゃん、知ってる? ここ、ショウちゃんとコトちゃんの初デートの場所なのよ」

「ちょっと、ソノさん!」


 何の前触れもなく機密事項を漏洩され、思わず大声を上げてしまった。しかもそんな事をセツが知っているはずがない。訊く方がどうかしてる。全く、いつものことながら困ったお姉さんだ。


「ほほう。私もショウ君にあやかって、モリさんとの初デートはこの場所にしましょうかね。二人同様、末永く仲良く付き合えるように」

「やだ、ステキ。その時はあたしも呼んでね」

「そうなると両手に花ですね。モリさんがヤキモチを焼かなければいいのですが」


 何ですか、このお気楽気分は。これから小柄と吟詠境に行くって時に。リクはすっかり白けた表情になってしまっている。もう口を利くのも馬鹿らしいといった顔だ。本当ならコトが帰った時点で自分も帰りたかったのだろう。付き合わせてごめんなとリクに心の中で謝る。

 やがて、僕らはようやく桜の木の下にたどり着いた。ソノさんがその幹に触れる。


「立派な木ね。しかも他の桜とは違う……セツちゃん、気づいている?」

「無論ですよ。この木の下で、多くの詠み人が自分の気持ちを吐露してきたのでしょうね」


 セツもまた幹に触れると、今はすっかり緑の葉を繁らせた桜の木を見上げた。穏やかな空気が二人を包んでいた。花が咲いていない桜なんて他の木と大差ないはずなのだが、それでも二人は随分気に入っているようだ。いや、気に入っているのはソノさんとセツなのではなく、其角と嵐雪なのかも知れない。この時代にこの二人が居たら、こんな葉桜でも一句詠んだりするのだろう。


「おーい」


 土手を走る自転車から声が聞こえてきた。先輩だ。そのまま川べりまで降りてきて、僕らの前に自転車をとめた。リクの自転車はいわゆるママチャリだ。前カゴから小箱を取り出し、威勢のいい声を上げる。


「待たせたな、持ってきたぞ。さあ、さっそく入ろうじゃないか」


 あのスピードでこの距離を漕いで来て、ほとんど息が切れていないとはさすが先輩である。セツは木から離れると先輩の持つ小箱を興味深そうに眺めた。


「開けてください、ライさん」


 セツに言われて小箱を開ける先輩。そこには、忘れもしない錆だらけの小柄が収められていた。柄と刀身の間にかすかなヒビが一直線に走っている。吟詠境での切断という事象が、現し身の業を通して現実の小柄に反映された跡なのだろう。


「間違いなく宗鑑の言霊の分身。さて、誰がこれを握りますか」

「俺が握ろう」


 セツの問いに、間髪入れず先輩が答えた。


「あら、大丈夫なの。牧童のことは話したでしょ。小柄の意のままにならない自信を去来は持っている?」

「いや、持ってない」


 ソノさんの問いにも即答である。


「それなら言霊の力が格段に強い、其角か嵐雪が握った方がいいんじゃないですか、ライ先輩」


 リクの問いを受けて、ようやく先輩は自分の考えを話しだした。


「うん、俺も最初はそう考えた。でもな、この五人の中で宗鑑の言霊を知らないのは去来だけなんだ。嵐雪は生前から知っているし、ショウも其角も許六も、一度吟詠境で顔を会わせている。それなりに勝手もわかっているだろう。だったら初顔合わせの去来は足手まといにならないように、小柄を握る役を引き受けた方がいいと思ってな」


 納得できる理由だ。きっと先輩なりにあれこれ考えながら、自転車を漕いでいたのだろう。


「わかりました。僕は先輩の意見に賛成です」


 僕からは問いではなく同意の言葉が聞けたせいか、先輩は機嫌がよくなったようだ。久し振りにでかい手の平が、僕の背中に打ち当てられた。


「はは、さすがはショウ。俺の一番の理解者だな」


 いや、先輩の解説を聞かなかったら、僕だってみんなと同じように問い掛けていましたよと、心の中でつぶやく。


「あれ、ライ先輩、これ何ですか」


 先輩の爆走によってどこか壊れた場所はないかと、自分の自転車を点検していたリクが、前カゴに手を入れている。何か入っているようだ。


「ああ、それか。リクっちの為に俺が持ってきてやったんだ」


 前カゴからリクが取り出したのはペンチと軍手である。こんな物がリクにどう役立つのだろう。


「ボクの為に? これで何をするんですか」

「リクさんは吟詠境に入らない。そういう事ですね、ライさん」

「察しがいいな、セツは。おい、リクっち、忘れているんじゃないのか。小柄は黒姫の業を使うんだろう。だったら、吟詠境に入った後で、誰かが俺の手から小柄を取り上げる必要があるじゃないか。そうしなきゃ、吟詠境でどんなに言霊の力を奪っても意味がない。お前はそれをやってくれ」


 そうだった、忘れていた。吟詠境から出られなくなった僕らは、父つぁんの手から小柄を離すという、ただそれだけの為に現し世なんて大業を使うハメになったのだ。誰か一人はこのまま残って、その役を引き受けなくてはいけない。先輩の説明を聞いて、リクも納得できたようだ。


「ああ、わかりました。ボクはここに残って、直接触れないように軍手をはめ、ペンチで小柄を挟んでライ先輩の手から取り上げるんですね」


 リクの顔が明るくなった。それを見て、口では最後まで付き合うと言いながらも、本心では吟詠境に行きたくなかったんだなと感じた。やはりリクが心に負ったダメージも、コトと同じく大きいのだろう。


「よし、これで準備万端だな。ソノさん、何か意見は?」

「そうねえ、あとは誰が吟詠境を開くかだけど、セツちゃんはさっき開いたから、今度はあたしがやりましょうか」


 これにも全員賛成である。僕ら五人は桜の木から少し離れた場所に集まり、一同互いに顔を見合わせた。リクは軍手をはめ手にペンチを持ち、いつでもいいぞという顔をしている。後は先輩が小柄を握るだけだ。さすがの先輩も少々緊張気味である。


「念のために利き手じゃない左で握るぞ……いくぞ!」


 自分を励ますように言葉を吐くと、先輩は左手で小柄を握った。感じる。小柄の力が増して行くのがわかる。同時に先輩の表情が歪み始めるのも。暴れ出す何かを抑える様に先輩は右手で自分の左腕を掴むと、息を荒げながら言った。


「くっ、ソノさん、早く詠んでくれ。このままだと発句争いに引き込まれそうだ」


 先輩が言い終わらない内にソノさんは発句を詠んでいた。僕ら三人もそれに合わせて発句を詠み、あの禍々しい吟詠境が再び僕らの前に姿を現した。


 * * *


「二度目とは申せ、馴染めぬ場所よ」


 沈み行く夕陽に全身を赤く染められた其角が、遠くを見遣りながらつぶやく。ショウもまた其角と同じく心の騒めきを感じつつ、牧童の発句で開かれた吟詠境を見回した。遠くまで広がる海の如き湖水と、その上に浮かぶ夕陽と眉月。以前と変わらぬ風景ながらその遠景は少しぼやけて見えた。


「前と違って、遠くはあまりはっきり見えませんね」

「詠んだ発句は牧童殿のもの。仕方あるまい。さすがの其角殿も他者の発句で吟詠境を開けばこうなる、と言ったところか」


 嵐雪に図星を突かれて其角は頭を撫でる。それでも遠景が霞んでいるだけで、その他は以前と違わぬ明瞭さなのだから、其角の力量はたいしたものだとショウは感じた。


「まあ、よいではないか。どうせほんの一時の吟詠境。手早く済ませてさっさと出よう。のう、去来殿……去来殿、どうされた」


 其角の声に一同は去来に目を遣る。去来は歩いていた。湖水に向かってゆっくりと、皆から遠ざかるように去来は歩いていた。


「去来さん……」


 心配顔のショウが去来に近寄る。その動きがわかりでもしたのか、去来は歩き続けたまま絞り出すように声を出す。


「近寄られるな、わしから、離れて……」


 去来の動きが止まった。左手の小柄は赤い光に染まっている。そして弱まる夕陽とは逆に、その光は強くなっていく。


「去来殿、早く小柄を捨てられよ!」


 嵐雪が叫んだ。しかし去来は三人に背を向けたまま微動だにしない。ショウは自らの手で去来の小柄を奪い取ろうと、そちらに向けて駆け出そうとした。


「芭蕉翁……」


 去来の口から声が漏れた。しかしそれはもう去来の声ではなかった。振り向いてショウを睨む去来の体は、小柄と同じ赤光を帯びていた。牧童と同じく小柄に心を奪われているのは、誰の目にも明らかだった。


「小柄の力、これ程とは……」


 嵐雪は己の認識の甘さを悔いた。よもや去来ほどの俳諧師が宗鑑の言霊の分身如きに己を失うとは思ってもいなかったのだ。


「ショウ殿、季の詞を使われよ!」


 其角が叫ぶ。既に去来は小柄を振りかざして、ショウに向かって突き進んでいた。だが、ショウは迷っていた。去来相手にどのような発句を、どのような季の詞を使えばよいのか、それさえも思い浮かばなかった。逡巡するショウを嘲笑うかの如く、去来の小柄がショウの頭上に振り下ろされた。


「おおっ」


 其角と嵐雪が同時に声を上げた。ショウの両手に固く握り締められた芭蕉の杖が、去来の小柄を受け止めたのだ。許六の槍を一刀両断にした小柄の切れは変わっていない。それを上回る堅牢さを杖が発揮したのだ。


「うむ、さすがは芭蕉翁の杖。言霊の力は小柄と互角か。いや、しかし……」


 互いに小柄と杖を打ち合わせたまま、身動きの取れない去来とショウ。だが、小柄の赤光は次第に強くなっていく。それに比例してショウの体勢は崩されていく。


「小柄が杖の言霊の力を取り込んでおる。嵐雪殿、こうなれば」

「承知!」


 言うが早いか、嵐雪はショウの背後に身を寄せ、発句を詠む。


「この下にかく眠るらん雪仏」


 粉雪が嵐雪とショウを取り巻いた。次の瞬間、去来は何かに弾き飛ばされたかのように後ろへのけぞり、そのまま尻餅をついた。


「嵐雪さん、これは一体……」


 まるで自分と嵐雪を守るかのように周囲を旋回する無数の粉雪。取り巻く粉雪の壁の向こうから透けて見える、こちらを睨みつける去来。ショウは何が起きたのかすぐには理解できなかった。


「小柄の狙いは芭蕉翁のみ。ならばここより動かれるな、ショウ殿。我が防御詠は蕉門随一。槍、刀は勿論のこと、発句も季の詞すらも弾き飛ばす」


 嵐雪の自信に満ちた声に誘われるように去来は立ち上がると、雪洞の如き粉雪に小柄を突き立てた。だが同じことだった。小柄は音もなく弾かれ去来は再び尻餅をつく。嵐雪が声を上げた。


「其角殿、後は頼む。この防御詠は長くは持たぬ」

「おう、貴殿ばかりにいい格好はさせぬぞ」


 其角は両手を組むと季の詞を発す。


「糸柳!」


 両手から柳の枝が伸びると去来の体に絡みついた。腕も足も胴体も柳の枝に巻きつかれた去来は、完全に体の自由を奪われて地に転がった。


「いかがかな、去来殿。春の女神、佐保直伝の糸柳は。女神の業を掛けられるのも乙なものであろう」


 其角は両手から柳の枝を垂らしたまま去来に近づき、腰にぶら下げた瓢箪を掴んだ。


「情けないのう。去来様ともあろうお方が、そのような小柄如きに心奪われるとは。余りにも情けのうて、この其角、酒でも飲まねばやり切れぬわ」


 瓢箪の詮を口で抜き、傾けて酒を流し込む其角。柳の枝に縛られて地に転がったままの去来は、身悶えしてそんな其角を睨みつける。


「おやおや、いつも偉そうな去来様が、そのような眼差しで人を見るものではないぞ。ははあ、そうか貴殿も一杯やりたいのか。よし、わしが飲ませてやるぞ」


 其角は去来の上に屈み込んで、その口に瓢箪を当て無理やり流し込もうとする。首を振って拒む去来。面白がって首根っこを捕まえようとする其角。縛られた全身で拒否する去来。じれったくなって去来の顔に酒を浴びせる其角。その背中に声が掛かった。


「其角殿、お遊びは其れ位になされよ」


 其角が振り向くと、絶対防御の粉雪はとうに消え、嵐雪とショウが呆れた顔をして立っていた。


「ははは、いや、すまん。聖人君子の去来殿の豹変振りが可笑しくてな。つい図に乗ってしまったわい。さて、では小柄を取り上げるとするか。芽柳!」


 其角の手から新たな柳の枝が伸びると、去来の左手の小柄に巻きついた。固く握り締めた去来の手は容易に小柄を離さなかったが、柳の枝を二本にして、其角が思い切り力を込めると、ようやく小柄は去来の手から離れ、刃を下に向けて地に突き刺さった。


「う、うむ……」


 去来の体を覆っていた赤光は次第に薄れていく。やがてすっかり消えてしまうと、その顔に元の温和な表情が帰ってきた。ショウが声を掛ける。


「去来さん、大丈夫ですか」

「ショウ殿か。いや、面目ありませぬ。小柄の力を見くびっておりました。ところで其角殿、いい加減にこの柳を取り払ってくれぬか」

「待て待て、それよりも先に小柄だ。嵐雪殿、後はお任せする」

「心得た」


 其角の言葉を受けて嵐雪が小柄の上に屈み込む。地に刺さった小柄はまだ赤光を放っている。嵐雪は眉をひそめた。


「これは……まだライ殿の手から離れてはおらぬな」


 其角とショウも小柄に近づく。生命を宿しているかのような小柄の赤光。依然としてライの手の中にあるのは一目瞭然だった。其角がもどかしそうな声を出す。


「リク殿は何をしておるのだ」

「先輩の握力は相当なものですからね。さすがのリクっちも悪戦苦闘しているんでしょう」

「これ、そんな事よりいい加減にこの柳を」

「いやいや、ショウ殿に対して拳を振り上げた罰じゃ。しばらくそのまま寝転がっておられよ、去来殿」

「むっ!」


 小柄を見詰めていた嵐雪が声を上げた。その輝きに陰りが見え始めたのだ。射す様な光は淡くぼんやりとした輝きに変わっていく。その変化と逆行するように、小柄に向けた嵐雪の右手が光を放ち始めた。既に業を掛け始めているのだ。


「うむ、ようやくライ殿の手から奪い取ったか、嵐雪殿!」


 其角に言われるまでもなく、嵐雪は叫んだ。


「奪霊!」


 言葉と共に右手から放たれた白光の塊が小柄を包み込んだ。刀身から放たれていた赤光は瞬時に消え、今は錆だらけの姿となった小柄が、己を包む白光の中で身悶えしている。それは言霊の最期の足掻きのようにも見えた。

 嵐雪が放った白光は次第に弱まっていく。それに連れて小柄の姿も朧になっていき、白光が消えた時には小柄の姿も消えていた。息を飲んで見守っていたショウは念を押すようにつぶやいた。


「これで、完全に消滅したのですね」

「左様。トツ殿との繋がりも完全に消え、現し世の小柄もただの錆びた古刀と成り果てた」


 嵐雪の声には安堵感があった。それは紛れも無く宗鑑を敵視する蕉門の一人であった。やはり自分は考えすぎていた、ショウは改めてそう感じ、疑っていた以前の自分を少し恥ずかしく思った。


「さて、これでここには用はない。早々に退散するとしよう。其角、挙句を申す。よろしいか」

「ま、待たれよ、其角殿。その前にこの柳を解いてくだされ」

「そのままでもいいではないか去来殿。解いたところで、すぐにこの吟詠境は閉じるのだからな。わははは」


 其角は高笑いをすると、大声で挙句を詠んだ。


「其角、挙句を申す。逃げよ落日追えよ眉月!」


 吟詠境の天の動きが慌しくなった。日は沈み月は沈み、周囲には一気に暗闇が広がると、満天の星だけを残して吟詠境はその闇の中へと消えていった。

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