寿貞尼の決断


 地に片膝を着き、金属バットで体を支えていた許六は、肩で息をしながら五間ほどの距離に立つ牧童に目を遣った。筋力も体格も遥かに勝る相手との勝負は、まるで大人と子供の戦いのようだった。組んでは投げ飛ばされ、繰り出す攻撃は、大柄な体に似合わぬ俊敏さで全てかわされ、逆に一瞬の隙をつかれて腕を切られた。

 八方塞がりですっかり息があがっている許六に対し牧童は余裕である。一気に決着をつけることもできるのに、猫が鼠を甚振るようにこの勝負を楽しんでいる、許六にはそうとしか思えなかった。

 が、そのような状況でも意地を張り通すのが武士である。勝てぬまでもせめて相打ちにしたい、許六は疲れた体に鞭打って立ち上がった。牧童が小柄を構えて再び突進を開始する。その姿が朧に見えるほど許六は疲れていた。目が霞み、両足に力が入らない。めまいに似た感覚が許六を襲った。


「許六殿!」


 自分を呼ぶ声に許六は我に返った。目の前には二つの後ろ姿、黒い学生服と灰色のパンツスーツを着た男女が、襲いかかる牧童から許六を守るように立っている。ショウとソノが吟詠境に入ったのだ。現し身の業が掛けられているため、最初から宿り手の姿になっている。


「許六殿、よう頑張られた。あとは我らに任せられよ」

「其角殿、そして芭蕉翁……」


 其角の励ましを聞いた許六の声は震えていた。宿り手の姿をしているが自分の前に居るのは兄弟子と師匠である。窮地に陥った自分の為に、わざわざここへ来てくれたのだ。許六は己の無思慮と不甲斐なさに、ただただ恥じ入るばかりだった。


「お座りなされ、許六殿。その腕の怪我、手当ていたしましょう」


 振り向くと、紺色の学生服を着た女、コトの姿をした寿貞尼が立っている。許六は素直にその場に座ると左腕を差し出した。ポケットから出したハンカチで寿貞尼が腕を縛る。


「面目次第もござらぬ。寿貞尼殿の制止を振り切って吟詠境を開いておきながら、このような醜態を晒すとは」

「そのような詫び言も今となっては詮無きこと。それよりも早うこの吟詠境を閉じましょう」


 突然現れた三人に牧童の動きは止まっていた。三間ほどの間を開けて対峙するショウと其角は、全神経を牧童の言霊に集中させていた。右手に握った小柄小刀、そこから放たれる赤光と溢れるばかりの言霊の力。其角はそれだけで全てを理解した。


「ようやく合点がいったわい。三人目の言霊はあの小柄だ。宗鑑の分身と一体化しておる。ショウ殿、ライ殿が我が宿り手に話された、蔵で見つけた小柄とはあれの事か」

「そうです、同じです。でもあれは蔵の中に戻して、父つぁんが持っているはずがないのに……」


 ショウは思い出した。吟詠境に入る前の父つぁんの姿、仁王立ちになった左手は胸の前で拳になり、右手はズボンのポケットに入れていた。その中で小柄を握っていたに違いない。それはショウにとっては考えも寄らないことだった。

 体育会系の上下関係の厳しさはそれなりに知っている。先輩に当たるライから蔵に置いておけと命令されたのだ。その言い付けを破って蔵の外に持ち出し、こうして身に着けて外出するなぞ、余りにも予想外のことであった。


「小柄を蔵の中に置くのを見たわけではないのだな」

「はい、中は真っ暗でしたから」

「手に取った瞬間、牧童殿の言霊と共鳴し合ったのだろう。立花兄弟は仲が良いとは言えぬ間柄だった。トツ殿もまた仲の良くない肉親を持っておる。同じ想いを持つトツ殿に宿った牧童殿の言霊が、小柄と一体となった宗鑑の言霊に引き込まれ、同時にトツ殿の心までも魅入らせてしまったのだ」


 其角の説明にショウの胸の内は悔しさで一杯になった。吟詠境へ行く発句が小柄に彫られた句と同じだとわかった時、どうして父つぁんが小柄を持っている可能性に考えが及ばなかったのか。自分の思慮の浅さを思い知らされるばかりだ。

 ショウは改めて牧童を見た。怒りに燃え敵意と憎しみに満ちた瞳。二人を睨みつけながら会話に口を挟むこともなく、無言で立ち尽くすその姿は人とは思えぬ不気味さを漂わせている。


「三人目の言霊があの小柄だとわかったにしても、牧童さんの様子はおかしくないですか。師である芭蕉に対する態度とは思えません」

「あれは牧童殿ではない。完全に宗鑑に支配されておる。いわば連続的に繋離詠を掛けられている様な状態だ。右手からあの小柄を引き離さぬ限り、牧童殿の心は戻っては来ぬだろう」

「では、牧童さんがあの小柄を手放せば、挙句を詠んでくれるかも知れないのですね」

「いや、牧童殿は言霊の片鱗ゆえ挙句は詠めぬ。詠めるのはあくまで片鱗の本体、小柄だけだ。時にショウ殿、あの小柄に彫られていたのは発句だけなのか。挙句は彫られてはおらなんだか」

「発句だけです」


 其角の顔が曇った。万事休す、という言葉が相応しい顔付きだった。


「では、挙句でこの吟詠境を閉じることは出来ぬ。小柄は己の声を持たぬゆえ、彫られた発句を片鱗の声に乗せてこの吟詠境を開いたのだ。挙句が彫られていないのなら、小柄は詠むべき挙句を持っておらぬ」

「そしたらこの吟詠境を閉じるにはどうしたらいいのですか」

「奪霊で小柄の言霊を奪い尽くすか、小柄それ自体を破壊するか……しかし、現し身が詠まれたこの吟詠境で奪霊の業を使うのは、掛ける方も掛けられる方も宿り手に負担がかかりすぎる。となれば」

「あの小柄を牧童殿から奪い、破壊する。それしかござらぬ」


 二人の後ろから許六の声が聞こえた。やや疲れが感じられるが武人らしい闘志に満ちた響きである。対峙した牧童を睨みつけたまま其角は答えた。


「うむ。許六殿の言われる通りだ。屈強な若者だが、四人で掛かれば奪えぬこともなかろうし、少々手荒な真似をしても牧童殿の宿り手の体ならば十分耐えうるであろう。方々、ここは容赦せず牧童殿を打ちのめすべし!」

「で、具体的には如何様に攻めましょうや」

「む、それは」


 許六の問いに其角は言葉を詰まらせた。そこまでは考えていなかったのだ。


「ショウ殿、何か策はありませぬか」


 其角に代わって寿貞尼が尋ねる。ショウはしばし考えた後、答えた。


「一丸となって攻め込むよりも四方から仕掛けた方が、注意を削がれて奪いやすくなるのではないでしょうか」

「おう、それは名案。では各々方、配置に着きましょうぞ」


 許六の言葉を合図にショウを除く三人は走り出した。しばらくして動きの止まった四人の位置は、ちょうど牧童を中心とした正方形の各頂点である。ここから同時に襲い掛かれば、いかに牧童とて防ぎ切れるものではないだろう。


「行くぞ!」


 今度はショウの合図で四人が牧童目掛けて走り出した。四方から攻め込まれた牧童は為す術もなく棒立ちである。だが、その目は最も足の速いショウを睨みつけていた。最初に組み合うのは自分だ、ショウは覚悟を決めて牧童に飛び掛ろうとした。その時、


「牧童!」


 ショウの対角線上に居る許六が声を上げた。後ろを振り向いた牧童目掛けて、手に持った金属バットを投げつける許六。それをかわそうと身を捩る牧童に、目前まで迫っていたショウが体当たりを食らわせた。体格の差はあるが、ショウとて父つぁんと同年代の若者である。ショウの一撃を受けた牧童の体は大きく揺らいだ。


「今度はわしだ」


 其角が牧童の両足に飛びついた。腹に食らいついているショウと共に仰向けに地に倒れる牧童。次に駆けつけた寿貞尼は牧童の左腕にしがみつきその自由を奪う。


「牧童殿、その小柄、頂戴いたす」


 最後に来た許六が、投げつけた金属バットを素早く拾うと、牧童の小柄目掛けて振り下ろした。小柄に当たらずとも右手に当たれば小柄を手放すはず。許六は己の勝ちを確信した。だが、牧童の右手の一閃がその確信を粉砕した。


「ば、馬鹿な」


 地に倒れたまま振り上げた牧童の小柄が、許六の金属バットを真っ二つに切断したのだ。悔しさと驚きを声に滲ませて許六がつぶやく。


「現し身を詠じても尚、これだけの力を発揮できるとは……」


 予想以上の宗鑑の言霊の力に、許六は次に為すべき事を見失った。それはまた許六の油断でもあった。退きも攻めもせぬ許六の両足を、牧童の右腕が横に薙ぎ払う。足元をすくわれて左から地に転がる許六。同時に、其角を絡ませたまま牧童は両足を持ち上げて、思い切り地に叩きつけた。体に加えられた衝撃と痛みに耐えられず、思わず手を放す其角。寿貞尼が叫ぶ。


「ここは一旦離れましょうぞ、ショウ殿」


 諦められずに食らいついていたショウは、牧童が振り上げた右手の小柄が自分を狙っていることに気づくと、慌てて両手を解き牧童から離れた。それを見て寿貞尼も手を離し遠ざかる。

 再び正方形の頂点に四人は位置を取った。しかし、最初とは違って四人の意気は衰えている。特に許六の消耗がひどい。見れば左腕に巻かれたハンカチには血が滲んでいる。倒された時に傷口を打ったのだろう。


「許六殿、無理ならば休まれるがよかろう」

「なに、これしき。まだまだやれる」


 其角の呼び掛けに気丈に答えた許六であったが、疲労が蓄積しているのは明らかだった。無理もない。三人が駆けつけるまでたった一人でこの怪童と戦っていたのだから。

 一度目が失敗したことで四人は慎重になっていた。今度は一気に襲い掛かろうとはせず、少しずつ間合いを詰めていく。寿貞尼が目配せで許六に合図を送った。二人で小柄を取りに行こう、そう言っているのだと許六は合点した。牧童を倒すのが目的ではない。狙いは右手の小柄、それを奪いさえすればいいのだ。四人はじりじりと牧童との距離を縮めていった。


「しまった!」


 それは突然だった。声を上げたショウを背にして、牧童が許六目掛けて猛然と突進を開始したのだ。四人で飛び掛かられる前に一人を狙う、それも一番弱っているはずの許六を。牧童の身になって考えれば至極当然の行動である。距離を開けた四人の位置取りが裏目に出てしまった格好だ。ショウたち三人は一斉に牧童目掛けて駆け出した。


「許六殿、逃げなされ」


 寿貞尼が走りながら叫ぶ。だが、武人としての誇りを捨てて敵に背を向けることなど、許六にできようはずがない。切断された金属バットの片割れを両手に構え、許六は向かって来る牧童に相対した。右手の小柄が許六を襲う。

 鈍い音がした。

 許六の金属バットは牧童の右腕を受け止めていた。小柄に切断されることを回避する為、わざと狙いを腕に定めたのである。その目論見は正しかった。しかし今の許六には受け止めるのが精一杯だった。

 押し返すことも出来ず動きの止まった許六の襟が牧童の左手に掴まれると、あたかも無抵抗な人形の如く、許六の体は投げ飛ばされた。したたかに地に打ち付けられ、起き上がるのもままならぬ許六に牧童は再び襲い掛かる。


「させぬ!」


 ようやく追いついた其角が後ろから牧童の体にしがみついた。が、所詮は非力な女の腕である。左手と足であっけなく振り払われ、其角は地に転がされた。


「逃げられよ、許六殿!」


 ようやく身を起こした許六には、其角の叫びが、遠くから響いてくる木霊のように聞こえた。見上げれば赤色の光を放つ小柄が自分を狙っている。精根尽き果てた許六には既に立ちあがる気力さえも残っていなかった。今度こそあの小柄が自分に止めを刺すのだろう。そう覚悟を決めると許六の心は軽くなった。己は全力を尽くした、無念ではあるが悔いはない。許六は甘んじてこの運命に身を委ねようとした。


「寿貞尼!」


 それはショウの叫び声だった。何が起こったのか、許六にはすぐにはわからなかった。目の前には寿貞尼の顔、そして両腕は許六の体をしっかりと抱き締めている。視線を上げれば寿貞尼の向こうに牧童、その右手の小柄は寿貞尼の背中に突き立てられている。


「な、なんということを……」


 我が身を挺して己を守ってくれたのだ。間近にある寿貞尼の顔は苦痛に歪んでいるが、口元には笑みさえ浮かんでいる。その慈愛に満ちた表情が、消えかけていた許六の闘志に再び火をつけた。寿貞尼の腕を解いて立ち上がると、牧童の背後に迫っていたショウと共に、その巨体にしがみ付いた。


「牧童、貴様だけは許せぬ」


 前後から組み付かれて牧童の体は大きく揺らぎ、右手の小柄は寿貞尼の体から引き抜かれた。だが、二人に出来たのはそれだけだった。許六の体は左手に掴まれて再び投げ飛ばされ、右手に食らい付いて小柄を奪い取ろうとしたショウは、右足で激しく腹を蹴り上げられ力なく地に伏した。痛めつけられた二人に其角が駆け寄る。


「ショウ殿、許六殿、大丈夫か」

「ああ、僕は平気だよ、許六さんは」

「わしも大事は無い。それよりも寿貞尼殿は」


 其角の手を借りてふらつきながら立ち上がるショウ、その目に寿貞尼の首に左腕を回して絞め上げている牧童の姿が映った。太い腕を両手で掴んで身悶える寿貞尼の低い呻き声が聞こえてくる。三人はすぐさま牧童に立ち向かおうとした。


「う、うくっ」


 寿貞尼の口から一際高い声が上がった。その顔は上気し、その両手は爪が白くなる程に牧童の腕に食い込んでいる。三人の動きが止まった。牧童が腕に力を込め、更に強く寿貞尼の首を絞め上げたのは明らかだった。少しでも近づけば、直ちにこの首をへし折る、そう言っているかのようだった。

 寿貞尼を抱えたまま牧童はじりじりと後ずさりをしていく。三人は何も出来なかった。同じだ、とショウは思った。杜国の吟詠境でコトの首に鷹の羽を突きつけられた、あの時と同じ……自分は何もできない。寿貞尼を、コトを守ると、あんなに約束したのに、今またこうして無力に立ち尽くす自分が居る。湧き上がる悔しさと情けなさを振り払うようにショウは叫んだ。


「牧童、寿貞尼をどうするつもりだ!」


 無表情な牧童の口元に笑みが浮かんだように見えた。同時にその右手が赤光を輝かせながら閃いた。


「そ、そんな……」


 ショウは自分の体から力が抜けていくような気がした。牧童の腕を握り締めていた寿貞尼の両手が弱々しく下に垂れた。その左胸には牧童の小柄が突き立てられていた。


「寿貞尼殿!」


 其角と許六が叫ぶ。現し身を詠まれている以上、寿貞尼が胸を刺されるのはコトが胸を刺されるのと同じである。いかに小刀でも急所を刺されれば命取りになる。


「こうなればやむを得ぬ。ショウ殿、許六殿」


 其角は両手を組み二人に呼び掛ける。その意味するところを直ちに理解した二人は両手を組んだ。言霊の業を使うしかない。己の宿り手の生身の体に過度の負担を強いても、寿貞尼を、つまりはコトを救うには、それしか手立てが無い。意識を集中させ、今まさに季の詞を発しようとした時、


「無季!」


 束縛詠が吟詠境に響いた。両手を組んでいた三人の体が硬直した。


「な、なぜ……」


 信じられぬ想いがショウの口から疑問符となって漏れ出した。寿貞尼の右手は三人に向けられている。無季の業は三人に掛けられたのだ。半ば呆然とした面持ちで其角が問う。


「な、何故、我らに無季の業を、寿貞尼殿……」

「其角殿、気づいておらぬとお思いか。閉じる術を持たずに吟詠境を開く言霊などありましょうや」


 苦しそうな息遣いをしながらも、瞳が放つ眼光は衰えてはいない。その眼差しに射すくめられた様に返答できぬ其角を見詰めたまま、寿貞尼は続ける。


「芭蕉翁より聞き及んでおります。己の居らぬ吟詠境で用いられる約定という業を。取決めを定め、予めそれを掛けておくことにより吟詠境で自ずから発動する業。この小柄にはそれが掛けられております。我が見立てが間違っておりましょうか、其角殿」

「そうなんですか、其角さん」


 ショウの問いにも其角は答えようとはしなかった。叱られている子供の様にしかめっ面をして口はへの字に曲げている。


「小柄は言霊を欲しております。許六殿を傷つけ、得物を二つに切り、我が体を刺す。触れた言霊の力を取り入れることにより、小柄の威力は増し、切れ味は鋭くなっていく。その真の目的は、一つの言霊をこの吟詠境から消し去ること。それが叶えられた時、約定の業が発動し、宗鑑の言霊の分身は小柄を離れ吟詠境は閉じられる。誰か一人の言霊が、小柄によって消されさえすればよいのです。そうなのでしょう、其角殿」

「そこまでお見通しであったか……」


 観念したような其角の声。ショウも許六も其角が知っていながら話せなかった理由がようやくわかった。誰かの言霊を犠牲にして吟詠境を閉じることなどできようはずがない。しかし、寿貞尼は今それをやろうとしている。吟詠境を閉じる為に三人に無季の業まで掛けて、自ら進んで己の言霊を差し出そうとしているのだ。堪らず許六が叫んだ。


「ならば、そのお役目、わしが引き受けましょうぞ。吟詠境を開いた責はこの許六にある。我が言霊を以って償うのが筋」

「いいえ、許六殿は芭蕉翁から特に選ばれ封じられた言霊。消え去ることなど許されませぬ。消え去るべきは我が身。この牧童殿と同じく芭蕉翁を裏切り、その元を去った我が身こそ消えるに相応しき存在」


 ショウには寿貞尼の言い分は到底受け入れられなかった。現し身を詠まれた吟詠境では、言霊の体は宿り手の体に直結している。言霊の体が消えれば宿り手であるコトの体がどうなるか、わからぬ寿貞尼ではないはずだ。


「寿貞尼さん、それならコトさんはどうなるんですか。宿り手の意向を無視したこんな行動は余りにも身勝手じゃないですか」

「我が宿り手は既に意を決しておりまする」


 ショウは感じた。自分を見詰める寿貞尼の瞳は、吟詠境に行くと言った時のコトと同じだと。悲愴さと優しさを併せ持つその瞳には、何者の言葉も寄せ付けない強固な意志が宿っていた。


「この吟詠境に入ると決断した時、コト殿はリク殿の為に己の命を投げ出してもよいと決めたのです。それだけの覚悟が出来たからこそ、吟詠境に入ったのです。ショウ殿、あなたはコト殿を、そして我が身を守ると約束なさった。それは叶えられませんでしたが、己を責めることはありませぬ。ショウ殿の口からその言葉が聞けただけで、嬉しかったのですから」

「寿貞尼殿の体が!」


 許六が声を上げた。僅かに残る夕陽を浴びた寿貞尼の体が薄れ始めている。それと対照的に小柄の赤光は一層輝きを増している。


「うむ、小柄が寿貞尼殿の言霊の力を取り入れているのだ。このままでは本当に消えてしまいかねぬ」

「もし、寿貞尼さんの言霊が消えてしまったら、コトさんはどうなるのですか」

「恐らく……」


 言い掛けて其角は口を閉ざした。それだけで、もうその先を訊く必要はなかった。ショウは彦根からの帰路の途中で聞いたソノの言葉を思い出した。――寿貞尼の言霊は大きい、だから、現し身を詠まれた吟詠境ではコトの命さえ危うくなる――今度はショウが悲鳴にも似た声を上げた。


「寿貞尼さん、お願いです。無季を解いてください。言霊の業を使えば必ず小柄を破壊できます。お願いです」

「いいえ、出来ませぬ。言霊の力を取り入れた今の小柄を壊すには、多大な言霊の力が要るでしょう。そなたたちの宿り手の命まで危険に晒す必要はありませぬ。これでよいのですよ、ショウ殿。我が身は数ならぬ身。芭蕉翁が頼りとする者たちの数の内には最初から入っておらぬのですから。この牧童殿のように……」


 寿貞尼の意志は固かった。己の言霊が消えるまで無季の業を掛け続けるつもりなのだろう。ショウは組んでいた両手を解いた。このまま何もせず寿貞尼が消え去るのを待つくらいなら、言霊の業になど頼らずに、もう一度素手で牧童に挑むべきだ。意を決したショウが牧童目掛けて走り出そうとした、その時、


「兄じゃ……」


 最初に現れたのは声だった。次に現れたのは朧げな何か……ショウたち三人と牧童の間に、薄っすらとした影となってそれは現れた。次第に明瞭になっていく輪郭に縁取られたその影は、やがて髪を左右に束ね紺のセーラー服を着た少女の姿となった。シイだった。姿形は紛れもなくシイ。だが、ショウにも其角にも許六にも、その言霊の正体は一目でわかった。誰言うともなく一つの名が吟詠境に響いた。


「北枝……」

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