還霊の護符


 北枝を前にした牧童の様子は明らかに変わっていた。殺気だけを漲らせて無表情だった牧童の顔に、まるで愉快な出し物でも見ているかのような興奮が現れている。敵意と懐かしさが入り混じったその表情は、幾度も果たし合いを繰り返してきた好敵手と再会した侍のようだ。

 寿貞尼の胸からゆっくりと小柄が引き抜かれた。首を絞めていた左腕が解かれ寿貞尼が地に崩れ落ちる。もはや何の興味もないと言わんばかりに寿貞尼を跨ぐと、牧童は北枝に向かって歩き始めた。


「寿貞尼殿!」


 ショウたち三人は寿貞尼に駆け寄った。既に無季の業は解かれ寿貞尼は力なく地に伏している。許六が寿貞尼の上半身を起こして呼び掛けた。


「しっかりなされよ、寿貞尼殿」


 だが返事はない。意識を失っているのだ。上半身を支えたまま許六が学生服の上着の裾をまくると、みぞおちの左側に刺し傷がある。急所は外れているが血はまだ止まってはいない。


「さしも草!」


 其角が季の詞を発した。と、その両手には春野の如くに新緑が萌え出し、緑の葉でたちまち溢れんばかりになった。幾枚かを取りしばらく揉み解した後、ポケットから取りだしたハンカチと共に傷口に押し当てる。


「其角さん、それは?」

「去来殿の治癒詠の真似事だ。わしは治癒の業を持たぬゆえ、蓬を当てることしか出来ぬが、何もせぬよりマシであろう。許六殿、背中の傷はどうだ」


 寿貞尼を横に向け許六が背中を見る。


「うむ、こちらの傷は大したことはない。血もほとんど止まっておる。ショウ殿、何か布切れはござらぬか」


 許六に言われてショウがポケットをまさぐると、薄手のハンドタオルが入っていた。それを渡すと、許六は其角から貰い受けた蓬と共に傷に当てた。ショウも何かしたかったが、さすがに女性の肌に触れるのは憚られた。一方、其角も許六も意識はともかく姿形はソノとリクである。二人に任せておくのが一番だろう。

 傷の手当が一段落して寿貞尼を寝かせる。その姿はやはり薄い。心配そうにショウが尋ねる。


「これで寿貞尼さんは大丈夫でしょうか」

「いや、吟詠境に居るだけで言霊の力は消耗していく。怪我をしているなら、その消耗の度合いは通常よりも格段に大きい。寿貞尼殿の言霊はもう残り少ない。とにかく一刻も早く吟詠境を閉じねばならぬ。このまま長引けば……」

 其角はそこまで答えて顔を上げた。北枝と牧童は依然として睨みあっている。

「ここは北枝殿にお任せするしかなかろう」


 最初は朧のような姿だった北枝の体は、今では実体を感じさせるほどに濃くなっている。それでも寿貞尼の姿よりも遥かに薄い。そしてこれ以上はその濃さを増すことはないように見える。


「北枝さん、どうしてあんなに姿が薄いのでしょう」

「宿り手としての器ではない者に無理に宿っておるからだ。恐らくシイ殿は北枝殿の発句をひとつとして満足に覚えてはおらぬのだろう。宿り手と言霊を繋ぐものがないのに、言霊の力を使って強引に繋がりを持ち、この吟詠境に入っておるのだ。しかし、この状態は長くは持たぬ。いずれは無理に結んだ繋がりは断たれ、問答無用で吟詠境から排されよう。北枝殿、どうされるお積もりか」


 北枝は目の前の牧童を見上げていた。向かい合ったシイと父つぁんの姿は、親子と思われるほどの背丈の差がある。それでも気丈に牧童を見詰める北枝は、蕉門十哲の一人に相応しい貫禄を身にまとっていた。


「まさか宗鑑の言霊の片鱗になっていようとは。身近に居りながら気づきもしなかったこの愚弟を許されよ」


 牧童は変わらず無言であった。弟である北枝の言葉ですら耳には入っていないのだろう。それを感じ取った北枝の顔に悲哀の情が漂い始める。


「我が声さえも届かぬとは、既にお心を失くしておいでか。宗鑑の業、なんと恐ろしきことか」


 北枝の目に敵意は無かった。あくまでも兄として同門の俳諧師として牧童を見ている、いや見ていたいのだ。だが傷つけられた寿貞尼たちを目の当たりにした今、蕉門の俳諧師として牧童を敵と見なさねばならない。北枝は己を鼓舞するように牧童に言い放った。


「兄じゃよ、宗鑑の言霊の片鱗となれば、我らは闘わねばなりませぬ。芭蕉翁に言霊の業を授けられ、頼みとされて封じられた我が責を、果たさねばなりませぬ」


 北枝はセーラー服の胸ポケットから紙片を取り出した。それを頭の上に掲げて、牧童の向こうにいるショウたち三人に見せる。


「芭蕉翁より預かりし言霊の片鱗、使わせていただきまする」


 ショウにはそれが何がわからなかった。許六も同様である。が、其角はわかっていた。


「あれは還霊の護符。北枝殿が持っておられたか」

「なんと。まことですか、其角殿」


 其角の言葉を聞いて許六もわかったようだった。だが、ショウはまだわからない。其角に尋ねる。


「護符? どんな護符なのですか」

「陸奥の旅への途上、出羽三山のひとつである霊峰月山の頂にて、同行の曾良殿と佐保姫の力を借り、芭蕉翁が練り上げた言霊の片鱗。言霊の力を女神の力に変える佐保姫の業を応用し、言霊の力を宿り手の生命力へと還す護符。蕉門の間でもその存在自体が疑われ、ただの風説に過ぎぬ代物であったのだが、まさか北枝殿が預かっておろうとはな」


 其角の説明にショウの心は躍った。護符の効果は奪霊と同じ。しかも失われた言霊の力を生命力に変えるのなら、言霊の力を奪われることによる宿り手への負担は無いに等しい。


「では、あの護符を使って牧童の言霊を消せば、小柄を破壊出来ますね」

「うむ。この吟詠境を閉じるには、もはやそれしか手はあるまい」 


 北枝は護符を右手に持ったまま、牧童の出方を伺っていた。一方、牧童は、護符の力に気づいたのだろう、その殺気が一段と強くなった。小柄を身構え今にも北枝に襲い掛からんばかりに意気が上がっている。と、何の前触れもなく、まるで唄でも口ずさむかのように、北枝が発句を詠んだ。


「書いてみたり消したり果ては芥子かしの花」


 詠み終わるのと同時に牧童の右手が北枝に向かって閃いた。やられた、ショウたち三人はそう思った。しかし牧童の小柄は虚しく空を突いただけだった。そこに北枝の姿はなく、ただ一輪のけしの花だけが残されていた。


「兄じゃ、今一度、心開いて話し合う事は叶いませぬか。こうして言霊となって再び巡り会えた我らぞ。積もる話もありましょう」


 声は牧童の背後から聞こえる。そこに北枝は居た。憂愁を帯びた表情は、夕日に照らされて一層物悲しく見える。牧童は構わずに再び右手を閃かせた。同じだった。一輪のけしの花を残して、北枝の姿はまたも消えていた。其角が唸るように感嘆の息を漏らす。


「ほう、北枝殿の幻術詠か。さすがは十哲の中で最も幻術に長けた俳諧師だけのことはある」

「でも、現し身が詠まれた状態で言霊の業を使うのは……」

「左様、これでは宿り手のシイ殿の体が持たぬ。いや、その前に北枝殿自身の力が尽きよう。ショウ殿と同じく、本来ならば北枝殿の意識ではなくシイ殿の意識であるはず。にもかかわらず強引に己の意識を保たせているのだからな。それだけでかなりの力を使っているはず。しかも無理に吟詠境に入っている為、その姿同様言霊の力も希薄。本来の力の十分の一も持ち込めてはおらぬ。だが、こんな事は北枝殿もわかっているはず。迷っておられる場合ではなかろうに」


 其角の言葉はもっともだった。しかしショウには北枝の逡巡が痛いほどに理解できた。宿れぬ者に宿り、保てぬ意識を保ってまで吟詠境に入ったのは牧童を倒す為ではない。弟として兄と分かり合いたかったからだ。それだけの為に己の言霊の力を使い切ることさえ厭わず、ここにやって来たのだ。蕉門への義理立てのために兄への想いを捨てるのは、北枝にとっては余りにも辛いことに違いない。

 小柄をかわして再び牧童の背後に立った北枝は、諦めることなく説得を続ける。


「我が言葉に耳を傾けてくだされ、兄じゃ。我が心には恨みも憎しみもありませぬ。憎むべき相手は宗鑑。言霊の業を欲する兄じゃの心に付け入り、己の言霊の片鱗と為した宗鑑こそ我らの敵。今からでも遅くはありませぬ。兄じゃ、その小柄を捨て蕉門に戻られませ。我らと共に宗鑑と闘いましょうぞ」


 必死に懇願する北枝。だが牧童は変わらなかった。溢れんばかりの殺気をまとい、ただ右手の小柄を閃かせるばかりである。遂に許六が大声を上げた。


「北枝殿。これ以上の説得に何の意味がござろうか。それはもう貴殿の兄ではない、宗鑑の言霊の片鱗ぞ。早く護符を使われよ。このままでは貴殿だけでなく寿貞尼殿も消えてしまいかねぬ」


 北枝は悲しげに許六を見た。護符を握り締めたまま、ただ消失と出現を繰り返すだけの北枝の姿。それは花火の夜、ショウが初めて見た陰りのあるシイの姿と同じだった。受け入れてはもらえぬとわかっていながら努力し続けたシイ。北枝がここまで牧童の改心に拘るのは、宿り手のシイの意思も大きく関与しているのだろう。

 許六のもどかしさと北枝のやるせなさ、どちらにも共感できるショウは沈黙するしかなかった。其角もまた同じなのだろう、許六に賛同するでもなく意見を言うでもなく、無言で北枝と牧童を見守っている。何も言わぬ二人に業を煮やした許六は声を荒げた。


「駄目だ。北枝殿にはあの護符は使えぬ。こうなればわしが」

「いや、許六さん、待って」


 今にも駆け出さんばかりの許六を制止し、ショウは北枝を見据えた。悲痛な面持ちで、ただ牧童の小柄をかわすだけの北枝。これ以上苦しませるくらいなら許六の言う通りにした方がいい。ショウは北枝に向かって叫んだ。


「北枝さん、それは僕に宿る芭蕉があなたに預けた物。使えないのなら僕が使います。辛い役目をあなたに担わせるくらいなら僕が背負いましょう」


 北枝の目が大きく見開かれた。投げ掛けられたショウの言葉は、全身を震えさせるほどの衝撃を北枝に与えた。己に課せられた使命にようやく気づいたのだ。この身は牧童の弟である前に蕉門の俳諧師、しかも宗鑑と再び相見える時の為に、わざわざ芭蕉自らによって封じられ、この護符を託されたのだ。その役目を果たせぬのなら、ここに存在する価値はない。


「やはり我らは分かり合えぬか、牧童殿」


 北枝の声の調子が変わった。その言葉には十哲のひとりに相応しい威圧感があった。北枝の変化を悟った牧童もまた、これまで以上の殺気を小柄に込めた。次の一撃で決める、牧童にはその自信があった。これまで何度も繰り返されてきた北枝の幻術。しかし姿を消した北枝は必ず背後に現れる。ならば……

 牧童の右手が閃く、だがそれは見せ掛けだった。突き切らずに素早く後ろを振り向くと、牧童は神速の突きを繰り出した。そこには小柄によって胸を貫かれた北枝の姿が……いや、あるのは一輪のけしの花だった。


「それ程までにこの北枝を憎まれるか」


 くうを突いた牧童の背後からその声は聞こえてきた。北枝の幻術は牧童の読みすらも凌駕していたのだ。思惑を外された牧童は即座に振り返った。その胸に北枝の還霊の護符が叩き付けられた。


「我が非情を許されよ、牧童殿!」


 胸に当てられた護符から白い閃光がほとばしった。輝きを増しながら白光は広がり、牧童と小柄を包み込む。顔を歪ませて胸に貼り付いた護符を取り除こうとする牧童。しかしその左手はビクリとも動かない。護符は牧童の体の自由を完全に奪っていた。

 北枝は唇を噛み締めて牧童を見た。苦悶の色を浮かべた顔、筋肉が隆起したまま微塵も動かぬ腕、次第に薄れていく言霊の体……慕っていた兄の最期を見るのは、北枝にとっては地獄の責め苦に匹敵する辛さだった。その辛さから逃れるかのような遠い目をして、北枝は牧童に語り掛ける。


「のう、兄じゃ。幼かった頃から優しき心を持ち、俳諧の道に足を踏み入れても変わらぬ心根を持ち続けた兄じゃ。その兄じゃが欲して止まなかった言霊の業。芭蕉翁は最後まで与えてはくださらなかった。それは兄じゃの優しさ故。前句に上手く繋げようと気を配り、後句に繋げ易いよう思い遣る。いつも他の詠み手を気に掛けて己の句を詠む、そこに兄じゃの句はなかった。兄じゃ自身は連歌の中に存在していなかった。芭蕉翁がお認めくださらなかったのは、ひとえに兄じゃの優しさ故なのだ。いつか気づいてくれる、そう信じて何も言わなかった。だが、それはやはり間違っていたのかも知れぬ。これほどまでに言霊の業を欲していた兄じゃの心、見抜けなかった我が身の、不甲斐なさを……」


 言葉を詰まらせた北枝は顔を伏せた。消え行く兄を笑顔で送ってやれぬ己の未熟さを感じながら、まだ心に残る未練の言葉がその口から零れ落ちた。


「せめて一言、兄じゃと語らいたかった……」


 一滴の涙が北枝の頬を伝わった。護符を使っても尚、兄への想いを捨て切れぬ姿が宿り手のシイと重なる。それはショウにとって心かき乱される光景だった。これほどまで努力して受け入れられない、こんな結末があってよいはずがない。憤りに似た感情がショウの中に渦巻いた。と同時に何か別の意志が自分の中に広がり始めるのをショウは感じた。知らぬ間に北枝に向かって歩き始めていた。


「ショウ殿、如何なされた」


 其角の問いには答えずショウは北枝の背後に立ち、その両肩に手を置いた。


「ショウ、殿……」


 涙に濡れたまま振り向く北枝。見上げたショウの顔には普段とは違う別人の如き威厳が漂っていた。


「北枝よ、我が発句を言霊の片鱗として、今、そなたに預けよう。共に詠じるべし」


 其角も許六もそして北枝も己の耳を疑った。紛うことなき芭蕉の声と言葉がショウの口から発せられたのだ。そして北枝は感じた、新たな言霊の片鱗が己の中に託されたのを。まるで自身が芭蕉の言霊の片鱗になったかの如く、北枝は声を合わせて発句を詠んだ。


「秋海棠西瓜の色に咲きにけり」


 ショウと北枝の姿が一瞬薄桃色に輝いた。と、次の瞬間には吟詠境の地は淡紅色の秋海棠の花に埋め尽くされていた。


「こ、これは北枝殿の幻術か」


 腰の辺りまで花に覆われた許六の驚きの声。地に横たわる寿貞尼の体は、完全に花の中に埋もれている。


「北枝殿だけではない。芭蕉翁もまた同時に詠んでおる。二人の力が為した業だ」


 其角は遠くを眺めた。緑の葉は一枚も無い。ただ秋海棠の花だけが、暮れ始めの夕日と青空の境界のように、湖水の辺りまでこの地を埋め尽くしている。満開の桜を思わせる風景に、其角は一時の安らぎを感じた。


「兄じゃ、これを見てくだされ」


 北枝は両手で丸い風呂敷包みを抱えていた。ゆっくりとその包みを解くと西瓜が姿を現した。薄れていく牧童の顔に変化が起きた。今まで忘れていた懐かしいものに出会いでもしたかのように目を細めている。


「覚えておりましょう。小松に向かう我らに預けられた西瓜。兄じゃの心尽くしに喉の渇きだけでなく心までも癒された芭蕉翁は、この西瓜を言霊の形にしてこの句へと練り上げられた。いつか兄じゃが言霊の俳諧師になった時、吟詠境にて共にこの西瓜を味わおう、そう仰られて芭蕉翁は待っておられた。兄じゃを見捨てたわけではなかったのですぞ」


 牧童の目に映る北枝の姿は知らぬ間に己の弟、源四郎へと姿を変えていた。後ろに立つショウは、最後の別れとなった旅装束姿の芭蕉となってその目に映っていた。そして牧童自身も宗鑑の言霊の片鱗ではなく、二人を見送る蕉門の俳諧師としての牧童に戻っていた。忘れていた何かが牧童の中に広がり始めた。それは闇の中に沈んでいた牧童の心を朝日のように照らし始めた。


「我らは幼き頃より西瓜が好きでよく食べましたな。兄じゃは必ず種を取り除いて渡してくれたこと、今でも覚えておりますぞ。俳諧も言霊も知らず、ただ西瓜を食べながら言葉遊びをし、戯言を言い合う、あの頃の兄じゃが一番好きでありました」


 北枝の手から西瓜が落ち、地に当たって二つに割れた。周囲を取り巻く秋海棠と同じ赤い果肉。その赤さの中に牧童は見ていた。残暑厳しい夕暮れの縁側で、西瓜を手に持ちふざけ合う幼い兄弟の姿を。それが言霊の業による幻影なのか、己の中に残る記憶なのか、牧童にはわからなかった。わかるのは、そんな日々が間違いなく存在していたということ、それだけは確かだった。


「共に手を取り合って暮らしていた幼き日々、あの時の気持ちを忘れず持っていてさえくだされば……」


 再び言葉に詰まり口を震わせながらも、逸らさずに己を見詰める北枝の瞳。牧童はようやく理解した。それは見下した蔑みの瞳ではなかった。己を慕い兄として敬う弟の瞳だった。北枝の後ろから己を見詰める芭蕉の宿り手ショウの瞳。それは固く門を閉ざした拒絶の瞳ではなかった。どんな己でも受け入れ、温かく見守ってくれる師の瞳だった。

 牧童の中に広がり始めた何かは、今は一分の隙もないほどに心を明るく照らしていた。右手から力が抜けていくのを牧童は感じた。


「源四郎……」


 それは牧童の言葉だった。思いも掛けぬ声にしばし呆然としていた北枝は、何かに気づいたように顔を下げ牧童の右手を見た。そこにあるはずの小柄はもうなかった。開いた手の平が秋海棠の花の上で揺れていた。


「兄じゃ、お心を取り戻されたか」


 驚きと共にそれは喜びの声でもあった。北枝の顔に溢れる笑顔、牧童の顔にも微かな笑みが浮かんだ。


「お前のおかげだ、源四郎。ようやくわかった。聞こえるものを聴かず、見えるものを視ようとしなかったわしに、言霊の俳諧師たる資格はなかったのだ」


 牧童は北枝の後ろに立つショウを見た。意識も姿も芭蕉のものではない。だが、その瞳に宿る輝きだけは、師と同じく優しさと厳しさに満ちていた。


「不肖の弟子であったこと、心よりお詫び申しあげる。今に至るまで師のお気持ちに気づけなかったこの身をただただ恥じ入るばかり」

「でも、ようやく今、気づけたんです。それで十分だと思いますよ」


 ショウは笑顔で答えた。自分たち四人に振るわれた蛮行を忘れたわけではない。けれどもそれは小柄によって為されたのだ。北枝の言うように憎むべきは宗鑑であって牧童ではないのだ。

 牧童を包んでいた白光は既にその輝きをほとんど失っていた。そして牧童自身の姿もまた消えつつあった。今はもう先程までの殺気は微塵もない。穏やかな表情をした北枝の兄がそこに立っているだけだ。


「手間を掛けさせたな、源四郎」


 護符の力が弱まり、束縛から解放された牧童の右手が北枝に伸びた。握り締めようと北枝も己の手を差し出す。しかしその手は何も触れることはできず、ただ宙を虚しくさまよった。


「芭蕉翁をお頼み申すぞ……」


 それが牧童の最後の言葉だった。淡い白光を残して、護符と共に牧童は消えていた。


「兄じゃ……」


 しばらくの間、北枝は何もない空間を見詰めていた。が、何かを振り切るように後ろを向くと、そこに立つショウを見上げた。その瞳にはもう悲しみはない。


「芭蕉翁、いや、今はショウ殿とお呼びしましょう。我が兄の不始末、そして預かりし還霊の護符を我が一存にて使いしこと、更には新しき言霊の片鱗までも使わせてしまったこと、お詫びのしようもございませぬ」

「でも、そのおかげでお兄さんと想いが通じ合ったんだから、それでいいんじゃないかな」


 ショウから返ってきた軽い言葉に、頭を下げていた北枝の緊張が緩んだ。芭蕉翁ならば何と答えるだろう、北枝はそう思わずにはいられなかった。


「北枝殿、そろそろ限界なのではないかな」


 ショウの後ろから其角が声を掛けた。北枝の姿は更に薄くなっている。この吟詠境に持ち込んだ言霊の力が尽き掛けているのだ。

 己を心配する其角に感謝するように無言で頭を下げ、北枝は再びショウを見た。その顔は満足感に満ち溢れていた。自分の役目は終わった、そう言いたげな表情だった。


「我が言霊の力が尽きる前に、宿り手と言霊の繋がりを断ち、この身を吟詠境より排しましょう。いつか相応しき宿り手を得ることあらば、再びショウ殿と顔を会わすやも知れませぬ。その時を楽しみにしておりまする」


 こちらこそ楽しみに、そう言おうとしたショウの言葉は一言も発せられなかった。ショウが口を開く前に北枝は消え去ったからである。同時に一面に咲き乱れていた秋海棠の花も消え、周囲は再び物寂しい湖辺の荒地に戻った。


「北枝さん、消えてしまった……」

「消えたのではない。宿り手を離れ己の言葉に還ったまでのこと。本来ならば吟詠境に入ったまま、言霊が宿り手を離れることは出来ぬ。此度は宿り手と無理に繋がりを持った言霊であったが故に出来たのだ。北枝殿もいつか正しき宿り手を見つけよう。その時、我らは再び会うことになろうな」


 其角がショウの肩を叩いた。先程までの喧騒が嘘のように周囲は静かだった。牧童との戦いも北枝の苦悩する姿も、言霊の業によって見せられていた幻術だったのではないか、そんな考えさえ湧き上がってくる程に穏やかな湖辺の夕暮れだった。

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