三人目の言霊
夕焼けに染まる西の空には、荒波に揉まれる小船の如き眉月が所在無さげに浮かんでいた。その眉月の下、沈み行く陽光に照らされた広大な湖の水辺には二人の人影。襷掛けをした濃紺の小袖小袴の男は、その右手に夕日を浴びて紅色に染まった小柄小刀を持ち、それに対峙する半裃姿の武士の右手には十尺近い鎌十文字槍が握られている。
「まさか言霊の業を持っていたとは、驚きましたぞ、牧童殿」
許六は正面に立つ牧童を見据えた。その体全体から発せられる気迫は、芭蕉が逝く直前の会合の時以上に激しく荒々しい。許六に対し並々ならぬ敵意を抱いているのは一目でわかった。
「芭蕉翁が貴殿に言霊の業を与えられたとは思えぬ。しかもこれほどまでの殺気をまとうとは……もしや」
宗鑑、真っ先に許六の頭に浮かんだのがその名であった。経緯はわからぬが、言霊の業を欲する牧童に宗鑑が近づき、業を与えたと考えるのが最も理屈に適っている。許六は今一度牧童を睨みつけた。
「さて、どうなされる。ここで一戦交えるお積もりか」
牧童は無言であった。屋敷で相対した時の饒舌さは全く影を潜めていた。許六を見据えたまま小柄を握って身構え、全神経をその小刀に集中させている。意識が詞ではなく武力に向かっているのを見て取った許六は、牧童には言霊の業を使う気がないのだと悟った。それは許六にとってはむしろ好都合だった。
蕉門十哲の中で最後に言霊の業を与えられたのが許六である。芭蕉と共に吟詠境を開いたのは数えるほど。しかも井伊家家臣としての勤めと書画などの余技に時間を割かれ、俳諧一筋とは言えぬ生活を送っていた許六は、連歌の座を開くことすら稀であった。ましてや吟詠境において、詞の掛け合いによる対決を挑まれたことはただの一度もなかった。勝手を知った槍や刀での勝負の方が、許六にとってもやり易かったのだ。
こちらの呼び掛けには依然として応じようとせぬ牧童にしびれを切らし、許六は肩衣を脱ぎ捨てると槍を両手に握り身構えた。
「やるとなれば全力で参る。貴殿の言霊を奪い尽くす所存だが、覚悟はよろしいか、牧童殿」
許六は返事を待った。殺気だけしか読み取れぬ相手でも礼を尽くしたい、太平の世で武道を修めた侍として、それは当然のことだった。だが、牧童の態度は変わらなかった。口を閉ざし石像の様に立ち尽くすばかりである。まるで別人のような振る舞いに許六は疑念を感じた。こちらの問い掛けに一言も言葉を返さぬとはどうしたことか。これほど無礼な男ではなかったはず。本当に牧童なのか……が、その思考は途中で中断した。何の前触れもなく、牧童が許六に襲い掛かったからだ。
「むっ!」
その動きに応じようとした時には遅かった。不意討ちにも似た素早い牧童の動きにより、既に槍を繰り出す間合いではなくなっていたのだ。許六らしからぬ油断であった。
打ち合いを覚悟した許六は両手で槍柄の中程を握り、突進してくる牧童に対しようとした。その槍柄目掛けて牧童の右手が閃いた。
乾いた音がした。
馬鹿な……力を込める対象を失った両手の感覚に、許六は思わずつぶやいた。槍柄は牧童の小柄によって一刀両断にされていた。分断された槍を握ったまま許六は後ろへ飛び退いた。牧童は一撃だけを与えると動きを止め、最前と同じように口を閉ざし、その両目は許六を見捉えている。
あり得ぬ。たかが研師の分際で、しかもあんな小刀で槍柄が切られるなど……信じ難い出来事は許六の心に猜疑心を呼び起こした。あれは以前に会った牧童ではない、そしてあの小柄もただの小刀ではない。
分断された左手の槍を投げ捨て、穂先の付いた槍を両手で握り直し、許六は自分の前に立ちはだかる相手を睨みつけた。槍柄を切断した右手の小柄は妖しいまでに赤い光を放っている。許六はそこに言霊を感じた。牧童がまとった言霊よりも遥かに力強い言霊を。まさか、あの小柄……許六は槍を握った両手に力を込めると発句を詠んだ。
「
投げ捨てた槍の半身が宙に浮かび上がるや、水平になった槍柄には白麻の
発句を詠んだのには理由があった。槍柄を切ったのは武の力ではない、言霊の力だ。言霊に対するには言霊を以って臨むしかない、許六はそう考えたのだ。
「土用干し!」
許六の発した季の詞と共に経帷子と腰帯が槍柄を離れ、身構える牧童に襲い掛かった。牧童の右手が再び閃く。白麻の浄衣は一瞬にして縦に引き裂かれた。しかし勢いは止まらない。裂かれた経帷子は左右に分かれて牧童の体に取り付き、両腕を袖に通させると、雑巾を絞るが如く牧童の体を締め上げた。更に腰帯が両足に絡みつき牧童の体を地に転がした。体の自由を奪われて身悶えする牧童に許六が近づく。
「牧童殿。貴殿は言霊の業を持つには相応しくない。そして、その禍々しき言霊もこの世に存在してはならぬもの。我が手によって滅してくれようぞ」
槍を左手に持ち替え、顔の前に掲げた許六の右手が薄っすらと光を放ち始めた。それでも牧童は慌てることなく、地に転がされたまま許六を見上げていた。その余裕ある姿は許六に再び猜疑心を呼び起こした。奪霊を使おうとしているのはわかっているはず、なのに何故逃げようともせず寝転がったままなのか。疑念を抱いたまま、右手の光は強く大きく輝きを増していく。迷うことはない、この業を掛ければすべてが終わるのだ。
許六がこの戦いの最後となるであろう奪霊の詞を口にしようとした、正にその時、この瞬間を待っていたと言わんばかりに、牧童の声が吟詠境に響き渡った。
「現し身!」
許六は我が耳を疑った。だがそれは紛れもなく事実であった。己の姿は宿り手のリクの姿、半裃は消えて桃色のソフトボールのユニフォームとなり、分断された槍は金属バットに変わっていた。
許六はすぐさま集中させていた全ての言霊の力を解放した。現し身を詠まれた吟詠境では、言霊の力の消耗は宿り手の生命力の消耗に直結する。無用な力の行使は避けなければならない。許六が言霊の力を解放したことにより、経帷子と腰帯はその力を失って、ただの布切れと紐に戻った。
ようやく自由を得た牧童は身にまとわり付いていた布切れを払い落とし、ゆっくりと立ち上がった。白いランニングと茶色の短パン、頭に麦わら帽子を被ったその姿は、スイカ畑でリクが父つぁんから聞いた夏の作業着姿であった。しかし右手に握った小柄だけは、その姿を留めていた。いや、以前にも増してその刀身から放たれる赤光は輝きを増している。それを見た許六は全てを理解した。
小柄が槍と同じく言霊の力で練られた物なら、槍が金属バットに変化したように、現し身によって現実に存在する物へと変化するはず。だが、現実にあれだけの光を放つ小柄が存在するとは思えない。つまりあれは練られた物ではない、言霊それ自体なのだ。己がユニフォームをまとい、牧童が作業着をまとっているのと同じく、小柄は赤い光をまとっている。その殺気に満ちた赤い光こそ小柄の本来の姿、そしてその力は牧童のそれよりも遥かに強大である。
「ようやくわかったわ、牧童殿。貴殿、宗鑑の言霊の片鱗と成り果てたのだな」
現し身の業は言霊の業に特に秀でた者、宗匠となりうる程の器の持ち主でなければ会得できない。それ故、十哲の中でも其角、嵐雪のみが使え、去来ですら身に付けることは叶わなかった。牧童如きが扱える業ではないのだ。だが、言霊の片鱗ならば本体から業を授けられることで使える様になる。寿貞尼が無季の業を使えるのもその為だ。そして、その本体はあの小柄、発句を詠んだのもこの吟詠境を開いたのも、牧童ではなく小柄、宗鑑自身なのだ。
「小柄と己の分身を一体化させたか。まさかそのような業を使えるとは、これが宗鑑の力か……」
牧童の口元がほころんだ、全て許六の考える通りだと言っているかのようだった。許六の心は騒めいた。相手にする言霊は己の師と互角に戦った強敵。相手にする肉体は、己のか弱い女の体とは比べ物にならぬ程、力も上背も勝っている筋骨たくましい若者。力の差は歴然としている。
これまで潜り抜けてきた幾多の手合わせの場で、一度も経験したことのない胸の高鳴りを許六は感じた。その動悸が押さえ込もうとする感情を呼び覚ます。恐怖とも怯弱とも区別がつかぬ畏れにも似た感情を。
この勝負、勝てぬかも知れぬ……
* * *
僕とソノさんは混雑するバスの車内で揺られていた。先輩とは駅のバスターミナルで別れて、すぐ美術館に向かうバスに乗ったものの、既に到着予定時刻を大幅に超過中。定刻より遅れてやって来たバスは、何台も連なった車列の中をノロノロと動いている。目的地のバス停まであと三つなのだが、自転車にも抜かされていく進み具合では、どれだけ掛かるか見当もつかない。
「ゴールデンウィーク中の観光地だけあって大渋滞ですね。コトさんたち待ちくたびれてないかな」
「むしろ遅れて行った方がいいんじゃない。急にそちらに向かうなんてメールを受けて慌てていると思うから。きっとまだお昼を食べている最中よ」
のんびりとした口調はいかにもソノさんだ。しかし、このままだとソノさんの決まり文句「三十分前に来るのは当たり前でしょ」をコトの口から聞くことになりそうだ。当然リクも便乗して「遅れたのはショウ先輩のせいですね」などと毒舌を展開するだろう。
とにかく一分でも早く到着したいものだと内心かなり焦っている僕の心中を知ってか知らずか、ソノさんはショルダーバッグからおもむろに数枚の紙を取り出した。学生にはお馴染みのレポート用紙を、新聞でも読むような目付きで眺めている。
「ソノさん、それは何ですか」
「これ? これはコトちゃんからのラブレター」
ソノさんの趣味が人をからかうことなのは、これまでの経験で嫌と言うほど思い知らされているので、これが単なるボケなのは十分承知している。と言って適切なツッコミが思い浮かばない。と、ソノさんが笑いながらレポート用紙を僕に突きつけた。受け取って目を通すと、句碑の写真や簡単な解説、地図、所要時間などが書かれている。僕らが今日これから回ろうとしている、この街にある俳諧や芭蕉の足跡の資料であることはすぐにわかった。
「へえ、さすがは卒論執筆中の四年生。下調べは万全ですね」
「ふふ、見直した。あたしだってやる時にはやるのよ、って言いたいところだけど大外れ。それは作ったのはあたしじゃなくてシイちゃん」
「シイが」
「そう。あたしたちが俳句や芭蕉に興味があって、関係する場所を回りたいってトツちゃんから聞いたのね。わざわざ現地へ赴いて写真を撮ったり、ネットで調べたりしてくれたみたい。とても詳しく書いてあって、もう行く必要もないくらい良く出来ているわ。助手に雇いたいくらいよ」
ここに来た初日、僕らが畑で働いているのにシイは街に遊びに行ってしまったと父つぁんは言っていたが、本当は僕らの為にあちこち回って調べていてくれたのだ。やはりシイは父つぁんの思っているような子ではない。今はもう僕の中のシイ像は第一印象とは全く別の形体に変容していた。他人に尽くしてそれを微塵も表に出さないシイの優しい心根は、コトに通じるものがあるように感じた。コトは毒舌でシイは陽気さでそれを隠しているのだ。
「いい子ですね、シイは」
「惚れちゃった? 相変わらず浮気性ね、ショウちゃんは」
お馴染みのボケなのでもうツッコまない。無言でレポート用紙をソノさんに返す。二度目のボケにもツッコミが入らなくて少々不満気味のソノさんが、受け取ったレポート用紙をショルダーバッグに入れようとした時、
「あら」
微かな振動音が聞こえた。バッグから出てきたソノさんの手には携帯が握られている。どこかから着信があったようだ。
「コトちゃんからメールだわ。何かあったのかしら」
「来るなら早く来いっていう催促なんじゃないですか」
携帯の画面を見るソノさん、その顔が見る間に真剣味を帯びてくる。僕の胸がざわつき始めた。何文字か入力して携帯をバッグにしまったソノさんに尋ねる。
「何て書いてあったんですか」
ソノさんの顔は普段は滅多に見られないような険しい表情をしている。そしてその険しさのまま、つぶやくように言った。
「トツちゃんとリクちゃんが吟詠境に行ったらしいわ」
父つぁんとリクが! いや、そんな事は不可能だ。牧童は言霊の片鱗。芭蕉が居なければ寿貞尼が吟詠境に行けないように、宗鑑が居なければ牧童は吟詠境には行けないはず。何かの間違いではないかと訊き返そうとした時、バスが停車した。次のバス停に着いたのだ。
「ショウちゃん、降りましょう」
「え、でもまだ二つ前ですよ」
「ここからなら走った方が早いわ。とにかく一刻も早くコトちゃんたちの所に行きましょう」
ソノさんに言われて慌ててバスを降りる。ゴールデンウィークの市街地はどちらの車線も車で一杯だ。僕らは歩道を走り出した。
「あの、ソノさん。もし牧童が吟詠境に行ったのが本当なら、それは宗鑑が居るってことですよね。メールには何と書いてあったんですか」
「宗鑑のことは書いてなかったわ。書いてない以上、宗鑑は居ないと考えていいでしょうね」
「本体が居ないのに片鱗が吟詠境に入れるなんて、おかしいじゃないですか。コトさんが何か勘違いをしているんじゃないですか。それともなかなかやって来ない僕らに腹を立てて、冗談で」
「ねえ、ショウちゃん」
ソノさんが走りながら僕を見た。依然として険しい表情をしている。
「コトちゃんがこんな事で冗談を言う子だと本気で思っているの。それにあたしは一度思い込みであなたたちをミスリードしてしまった。今は余計な事を考えるのはやめましょう。現地へ行ってありのままを見て、それから考えても遅くはないわ」
ソノさんにそう言われても、僕の頭の中は余計な考えがぐるぐる回っていた。そもそも初めてやって来たこの土地で、いきなり宗鑑の言霊の片鱗に出くわすなんて、話が出来すぎているんじゃないだろうか。僕らをこの地に導いたのは蕪村さん。蕪村さんの目的は去来を凡兆に会わせることだったけど、実は……
「ソノさん、思うんですけど、蕪村さんの本当の目的はこれだったんじゃないでしょうか。僕らに宗鑑の言霊の片鱗を会わせ、戦わせる……」
「ショウちゃん!」
ソノさんが立ち止まった。その顔は険しいを通り越して、其角を思わせる厳めしさに変わっている。
「去来にもライちゃんにも言われたはずよ。憶測で物を言うもんじゃないって。軽々しく結論を出すのはやめましょう」
「……はい、わかりました」
牧童の言霊について間違った結論を出してしまった事が、ソノさんにとっては相当堪えているのだろう。これ以上ソノさんの機嫌を損ねても仕方ない。僕らはまた走り出した。途中で、先輩にも知らせた方がいいんじゃないですかと尋ねると、既にモリが連絡していると教えてくれた。さすがコト、この辺は抜かりない。
やがて目当ての美術館が見えてきた。芝生広場に居るはずだが、広いので探すのに時間がかかりそうだ。幾つかある入り口のひとつから敷地の中に入ろうとすると、ソノさんが急に立ち止まった。
「な、何ですか、突然」
驚いた僕の声を無視して、ソノさんが歩道を駆け出した。行く先には僕らが降りるはずだったバス停、そこに並んでいる数人から少し離れて、見覚えのある女の子が一人立っている。
「シイちゃーん」
ソノさんの声に気づいたシイがこちらに走ってきた。わざわざ僕らを迎えにバス停まで来てくれていたのだ。
「ソノお姉ちゃん、ショウお兄ちゃん、なんだか、大変なことになっちゃって……」
泣き出しそうな声でそう言うシイの頭をソノさんが優しく撫でる。
「詳しい事は走りながら聞くわ。とにかく早くみんなの所へ案内して」
シイを先頭にして僕らは再び走り出す。走りながら話を聞いて、どんな状況かおおよそわかってきた。
「あたしがいけないんです。お兄ちゃんに声を掛けたコトお姉ちゃんと一緒にからかったりして。それでお兄ちゃんが凄く怒って、謝っても許してくれなくて。そしたらリクお姉ちゃんと喧嘩になって、それで……」
「シイちゃんのせいじゃないわ、気にしちゃ駄目よ。それよりもコトちゃんはトツちゃんに何て声を掛けたの」
「えっと、確か夢の話。最近俳人が出てくるような変わった夢を見てないか、とかなんとか」
僕とソノさんは顔を見合わせた。間違いない。コトにも父つぁんの言霊が見えたのだ。だからこそ夢の話を持ち出したのだろう。
「今、お兄ちゃんとリクお姉ちゃんは眠ったみたいになっています。あたしはコトお姉ちゃんに言われて、バス停で二人を待っていたんです」
やはり吟詠境に行っているのは確かなようだ。急いだほうがいい。バス停二つ分を走ってきてさすがに疲れてはいるが、そうも言っていられない。ソノさんも昨日の筋肉痛が残る体でよく頑張れるもんだ。
「あそこです」
シイが指差した広場の片隅には緑の葉を茂らせた立ち木、その下に四人が居る。そしてその力の強大さは遠くからでもはっきりとわかった。父つぁんが言霊を宿していることに、もう疑う余地はない。
「ソノさん、ショウ君……」
駆け寄った僕らに不安げな声で話し掛けるモリ。その横には真剣な眼差しで、吟詠境に行った二人を見詰めるコトが居る。体育座りをしたリク。右手をズボンのポケットに突っ込んだ姿勢で仁王立ちになっている父つぁん。そこから放たれる言霊の大きさはこれまで経験したこともないほどの強さだった。そして吟詠境は確かに開かれていた。
「このトツちゃんの言霊……これは一人じゃない、二人居るわ」
「やはりソノさんもそう思うのね。でもそれが何なのかわからないのよ」
二人の会話を聞いて、僕も父つぁんの言霊に意識を集中する。だが見えなかった。ひとつの強大な言霊、見えたのはそれだけだ。
コトもソノさんも無言で吟詠境に居る二人を見詰めている。開かれている吟詠境に意識を集中して、三人目の言霊を探っているように見えた。どうして片鱗であるはずの牧童が吟詠境に行けたのか、その理由を知りたいのだろう。事態を把握できていない状態で吟詠境に行くのは危険すぎる。発句が牧童によって詠まれたのなら尚更だ。慎重になるに越した事はない。
不意にリクが低い呻き声を上げると、その体が横向きに倒れた。左前腕部に引っ掻いたような赤い線が走っている。
「これは……現し身! 現し身が詠まれているわ」
ソノさんの声が上ずっている。コトはしゃがみ込むと、倒れているリクの頭を起こした。苦しそうな表情が浮かんだ顔に汗が一滴流れ落ちた。コトがハンカチを出してその汗を拭う。
「リクとトツさんでは勝負は目に見えているわ」
現し身が詠まれれば言霊の体は宿り手の体に変わる。いかに許六が武道の達人でも、中学女子のリクの体で父つぁんに敵うはずがない。この腕の腫れが苦戦の証拠だ。一刻も早く救援に向かわないと、許六の言霊だけでなくリク自身さえも大変な状況に陥ってしまう。
「ソノさん、もう考えている暇はないでしょう。今すぐに吟詠境に行って許六を助けましょう」
「そうね、現し身が詠まれたとあってはぐずぐずしてはいられない。ショウちゃん、コトちゃん、行きましょう」
「わ、私は……」
リクの頭を右手に乗せたままコトが口籠る。僕も同じようにしゃがみ込むと、コトの目を見て言った。
「コトさん、行こう。現し身を詠まれた吟詠境では言霊の業は使えない。僕らはこの世界と同じ遣り方で牧童に立ち向かわなくちゃいけないんだ。もう俳諧師であるかどうかなんて関係ない、それなら一人でも多い方が心強いよ」
コトは迷っているように見えた。寿貞尼に対する不安は完全には拭えていないのだろう。その不安は僕自身も感じていた。寿貞尼を守り切れる自信はない、いや僕自身を守り切れるかどうかさえわからない。けれども、ここで行動を共にしなければ、寿貞尼もコトも更に僕らから離れて行ってしまうような気がするのだ。僕はコトの目を見詰めたまま返事を待った。
「う、う~ん……」
コトの右手に支えられたリクの頭が身動きすると、再び苦しそうな呻き声が漏れた。その声がコトの瞳に光を灯した。
「わかったわ、私も行く。モリさん、リクを頼むわ」
立ち上がったコトに代わってモリがリクの頭を膝枕する。ソノさんが声を掛ける。
「ね、モリちゃん、ライちゃんから何か連絡はない?」
「それが何度か携帯に掛けているんですけど、電源を切っているみたいで」
「じゃあ、ここに来たら伝えてちょうだい。すぐには吟詠境に入らず、三人目の言霊を探しなさいって。ライちゃんならそれでわかるはず。それからシイちゃん、もしライちゃんを迎えに行くのなら、バス停じゃなくてあたしたちが来た広場の入り口で待っていて。ライちゃんも絶対に走ってここに来るはずだから」
てきぱきと指示をするソノさんからは、既に其角の影が色濃く立ち上り始めている。相当気合が入っているようだ。
「二人共、準備はいい。ショウちゃん、発句はわかる?」
僕は目を閉じて開かれている吟詠境に意識を集中した。見えてくる。広大な湖。夕焼けに染まる西の空。そこに浮かぶ魂のような薄い月。それらの情景はひとつの発句へと集約する。それは奇しくも古ぼけた蔵で見つけた小柄に刻まれた発句と同じだった。
「月薄き、ですね」
「そう、開いたのは牧童の句。あたしたちにとっては不利な状況だけど、とにかく今は吟詠境を閉じることだけを考えましょう。行くわよ」
ソノさんの掛け声を合図に僕らは発句を詠んだ。既に開かれている吟詠境は即座にその門戸を開放すると、僕ら三人をその中へと招き入れた。
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