半夜漬け


 次の日の放課後は図書室ヘは寄らず、直接先輩の家へ向かった。モリは朝から学生鞄とは別に大きめのスクールバッグを持って登校していた。何を持ってきたのかと尋ねて、お泊まりセットと追試勉強用の道具一式と答えたモリの顔は、まるでこれから遊園地にでも遊びに行くかのように明るかった。お泊まりするのが楽しみなのか、僕をしごいて勉強させることが楽しみなのか、勿論その時の僕にはわかろうはずもなかった。一方、コトは途中まで先輩宅での勉強会に参加して、遅くならないうちに帰宅するとのことだった。

 三人で玄関の呼び鈴を押すと、先輩の母親が出迎えてくれた。


「まあまあ、本当に久し振りね。昔の面影が残っているわ。でも、まさか同じ高校に入学していたなんてね。さあさあ入って」


 いつも明るい先輩の母親。母親同士仲が良いのに同じ高校に通っていることを知らなかったのは、秘密にしておいてくれと、モリが自分の母親に頼んでいたからである。それ程までして、僕に自発的に気づいて欲しかったのかと思うと、ちょっと胸が痛くなった。


「おばさん、お邪魔します」


 僕らは居間に陣取ってさっそく勉強を開始した。モリは予想問題なるものを作成してきており、先ずはそれから始めることにした。


「ね、コトさんとも話し合ったんだけど、確実に点を取れる問題だけに絞り込んだ方がいいと思うのよ」


 二人の戦略はこうである。読解力や表現力を要求されるような問題は後回しにする。逆に漢字や慣用句などの記憶だけでなんとかなる問題は確実に解答する。満点は狙わず解けそうにない問題には一切手をつけない。手堅い作戦だ。

 さっそくモリの作ってきた問題に取り掛かる。手持ち無沙汰になったコトとモリは、宿題や他の勉強をやり始めた。そうこうするうちに部活を終えた先輩が帰ってきた。


「やあ、ショウ、追試なんだって。お前は昔から文系教科は弱いからなあ」

「先輩、邪魔しないでください」

「お、悪い悪い。でも、もうすぐ晩飯だぞ。三人とも食べていくんだろ」


 コトはどうしようかという顔になった。そこまで考えていなかったようだ。


「コトさん、一緒に食べましょうよ。家には電話すればいいじゃない」


 モリの一言でコトもその気になったようだ。公務員の先輩の父親は帰宅時間が毎日ほぼ同じなので、先輩宅の夕食は平日でも家族全員揃っている。七人で囲んだ食卓の賑やかさは父つぁん家での食事を思い出させてくれた。先輩の両親とは初対面のコトもすぐに打ち解けて楽しそうだった。


「ショウ君から聞いたわよ、ライさん。残念だったわね」

「まったく完敗だったよ。父つぁんも頑張ったんだけどな」


 今、食卓を賑わせている話題は、試験明けの週末に行われた剣道団体の高校総体予選についてだ。試験期間中にようやく右手の怪我の抜糸をしたばかりの父つぁんについては、さすがに試合には連れて行かない予定だった。しかし、試験勉強で無理がたたったのか、参加予定の三年生が風邪をこじらせたため、その代わりに急遽出場することになってしまったのだ。


「スパルタにも程がありますよ、先輩。糸を抜いたばかりで、しかも試験期間の部活動停止で、ろくに練習もしていない父つぁんを試合に出すなんて」

「まったくだよな、ははは。悪いと思ったが人数が揃わなくてな。まあ、お前が素直に剣道部に入部していてくれれば、こんな事にはならなかったんだが」

「勝手なこと言わないでくださいよ。それに結局負けたんだから、出さなくても同じことだったでしょ」

「いや、挑戦して敗退するのと、挑戦せずに敗退するのは月とスッポンほどの違いがある。父つぁんはよく頑張ってくれた。開始三十秒で引き上げて来た彼の勇姿に俺は感動したよ」


 試合結果は、先輩が一勝出来た他は全敗だった。過去の戦績を調べてみると、剣道部に限らず我が校の運動部は極めて弱小で、そのほとんどが一次予選敗退だ。たまに運動に秀でた者が県予選を突破したりすると、それだけで英雄扱い、一躍全校生徒の注目の的になる、とは先輩の談である。


「ライさんも個人戦に出れば、予選突破くらいは簡単じゃないのかしら?」

「スポーツとは、目的を同じくする仲間たちと、共に汗を流して楽しむものなのだよ、コトさん。個人で参加なんて俺の主義に反する」


 また偉そうな事を言ってるなあ、先輩は。それならサッカーでも野球でも一人では絶対に出来ないスポーツをやればいいのに。剣道を選んで個人でプレイするのが嫌だなんて、ちょっと可笑しいな。


「そうね。俳句は一人で詠むものだけど、みんなで集まる句会も別の楽しさがあるし、そもそも昔の俳諧連歌は団体競技みたいなものだものね」

「面白いこと言うなあ、コトさんは」

「どちらも最初が肝心。発句と先鋒でその後が決まる」

「おい、ショウまで上手いこと言うじゃないか。さっそく猛勉強の効果が現れたか。これなら明日の追試は大丈夫だろう。ははは」


 陽気に笑う先輩、釣られて笑顔になる僕ら。本当にそうならいいんだけど、こればかりは胸を張って、はい大丈夫ですと言える自信がない。とにかくモリに全てを託して残りの時間を頑張ろう。

 夕食後、遅くなったので先輩の父親がコトを車で送っていくことになった。


「それじゃ私は帰るけど、ショウ君、しっかり勉強するのよ。モリさん、甘やかさずにビシビシしごいてあげてね」

「任せてください。コトさんの分まで厳しくしますから」


 モリは力強く自分の胸を叩いて見せた。どうも最近モリのコト化が進行しているようで空恐ろしくなる。いつも一緒に居るのだから影響を受けるのは仕方ないが、その割に、コトはモリの影響を全く受けていないようだ。モリのような癒しの要素は以前と同じく皆無である。

 悪貨は良貨を駆逐するって言うけど本当だなあ。コトの近辺から、癒し系の女子が全て姿を消してしまうのは、そう遠くないに違いない。コト一人だけでも戦々恐々な日々なのにモリまでその戦線に加わるとなると、毎日生傷だらけになりそうだ、体じゃなく心が。


「そうだ、ついでに親父さんに挨拶しておこうぜ」


 玄関でコトを見送った僕ら三人は、そのまま隣の家、つまり僕の家に行くことにした。モリはまだ僕の父には会っていないので、久し振りに顔を見せるのも悪くないだろうとの先輩の配慮だ。


「父さん、懐かしい人が来たよ」


 そう言って、居間に入ると父は食卓で書類に目を通していた。仕事を家に持ち込むのは昔から変わらない。


「おじさん、お久し振りです」

「ん……おお、どこのお嬢さんかと思ったら。大きくなったね」


 書類から目を上げて僕らを見る父の目は、まるで今ではなく遠い過去を見ているようだった。


「よくそうやって三人で母さんをお見舞いしてくれたな。あの時はありがとう」


 父のしんみりとした口調に、僕も昔を思い出す。家に居ても寝てばかりだった母は、それでもモリや先輩が来ると必ずオレンジジュースを作ってくれた。きっと父にはその頃の僕らが見えているのだろう。


「それにしても、モリとかライとか、面白い呼び名だな。俳句の雅号みたいなものなのかな」

「はい、そんな感じです。私たち三人とも俳句を勉強中なので」


 僕も含めて、仲間をあだ名で呼び合っていることは父にも伝えてある。さすがに僕のことをショウとは呼ばないが、話の中でモリやコトが出てくると、最近はその呼び名を使ったりするようになっている。

 父の目が急に虚ろになった。同時に寂しそうな光が宿る。母を語る時にいつも僕に見せてきた瞳だ。


「俳句か、やり始めると面白みがあるんだろうね。母さんにも好きな句があったよ。確か……淋しさの底抜けて降るみぞれかな」

「その句……」


 先輩のつぶやき。父の口から俳句を聞いたのは初めてだった。しかも僕の知らない句。先輩に尋ねる。


「知っているんですか、先輩」

「ああ、丈草じょうそうの句だ」


 丈草は蕉門十哲のひとり、そして最後に見た芭蕉臨終の夢の中にも出てきた俳諧師だ。


「丈草、そう、そうだ。母さんもよく言っていたよ。私の中には丈草が住んでいるって」


 僕らは顔を見合わせた。父の言葉から推測されるあるひとつの可能性、しかし僕らの誰もそれを口には出さなかった。不意に父は夢から覚めた様に照れ笑いをした。


「ははは、すまんな。急に昔の思い出話をしたりして。まあ同じ高校に入ったのも何かの縁だ。これからも昔同様、仲良くしてやってください」

「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」


 モリは頭を下げて父にお辞儀をした。


「じゃあ、父さん、僕らはもう少し勉強してくるよ」

「ああ、頑張れよ」


 家の外に出ると、先輩がすぐに口を開いた。


「なあ、さっきのオヤジさんの話だけど、あれってもしかしたら丈草の言霊が」

「うん、有り得ない話じゃないね」

「でも、お前のお袋さんはもう亡くなって……」

「はい、二人共そこまで」


 モリが僕と先輩の間に割って入った。


「そんな事に気を回している場合じゃないでしょう、ショウ君。とにかく今は明日の追試のことだけを考えてください」

「お、そうだったな。悪い、もう邪魔しないよ」


 先輩は僕らから離れると、一人、小走りで自宅に向かった。


「さあ、ラストスパート行きますよ、ショウ君」


 気合いの入ったモリの声に、僕も頭を切り替えて先輩の家へ戻り勉強の続きを開始した。


 それからはモリの特訓が待っていた。とにかく正解するまで同じ問題を何度でもやらされ、少し時間をあけてまた同じ問題をやらされた。確実に解ける問題をひとつでも多く用意しておくのがモリの方針のようだった。途中、風呂に入り、差し入れの夜食を取り、日付が変わるまで続いた頃、

「おい、そろそろ寝ろよ。寝不足で試験中に眠っちまったら意味ないだろ」

 と、先輩の有難い忠告が入った。さすがに僕もモリも睡魔に襲われ効率が落ちてきていたので、素直に忠告に従いあとは運を天に任せて休むことにした。


「どうもお邪魔しました」


 そう言って自宅に帰ろうとすると、なぜか先輩も一緒に付いて来る。理由を聞くと「あんな可愛い子が同じ屋根の下にいると気になって眠れない」とのことだった。先輩に姉妹がなくてよかったですね。もし居たら毎日寝不足ですね、と疲れた心の中でもツッコミを入れてしまう自分は、すっかりツッコミ体質になってしまっているようだ

 しかし、先輩に別の目的があったのはすぐにわかった。居間の隣の和室に先輩の布団を敷いているとこう訊いてきたのだ。


「嵐雪の宿り手に会ったんだってな」


 そうだ、先輩にはまだ話していなかった。責める口調ではないし、隠していたわけでもないのだが、それでも若干の後ろめたさを感じる。


「あ、はい、すみません。追試で頭が一杯で話しそびれてました。でも誰から」

「コトさんだよ。夕食前に教えてくれたんだ。もう少し知りたかったんだが、モリゾウが居ると話題にし辛いんでこっちに来たんだ。それでどんな感じの奴なんだ」


 モリを避けるということは、二人の関係については聞いているのだろう。それ以外となると僕もさほどの情報を持っているわけでもない。


「会っていたのはホンの数分だから、詳しくは知らないんです。学年一位の秀才で銀縁メガネをしていて、でもその割に制服を着崩したり、長髪だったりで、どことなく不良っぽくて」

「嵐雪についてはどうだ。芭蕉と嵐雪しか知らないような記憶は流れ込んで来なかったか」


 僕を見る先輩の目が鋭く光る。去来の目だ。その眼光に導かれるように、セツと初めて会った時に脳裏に浮かんだ夢のような情景を思い出す。僕の口が喋り出した。


「嵐雪は、宗鑑の言霊の片鱗に気づいていた。宗鑑に近づいたのはそれを消すため……」

「そうか、やはりな」


 先輩の目が元に戻った。そしてすぐに陽気な声が聞こえてきた。


「悪い、夜更けに変な質問しちまったな。詳しくはまた後日訊くよ」


 話が打ち切られたようで中途半端な気分だ。それに言霊に関してはセツよりも気になっている事がある。今度はこちらから訊いてみる。


「それよりも、さっき聞かされた父の話はどう思いますか。母と丈草の関係は……」

「それも後日にしようや。とにかく今は明日の追試を乗り切ること、それだけを考えようぜ。先生を二人も付けて頑張ったんだからな」


 どうやらこの話題はこれで終わりにしたいようだ。こちらは話し足りないし聞き足りないが、先輩の意向では仕方がない。

 それでも、このままでは寝付きが悪くなりそうなので、もう少し話をすることにした。先輩の言葉尻を捕らえて、先生を二人付けたのは僕ではなくコトの仕業である事や、モリの願いを聞いてやる約束を勝手にされてしまった事などを話す。先輩の口から笑いが漏れる。


「ははは、そうか。小さい頃からモリゾウに対しては見栄っ張りなお前が、どうして勉強を教えてもらっているのか不思議だったんだが、コトさんの仕業か」

「もっと優しくしてくれてもいいと思うんですよ、コトさん。僕に対してだけは厳しいからなあ」

「優しいじゃないか。お前、考え違いをしているぞ」


「えっ?」と言いそうになるのを堪えて、笑顔の先輩を見る。そこに輝く瞳は、またも別の光を放ってこちらに向けられていた。


「メシの前にお前たちの勉強風景を見ていたが、コトさんは教えるのが下手だ。勉強ができるから勉強を教えるのが上手だとは限らんからな。お前から助力を持ちかけられても、自分では、お前に合格点を取らせるのは無理だと感じたんだろう、だからモリゾウに頼んだんだ。しかもモリゾウを本気にするために、わざわざご褒美まで用意してな。その甲斐あってモリゾウも想定問題を用意し、泊まりこみで教える気になった。ここまでお膳立てしてくれたコトさんを悪く思うなんて罰が当たるぞ」


 まるで吟詠境で去来に諭されているような感覚だった、同時にそれは佐保姫がこれまで僕に言ってきたことの繰り返しでもあった。これだけ長くコト一緒に居ても、まだ僕は彼女を理解できずにいるのだ。


「さあ、寝るぞ。お前も部屋に戻ってさっさと寝ろよ。ここまで来たらジタバタしても始まらんからな」


 言いたい事を言ってしまうと、先輩は布団をかぶって寝てしまった。自分の不甲斐なさを改めて認識させられた僕の心身は、忘れていた疲労を思い出して鉛のように重くなっている。二階に上がってベッドに潜り込むとすぐに睡魔が襲ってきた。コトやモリのためにも、明日――いや、もう今日になっている――の追試は死ぬ気で頑張ろう、そう思いながら僕は深い眠りに落ちていった。

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