約定の業・言霊繋離詠


 その影は薄れていた。存在しているとは思えぬ程に儚げな姿であった。六畳敷きの狭い庵の中に座る七人の顔を、ほのかな燈台の灯火が照らしだす。耳を澄ませば深夜に降るみぞれの音がシンシンと聞こえてくるようだった。庵の真ん中に座る影薄き年老いた僧は、彼を囲む六人に深々と頭を下げた。


「かような姿となった私を許していただきとうございます。そして芭蕉翁よりの預かり物すら、このような有様にしてしまった私を……」


 そう言って丈草は懐から数珠を取り出し畳の上に置いた。その数珠もまた丈草の体と同じく薄れ、輪郭すらぼやけている。


「丈草殿、御身に何が起こったのか、詳しく話してくださらぬか」


 それは去来だけでなく、丈草を取り巻く六人全員の言葉でもあった。丈草は顔を伏せたまま、話し始めた。


「芭蕉翁によって我が身に掛けられた封が解けた時、一人の娘が私の目に止まったのでございます。私の言葉を愛するその娘は、どことなく幼い時に亡くした私の実母に似ているようでした。そしてその娘もやはり病に苦しんでおりました。私はその娘に宿りました。程なく宿り手の知り合いであるこの寺の住職が、旧知の俳諧師、史邦ふみくに殿の言霊を宿していると知った私は、時折、吟詠境にて史邦殿と会しては、昔話に花を咲かせるようなこともしていたのでございます。やがて我が宿り手は嫁入りすることとなり、この地を離れました。その頃からでしょうか、宿り手の病は一層重くなり始めたのです。子を宿した時、産めば命に関わる程でしたが、それでも子を望む我が宿り手を、私はどうしても見捨てられませんでした。遂に私は宿り手の為に我が言霊の力を使う決断をしたのでございます。この言霊の業も力も芭蕉翁よりいただいたもの、それを宿り手の為に使うのは門人としてはあるまじき行いとは思えども、我が宿り手の悲しき決意を叶えさせてやりたいという私の想いは、無視するには余りに大きかったのでございます。私の言霊の力を命の力に変えて、我が宿り手は子を育て、しばらくは生き長らえました。が、病の影は日増しに強くなって参りました。共感から得る力を全て命の力に変えても、もはや宿り手を回復させることが叶わぬ程にまでなった時、実家で療養中の宿り手の元を史邦殿の宿り手が訪れたのです。私どもは久し振りに吟詠境で顔を合わせました。史邦殿はやつれた私の顔と、これまでの経緯を聞いて深く同情され、『ならば私の言霊の力をお使いなされ』と言われたのです。固辞する私に史邦殿は業を使われました。まさか、と私は思いました。私と芭蕉翁の他は数名のみが持ちうる、言霊の力を他者に与える業、その業を史邦殿も持っていたのです。己の全ての力を私に与えて史邦殿の言霊は消えていきました。その時ほど私は私のわがままを恨んだことはございません。幼馴染の友までも犠牲にした罪深い己を私は憎みました。この罪を贖う為に、我が宿り手の為にできるだけの事をしよう、私はそう心に決めました。史邦殿より授かった力は全て宿り手の命の力に変えました。それでも宿り手の命は一日一日と磨り減っていきました。同時に私の力も衰えていきます。そんなある日、思いも寄らぬことが起きたのでございます。芭蕉翁の預かり物である数珠が私の前に姿を現したのです。芭蕉翁の言霊がなければ姿を現さないはずの片鱗が何故……しかしその理由はすぐにわかりました。片鱗には約定の業が掛けられていたのです。片鱗を預けた言霊が消えればその片鱗も消えてしまいます。それ故、私の言霊の力が片鱗の持つ力よりも小さくなった時、片鱗は姿を現し私に力を与え始める、それがこの数珠に、いえ恐らくは全ての片鱗に掛けられた約定の業だったのです。それ程までに門人を思い遣る芭蕉翁のお気持ちに触れた時、私はようやく自分の使命に気づいたのでございます。この片鱗をお返しする為に私は言霊になったのではないか。このまま片鱗と共に消えてしまっては、芭蕉翁のご恩に報いることはできまい……私がこの宿り手から離れれば、宿り手の命が絶えるのはわかっていました。けれども己の使命に気づいた私には、もう選択の余地はありませんでした。私に力を与え続ける数珠は既にその姿が薄らぎ始めていたのです。せめてもの手向けに私は私自身の数珠を与えて、宿り手を離れました。ほどなく宿り手の命は絶えました。私は己の言葉に留まりながら、しかし、どうしても他の宿り手を探す気にはなれなかったのでございます。そして墓誌に私の発句が刻まれているのに気づくと、私はそこに宿りました。今は亡き我が宿り手との思い出に浸るための、ほんの一時の宿りのつもりでした。ところが私はそこで思いもかけぬ言霊の力を得ることになったのでございます。その墓にはかつての史邦殿の宿り手が毎日訪れ、墓誌に刻まれた我が発句を詠んでくれます。そしてその詠唱が私に言霊の力を与えてくれるのです。我が言霊の一部となった史邦殿の言霊を通して、私はその宿り手とささやかな繋がりを持っていたのです。そして我が発句に寄せる彼の共感が、私に言霊の力を与えてくれたのでした。私は再び史邦殿に感謝をしました。私が我が宿り手の墓に宿ることを見越し、かつての史邦殿の宿り手自身さえも気づけぬ意識の底に、毎日の墓参の義務を植えつけたのでしょう。以来、この数珠から授かる言霊の力と、毎日墓の前で我が発句を詠んでくれる、かつての史邦殿の宿り手から得られる共感の力だけを頼りに、丈草はこの身を長らえて参ったのでございます」


 丈草の話が終わっても誰も口を開こうとしなかった。これ程までに己を捨てて日々を過ごしてきた丈草に、掛ける言葉が思いつかなかったのだ。長く重い沈黙の後、ようやくショウが口を開いた。


「丈草さん、母の為にそこまで尽くしていただいてありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます」


 母を生き長らえさせる為に己の言霊の力を捧げ続けた丈草に、ショウは全身を震わされるほどの感動を覚えた。どれだけ言葉を尽くしてもこの感謝の気持ちを表すことはできまい、ショウは深く下げていた頭を上げ、力を込めて言った。


「今度は僕が丈草さんの力になります。僕は言霊の力を与える業を持っています」


 丈草の顔に笑みが浮かんだ。だが、それは悲しい笑みだった。


「芭蕉翁、いやショウ殿とお呼びすべきでしょうか。有難いお言葉にこの丈草、身が縮む思いでございます。されど、この数珠を元の姿に戻すのが先決かと思います。門人の皆様、お力をお貸しいただけますか」


 丈草の言葉に一同頷くと、各々数珠に手を触れた。丈草の業を用いて門人達の力を数珠に注げば、この消えかけた姿も元に戻る、それはショウにも理解できた。しかし、ショウは丈草の顔に浮かんだ悲愴な決意が気に掛かった。それは本復丹丸に力を込める時に見せた凡兆の表情と同じだった。ショウの手は数珠ではなく、丈草の手に重ねられた。


「ショウ殿、何を……」

「丈草さん、あなたは残っている自分の力の全てを、この数珠に注ごうとしている。言霊の力を使い切りその身を消し去るつもりなのでしょう。違いますか」


 ショウの手の平の下で丈草の手が僅かに震えた。そして答える丈草の声もまた震えていた。


「この数珠が、ショウ殿が求めておられる芭蕉翁の最後の言霊の片鱗であることはわかっております。身に着ければ、直ちに芭蕉翁は姿を現しましょう。しかし、私は芭蕉翁にお会いできません。賜った言霊の力を宿り手の為に使い、預かった言霊の片鱗の力を我が身の為に使ったのですから。このような恥ずべき振る舞いをした私がどうして芭蕉翁に顔を合わせることができましょうや。我が身を消し去ることでこの罪を償うしかないのです」

「それは許しません」


 ショウは丈草の手を握り締めた。熱い想いとは裏腹に、その手はみぞれのように冷え切っていた。


「宿願を果たす前に片鱗を預けた門人を失うことは、どんな理由があろうとも許さない、芭蕉さんも同じことを言うはずです。丈草さん、復元された数珠を受け取って芭蕉が姿を現し、この吟詠境が閉じられたら、直ちに墓誌を離れて自分の言葉に還り、相応しい宿り手を見つけてください。母への忠義にこれ以上縛られることはありません。芭蕉の宿り手ショウとして命じます」

「ショウ殿……わかりました。仰せのままに致します」


 丈草は頭を垂れた。ショウは握っていた手を離し、再びその手の平を丈草の手に静かに重ねた。そこから伝わるショウのぬくもりにかつての宿り手と同じ優しさを感じた丈草は、迷いを吹っ切る様に顔を上げ、俳諧師らしい威厳のある声で言った。


「では、方々よろしいか。丈草、発句を詠み上げる。ぬけがらに並びて死ぬる秋の蝉」

 数珠がほのかに光り始めた。一同は数珠に触れた手に力を込める。丈草が季の詞を発す。

「秋の蝉!」


 数珠の光が強くなる。ショウは数珠ではなく丈草の手に力を込めた。発句と季の詞だけで丈草の力はほとんど使い尽くされていた。にもかかわらず、丈草は更に数珠にも力を与えていた。直ちに言霊の力を与えねば丈草の存在自体が危うい状態であった。ショウはただひたすら、己の力を丈草に与え続けた。

 数珠が放つ光が一際大きく輝き、庵の内部を明るく照らした、と思った瞬間、その光はたちどころに消えてしまった。今はもう元の通りの、ほのかな燈台の灯火が照らす薄暗い庵である。そしてそこには一連一重の数珠がしっかりとした姿で置かれていた。


「丈草さん!」


 ショウが声を上げた。数珠とは違い、未だ影のように薄れたままの丈草。その体がゆっくり傾くと畳の上に横向けに倒れた。


「今の業で意識を失うほどに力を使われたのだろう」

 去来は丈草を仰向けに寝かせると、己の羽織を脱いでその体に掛けた。

「今はゆっくり休まれよ、丈草殿。それよりもショウ殿、数珠を」


 去来に言われ、ショウは畳の上の数珠に目を遣った。今はもう完全な姿となった数珠。丈草が命がけで渡し、そして自分が探し続けた言霊の片鱗の最後となる数珠。ショウはそれを手に取った。感じた。新たな力が身の内に湧き上がってくる。ショウは傍らの杖を手に取り立ち上がると庵の戸を開けた。みぞれはまだ降り続いている。


「寿貞、そなたの数珠も渡してくだされ」


 その声はもうショウではなかった。寿貞尼は自分の数珠を外すとショウに渡した。戸口の草履を履いてショウはみぞれの中へと歩き出す。他の五名もそれに従った。右手に杖を左手に二連の数珠を持ったショウは天を仰いだ。


「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」


 降っていたみぞれが止み、雲が切れ始めた。切れた雲間から下弦の月が顔を出し、一面の荒野の外れに立つ庵と六人の姿を淡く照らす。ショウは地に杖を突き立てた。


「破れた風に飛ぶ寒雀」


 ショウの足元から一斉に雀が飛び立った。地中から湧き出るように何百羽という雀が次々現れ、けたたましい羽音を立てて飛び回りながら、ショウの姿を完全に覆い隠す。


「鳥帰る!」


 ショウの発する季の詞が吟詠境に響き渡った。雀たちは全て空へと飛び去り、その中から現れた姿は既にショウではなかった。意識も姿も、門人達が待ち望んでいた彼らの宗匠、芭蕉本人であった。


「おお、遂に芭蕉翁が!」


 其角と去来、そして許六はすぐさまその元に駆け寄ると、濡れるのも厭わずに、ぬかるむ地面に片膝を着き、頭を下げた。


「うむ、門人の方々、手間を掛けた」


 寿貞尼は庵の戸口に手を掛けて芭蕉を見ていた。その目には涙が光っているようだった。

 不意に、嵐雪が覚束ない足取りで芭蕉に近づいた。その目はまるで遠くを見ている様に焦点が合っていない。


「嵐雪殿、いかがなされた」


 ただならぬ気配を感じて去来が尋ねても嵐雪の返事はない。やがて芭蕉の前に立った嵐雪は発句を詠んだ。


「寒くとも火になあたりそ雪仏」


 去来は我が目を疑った。嵐雪が詠み終わるや、目の前の芭蕉の姿が学生服を着たショウに変わったのだ。


「寿貞尼殿が!」


 許六が声を上げる。去来が庵の戸口に目を遣ると、そこに立っていたはずの寿貞尼の姿が消えてなくなっていた。


「寿貞尼殿が、消えた」

「嵐雪! 貴様、何の真似だ!」


 気色ばんだ其角が嵐雪の胸倉を掴む。が、嵐雪は構わずに季の詞を発す。


「雪仏!」


 戸惑った表情のショウの姿が揺らぎ、何かに覆われるように希薄になった。しかし、その姿はすぐさま別のものとなって現れた。そこに立っていたのは芭蕉でもショウでもなく、黒い法衣をまとった一人の老人。去来は息を飲んだ。


「ま、まさか、こんなことが……」


 ほんの数日前、桜の木の下に突然現れた言霊の俳諧師、蕪村。その体に宿っていた言霊。その老人はあの時見えた言霊の姿と同じだった。


「随分と手間取ったのではないか、蕉門の方々よ」


 不気味なまでにほくそ笑みながら四人を眺める老人、それは紛うことなく宗鑑であった。


「嵐雪、貴様、何をしたのだ。言え、言わぬか」


 掴んだ胸倉を激しく揺さぶりながら、尚も嵐雪に詰め寄る其角。そこまで責められても嵐雪の目は虚ろだった。己が何をしたのか、何が起きたのか、それすらわかっていないようだった。


「嵐雪を責めるでないぞ、其角。奴にはあずかり知らぬことよ」


 宗鑑に声を掛けられて、其角は掴んでいた嵐雪を地に投げ飛ばすと、相手を睨みつけた。


「貴様、宗鑑なのであろう」

「いかにも」


 そこまで聞けば許六も黙ってはいない。


「芭蕉翁をどうされたのだ」

「安心せい、消えてはおらぬ。元の言葉に還ったまでの事。わしに宿り手を奪われてな」


 己の宗匠を軽んじる宗鑑の口調に、其角と許六の怒りは頂点に達した。一度ならず二度までも宗匠から引き離された屈辱、今こそ晴らすべし。許六は季の詞を発した。


「槍遣初!」

 許六の手に鎌十文字槍が現れた。其角もまた両手を組む。

「我ら宗匠の仇、今こそ討たん」

「待たれよ、二人共」


 止めに入ったのは去来だった。闘志みなぎる二人の前に立ち塞がり、暴れ馬を諌めるように穏やかな声で言う。


「仮にも相手は俳諧の祖たるお方ぞ。先ずは話を聞こうではないか」


 言葉とは裏腹に去来の目は怒りに燃えていた。宗鑑への憎悪は、決して二人に劣ってはいない。しかし数日前、蕪村が現れた時、芭蕉はショウの口を借りて闘うなと命じた。今はその時と同じ門人、いや、ショウが居ないのでその時よりも戦力は劣っている。ここは争わずに切り抜けるのが得策、去来はそう考えたのだ。


「ほう、蕉門にも話のわかる門人が居ると見える」


 去来に制せられた其角と許六は、それでも敵意の籠もった眼差しで宗鑑を睨みつける。去来は己の心を静めるようにゆっくりと尋ねた。


「宗鑑殿、嵐雪殿に何をしたのか、そして、何故芭蕉翁が消え、貴殿が現れたのか、説明してくださらぬか」

「簡単な話だ。言霊繋離詠、言霊と宿り手を繋ぎ離す業。嵐雪には約定の業が掛けられていたのだ。それが発動したまでの事」

「言霊繋離詠……」


 つぶやきながら去来は其角を見る。其角は首を振る。


「知らぬのも無理はない。これまで一度も発動しなかった業なのだからな。わしが他の流派の俳諧師と事を構える時には、万一わしが敗れた時の為に、必ずその宿り手に掛けておく業だ。嵐雪よ、お主の眼力を以ってしても、己に掛けられた業を見破ることは出来なんだようじゃのう。わしを破った相手、その者が再び吟詠境に現れた時この業が発動する、そんな単純な事すら気づけなんだとはな。お主が抱くわしへの憎悪が、その眼力を曇らせていたのであろう」

「では、嵐雪は貴殿の業に操られていた、と」

「左様。わしを言葉に還した宗房が吟詠境に現れた時、掛けられていた嵐雪の約定の業が発動した。嵐雪の詠唱により、宗房は宿り手との繋がりを断たれて、かつてのわしと同じく元の言葉に還され、代わりにわしがこの宿り手と繋がった。それだけの事よ」


 嵐雪は両手を地に着けて宗鑑の話を聞いていた。宗鑑が宿ったのは今から三百年以上も前。その間、そのような業が掛けられていたことに気づけなかった自分の不明、最早、言い逃れも出来ぬ大罪である。

 しかも己は芭蕉の出現に名状し難い忌避感を覚えていたのだ。その理由を深く考え抜けば、この事態は避けられたのかも知れない。そう考えると、愚かな己を叩きのめしたくなるような怒りと悔しさが身の内に渦巻くのだった。

 芭蕉消失と宗鑑出現の理由がようやく飲み込めた去来は再び宗鑑に向かう。


「では宗鑑殿、お願いだ。その者から離れてはくれぬか。望み通りに芭蕉翁を宿り手から引き離し元の言葉に還した今、宗鑑殿がその者に留まる理由はなかろう。宿り手としてもっと相応しい者を探されては如何かな」

「ふふ、さすがは去来、口が達者だな。確かにこの宿り手は小者すぎる、わしもそう思っておった。だがこうして宿り、その記憶を読んでようやくわかったわ。何故、宗房がこの者を宿り手に選んだか。現し世の業を耐え抜いたこの者の素質、去来、お主が気づいておらぬとは言わせぬぞ」


 ショウから宗鑑を追い出し、争うことなく吟詠境を閉じる、それが去来が目指すこの場の最高の収め方だった。そして、己の言葉に唯々諾々と従ってくれるほど、宗鑑が甘い男でないことも去来にはわかっていた。宗鑑の反論を受けて去来も次の言葉を返す。


「確かに宗鑑殿の言葉通り。が、それはあくまでも素質。現状は、やはり小者にすぎませぬ。再び蕪村殿に戻られる事こそ、今の宗鑑殿にとっては最良の選択かと」

「蕪村か。わしも最初は驚かされたわ。まさか今の世に言霊の俳諧師がおろうとはな。封が解けるまでその存在に気づくこともできなんだ。しかし、騙されたわ」

「騙された、とは?」

「蕪村が使っていたのは言霊隠しの業ではない。言霊封じの業よ。あれだけ完全に言霊の力を封じる俳諧師を、わしは見た事がない。それは一種の牢獄。わしは蕪村の中に幽閉されているに等しい状態であった。しかも奴はわしが残した言霊の片鱗を探し求め、自分の生命力に変えていた。のみならず、わしの言霊の力すら生命力に変えていたのだ。わしの黒姫の業をも上回る、奴の逆宿り身の業……もし嵐雪の約定の業が発動しなければ、わしは奴の中で朽ちていたかも知れぬな」


 宗鑑が語る蕪村の真の姿は驚きであると共に、大きな安堵を去来に感じさせていた。やはり蕪村は我ら蕉門の味方であったのだ。宗鑑の意に屈したわけではなかったのだ。己の思惑が外れた事に去来はむしろ喜びを感じていた。しかし、これでは宗鑑は再び蕪村に宿ることは有り得ない。ショウから追い出すための新たな理由が必要だ。去来は頭を巡らし何か良い方策はないかと考えた。

 考えあぐねる去来を愉快そうに眺める宗鑑。その顔には大胆不敵な笑みが浮かんでいる。やはり事を構えねばこの場は収まらぬか、去来がそう思い始めた時、宗鑑が意外な言葉を吐いた。


「去来よ、わしはもう蕉門に対して何の敵意も持ってはおらぬ」


 去来の眉間に皺が寄った。宗鑑の言葉とは到底思えなかった。何か裏があるのではないか、疑心暗鬼の眼差しで訊き返す。


「敵意がなければ、我らとどうされるお積もりなのか」

「わしと手を組まぬか、蕉門の方々よ」


 それもまた去来にとっては信じ難い言葉であった。其角と許六も愚弄されたと言わんばかりの表情になっている。


「手を組むとは、どのような意味か、宗鑑」

「そう激するな、其角よ。多くの門人を謀り、宗匠を死に追いやったわしを憎む気持ちはわかる。だが、それは数百年も前の話だ。今に至るまで残っている言霊は僅かに過ぎぬ。互いにいがみ合っても仕方あるまい。言霊同士、手を組む時ではないかと言っておるのだ。我が望みを叶える為にな」

「望み……ならば聞かせてくれまいか、宗鑑殿の望みとはどのようなものなのか」


 去来は今一度、彼らの前に立つ宗鑑を見詰めた。月明かに照らし出された姿形は僧侶にすぎぬが、瞳には武士の如き不屈の意志がみなぎっている。その鋭い眼差しで四人を眺めながら、宗鑑は話し始めた。


「宗房に封じられて三百年以上もの間、わしは封の中からこの国を見続けていた。蕉門の方々よ、お主らは今のこの国をどう思っておる。この国の民に何を感じておる。我らの時代とは変わりすぎたこの国とこの国の民。これは本当に我らの国か、我らが愛した大和の国なのか。食べる物も着る物も住まいも暦も、そして言葉さえも異国の物になってしまったこの国は、もはや我らの国ではない。そのような国に住む者が、我らの言葉に共感などできようはずもない。そうであろう、去来。お主が選んだ宿り手さえ、お主の力を全て発揮できる程には共感できておらぬのだ。このままでは我らの言葉はやがて忘れ去られよう。宿るべき宿り手すら見つけることもできず、我ら言霊は消え行くだけだ。そうなる前にわしはこの国の有り様を変える。正しき国の姿に戻す。我が言霊の業、繋離詠を使ってな」


 宗鑑の言葉は四人の心に響いた。口には出さぬが同じ想いを持っていたからである。四人は諦め、宗鑑は諦めていない、それだけの違いに過ぎなかった。しばらくの沈黙の後、去来が重い口を開いた。


「宗鑑殿、その志、わからぬでもないが、言霊の業でこの国とこの国の人々を変えられようか」

「去来、あの戦国の世を招いたのが我ら言霊の俳諧師達であったこと、忘れてはおるまいな。一万の兵を動かすのに一万の心を操る必要はない。その上に立つ将一人の心を動かせばそれで十分なのだ。この国の人々を見よ。己で考える事をせず、耳に心地よく響く他人の言葉を探し、それを己の言葉として語る。今のこの国の民を操ることなど造作もないではないか。数人の権威者の意識の中にある異国の言葉に嫌悪という言葉を繋ぎ、我らの言葉に親愛という言葉を繋ぐ、それだけでこの国は変わる。簡単な話よ」

「間違っております、宗鑑殿」


 それまで地に両手を着いてうな垂れていた嵐雪が、その身を起こして立ち上がった。


「何が間違っておると言うのだ、嵐雪」


 怪訝な顔でこちらを見る宗鑑を、嵐雪は澄んだ目で見詰めた。


「我らは既に過去の者、現世の仕組みに口を出す資格などあるはずもないのです。今の世は今を生きる人々の為のもの。彼らが今の生き方を、今の言葉を選んだのなら、たとえ我らにとって辛い結果しか招かぬとしても、やはりそれが正しいのです。我らの都合で今の世を変えるなど許されざる行いです」

「では、お主は我ら言霊が消え去るのも仕方なき事と申すのか」

「それが我らの宿命ならば甘んじて受け入れるのみ」

「うむ、嵐雪、よくぞ言うた」


 其角は嵐雪に近づきその肩に手を置く。去来と許六もまた嵐雪に歩み寄ると、宗鑑に向き合った。


「宗鑑殿、繋離詠はこの世に混乱を引き起こすだけの業ではないのかな。捻じ曲げられた人の心はやがて必ずひずみを生む。あの戦国の世もいたずらに人心を乱しただけであろう。新しき世の仕組みを作ろうとした信長公は志半ばで倒れ、結局は足利の世が徳川の世に変わったに過ぎぬ。今の世でも同じ結果となるに違いあるまい」


 四人を眺める宗鑑の顔に失望の色が浮かんだ。


「解せぬのう、これ程の業を持ちながら己の運命を変えようとせぬとは。ならば、蕉門の方々はあくまでわしには賛同できぬと申すのだな」

「左様。禁詠を使おうとする者あらば、それを止めるのが我らの使命」

「止められるかな、わしを」

「言わずとも知れておる。その者から離れぬとなれば、言霊の力を奪い尽くすのみ」


 其角は叫ぶと両手を組んだ。嵐雪も両手を組み、許六は槍を構えた。最早、宗鑑との争いは避けられぬ、去来も覚悟を決めると刀の柄を握った。宗鑑の顔に不敵な笑みが浮かんだ。


「お主らにはできぬ、この業がある限りはな。現し身!」


 四人の姿が一瞬にして変わった。ライ、セツ、ソノ、リク、そしてその四人の前に立つのは学生服を着たショウだ。


「さあ、我が言霊の力を奪ってみよ。この宿り手の命がどうなっても構わぬのならばな」

「うぬっ」


 スーツ姿の其角は両手を組んだまま何もできなかった。剣道着姿の去来の腰の刀は木刀に変わり、制服姿の嵐雪と、金属バットを持った許六は、ただ立ち尽くすしかなかった。現し身が発動した吟詠境で、宗鑑の強大な言霊の力を奪おうとすれば、奪い尽くす前にショウの命は尽きる。宗鑑を消す為にショウの命を犠牲にすることなど、彼ら四人には到底考えられないことだった。


「お主ら蕉門と相対するのに、これ程相応しい宿り手はおらぬ。さあ、我が体を傷つけてみよ、我が力を奪ってみよ」


 挑発的な宗鑑を去来は冷ややかに眺めた。そして静かな声で言った。


「其角殿、挙句を詠んでくだされ。ショウ殿の生身の体が気に掛かる。ここは一旦退くしかあるまい」


 本来は芭蕉同様、姿も意識もショウであるはずの吟詠境で、言霊の力を使うことにより宗鑑はその本体を出現させている。共感を超えた言霊の力の使用は、生身のショウの体力と気力を著しく減少させているはず、これ以上長引かせても何の益もない、去来はそう判断したのだ。其角は腸煮えくり返る悔しさを噛み締めながらも、去来の言葉に従うしかなかった。


「其角、挙句を申す。火も凍る息吐く雪女!」


 流れてきた雲が再び月を隠し、辺りは闇に包まれた。再び降り出したみぞれの中へ消えていく吟詠境に、ただ宗鑑の声だけが響いていた。

 

 蕉門の方々よ、わしはいつでも相手になるぞ……

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