雪中庵嵐雪


 春まだ浅い陽射しに照らされた屋敷には狭い庭。そこに植えられた梅の木の下に立つのは、白衣に黒染めの法衣をまとい、白脚絆と草鞋で足元を固めた雲水姿の長身の男、その手には杖を持っている。

 禅僧には似合わぬ眉を隠す程の長髪なれど、たった一輪だけ咲いている梅の花に似て、どこか温もりさえ感じられるキリリと鋭い眼光で見詰める先には四人の男と一人の女。その内の一人が声を掛けた。


「嵐雪さん、初めまして」


 声を掛けられた嵐雪は静かに頭を下げる。


「これは芭蕉翁、いやショウ殿とお呼びすべきでしょうか。お久し振りでございます」

 挨拶を述べるや片膝着いて、両手にて差し出すのは使い込まれた一本の杖。

「芭蕉翁よりの預かり物です」


 それを受け取ったショウはしっかと握って大地に突き立て、

「うむ、嵐雪、ご苦労。残るは丈草の数珠だけだ」

 と、ショウならぬ芭蕉の声で感謝の意を述べる。寿貞尼が喜びの声を上げた。


「なんと、残る片鱗はあとひとつ。今までのご苦労が報われるのも間近となりましたね」

「まったくだ。早く丈草の宿り手を見つけ、芭蕉翁本人と話がしたいわい。おっと、別にショウ殿と話がしたくないわけではないぞ。誤解のなきようにな」


 頭を撫でながら満更でもない風情の其角。一方、去来の顔は優れない。それはショウも同じだ。既に亡くなってしまった母親、その母親に宿っていたのかも知れない丈草……


「あの……」


 そう言い掛けたショウの顔の前に右手を差し出す去来。自分を見詰めて首を横に振るその仕草を見て、ショウには去来の心がわかった。不確かなままの今の状況で丈草の話をするべきではない、そう言いたいのだろう。


「いかがなされました、ショウ殿」


 嵐雪の問い掛けにショウは「いえ、何でもありません」と取り繕う。嵐雪はそれ以上は何も言わず、また静かに梅の木を見上げた。


「ところで嵐雪殿、貴殿に伺いたい事がある」

「はて、如何様な事であろうか、去来殿」


 顔を天に向けたまま嵐雪は答えた。こちらを見ぬ無作法を気に留めることもなく、去来は尋ねる。


「何故我らに宗鑑の言霊の片鱗について話をしてくれなかったのだ。貴殿一人で抱え込める難事ではなかったであろう」

「おう、それよ、嵐雪殿」

 去来の言葉を受けて其角も口を開いた。

「我が宿り手もライ殿より聞いておる。芭蕉翁存命中から気づいておったのだろう。もし、貴殿から宗鑑の言霊の片鱗について聞いておれば、我らの苦労もなかったのだ。トツ殿を見たであろう」


 それから其角は北陸での戦いの一件を手短に嵐雪に説明した。牧童と許六の確執、小柄に掛けられた約定の業、寿貞尼の危機と凡兆から預かった本復丹丸。時折吹く風に揺れる梅の花を眺めながら、嵐雪はそれを聞いていた。


「……なんとか事は収められたが失ったものも大きい。一言、我らに教えてくれておればと、悔やまれてならぬわ」


 あの戦いでは芭蕉の言霊の片鱗と凡兆の丸薬を失くし、佐保姫も完全に眠りに着いた。其角の口惜しさは吟詠境に居る全員の気持ちでもあった。

 其角の話が終わると嵐雪は二人に向き直り、頭を下げた。


「すまぬな。芭蕉翁とも話し合った末での秘密事であったのだ。門人たちの間に無用な波風を立たせぬ為のな」

「だが、宗鑑が封じられた後ならば、秘密にする必要もなかったであろう。言霊の片鱗も同時に封じられ、もはや存在せぬに等しくなったのだから」


 去来の言葉に嵐雪は悲しそうな笑みを浮かべた。まるで己を嘲笑うかのような表情だった。


「左様、宗鑑は封じられ、その見返りとして我らは芭蕉翁を失った。浅はかな我が慢心により芭蕉翁の命は奪われたのだ。宗鑑の言霊の片鱗を引き合いに出してまで、我が過ちを逃れようなどという見苦しい真似はしたくはなかった。全ての原因はこの嵐雪の愚鈍さの為と、門人の方々に蔑まれて生きることこそが、我が罪への罰であると悟った。それ故、無用な言い逃れはせず、口を閉ざし続けたのだ」

「嵐雪さん……」


 宗鑑を宿した嵐雪がどのような経緯で芭蕉と吟詠境を開くことになったのか、ショウにはその詳細はわからなかった。ただ、その後の嵐雪が蕉門の中で辛い道を歩んできたことだけは理解できた。

 芭蕉の死の翌年一月剃髪し、以前よりの知己である済雲和尚に参禅。以後は俳壇から遠ざかり禅に傾倒していったのも、この出来事が嵐雪に大きな影を落としたからだろう。ショウは嵐雪から貰ったばかりの杖を握り締めた。まだ温もりの残るその木肌から、師に対する嵐雪の熱い想いが伝わってくるような気がした。


「北陸でのことで嵐雪殿を責めるのは筋違いでござろう。あれは偏にこの許六の失態であるのだから」


 嵐雪を庇い立てする許六の言葉に、其角と去来は苦笑いしながら頭を叩いた。不用意な言葉を吐いて、要らぬ気遣いをさせてしまった嵐雪に申し訳ない、そんな気持ちが表情に表れていた。


「さりとて小柄に宿る宗鑑の言霊を、このままにもしてはおけぬでしょう。いかが致しましょうや」


 ショウは寿貞尼のこの言葉を聞いて、それまでずっと頭の中に引っ掛かっていたひとつの疑問を思い出した。傍らの去来に尋ねる。


「あの、小柄の言霊について聞きたい事があるんです、いいですか、去来さん」

「構いませぬぞ、ショウ殿」

「現し世の業を使った後、僕は小柄を二つに切断しました。それによって吟詠境も閉じました。なのに、どうして小柄にはまだ宗鑑の言霊が残っているのでしょうか」


 それは、小柄に触れぬようにとソノに注意された時から、ずっと抱き続けていた疑問だった。言霊が消滅すればこそ、挙句を詠むまでもなく吟詠境は閉じるのだ。閉じた後も残っているのはこの道理に反する、それがショウの考えだった。

 去来にはショウの問いの意図するところがすぐに飲み込めた。子供に言い聞かすような優しげな顔で話し出した。


「吟詠境を開いた言霊ゆえ、ですな。吟詠境を開くのにもそれを維持し続けるのにも言霊の力が必要なのです。吟詠境を開いている間、力の消耗を強いられるのはそれを開いた言霊、あの場合は小柄の言霊となりましょう。ショウ殿の破壊によって言霊の力は一気に減少しました。そして吟詠境を維持できぬまでの弱い力となった時、吟詠境は自ずと閉じてしまったのです」

「つまり、小柄の言霊が完全に消え去る前に、吟詠境が閉じてしまった、ってことですか」

「そうなりますな。今、残っている力は吟詠境に入る事も出来ぬほど、微々たる量にすぎませぬ」

「じゃあ、維舟いしゅうもあの時、完全に消えたわけではなかったんだ」


 ショウが最初の吟詠境で出会った言霊、維舟。彼もまた挙句を詠まずに吟詠境を閉じて消えていった。その最期は今でもはっきりと覚えている。


「人に宿った言霊ならば、それで終わりと考えていいのだ、ショウ殿」

 去来に代わって其角が口を挟む。

「そこまで力が減れば宿り手との繋がりを保つことも出来ぬ。即座に宿り手を離れて己の言葉に還り、幾ばくの間もなく消えるのみだ。維舟の宿り手も吟詠境を出た直後は、少しは言霊の記憶を持っていたであろう。が、それもすぐに忘れ去る。哀れなものよ、言霊の最期というものはな」

「うむ。しかし、命を持たぬ宿り手ならばそうはいかぬのです。繋がりを保つ力は、命ある宿り手に比べれば遥かに少なくて済みますからな。あの小柄に残った言霊の力もやがては消滅しましょうが、それには少々時間がかかるでしょう」


 去来の困り顔をショウは不思議に感じた。それ程の難題には思われなかったからだ。


「そんなの、宿り手を破壊すればいいんじゃないですか。あの小柄を壊してしまえばそれに宿った言霊も消えるでしょう」


 この言葉を聞いて、ショウを除く全員の顔に苦笑いが浮かんだ。何か的外れなことを言ってしまったのかと、訝しげに皆を見回すショウに去来が言う。


「そうですな。言霊を宿したままその宿り手が命を失えば、言霊も消滅します。宿り手の中にある生命力に溢れた言葉と、密接に繋がれているからです。しかし小柄に彫られた言葉に命はありません。あれは単なる文字に過ぎぬからです。小柄が破壊され器を失えば、宿っていた言霊は小柄を離れ、本体の宗鑑の元に還るだけでしょう」

「じゃあ、小柄を壊しても、それは宗鑑の力を強めることにしかならないってわけですか」

「そうなりますな」


 それは賢い解決策ではないとショウは思った。残っているのは僅かな力であるが、それを本体に戻して、宗鑑の力を更に強くするような行為は避けるべきだ。だからこそまだ言霊が残っているとわかっていても、手を出せずにそのまま放置しているのだろう。皆の苦笑いの理由が理解できたショウは、自分の顔にもまた苦笑いを浮かべた。


「やはり、このままにしておくしかないみたいですね」

「いや、そうでもない」


 そう言ったのは嵐雪だった。険しい目でショウを見詰めている。


「他の者が詠んだ発句で小柄を吟詠境に引き込めばよい。そうすれば奪霊の業で力を奪い尽くせる」


 敵意に満ちた嵐雪の声。そこには宗鑑に対する並々ならぬ憎悪が感じられた。嵐雪の中に燃える打倒宗鑑の志は、他のどの門人よりも熱く激しいものに違いない、ショウはそう思わずにはいられなかった。


「再び小柄を吟詠境に引き込むか。だが、その為には誰かが小柄を握って吟詠境に入るだけの力を与え、刻まれた発句を代詠せねばならぬ。危険ではないか」


 許六の言葉を聞いて、今度は嵐雪以外の全員がその表情を暗くした。小柄によって自我さえ失っていた牧童の姿。己もまた同じ目に遭わぬという保障はない。


「後は宿り手の判断に任せましょう。これ以上は我らが議論するところではないでしょう」


 小柄が存在するのはあくまでも現し世である。吟詠境にしか存在できぬ言霊がどうこう言っても始まらない。寿貞尼の言葉に一同は納得顔になった。


「寿貞尼殿の言われる通りですな。それに、この吟詠境にも少々長居が過ぎた。そろそろ閉じる頃合ですかな」

「去来殿、お待ちください」

 去来の言葉を制して寿貞尼が嵐雪に話し掛けた。

「のう、嵐雪殿。せっかくの芭蕉翁との再会。言葉の掛け合いはせずともよろしいのですか」


 芭蕉に会うことだけではなく、こうして吟詠境に入ることもまた、嵐雪にとっては久し振りなはずだ。最初の吟詠境で去来はショウと発句を詠みあい、共に吟詠境に居た許六は去来と武を競い合っていた。しかし嵐雪は預かった杖を返した以外は何もしていない。言霊の業を持つ俳諧師が、何もせぬまま己が開いた吟詠境を閉じるのは、少し不自然に寿貞尼には感じられたのだ。


「いえ」


 低い声を発しながら嵐雪は寿貞尼を見た。冷たい目だった。そしてその冷たさはショウにも浴びせられていた。存在してはならぬ何かを見ているようなその視線。そこに忌避と懇意が入り混じった嵐雪の意志を感じた寿貞尼は、知らず、己の眉間に皺を寄せた。


「我が役目は杖を渡すこと。それが済めばもう何もすることない」

「嵐雪殿は禅を志しておるからな。禅の修業は自問自答。言葉の掛け合いは他人ではなく己本人としたいのだろうて」


 茶化すような其角の言葉に嵐雪は無言で答えた。無愛想な態度を持て余し、どうにも扱い難いといった風情で其角は頭を撫でる。


「では、これにて挙句を申す。よろしいか」

「ま、まあ、嵐雪殿がそれでよろしいのなら」


 少々面食らった感じの去来の言葉に一同頷けば、嵐雪はすぐさま挙句を詠む。


「嵐雪、挙句を申す。凛とした風一厘の春」


 吹いてきた肌寒い風が、枝に咲いていた一輪の梅の花を落とす。と同時に、吟詠境の全てが吹き払われてしまったかのように情景は薄れ始め、落ちた梅の花の花弁は千切れて、風の中へと舞い去って行った。


 * * *


「あれ、もう終わったんですか」


 この声は父つぁんか。目を開ければ食後のお茶を飲んで寛いでいる姿が見える。その気の抜けた顔と同じく、僕もまた物足りない気分だった。発句も季の詞も詠まず、話だけで終わってしまったのは、佐保姫と二人だけの吟詠境を除けば初めてだ。嵐雪は晩年、禅に傾倒して、連歌の座を開くことは以前ほどではなかったらしいから、仕方ないのかも知れない。モリも父つぁん同様、意外な顔をしている。


「ホント、早かったですね。まだ三分も経ってないですよ」


 この言葉は俄かには信じられなかった。幾らなんでもそれは短すぎる。少なくとも十分以上は吟詠境に居た気がする。


「まあ、あそこは夢みたいなものだからな。ホラ、全人生に匹敵する夢を見ても、目覚めてみればたった一夜に過ぎなかったなんて、よく聞くだろう。向こうとこっちじゃ時間感覚が違うんだよ」


 先輩が物知り顔で説明している。一夜で全人生体験なんて話、現実には一度も聞いたことはないが、時間感覚が異なるのはあり得そうだ。取り敢えずはその説を採用することにしよう。


「それよりも話の続きをしましょう。小柄は今、どこにあるのですか。皆さん、どうするつもりですか」


 セツの興味はすっかりそちらに移ってしまったようだ。もうモリを気にする事もなく、僕と僕の隣の先輩ばかりを見ている。


「ああ、あれは俺が預かっているんだ。もう一度蔵に入って小箱を持ち出し、その中に納めて保管してある」


 先輩の言葉を聞いたセツの目が光ったような気がした。吟詠境で見た嵐雪と同じ色をしている。


「どうするんだ、セツ。本当にやるつもりか」

「答えるまでもないでしょう」


 先輩は隣のテーブルに目を遣る。ソノさんの意見も聞きたいのだ。いつもは軽いノリのソノさんが、珍しく腕組みをして考え込んでいる。その姿を心配そうに見詰めるリク。無理もない。あれだけの死闘を繰り広げた相手なのだ。リクだって二度とお目に掛かりたくないと思うのは当然だろう。


「そうね、許六が言っていたように、再びあの小柄を吟詠境に入れるのは危険だわ。それは間違いない。だからあたしたちは、小柄の力が完全に無くなってしまうまで、小箱の中で保管することにしたのよ。でも」

 ソノさんは組んでいた腕を解くと、セツに顔を向ける。

「それじゃセツちゃんは納得しないでしょう。ヤルしかないわね」

「そう言っていただけると思っていましたよ」


 してやったりという風情のセツを眺めながら、さすがの僕も不安になった。小柄は彫られている発句しか詠めない。誰が開くにしても同じ吟詠境に行くことになる。また、あの夕焼けに染まる湖水の辺りで、赤光を放つ小柄と向かい合うのかと考えると、少々気が重くなる。


「ソノさん、本当に大丈夫なんですか?」

「あ~ら、ショウちゃんってば心配性ね。今度はもう何もかもわかっているんだもの。前みたいに好き勝手にはさせないわよ。それにね」

 ソノさんの顔がにやけた。わざわざ席を立って僕の横にやってくると、顔を近づけて小声でささやく。

「セツちゃんの頭の中から小柄のことを追い出さないと、モリちゃんに興味を向けてくれないでしょ。つまんないわよ」


 ソ、ソノさん、あなたの本当の目的はそっちですか! 柄にもなく真剣な顔をしていると思ったら、そんな事を考えていたなんて。モリが聞いたら絶対に怒るだろうな。それにしてもソノさんは一体どちらの味方なのだろう。僕もソノさんに顔を近づけ、ささやく。


「ソノさんは、セツとモリさんをくっ付けたいんですか、それとも別れさせたいんですか。どっちです?」

「どちらでもないわよ。見ていて楽しいだけ」

「それ、悪趣味過ぎますよ」

「悪趣味、万歳よ。うふふ」

「お前たち、何をコソコソ話してるんだ」


 隣の先輩の冷めた声。僕は素早く居ずまいを正し、ソノさんはそそくさと隣のテーブルへ帰って席に着き、咳払いをした。


「コホン、さてと、それじゃ善は急げって諺もあることだし、こうして全員揃うことも滅多にないことだし、今日、決行することにしましょうか。ライちゃん、悪いけど家に戻って小柄を取ってきてくれない」

「それはいいけど、ここじゃまずくないか。小柄を引き込むとなると何が起こるかわからない。なるべく人の少ない場所がいいだろう」


 確かに不測の事態を招く可能性があるし、時間もどれだけかかるかわからない。店の中で吟詠境に入るのは避けた方がよさそうだ。人が少ない場所か。天気がいいから駅前公園も人が多そうだし……そうだ、あそこがあるじゃないか。


「それなら、桜並木がある川べりがいいんじゃないですか。広いから他人に迷惑を掛けることもないでしょう」

「ああ、あそこならいいな」

 先輩が立ち上がった。

「よし、じゃあ、そこにしよう。おいリクっち、お前、自転車で来てるんだよな、カギ貸してくれよ。家までひと漕ぎしてくるから。みんなはショウに付いて先に行っていてくれ」


 先輩に言われて、リクがウエストポーチから自転車のカギを取り出して渡す。


「力を入れすぎて壊さないでくださいよ、ライ先輩」

「いや、お前が漕いでも大丈夫なんだから、俺が漕いでも壊れやしないだろ」

「ちょっ、それどういう……」

「私は行かないわ」


 コトの声が冷たく響いた。能面のように感情のない顔で僕らを見ている。一切人を寄せ付けない凍えるような冷淡さが、その表情から伝わってくるようだった。


「小柄を代詠する者と、奪霊の業を使う者。少なくとも二名居ればいいのでしょう。私が行く必要はないわ」

「コトさん……」


 僕は感じた。コトはまだ完全に立ち直りきれていないのだ。小柄によって死の淵のギリギリまで追い詰められたコト。その相手と再び顔を会わすことなど、出来るなら避けたいに違いない。


「そうね、全員で入ることに意味はないわね」


 ソノさんも、そして何も言わないみんなも、コトの気持ちはわかっているようだった。コトは静かに席を立った。


「私はこれで帰るわ。モリさん、一緒に帰らない? 試験勉強と慣れない外泊で疲れているでしょ」

「あ、はい」


 素直に返事をするモリ。モリをここに連れて来たのはセツを参加させる為。それが達成された今、これ以上関係のないモリを拘束するのは気の毒だ。


「ライ先輩、俺はどうすればいいですか」


 今度は父つぁんだ。先輩とソノさんが顔を見合わせる。が、結論はすぐに出た。


「そうだな、父つぁんも小柄には近づかない方がいいだろう。悪いがこれで帰ってくれるか。すまんな、せっかくの休日に牛丼一杯の為に呼び出したりして」


 父つぁんと小柄の言霊は、弱いながらもまだ繋がりを持っている。安易に近づけたりしたら、再び強い繋がりを回復しないとも限らない。宗鑑の言霊の片鱗は牧童だけではないのだから。


「いや、電車代は定期券だし、牛丼はライ先輩のおごりですから。大勢でメシが食えて楽しかったですよ。じゃあ、俺も帰ります。ショウ、また来週な」


 父つぁんは陽気に席を立ち、店を出て行った。続いてモリとコトが出口に向かう。


「モリさん、短い間でしたが楽しい時間を持てて幸せでしたよ。今度は二人だけでお茶でもしませんか」

「お断りします」


 通り過ぎるモリに声を掛けるセツ。さすがに別れ際は無関心ではいられないようだ。と、急にコトが立ち止まった。


「セツ君、ちょっと訊いてもいい?」


 いきなり自分の名を呼ばれて、驚きの色を隠そうともせずにセツは返事をする。


「おや、コトさんからお声が掛かるとは光栄の極みですね。あなたとなら二人でお茶をしても結構ですよ」


 こんな言葉はコトにとって、道端の野良猫の鳴き声ほどの意味も持たない。完全に無視してセツに質問する。


「言霊の片鱗を集めて芭蕉に姿を現して欲しいと、あなた、本気で思っているの?」

「これは愚問ですね。勿論ですよ。ショウ君がそれを望んでいるのですから」

「セツ君じゃなく、嵐雪がどう思っているのか知りたいのよ」


 まるでセツの心の中を覗き込もうとでもしているかのようなコトの視線。セツはどう答えようか迷っているように見えた。が、すぐに観念してため息に似た笑い声を漏らしながら言った。


「ふふっ、勘のいい人ですね。そうですよ、ご推察の通りです。嵐雪は芭蕉が姿を現すことを望んでいません。あの杖も本当は渡したくはなかったのです」

「どうして!」


 僕は思わず声を出してしまった。有り得ない話だ。これまで出会ったどの門人も、いや、どの言霊も芭蕉の姿を渇望していた。嵐雪がそれを望んでいないなんて考えられない。


「どうしてか、嵐雪自身もわからないのですよ。本能的にそう感じているようです」

「そう、わかったわ。それじゃお先に。皆さん、頑張ってね」

「コト先輩も気を付けて帰ってください、あ、モリ先輩も」


 慌てて付け足したリクの言葉にモリはクスリと笑うと、コトと一緒に店を出て行った。


「おいリクっち、お前はどうするんだ」

「今度のことの一番の原因はボクですからね。最後まできっちり付き合います。それに自転車のカギを渡してしまった以上、帰れませんよ」

「そうだったな、よし、じゃあ、俺も行くぞ。おい、リクっち、一緒に来て自転車をとめた場所を教えてくれ」


 先輩とリクも店を出て行った。ソノさんから声が掛かった。


「わたしたちも出ましょうか」

 


 それから僕らは店の駐車場でリクと落ち合って、四人で町の東側を流れる川に向かった。セツは自転車通学らしく、僕らに付き合って歩いて自転車を押していた。いわゆるロードバイクというやつだ。一応スタンドや泥除けは付いているが、タイヤが細くてドロップハンドル、セツの外見と同じく格好いい自転車だ。

 いつもの僕ならば、この自転車を見て「へ~、いい自転車だね。セツはどこから通っているんだい」くらいの会話はして当然なのだが、今はそんな言葉を吐けるほど僕の頭の中に余裕はなかった。店の中でコトの質問に答えたセツの言葉、嵐雪は芭蕉の出現を望んでいない……川べりへ向かう途中、もう一度この事についてセツに質問してみた。しかし返ってきたのは同じ言葉だった。嵐雪さえもその感情の原因がわからないのではどうしようもない。


 思い出せば、店の中で入った吟詠境で、僕や寿貞尼を見る嵐雪の目はひどく冷ややかだった。僕と言葉の掛け合いをしようとしなかったのも、恐らくこの感情に左右されてのことだろう。嵐雪……自ら本心を語ろうとしない彼の真意を、言葉だけから窺い知ることは困難だ。

 不意に僕は真逆の可能性に思い至った。嵐雪は宗鑑を倒すためにその身に言霊を宿したと言っていた。だが、実はそれこそが嘘偽り。本当は芭蕉を倒すためではなかったのか。宗鑑の言霊の片鱗の存在を隠していたのも、今、芭蕉の出現を拒んでいるのも、その方が門人の言霊を容易に倒せるから。となれば、これから小柄と共に開く吟詠境で……


「ショウ君は深読みが好きなようですね」

 並んで歩いているセツが淡々とした声で話し掛けてきた。

「そして嵐雪を疑っている、無理もありませんね。吟詠境でのあの態度、私の言葉、怪しさ満載ですからね。当時の門人たちも同じでしたよ。芭蕉を死に追いやった嵐雪を白い目で見ていたようです。ただ、私は彼の宿り手として言っておきます。あの丈草に勝るとも劣らない忠義心を嵐雪は持っています。これだけは忘れないでください」

「ショウちゃん、言ったはずよ。無用な憶測は控えたほうがいいわ。自分で自分の首を絞めるようなものよ」


 後ろからソノさんの声が聞こえる。確かにそうかも知れない、僕らはそれで一度失敗しているのだから。それに、あんな質問をしたコトの意見を聞く前から、あれこれ考えても仕方がない。僕は頭の中から余計な妄想を追い払うと、川べりへ向かう道を黙々と歩いた。

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