現し世の業


「寿貞尼殿!」


 切羽詰まった許六の声に、ショウは夢から覚めたように我に返った。忘れていた。牧童が消えても寿貞尼とコトの危機が去ったわけではないのだ。横たわる寿貞尼の体は牧童や北枝の体と同じく、地の色が透けて見えるほどに薄くなっている。一刻も早く小柄を破壊し吟詠境を閉じねば、今度は寿貞尼が消えてしまう。


「小柄は……」


 ほとんど沈んだ太陽の残光と眉月の頼りない明かりの中で、ショウは吟詠境の荒地に目を凝らす。小柄はすぐ見つかった。牧童が消えたと思しき場所に、淡い赤光を放ちながら刃を下に向けて土に突き刺さっている。近寄って引き抜こうとすると、


「直接触れてはならぬ!」


 其角の叱責が飛んだ。思わず手を引っ込めるショウ。


「お忘れか、それは宗鑑の分身そのもの。牧童殿の心を支配し、寿貞尼殿の言霊の力を取り込んだ恐るべき強敵。直に触れようものなら、どのような災いが降り掛かるか見当もつかぬ」

「ショウ殿、これを使ってくだされ」


 其角の剣幕をなだめるように許六が差し出したのは、牧童によって切断された金属バットである。受け取ったショウは空洞を利用して、突き刺さった小柄にバットを被せた。そのまま地面にめり込ませ、土ごとえぐり取り、平らな岩の上に小柄を置いた。後はこれを破壊して吟詠境を閉じ、元の現実に戻るだけだ。ショウはグリップエンドが当たる様にバットを逆さまに持って振りかぶると、岩の上の小柄目掛けて思い切り振り下ろした。


「やった!」


 柄と刃の付け根で真っ二つに切断された小柄はその輝きを失った。ショウが初めて蔵で見た時と同じ、赤錆に覆われた何の変哲もない古びた小刀に戻っている。同時に吟詠境全体が揺らいだようにショウは感じた。間もなく閉じるはずだ、ショウはその時を待った。


「ば、馬鹿な……」


 其角が声を震わせた。ショウもまた目前の光景が信じられなかった。切断されたはずの小柄が元通りに一体となり、その身から再び赤光を放ち始めたのだ。ショウは周囲を見回した。先程と同じ夕暮れの景色が広がっている。吟詠境には何の変化もない。


「ショウ殿、今一度、試されてみては如何かな」


 許六に言われてショウはバットを小柄に叩き付け、先程と同じく真っ二つに切断する。輝きを失い赤錆の小刀に戻る。一瞬揺らぐ吟詠境。しかしすぐに小柄は元通り一体となった。周囲も相変わらず元のままだ。三度目の正直とばかりにショウはまたもバットを振りかぶった。


「ショウ殿、待たれよ」


 其角がショウの肩をつかんだ。振りかぶったまま動きを止めたショウに、其角の命令口調の言葉が投げ掛けられる。


「これ以上、小柄を破壊してはならぬ。無駄なことだ」

「無駄、どうして」

「忘れておったわ、凡兆殿の言葉。宗鑑は冬の女神、黒姫の業を持っておるのだ」


 ショウは記憶の糸をたどった。黒姫の業とは生命力を別の力に変える業。宗鑑はそれを応用して生命力を言霊の力に変えることができる、凡兆はそう言っていた。


「黒姫の業を持っているからと言って、それが、小柄が元通りになるのとどんな関係が……」


 そこまで言ってショウは気がついた。現実の父つぁんは小柄を握り締めているのだ。父つぁんの生命力を言霊の力に変えられるのなら、吟詠境で小柄を破壊してその言霊の力を尽きさせようとしても、直ちに補給できてしまうのではないか。


「まさか、父つぁんの生命力を」

「そうだ。言霊の力に変えているのだ。吟詠境で現状の姿を維持できぬほどに力が減少した時、現実世界で触れている生命体の力を言霊の力に変えて復元させる、そのような約定の業が掛けられておるのだろう。我らが小柄を破壊するたびにトツ殿の命が削られる。これ以上小柄に手出しをしては、トツ殿の生身の体に危険が及ぶ」

「そしたら、この小柄を壊すにはどうすれば」

「現実のトツ殿の手から小柄を引き離し、その上で破壊する。それしか手はない。だが、吟詠境に居る我らにそんな事は出来ぬ」


 其角の言葉には悔しさがにじんでいた。ショウはバットを握り締めたまま岩の上の小柄を睨みつけた。この吟詠境で最も憎むべき敵、だが、それに触れることも傷つけることもできないのだ。


「其角殿、では我らはどうすれば良いのだ。どうすればこの吟詠境を閉じられる」


 食って掛かるような態度で詰め寄る許六に、冷ややかな声で其角は答える。


「訊くまでもない事。わかっておろう、許六殿。あの小柄が開いた吟詠境に入った時から、我らの敗北は決まっていたのだ。誰か一人の言霊を小柄に差し出す、それ以外にこの吟詠境を閉じる術はなかったのだ。あるいは寿貞尼殿はそこまで悟っていたのかも知れぬ。なればこそ無季の業を使ってまで己の言霊を犠牲にしようとしたのだろう」


 ショウはバットを捨てた。よろける足取りで地に横たわる寿貞尼に近づくと、崩れるようにその側に身を屈めた。地から立ち昇る陽炎のように淡い寿貞尼の姿。完全に消え去るまでに、もうそれ程時間はかからないだろう。それは寿貞尼の消滅を、そして宿り手であるコトの死をも意味する。

 ショウは残照に染まる西の空に目を遣った。沈み切った太陽を追うように眉月も沈もうとしている。あの月が沈み吟詠境に闇が広がり始めた時、寿貞尼は消え去る、何の理由もなくショウはそう思った。


「許六殿、何をなさる!」


 其角の叫び声。見れば、其角が許六を背後から羽交い絞めにしている。もがきながら伸ばされた許六の右手、その先には岩に置かれた小柄があった。


「離してくだされ、其角殿。此度の責めは全てこの許六にある。我が言霊を小柄に捧げて吟詠境を閉じ、その任を果たすしかあるまい」

「落ち着かれよ、許六殿。そんな事をして芭蕉翁が喜ぶとでもお思いか」

「だが、このままでは寿貞尼殿が消えてしまう。そうなってはこの許六、芭蕉翁に合わせる顔がござらぬ」

「許六さん、あなたのせいじゃないですよ」


 寿貞尼の側に身を屈めたまま、ショウは穏やかな声で言った。


「コトさんは迷っていたんです、この吟詠境に入る事を。それを僕が無理に連れてきたんです、出来もしない約束までして。寿貞尼さんやコトさんをこんな目に合わせたのは僕です。許六さんのせいじゃありませんよ」

「ショウ殿……」


 許六の体から力が抜けた。其角は羽交い絞めを解くとショウに近寄り、その肩に手を置いた。


「ショウ殿、そして許六殿。忘れておるのではないか。我らにはまだ去来殿がおる。既に牧童の言霊が消えておる以上、宿り手のライ殿ならば、必ず小柄の言霊に気づくはずだ。それを信じて待とうではないか」

「さりとて間に合うと断言できましょうや。寿貞尼殿の言霊の力は、最早幾ばくも持たぬのは明らか。もしライ殿が間に合わねば……」

「む、それは……」


 許六の問いに言葉を濁す其角。為す術もなく、ただ待つことしかできない自分たち。これまで何度も自分を襲った無力感が、ショウの中に広がり始めていた。

 悪い夢を見ているようだ、とショウは思った。この吟詠境が全て夢だったらどんなにいいだろう……いや吟詠境はそもそも夢のようなもの。現実には有り得ないことが起きるのだから、その点では夢と言ってもいいだろう。しかし夢を見ているという事実、それは紛れもなく現実なのだ。夢を見ているのさえ夢だと思うのは現実逃避でしかない。ショウは愚かな考えを追い払おうと頭を激しく振った。


 ――見ておれぬのう。


 その声は頭の中に突然聞こえてきた。聞き慣れた、そして久しく聞いていなかったその声。ショウは声を出さず心の中で呼び掛ける。


『佐保姫、佐保姫なのか』

 ――わらわでなくて誰だと申すのじゃ。それにしても何という体たらくよ。わらわの取って置きの還霊の護符を使って、まだこの苦境を脱し切れぬとは。主様がこれ程までに甲斐性なしとは思わなんだのう。


 主を主とも思わない不遜な物言いは間違いなく佐保姫だ。杜国の吟詠境で別れて以来、気配さえ見せなかった佐保姫が、窮地に陥った自分たちのために、こうして呼び掛けてきてくれたのだ。ショウの心に明かりが灯った。


『佐保姫、すぐにここへ来てくれないか。早く吟詠境を閉じないと寿貞尼もコトも危ないんだ。今、季の詞を……』

 ――お断りじゃ。詞を発せられてもわらわは行かぬぞ。無駄なことはしとうない。


 意外な拒絶の言葉はショウを困惑させた。来る気もないのにどうして声を掛けてきたりするのか。これも女神の気まぐれなのだろうか。


『無駄なんてことないよ。佐保姫は女神。吟詠境を閉じるくらいのこと、訳もないんじゃないか』

 ――主様よ、忘れたのか。現し身が詠まれた吟詠境では、わらわは存在できぬ。そちらに行ったとて、直ちに消え去るのみじゃ。


 佐保姫の言葉に、ショウは大津へ行く途中に開いた吟詠境を思い出した。其角によって初めて現し身を体験した時、握り飯を食べていた佐保姫は詠唱と共に消えてしまったのだった。そんな事も忘れてしまうほど、今の自分は冷静さを欠いているのだ、ショウは改めてそう思った。


 ――それにな、たとえ現し身が詠まれておらなんだとしても、わらわには何も出来ぬ。現世では女神であろうと、吟詠境ではただの季の詞。言霊の業の遣い手が出来ぬ事を、ただの季の詞のわらわが何とか出来ると本気で思っておるのか。

『そ、それは……でもそれなら寿貞尼やコトは』

 ――主様の考えている通りじゃ。ライは間に合わぬ。寿貞尼は消え、コトは命を落とす。それを変える事など今のわらわにも出来ぬ。


 ショウの中に灯った明かりは再び消えてしまった。しかも佐保姫は、ライは間に合わないと断言したのだ。全ての希望が閉ざされたようにショウは感じた。自分たちを絶望させるために佐保姫は声を掛けたのか、そう思わずにはいられなかった。


 ――心外じゃな。わらわはそこまで悪趣味ではない。

 ショウの心が読める佐保姫は不満げに言うと、言葉を続けた。

 ――のう、主様よ。他人に頼ってばかりおらず、己が出来ることを探してみてはどうじゃ。杜国の吟詠境でわらわはコトを諦めよと忠告した。それでも主様はそれを無視して己の言霊を差し出そうとした。此度も同じではないのか。芭蕉の言霊を小柄に差し出せば吟詠境は直ちに閉じる。今ならコトも助かるかもしれぬ。


 冷淡な佐保姫の言葉。例え自分が季の詞「佐保姫」の遣い手であろうとも、女神は自分を守ってくれるわけではないのだ。ショウは女神と人間の格の違いを改めて思い知らされた気がした。


『で、でも、芭蕉の言霊が小柄に取り込まれてしまえば、僕は……』

 ――そうじゃ、現し身が詠まれておる以上、生身のショウは間違いなく死ぬであろうな。同時に芭蕉の言霊の片鱗である寿貞尼の言霊も消える。じゃが、それは言霊の力を保ったままの消滅ゆえ、コトの命には関わらぬ。主様の命と芭蕉と寿貞尼の言霊、失うものは大きいがそれも仕方なかろう。運命に逆らってひとつの命を救うのじゃ。それくらいの犠牲は覚悟せねばならぬ。


 それはショウにもわかっていた、わかっていながら意識の外へ追いやっていた選択肢だったのだ。だが佐保姫の言葉によって、その選択肢は、今、目の前に突きつけられた。独力でこの事態を打開できる方法がまだ残っているのだ。

 ショウは横たわる寿貞尼を見た。意識がなければ学生服を着たコトそのものだった。その姿を見て、花火の夜の光景が蘇る。必ず守る、自分は確かにそう約束したのだ。


『ありがとう、佐保姫。今の僕が何をすべきかようやくわかったよ』

 ――ほう、わらわの言葉に従うのか。いいのか。己の命が尽きるのじゃぞ。

『コトとの約束なんだ。それを果たす方法があるのなら実行しないわけにはいかないよ』

 ――相も変わらず義理固いのう、主様は。まあよい。そこまでの覚悟があるのなら力を貸さぬでもないぞえ。


 一瞬聞き間違えたのかとショウは思った。今まで散々冷たい言葉を浴びせておきながら、どうしていきなり力を貸すなどと……


 ――主様に命を懸ける覚悟があるか、知りたかったまでのこと。それにわらわは黒姫の業を使う宗鑑が気に食わぬのでな。芭蕉の言霊をくれてやるのは癪に障るのじゃ。あやつと相見えた時の為に残しておいた力じゃが、今、使ってやろう。

『それで、どうやって』

 ――彦根から帰った折、わらわに訊いたであろう。吟詠境での出来事を現実の世でも体現する、うつし世の業。今の主様ならばそれが使える。

『現し世の業……』

 ――女神の季の詞の遣い手が、現し身の業を詠まれた吟詠境でのみ使える業じゃ。発句に言霊の力を乗せて、現し世のわらわに詠み上げよ。さすれば言霊の力を女神の力に変えて、現実の世で体現させてやろうぞ。じゃが、これは危うい業でもある。現し身が詠まれた状態で言霊の大業を使うのじゃからな。下手をすれば生身の命が尽きかねぬ。どうじゃ、それでもやるか。


 佐保姫の念押しはショウには無用だった。言霊を差し出すよりは、どれ程危険であろうと現し世の業を使った方がいいに決まっている。


『やる。佐保姫、ありがとう』


 佐保姫からの返事はなかった。ショウは立ち上がった。薄れていく寿貞尼を見下ろし心の中で呼び掛ける。待っていてコト、すぐに助けてあげるから……

 寿貞尼の元を離れ小柄に向かって歩き出したショウ。その顔に浮かぶ真剣さに其角は胸騒ぎを感じ、尋ねた。


「ショウ殿、如何なされた」

「今、佐保姫と話をしていたんだ」

「佐保と。して、どのような話を」

「新しい業を教えてくれた。それを使ってこの吟詠境を閉じる」

「業……まさか、現し世の業」


 黙って頷くショウ。それを見た其角は怒りを隠そうともせずショウに詰め寄った。其角だけではない。許六もまたその顔に険しさを漂わせてショウの間近に迫った。其角が声高に言い放つ。


「ならぬ。その業だけは使ってはならぬぞ、ショウ殿」

「でも、そうしないと寿貞尼さんもコトさんも」

「ならぬのだ。わしはその業を使って、我が最初の宿り手の命を奪ったのだからな」

「宿り手の命を……」

「忘れもせぬ。宝永の富士大噴火の折、既に言霊となっておった去来殿と丈草殿は封を解かれ、芭蕉翁の言霊と共に我ら十哲は富士山麓にて吟詠境を開いた。そこでわしはこの業を使ったのだ。我が言霊の力が尽きることはなかったが、我が宿り手の生身の体はこの業に耐えられず命を落とした」


 其角の声には怒りと共に悲しみが籠もっていた。初めての宿り手を己の所為で失ったことは、今に至るまで其角の心に影を落としているのだろう。そしてそんな其角を見て、ショウはどうしてソノもライもコトも佐保姫も、これまでこの業について詳しく話そうとしなかったのか、ようやく理解できた気がした。


「ショウ殿は既に一度、芭蕉翁の意識の元、北枝殿と共に発句を詠んでおる。それが生身の体にどれだけの負担を与えているか見当もつかぬ。その上、更に大業である現し世の業を使っては、本当に命を落としかねぬ。使ってはならぬ。この其角が断固として許さぬ」


 有難い、とショウは思った。其角の言葉には自分の身を案じる気持ちが隅々にまで溢れていた。だがその言葉に従うわけにはいかないのだ。ショウは微かな笑みを浮かべて首を横に振った。


「其角さん、ありがとう。でも、もう決めたんだ」


 言い終わるやショウは両手を組んだ。其角が声を上げる。


「やめよ、やめられよ、ショウ殿」


 ショウは空を見上げた。夜が来るのを待ちきれぬ幾つかの星々が輝き始めている。それらの星々に届けとばかりにショウは大音声を発した。


「芭蕉の言霊の宿り手ショウ、現し世の女神佐保姫に発句を詠み上げる!」


 吟詠境の夜空の頂点で闇が消えた。と、見る間にそこには青空が、ショウたちが吟詠境に入る前に見えていた五月の青空が、ぽっかり開いた丸い穴となって出現した。ショウは発句を詠む。


「あち東風こちや面々さばき柳髪」


 其角も許六も右手で顔を覆った。野分かと思われるような強風が吹き付けてきたのだ。その風は弱まるどころか、次第にその激しさを増して吟詠境を吹き荒れる。ショウは渦を巻くように吹き付ける風の中、両足を踏ん張って最後の言葉を叫んだ。


「現し世!」


 身が浮き上がるような上昇気流をショウは感じた。吟詠境の土が草が、吹き荒れていた全ての風が、夜空に開いた青空へ吸い上げられていく。其角も許六も地に手を着いて己の身を守っている。だが小柄だけは、まるで風など吹いていないと言わんばかりに、以前と変わらず岩の上で淡い赤光を放っていた。と、不意にその光が消えた。輝きを失った小柄。その意味を理解したショウは、動きのままならぬ強風の中、地に置かれた金属バットを手にすると、小柄目掛けて叩き付けた。

 甲高い金属音が吟詠境に響き渡った。二つに折れた小柄は強風に乗って青空へ巻き上げられていく。同時に一際強い風が吹き付けてくると、ショウの体もまた宙へと舞い上げられた。目も開けられぬほどの風の中、揺らぎながら消えていく吟詠境が微かに見える。全てが終わったのだ……安堵と疲労を感じながら薄れていくショウの意識に、佐保姫の声が聞こえてきた。


 ――主様よ。春の女神は眠りにつくが、夏至を過ぎれば秋の女神、龍田姫が目を覚ます。遣い手を探しなされ。きっと主様の力になってくれようぞ。力を使い果たしたわらわは、今度こそ本当に眠らせてもらう。冬至が過ぎて目覚めた時、主様がどれ程成長しておるか、楽しみにしておるぞ……


 * * *


 暗い。何も見えない。でも音は聞こえる。騒がしい。大勢の人の声。足音。物音。体はだるく瞼を動かすのさえ億劫に感じる。眠りたい。だが眠るにはうるさ過ぎる。僕は目を開けた。誰かが僕を見ていた。


「ショウ君、気がついたのね。よかった」


 モリだった。ぼんやりした頭に記憶が戻ってくる。そうだ、僕は吟詠境に居たんだっけ。けれどもここには吟詠境に居ないはずのモリが居る。つまりここは吟詠境じゃない。出られたんだ。そして僕は死んでない、生きている。こうして無事に現実へ戻って来られたんだ。


「どこか痛くない?」


 モリが心配そうに尋ねる。牧童に痛めつけられた腹や手足は鈍痛を放っている。しかしそれ以上に体のだるさと空腹が我慢できないほどだ。老医師の家であれ程食べさせてもらったのに、もう腹が減るとはなんたることか。と、頭の中で思っていても、抑えきれない食欲が僕の重い唇を動かす。


「あの、何か、口に入れるもの、ないかな。出来れば、甘いもの」


 モリが呆れたような顔をした。が、すぐに笑顔になると「何か買ってくるね」と言ってこの場を去った。僕は横たわったまま周囲を見回した。木が倒れていた。大勢の人が周りにいる。遠くには救急車らしき回転灯の明滅が見える。モリが戻って来た。


「はい、どうぞ」


 差し出された蓋付き紙コップを受け取り、ストローを咥えて吸い込む。甘い。チョコバナナ味のミルクセーキだ。普段は決して飲まないような極甘飲料だが、なぜか体に心地よい。杜国の吟詠境を出た後、父つぁんに焼肉弁当を買いに行かせた先輩の気持ちがやっとわかった。


「ね、モリさん、何があったのか、教えて」


 唇が重くて、カタコトの日本語しか話せない外国人みたいな喋り方になってしまう。それでもモリは真面目な顔で答えてくれる。


「突然、凄い風が吹いてきたんです。それから大きな音がして、あの木が倒れてきて……私もみんなも最初はあの木の下に居たんですよ。でも周りの人が助けてくれました」

「怪我とかは、しなかったの」

「トツさんの右手に枝が当たったみたいで、血が出ていました。それ以外は全員目立った外傷はなかったです。みんな、奇跡だって驚いていました」


 そうか、佐保姫の仕業か。僕の詠んだ東風の発句で突風を起こして木を倒し、父つぁんの右手に枝を当てて、握っていた小柄を手放させたんだ。あれだけ複雑に伸びている枝を、父つぁんの右手以外には誰にも当てずに倒すなんて神業だな。あ、女神なんだから神業が起こせて当然か。

 飲み終えた紙コップをモリに渡して、僕は一番気になっている事を訊く。


「じゃあ、コトさんも、無事なんだね」


 モリの表情が曇った。言いにくそうに口籠りながら話す。


「コトさんは……コトさんは最初、息をしていなかったんです。たまたま看護師の人が居て、人工呼吸と美術館に備え付けのAEDを使って一命は取り留めてくれました。それでも危険な状態に変わりはないようです。最初に救急車で運ばれていきました」


 僕の気持ちが一気に重くなった。これでコトを守ったと言えるのだろうか。吟詠境を閉じるのが遅すぎたのだ。もっと早く決断していれば……いや、悔やんでも仕方ない。今は医者に全てを任せて祈るしかないだろう。


「ショウちゃん!」


 ソノさんの声。僕と違って元気一杯である。僕の側へ走ってくるとモリの横にしゃがみ込んだ。


「今、リクちゃんが救急車で運ばれていったわ。最後はショウちゃんよ。待たせたわね」

「ソノさん、大丈夫なの?」

「あたしは平気よ。吟詠境でやった事って言ったら蓬を出しただけだもの。まあ、牧童にやられて、体のあちこちは痛むけどね。それよりも驚いたわ。もう話せるようになるなんて。ライちゃんもびっくりの回復力ね」

「そんな、大袈裟な」

「ううん。普通なら命に関わるくらいの状態になっているはずよ。なのに意識を取り戻してお喋りまで出来るなんて、常識では考えられないわ」


 ソノさんが僕の顔をじっと見る。その瞳が其角の眼差しに変わる。


「ショウちゃん、もしかして、あなた……」


 その時、ソノさんの薄手のカーディガンのポケットから、ハンカチに包まれた金属が顔を出しているの気がついた。間違いない、あの小柄だ。父つぁんが手放した小柄をソノさんが拾ったのだろう。無意識の内に僕の右手が伸びた。


「触れては駄目!」


 小柄を片手で覆い隠しながら、ソノさんが叫ぶ。その剣幕に気押されして思わず手を引っ込める。


「ど、どうして」

「ほんの僅かだけれどまだ残っているのよ、封を破られたままの宗鑑の言霊が。触れれば生命力を取り込まれるわ」


 そんなはずはない、ソノさんの言葉はすぐには信じられなかった。吟詠境で僕は確かに小柄を切断したのだ。それは二つに分かれたまま二度と一体にはならなかった。そしてその後は……その後は、そうだ、小柄は消えなかった。維舟も牧童もその姿を消して吟詠境から排された。でも、小柄はその姿を保ったまま、あの夜空に開いた青空へ吸い込まれていった。破壊するだけでは言霊を消し去ることはできなかったのか。でもそれならどうして吟詠境は閉じたのだろう……


「やあ、気がついたかい」


 灰色の救急服を着た男の人が二名、四輪の付いたストレッチャーを押してやって来た。ソノさんとモリが立ち上がって場所を空ける。


「どこか痛む所はないかい」

「あ、大丈夫です。それと僕は病院に行かなくても」

「行って診てもらった方がいいわ。まだ自分で立ち上がることもできないんでしょう」


 ソノさんの言葉に反抗するように、僕は両腕に力を込めて上半身を起こそうとした。駄目だ。まるで力が入らない。


「君、無理しない方がいいぞ」


 救急隊員の優しくも厳しいお言葉。ここは素直に周囲の意見に従うことにしよう。手馴れた動作でストレッチャーに乗せられる。心身の緊張が緩んで意識がぼんやりし始める。そのまま救急車に向かう僕らに聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「おーい、ショウ、ソノさん、これは一体、何が起こったんだー」


 息を切らしてストレッチャーに駆け寄る先輩。その汗まみれの顔を見て、安堵感と共に強烈な眠気が襲ってきた。僕は目を閉じた。


「先輩、来るのが、遅すぎます、よ……」


 そう言えたかどうかもはっきりわからぬまま、僕は深い眠りに落ちていった。

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