追試の日


 モリは教室の窓際の席でぼんやりと外を眺めていた。土曜の午前に登校するのは高校入学以来初めてだ。今頃、ショウは無い知恵を絞って問題を解いているに違いない。その姿を想像して、モリの口元がクスリと笑った。

 追試は全教科を一日で行う。複数の科目を受験する生徒のために、試験を受ける教室とは別に控えの教室が用意されている。自分の受ける教科の試験が始まるまで控え教室で待機するか、あるいは特別に利用可能になっている図書室で最後の悪あがきをするか、はたまた校庭を散歩して頭への血の巡りを良くするか、とにかく生徒たちは思い思いのやり方で時間を潰すことになる。


 今はショウが受ける二時間目の国語の追試が始まったところだ。モリはせっかくなのでショウと一緒に登校して、控え室で試験が終わるのを待っているところだった。先程まで教室内には数名の生徒が居たのだが、皆、どこかに行ってしまって、教室にはモリだけが残っている。

 モリは窓の外を眺めるのをやめると、両手を合わせて、こんな時しか信じない神様に祈った。あれだけ勉強したんだから大丈夫、大丈夫、絶対大丈夫。何の裏付けがなくても大丈夫と唱えているだけで大丈夫な気がしてくるのだから、人間とは暗示に掛かり易い生き物だなとモリは自分が可笑しくなる。一人笑いをしていると、誰かが教室に入ってきた。


「やっぱりね。来ていると思っていましたよ」


 声を聞いただけでモリには誰かわかった。セツだ。意表を突かれたモリは、一人だけで教室に残ってしまった自分を後悔した。まさかこんな所にまで顔を出すとは、慎重深いモリでも考えてはいなかったのだ。


「昨日の放課後、大きなバッグをぶら下げたあなたが、三人揃って仲良く下校するのを見ていました。さしずめ昨晩は彼の家で泊まり込みのお勉強会でも開いていたのでしょうか。さすがの私も若干のジェラシーを感じてしまいましたよ」


 モリは黙っていた。見られていたのなら肯定も否定も必要ない。外泊したことへの言い訳も必要ない。やましい事は何もないのだから。


「あなたにそこまで尽くしてもらえるショウ君が羨ましいですね。その思い遣りの一割でもいいから私に分けてくれませんか」

「あなたとは話したくありません」


 モリは席から立ち上がると教室から出ようとした。セツがその前に立ち塞がる。


「つれないですね。あなたが来るだろうと思って、わざわざ休日に登校したのに」


 無視して教室の出入り口へ向かうモリの左腕をセツが掴む。驚いて振り解こうとするが、セツは放さない。


「何をするんですか、放してください」

「放しませんよ。約束したでしょう。中間試験で私が勝ったら付き合ってくれるって。約束を破るなんてモリさんらしくないですよ」

「それはあなたが勝手に決めたことです。私は約束なんてしていません。付き合う義務もありません」


 普段は大人しいが、いざとなればはっきり物を言えるのがモリだ。それに最近はコトの影響で以前よりも度胸が付いている。セツの口車にも簡単には乗せられない。


「そうですね、あれは約束とは言えませんね。それは認めましょう。でも、私の本気はわかっていただけたのではないですか。試験が終わるまで、あなたに一切近づくことなく、私は勉強したのです。そして言葉通りの結果を出しました。もう少し私を認めてくれてもいいのではないですか」

「あなたとは話したくありません。腕を放してください」


 しつこく言い寄るセツに堪え切れなくなったモリは、これ以上の会話はやめてただ逃れる事だけを考え始めた。掴まれている左腕を振り解こうと体全体で抵抗する。

 セツの顔に喜悦に満ちた笑みが浮かんだ。モリの怒った表情も、右手から伝わってくる弱々しい抗いの動きも、セツにとっては心喜ばす御馳走と変わりはなかった。モリによって乱された長髪をかき上げながら、上気した頬にくっ付かんばかりに自分の顔を寄せ、その耳にささやく。


「繋離詠……」


 セツの口から漏れた言葉に、モリの動きが止まった。


「それは杜国の業、どうして……」


 セツはまるで追い詰めた獲物を眺める猟犬のような目でモリを見ている。


「あなたは知らないと思いますが、私の言霊の嵐雪は、俳諧師だった頃に宗鑑の言霊を宿しているのですよ。嵐雪は芭蕉のかるみに反発して師の存命中から宗匠となり雪門を率いていました。その嵐雪が宗鑑の業に興味を持ったとしても何の不思議もないでしょう。そして宗鑑の言霊を宿すことで、その業の一部を自分のものにした……」

「じゃ、じゃあ、まさか」

「そう、嵐雪も繋離詠を使えるのです。人の心を言葉によって操る業をね」


 モリは逃げようとした。言霊が封じられていてもあの吟詠境での記憶はしっかりと残っている。そして繋離詠という業の恐ろしさも。


「離してください」


 左腕を掴まれたまま必死にもがくモリ。しかし空いていた右腕もセツに掴まれてしまうと、両腕の自由を奪われたまま、背中を教室の壁に押し当てられてしまった。


「ひ、人を呼びますよ」

「おや、そんな事ができますか。もしここで騒ぎでも起こしてしまったら、あのショウ君のことです。あなたが気になって追試どころではなくなるでしょう。それでもいいのですか」


 それはできない、モリは唇を噛んだ。セツの顔に妖しい笑みが浮かぶ。


「知っていますよ、ショウ君の幼馴染のモリさん。そしてショウ君とコトさんの関係も。あなたの大好きなショウ君は既にコトさんのものなのですよ。あなたがどんなにショウ君を思っても、彼はあなたの彼氏にはなってくれない。せっかくの楽しい高校生活を片思いのままで過ごしていくなんて、勿体無いと思いませんか。それよりも私を彼氏にすれば、あなたの高校生活はもっと輝くはずです。そしてそれは、言霊を持っている今のあなたなら簡単に実現できるのです。私と一緒に吟詠境に行きさえすればね」

「杜国は封じられています。吟詠境は開けないはずです」

「何も知らないんですね。あの封は一方通行の封なのです。内側の杜国が外側に手出しをできないだけで、外側の私たちの発句は杜国に届くし、それに合わせて杜国も発句を詠めます。吟詠境に入って破封すれば、杜国は晴れて自由の身。そして私は現し身であなたの意識を杜国に移すこともできるのです。繋離詠であなたの中ににあるショウという言葉から愛慕という言葉を引き剥がし、セツという言葉に心酔という言葉を繋ぎ合わせる、それだけであなたの高校生活はバラ色になるのです。同時にショウ君への想いも消えてしまいますけどね」


 ショウへの想いが消える、それはモリには耐えられないことだった。何としてもセツの思い通りにさせてはいけない。


「そんなの絶対に嫌です」

「あなたが嫌でもそうなってしまうのですよ」


 不意にセツの瞳の色が変わったような気がした。その瞳の中に微かに見える別の人物、その人物が自分を引き込もうとしている、モリは咄嗟に目を閉じた。これ以上セツの瞳を見るのは危険だ、そう感じたのだ。


「ふふ、抵抗するあなたも可愛いですね、でも無駄ですよ」


 突然、モリは耳たぶに熱い吐息を感じた。思わず体がビクリと震える。耳を塞ごうにも両腕はセツに掴まれていて身動きができない。耳元でセツの声がする。


「視界を閉ざしても声を遮ることはできませんよね。さてと、封じられている発句は何でしょうか」


 聞いちゃダメ、聞いちゃダメ、モリは心の中で叫んだ。しかし意識とは裏腹にモリの全神経は耳に集中してしまっている。


「なるほど、芭蕉の鷹の発句ですか」


 もうダメだ、吟詠境に入ったら自分は何もできなくなる。ショウへの想いが奪われる、小さい頃からずっと持ち続けていた想いが……閉じたモリの目から涙が溢れた。


「鷹ひとつ……」

「こらこら、女子を泣かせる男子なんて最低だぞ」


 女性の声がした。モリが目を開けるとセツの後ろにスーツ姿の女性が立っている。


「ソノさん!」


 セツの手から力が抜けた。モリは両腕を振り解くとソノの元に駆け寄った。セツは振り返るとソノを見た。その顔が口惜しそうに歪む。


「こんなところで其角の宿り手にご対面とは。どうやら私は邪魔者に入られる運命の元に生まれているようですね」

「ふふ、コトちゃんが言ったように結構なイケメンさんじゃないの。でもちょっとやり過ぎね」


 抱きついてきたモリの頭を撫でながら、ソノが厳しい目を向ける。


「セツちゃんの気持ちはわかるけど、アプローチの仕方が間違っているわね。そんなやり方じゃ女子は余計に退いちゃうわよ。もっと優しくしてあげなくちゃ」

「ご親切なご忠告、感謝致します。では」


 悠然と教室を出て行こうとするセツに、ソノは片手を上げて通せんぼをする。


「まだ何か?」

「今日の昼食、付き合いなさい」

「私が、どうして?」

「あら、女性からの食事のお誘いを断るなんて、イケメン男子の礼儀に反するわよ。それに蕉門の言霊を持つ者同士、一度は吟詠境でお互いを確認したいと思わない?」

「生憎、そんな暇はありませんので」


 セツはソノの手を避けて通り過ぎようとするが、ソノも簡単には諦めない。


「ね、モリちゃん、あなたも来るわよね」

「わ、私は行っても吟詠境には入らないし」

「ショウちゃんも来るのよ」

「ショウ君が来るなら……行こうかな」


 その返事を聞いてセツの動きが止まった。


「せっかくのお誘いを断るのも悪いですね。私もご一緒させていただきましょうか」


 ソノは小さくガッツポーズをして、場所と時間を教える。セツは「了解、ではまたお昼に」と言ってモリに軽くウインクをすると教室を出て行った。モリはようやく緊張から解放されてほっと息をつく。


「ソノさん、ありがとうございました。でも今日はどうしてここに?」

「追試試験の監督のバイトでーす、と言いたいところだけど、来週から始まる教育実習のお礼も兼ねて無給なのよね。ショウ君の悪戦苦闘ぶりを見てやろうと思ってここに来たら、たまたま、あなたたちに出くわしたってわけ」

「そうだったんですか。私、すごく運が良かったんですね」

「そうね、でも、あたしが来なくても何もされなかったわよ、多分」

「え、どうして?」

「はっきり言って杜国は蕉門最強の言霊なのよ。いくら嵐雪でも一人では杜国に敵いっこないし、宿り手の願望だったとしても、繋離詠を安易に使うわけがない。それはセツちゃんだってわかっていたはず。本気で吟詠境を開く気なんてなかったのよ。ホラ、言うでしょ。好きな子には意地悪したくなるって。モリちゃんをからかって喜んでいたのね。まさか泣かれるとは思わなかったでしょうけど」


 ソノの話を聞いて、モリの中に怒りが込み上げてきた。悪ふざけにも程がある。こちらは本気で心配していたのだから。


「お昼に会ったら文句を言ってやります」

「お、元気出てきたね。その意気その意気。それにねモリちゃん、気づいてないと思うけど宿り手としてのあなたの素質も最強なのよ。他人の感情に深く共感できる心、これが図抜けているのね。だからこそ杜国も、宿り手の負担を気にせず吟詠境で自分の力を発揮できたのよ。あんな遊び人に宿った嵐雪如き、物の数じゃないわ」


 ソノの話を聞いているうちに、モリはすっかり元の自分を取り戻していた。同時にセツへの恐れも解消されてしまった。と、教室にチャイムが鳴り響いた。


「いっけない、次の試験は私の監督なのよ。急いで職員室に戻らなくちゃ。じゃあ、お昼にね」


 ソノは慌てて教室を出て行った。モリは椅子に腰掛けると、試験を終えて間もなく戻って来るであろうショウを待った。ショウ君ならきっと大丈夫、そんな確信に近いものをモリは感じていた。


 * * *


「えっと、ソノさん、ひとつ質問していいですか?」

「どうぞ」

「どうしてこの店なんですか」

「あら、嫌い?」

「そんなことないですけど」

「じゃあ、いいじゃない。安いし早いし美味しいし、文句のつけようがないお店でしょ」


 それ程遠くない過去に、コトと二人で似たような会話をした気がするなあと思いながら、追試を終えてひと段落した僕は、他の五名と共にとある飲食店の中にいた。とあると言っても食べているのが牛丼なので、その対象は一気に絞られてしまう。

 今回は駅から少し離れた場所に新装開店したばかりの牛丼屋だ。小盛牛丼に生野菜サラダと和風惣菜が付いてくるメニューが売り。四人掛けのテーブルに着いている四人の女性陣は全員そのメニューを選択。隣の四人掛けに座る僕とセツも結局そのメニューにした。もっともセツは選んだ惣菜がモリと同じだったので、単に彼女の真似をしただけなのだろう。


「で、今こちらに向かっているはずの先輩さんも、言霊の宿り手なのですね、ショウ君」


 僕の正面に座って箸を動かしているセツがにこやかに話し掛けてくる。この店に入った当初は仏頂面をしていたのに、しばらく言葉を交わし、ついでに昨晩の勉強会の様子や、結局モリ一人だけが先輩の家で寝て、先輩と僕は僕の家で寝た事を話した途端、別人のように機嫌が良くなった。僕とモリは相変わらず友人程度の付き合いでしかないと再確認できたからだろう。


「うん、宿っているのは去来。だからライさんとかライ先輩とか呼ばれてる。それにしても遅いな、先輩は」


 食事の時間に遅れるなんて、先輩にとってはかなりの珍事である。待たないで先に食べていてくれという連絡があったので、何か急な用事でも入ったのかも知れない。

 しかし、こうして落ち着いてセツを見てみると、服装の乱れを別にすれば感じのいい男子だ。初対面の時には、隣に居たモリの体全体から嫌悪感が発散していたため、僕も良い印象を持てなかったのだが、意外といい奴なのかも知れない。それに、伊達や酔狂で全科目満点なんて取れるはずがない。その点だけは認めてやるべきだろう。


「お会いするのが楽しみです」


 答えたセツの顔のにこやかさが更に増す。この機嫌の良さがモリと同じ店で昼食を取っている現在の状況に起因することは、カンの悪い僕にも一目瞭然で理解できる。

 僕と話をしながら、そして箸で食べ物を口に運びながら、セツはチラチラとモリを盗み見ている。その様子は若干のいじらしさまで感じてしまうほどだ。

 一方のモリもセツの視線を感じるのだろう、時々横目でこちらを見るような仕草をする。当然のことだが、モリの隣に座っているソノさんは、そんなモリの姿に相当刺激されているようだ。口元がすっかりにやついている。また、変なテンションにならなきゃいいがと心配になってしまう。一方、リクとコトは普段どおりに仲良く食事中。この毒舌コンビはマイペースである。


「ところで、ショウ君。追試の手ごたえはどうですか」


 セツが食べながら訊いてきた。僕は結構自信があった。語句の問題に関してはほぼ完璧。読解力の問題も数問は解けた。


「まず大丈夫だと思いますよ」

「おや、自信があるみたいですね。先生が良かったからでしょうか」


 そう言ってまたモリに目を遣るセツ。その瞳はハートマークの幻影が見えそうなほどに甘い。よくこれだけあからさまに自分の好意を曝け出せるものだと、変な部分で感心してしまう。


「うっふっふっふ」


 セツの甘い視線を打ち消すような不気味な笑い声が、隣のテーブルから聞こえてきた。ソノさんだ。


「な、何を笑っているんですか、ソノさん」

「うふふ、実は私は追試の結果を知っているのです」

「え、ど、どうして?」

「三時間目の試験監督を終えた後、答案の採点も手伝ったからです。ふふふ」


 僕は席を立つと、隣のテーブルに歩み寄り、ソノさんの顔に自分の顔を近づけた。


「そ、それで、僕の結果は?」

「ショウ君」

 ソノさんが君付けで僕を呼ぶのは初めてだ。思わず息を飲む。

「今回のことはスッパリ忘れて、期末試験、頑張りなさい」


 腹の底にズシリと響く重低音が頭の中に響き渡った。こ、これは全軍退却の合図を告げる法螺貝の音。負け戦じゃ、皆の者、退け、退けえ~……そうか、僕の高校生活は終わったのか。さようならバラ色の日々よ、というような妄想を思い浮かべる間もなく、大きな叫び声が聞こえてきた。


「うそっ、ソノさん、嘘でしょ!」

 モリだった。

「あんなに頑張ったのに、そんな事って……」


 まるで自分が落第したかのような落胆ぶりに、当事者の僕の方が気の毒になってしまう。


「やれやれ、君たち、早合点しすぎですね」

 今度はセツの爽やかな声が聞こえてきた。

「ソノさんは期末を頑張れって言ったのです。中間の追試で合格しようが不合格になろうが、期末で赤点を取れば有無を言わさず夏休みは補習。つまり追試で合格だったとしても、期末は頑張らなきゃいけないのです。ソノさんの言葉だけで、今回の追試を不合格とは決め付けられないですよ」

「ふふ、ご想像にお任せします」

「ソノさん、ふざけるのはやめてくださいよ、もう」

「ごめーん、でもモリちゃんをからかうのは面白いんだもん」


 僕は呆れて元のテーブルに戻った。セツの言葉通り今回の追試は期末試験に比べれば重要度は低いと言える。余り気にすることもないだろう。


「よお、待たせたな」


 先輩の声だ。ようやく来たのかとそちらを見て、遅れてきた理由がすぐにわかった。先輩一人ではなかった。父つぁんを連れて来ていたのだ。

 新たに呼び出したコトとリクはこの町の住人だが父つぁんは違う。駅に到着するにも時間がかかるから、先輩はそれを待っていて遅れたのだろう。


「お、セツってのは君か。ほほう、噂どおり男前じゃないか。女の子にもモテるだろう。だが、その髪は長すぎる。夏服になる前に散髪に行った方がいいぞ」

「有難いご忠告、感謝します」


 セツに対する先輩の断髪命令予想が見事に的中して、内心で噴き出してしまった。丁寧に返答しているけど、セツには髪を切る気なんか毛の先程もないんだろうな。いや、そんな事よりも父つぁんだ。今から吟詠境に行くことは知らせてあるのに、どうして連れて来たのだろう。宿り手でない父つぁんはもう関係ないはずなのに……僕の疑問をよそに、隣に座った先輩はセツの隣に座った父つぁんを紹介する。


「で、こっちは父つぁんだ。ショウの同級生で俺と同じ剣道部の後輩。仲良くしてやってくれ」

「父つぁん、ですか。ちょっと言い難いですね。トツ君でいいかな」


 どこまでも丁寧な口調に拘るんだなあ、セツは。さっきも年下のリクに「よろしくリクさん」とか言って、リクがドン引きしていたし。今度、幼稚園児に会わせて、何と呼ぶか確かめてみたいところだ。


「いや、別にトツと呼び捨てでもいいぞ。こちらはセツって呼ぶけどいいか。あ、あと、試験の時には頼りにしてるぞ」


 父つぁんも結構ちゃっかりしている。向かい合って握手をしている二人を見ていると、父つぁんもセツに対してそれ程悪い印象は抱いていないようだ。


「よろしく、トツく……」


 セツの声が止まった。そして次に起きたのは突然の、そして予想もしなかった出来事だった。セツの体から言霊の影が色濃く噴出したのだ。


「な、セ、セツ……」


 どうしたんだ、と問い掛けるはずの僕の言葉は途中で消えてしまった。この尋常でない程の濃さの影。セツ自身が嵐雪になってしまったかのような錯覚さえ覚える。

 セツの豹変に驚きながらその顔を見ると、瞳の色も変わっている。先輩の瞳にもソノさんの瞳にも見たことのない銀色の輝き。セツは握っていた手を離すと席を立った。


「こ、これはどういうことだ、何故この男が」


 口調まで変わっている。もういつものセツじゃない。そして次にセツがつぶやいた言葉は、僕が想像だにしていないものだった。


「小柄小刀、そして宗鑑の言霊の分身……」

「セツちゃん!」


 いつの間に来たのだろうか。隣の席に座っていたはずのソノさんがセツの背後に立っていた。


「その話は後でするわ。今は落ち着いて。席に座って」


 両肩を押さえつけるようにして、ソノさんがセツを椅子に座らせた。セツを覆っていた影は次第に薄くなっていく。同時にセツも、セツの瞳も、元のセツへと戻っていく。やがて普段どおりの表情に戻ると、口を開けたままの父つぁんに頭を下げた。


「失礼、驚かしてしまったようだね、トツ君。気を悪くしないでくれ」

「あ、ああ、正直驚いたよ。ライ先輩には言われていたが、まさか本当にわかるとはな。まあ、事情はそれなりに飲み込めているから、セツも気にしなくていいぞ」


 父つぁんが驚くのも無理はない。小柄や宗鑑の言霊のことを、誰かがセツに話したとは思えない。それでもセツにはわかったのだ。見えたのだ。そして先輩の次の言葉を聞いてそれは確信に変わった。


「さすがは蕉門随一の眼力だな。ソノさんに言われた時は半信半疑だったが、やはり見えたか。父つぁんを連れてきて正解だったようだ」


 牧童の言霊は消滅した。しかし小柄に宿る宗鑑の言霊の分身はまだ残っている。きっと父つぁんとも僅かではあるが繋がりを保っているに違いない。父つぁんの中にある微かな残滓だけを頼りに、嵐雪の眼力はあの小柄を、そして宗鑑の言霊の分身を見抜いたのだ。


「おう、まだ注文していなかったな。父つぁん、遅れてきたんだから早くしようぜ」


 何事もなかったかのように平然と振舞う先輩と父つぁん。わざわざ関係のない父つぁんを連れて来た理由がやっとわかった。そしてそれがソノさんの提案であることも。もしかしたら、セツの言動にほとんど動じずに食事をしているコトやリクも、承知だったのかも知れない。何も知らされていなかった僕は、相変わらず蚊帳の外なんだなあと、ちょっと悲しくなる。

 セツは再び食べ始めた。だがその様子はこれまでのセツとは違っていた。モリではなく隣に座る父つぁんを明らかに気にしている。嵐雪の意識が、まだセツ自身に影響を与えているのだろう。モリに示していた桁外れな関心をあっけなく打ち消す、嵐雪の強烈なまでの意識。それはまた嵐雪が、どれほど宗鑑に対して執着しているかを物語っているようでもあった。

 やがて、僕らが食べ終わった頃に、先輩たちの料理が運ばれてきた。


「一気に片付けるからな、ちょっと待ってくれ」


 と言い終わらないうちに食べ始める先輩と父つぁん。この二人は本気になると、噛まずに飲み込んでいるんじゃないかと思うくらいに食べるのが早い。セツが苦笑する。


「よく噛んで食べてください。土曜の午後は始まったばかりですから」


 二人の食事が長引けば、モリと一緒に居られる時間も長くなるのだから、当然の台詞と言える。だが、今はそれ以上に父つぁんへの関心が勝っているようにも見えた。恐らくもっと詳細な情報を聞き出したいのだろう。

 そうこうする内に先輩と父つぁんの食事が終わり、いよいよ吟詠境に入ることになった。周囲に人が居るので、吟詠境に行けない父つぁんとモリに、不測の事態が起こらないように皆を見守っていてくれと依頼する。

 今回の吟詠境の目的は嵐雪との会合である。当然、発句はセツに詠んでもらう事にした。


「さて、発句は何にしましょうかね」

 セツは少し考えた後、

「まあ、有名な句にしますか。暦の上ではもう夏だけど構わないですよね」


 そう言って両手を組み合わせる。僕はセツの瞳を見た。瞳の中の人影が大きくなる。


「梅一輪いちりんほどの暖かさ」


 ああ、確かに有名な句だな、そう感じながら僕の言霊も同じ句を詠んでいた。


「梅一輪いちりんほどの暖かさ……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る