破られた封



「まったく、昼食はそちらで取ってって言っておきながら、もうこっちに向かっているなんて、ちょっと自分勝手すぎると思いませんか、コト先輩。これじゃボクたちの食べる時間がありませんよ」


 美術館を出た所で、不満顔のリクが横を歩いているコトに訴える。美術館を見学している最中に、コトの携帯に来たソノの最初のメールは、「昼食は別々に取ることになったから、よろしくね」であった。それから三十分も経たずに来た二通目のメールには「これからそちらに向かうから、昼食を済ませて待っていて」と書かれていた。仕方なく見学を中断して急いで昼食を取ることにしたのだ。


「まだまだ見たいところがあったのに、悔しいです。これはきっとショウ先輩の嫌がらせですね。入館料、半分は弁償してもらわないと」

「リク、発想が飛躍しすぎているわよ」


 コトに言われて首をすくめるリク。ただコト自身もソノらしくない遣り方だとは感じていた。他人の都合を無視して自分の都合を押し付けるような人物ではないからだ。それともそうしなければならない程の何かが起こったのだろうか。メールを打ち返して詳細を尋ねてみようか、迷いながら歩くコトの背後に声が掛かった。


「それよりも早く昼食を取ろうじゃないか。ライ先輩からの二回目のメールには『即行でメシを食って体育館へ急行せよ』と書いてあったし、余程急いでいるみたいだ」


 コトとリクの後ろには父つぁんとシイ、そしてモリが並んで歩いている。初めての来館であるモリは、全て観られなかったことでリクと同じく残念そうな表情をしている。一方、他の二人は普段と変わらない。シイは何度か来ているし、父つぁんは元々大して興味もなく、時間潰しで付き合っただけだったからだ。


「そうですねえ。本当はゆっくり昼食を食べたかったんだけどなあ。でも、ここが待ち合わせ場所なら遠くに行く余裕もないし、どうするお兄ちゃん」


 早く食べようと言った父つぁんだが、どこで何を食べるかまでは考えていなかった。地元の人間はシイと父つぁんである。他の三人はお客さん扱い、全てはシイと父つぁんの二人で決めなくてはならない。


「そうだなあ。ああ、そうだ。確かゴールデンウィーク中は広場に移動カフェが沢山出るだろ。飲み物の他に簡単な食べ物も売っているはずだ。そこで好きな物を買ってここで食ったらどうだ。木陰に入れば暑くないし、いつソノさんたちが来ても大丈夫だろ」


 父つぁんの出した結論はシイを落胆させた。本来なら、事前に調べておいた幾つかの安くて美味しい店の中から、みんなの行きたい店を選んでもらい、そこへ連れて行くつもりだったのだ。さりとて今の状況では他に名案もない。


「不本意ですがそれしかないようですねえ。お姉ちゃんたちごめんなさい。せっかくのお昼が屋台のジャンクフードなんて」

「仕方ないわよ、急に予定が変わったんだもの。シイの責任じゃないわ」

「そう、悪いのは全てショウ先輩。きっと訪問先で何かやらかしたに違いないですね」

「リクはよっぽどショウ君が気に入らないのね、ふふふ。シイちゃん、気にしないでね」


 冷静なコトに怒り顔のリク、それを面白がるモリ。自分に優しく接してくれる三人に、シイは父つぁんとは違った親愛の情を感じた。本当のお姉さんだったらいいのに、そんな想いさえ湧き上がってくる気がした。


「ジャンクフードなんて失礼だぞ。あれでも一所懸命作ってくれているんだから。全ての食物を崇拝しているライ先輩に聞かれたら大目玉を食らうところだ。せめてB級グルメと言ってやれよ。それよりも、そうと決まれば善は急げだ。早く買いに行こうぜ」


 言い終わらないうちに歩き始めた父つぁんを見て、女子部隊四人もその後に続いた。西側の広場入り口にはお祭り屋台のように幾つかの出店が並んでいる。売られているのはやきそばやたこ焼きなど、シイの言葉通りジャンクフードには違いないが、その中身は一捻りしたものばかりだ。


「あら、このワッフルサンド、加賀レンコンが練りこんであるのね。健康志向かしら」

「ポン酢味のたこ焼きか。まあ、ボクは酸っぱいのが好きだからちょうどいいな」

「やだ、アイスはしょう油味ですって。おまけに名前が『まるびーアイス』って、面白い、うふふ。でも、これどういう意味なのかな」

「モリお姉ちゃん、それはですね、この美術館のあだ名なんですよ。建物が丸いでしょ。丸い美術館、略して『まるびー』なんです。あ、でも溶けちゃうから、食事の後で買った方がいいですよ」


 はしゃぐ四人から離れた所でやきそばを買いながら、父つぁんはまたかとため息をついた。どうしてこんな物であんなに大騒ぎできるのだろう。美術館でも何てことのない展示の前で変に興奮したり、撮影可能エリアで互いに写真を撮り合ったりしていた。とにかく複数の女子と一緒に時間を過ごすなんてこと、これからはなるべく避けるようにしよう。父つぁんはしみじみとそう思った。


「おい、みんな、買えたか」


 自分のやきそばを買った父つぁんは、てんでに屋台の前にいる四人に声を掛けた。と、その時、視線を感じた。コトだった。ワッフルサンドと飲料の入った紙コップを持って、さりげなくこちらを見ている。


『まただ』


 父つぁんは心の中でそうつぶやいた。今日幾度なく感じてきた視線。昨晩もそれからこれまでの学校生活でも、コトがこれほど自分に注目することはなかった。だが今日は明らかに違う。間違いなく自分を見ている。

 それでも父つぁんはその理由を訊く気はなかった。単なる自分の思い違いかも知れないし、コトが否定すればただの自意識過剰男としてシイにからかわれる材料にもなりかねない。父つぁんは知らぬ振りをして屋台から離れると、広場の片隅にある木、それほど大きくはないが五人なら十分日陰に入れるほどの、生い茂った緑の葉が眩しい立ち木へと向かった。

 シイにジャンクフードと言われた今日の昼食だったが、五人には意外と好評だった。シイ本人でさえ、最初からこの昼食を選択しておいても良かったかなと思うほどだった。何より自由に分け合って色々な味を楽しめるのがいい。特にモリはシイの忠告を無視してアイスを買ってきてしまったので、溶けないようにと一番先にみんなで分割し合っていた。


「ホラホラ、お兄ちゃんもアイスをどうぞ」

「俺はいいよ。自分の買ってきた物だけを食う」

「もう、今日はいつにも増して頑固だね、お兄ちゃん」


 普段は自分のおにぎりを他人に分け与え、他人の物も有難く頂戴している父つぁんなのだが、シイに言われると無性に拒否したくなる。特に今日はその気持ちが一段と強かった。ここ数日、ライの言い付けでシイに言いたいことを言えなかったせいかも知れない。父つぁんは今の自分の気持ちにそんな弁解を与えて、頑なな自分を納得させようとした。


「ねえ、トツさん」


 急にコトが話し掛けてきた。今日は自分を見ているだけで、一度も口を利かなかったコトの突然の行動に、父つぁんは内心動揺しながらも、平静を装って返答する。


「何かな、コトさん」

「つかぬ事を伺いますけど、最近、変わった夢とか見たりしない?」

「変わったって、例えば、どんな」

「そうね。例えば俳人が出てくる夢とか、芭蕉さんとお話しする夢とか」


 父つぁんの体がビクリと震えた。コトは刺すような眼差しでこちらを見ている。自分を落ち着かせるように深呼吸をした後、父つぁんは答えた。


「い、いや、そんな夢は見ていないけど」

「そう、それならいいの。変な事を訊いてごめんなさい」


 コトはそれだけを言うと、ストローを咥えて紙コップの飲料を喉に流し込んだ。コトには見えていたのだ。父つぁんに重なって薄っすらとした、初めてモリの中に杜国の影を見た時よりも、もっと薄っすらとした影を。

 昨晩、ショウに牧童についての話を聞かなければ見逃してしまいそうなほど薄い影。ただそれが言霊であるという確証は持てなかった。今日半日、折を見て父つぁんを見詰めても、やはり判然としなかった。見るだけでは埒が明かないと感じたコトは直接訊いてみることにしたのだった。そして父つぁんの返事を聞いてようやく確信に至った。父つぁんが嘘を言っていることがわかったからだ。

 夢を見せるのは言霊。夢を見ているのなら、言霊が宿っていることになる。そして嘘を言ってまで隠したいのなら、その夢は知られたくないような内容なのだ。今のコトにはそれだけわかれば十分だった。後はライやソノと相談してどうするか決めよう。コトはこれ以上、父つぁんの嘘を追及しようとはしなかった。しかし父つぁんが嘘を言っているのに気づいたのはコトだけではなかった。


「お兄ちゃん、どうして本当の事を言わないの」


 シイだった。少し怒った顔で父つぁんを見詰めている。


「本当の事って、何を言ってるんだよ。見てないから見てないと言っただけさ」

「せっかくコトお姉ちゃんが一緒に話をしようとしてくれたのに、問答無用で否定したら話が続かないよ。嘘でもいいから見たって言ってあげるのが優しい男子ってもんでしょ。それなのに嘘をついてまで話を終わらせようとするなんて、男子の風上にも置けないよ」

「うるさいな。お前には関係ないだろ」

「関係あるよ。お兄ちゃん気づかなかったの。コトお姉ちゃん、今日はお兄ちゃんを時々見ていたんだよ。もしかしたら、本当のお姉ちゃんになってくれるかも知れないんだよ」


 本当のお姉さん、つまりそれは自分とコトが……シイの爆弾発言に、さしもの父つぁんも顔が赤くなった。


「ば、馬鹿。俺とお前は従兄妹だろ。兄妹じゃないんだから本当の姉になんかなるわけないし、それにコトさんはショウの」

「ショウお兄ちゃんは、コトお姉ちゃんとはただのクラスメイトで同じ部の部員なだけって言ってたよ。お兄ちゃん、チャンスじゃない」

「そうね、トツさんの方が頼りがいはあるわね」

「コトさんまで、何を……」


 悪ふざけだ、父つぁんはそう感じた。シイもコトも自分をからかっている。女友達の一人も持てない自分を馬鹿にしているのだ。


「やったあ。じゃあ、体育館にはコトお姉ちゃんも一緒に行く? あ、あたしも付いて行こうかな。二人の仲がどう進展するか見守りたいし」


 はしゃぎまくるシイ。父つぁんが低くつぶやく。


「……やめろ」

「コト先輩が行くのなら、ボクも体育館に行きますよ」


 置いていかれては大変とばかりにコトより早くリクが返事をする。それを聞いてシイの悪乗りは更にエスカレートする。


「おお、それじゃ古都見学をするのは三人だけになりますね。モリお姉ちゃん、ショウお兄ちゃんをほぼ独占状態じゃないですか。もしかしてこれを機に二人の仲が急接近したりして」

「そんなぁ~。あ、でもそうなったらそうなったで嬉しいかも」


 リクとモリも巻き込んで、さらに盛り上がるシイ。父つぁんは無意識の内に右手をズボンのポケットに入れていた。手の先に当たる固く冷たい細長い物。朝起きてそれに触れてから、片時も離さず身に着けていた物。それを握り締めた時、父つぁんの中で何かが弾けた。これまで押さえ込み抑圧していた何かが怒鳴り声となって一気に噴出した。


「いい加減にしろ!」


 全てを威圧するかのような父つぁんの怒声に、それまで賑やかにしていた四人は一斉に口を閉ざした。シイは父つぁんを見た。仁王立ちになって自分を睨みつける姿は、もうシイが知っている父つぁんではなかった。こんな恐ろしい姿はこれまで一度も見たことがなかった。


「昨晩の花火の時もそうだ。いつもいつも俺を馬鹿にして。親友の一人も持てない俺をからかうのがそんなに面白いのか」

「ご、ごめんなさいお兄ちゃん。悪気はなかったんだよ。気に障ったのなら謝るよ。だからそんなに怒らないで」


 声を震わせて謝罪するシイ。しかし父つぁんの耳には入らない。


「昨日だけじゃない。一昨日だってそうだ。俺やショウが畑で働いているのにお前は街に遊びに行った。自分が楽するために、嫌なことは全部俺に押し付けてきただろう」

「違うよ、遊んでなんかいないよ。お姉ちゃんたちが俳句に興味があるって聞いたから、どこを回ればいいか調べていたんだよ」

「じゃあ、これまで一度も畑に来なかったのはどういうつもりなんだ。同じ農家の子供なのに、手伝っていたのは俺だけだったじゃないか」

「そ、それは、お母さんが、ピアノを習うなら指を痛めちゃいけないって言うから、だから農作業は……」


 自分の元気が失われていくのをシイは感じた。そしてそれと反比例するように心の中には悲しみが積もり始めていた。これまでお兄ちゃんと呼んで慕っている人の目に、自分はどんな人間として映っていたのか。それがわかり始めた今、シイの胸は切なさにはち切れそうだった。


「そうだな。悪いことは全て他人のせい。良いことは全て自分の手柄。お前はそうやって生きてきたんだもんな。俺はガキの頃から日曜も夏休みも畑で働かされた。友達と遊ぶことも勉強をすることもできなかった。そして俺のできなかったことは、みんなお前がやってしまった。友達も多い、成績も優秀、俺とは何もかも正反対だ。見下しているんだろう。慕っているような振りをして心の底では俺を馬鹿にしているんだろう。わかっているんだ、お前の本心くらい」

「違う、違う、お兄ちゃんは誤解しているよ。あたしはわかっていたよ。お兄ちゃんはみんなのために働いて偉いなあっていつも思っていたんだよ。だからお兄ちゃんの分も頑張らなきゃいけないって思った。勉強もピアノの練習も辛かったけど、一所懸命頑張ったんだよ。馬鹿にしているなんて、そんな事、一度も思ったことないよ。どうしてわかってくれないの」

「口ではなんとでも言えるからな。そうやって舌先三寸で体の良い言葉を並べて、沢山の友達を自分の味方につけてきたんだろう。俺はだまされないぞ」


 冷淡に突き放すような父つぁんの言葉。決して乗り越えられない巨大な絶壁が、自分の眼前に立ちはだかっているようにシイは感じた。どんなに努力してその固い岩盤を削ろうとしても、自分の持っている木製のスコップでは磨り減らすことさえ叶わない、そんな無力感がシイの心に広がり始めていた。


「ねえ、どうして仲良くなれないの。初めて会ったお姉ちゃんたちとはこんなに仲良くなれたのに。一緒に暮らしていて血の繋がりもあるあたしとお兄ちゃんは、いつまで経っても仲違いしたままなんて、悲しすぎるよ」

「お前と仲良くなれることなんてあるはずがないだろう。そんな事より、そのお兄ちゃんって呼び方、今日で止めてくれ。本当の兄妹でもないお前に兄と呼ばれる筋合いはない。迷惑だ」

「そ、そんな……おにい……」


 シイの胸に何かが込み上げてきた、その何かは声を詰まらせ、同時にシイの目に涙を浮かべさせた。どれほどの言葉を尽くしても自分の気持ちをわかってもらえない、本当の自分を見てもらえない……それはシイが父つぁんに対して初めて抱いた挫折感だった。まるで全ての言葉を封印されてしまったかのように、シイは口を半開きにしたまま声を出すことさえできなくなってしまった。


「トツ先輩!」


 シイの横に立って二人の会話を聞いていたリクが大声を出した。ショウに対してさえも見せたことのない鬼のような形相で父つぁんを睨みつけている。


「年上ということで黙っていましたが、もう我慢できません。いくら何でもそんな言い方ってないでしょう。シイの言った事を頭ごなしに否定して自分の考えばかり押し付けて、自己中ここに極まれり、です。間抜けで人の心がまるでわからないショウ先輩だって、そこまで自分勝手じゃないですよ」

「な、なんだよ。俺たちの問題に首を突っ込むのはやめてくれ」

「いいえ、これはボクたちの問題です。だってシイはボクたちの友達なんですから。その友達が傷つけられたら黙っているわけにはいきません。シイに謝ってください」

「リクの言う通りよ、トツさん。お昼におにぎりを分けてあげるくらい、いつものあなたは思いやりに溢れているでしょう。今のトツさんはあたし達の知っているトツさんとは違う!」


 今度はモリだった。普段は控え目で自分の意見をあまり言わないモリまでもが、頬を赤らめて父つぁんに向かっている。思いもかけぬ二人の横槍に、自分の怒りが更に増幅されていくのを父つぁんは感じた。


「ねえ、トツさん、確かにさっき私はあなたをからかった、それは謝るわ。でもモリさんが言ったように、今日だけじゃなく昨日から、あなたは今までのあなたじゃなくなっていたような気がするわ。よかったら話してくれない。あなたに何があったのか、そしてあなたの見た夢のことも」


 同じ目だった。さっきと同じ心の中まで見通すような目で、コトは父つぁんを見ていた。そして、父つぁんは今のコトの言葉から、自分の嘘は見破られていたのだと確信した。

 父つぁんは自分の前に立つ四人を見詰めた。こちらに向けられた四人の瞳。嘘の涙を流してその裏で自分を卑下する瞳。罵詈雑言を平気で浴びせる敵意むき出しの瞳。今の自分を見てくれず虚構の姿を見ようとする瞳。そして、嘘を知っていながら騙された振りをして、更に自分の奥深くまで覗き込もうとする瞳。それらは全て父つぁんの敵だった。

 父つぁんは思った。味方は誰も居ない。やはり自分は一人なのだ。こうして一緒に行動し食事をしても、本当の自分を見ようとしてくれる者は居ない。自分を理解してくれる者も居ない。いつまで経っても自分は一人のままなのだ。


 ――お主をひとりにした者が憎かろう、牧童よ。


 声だった。懐かしい声。唯一自分を認めてくれた声。父つぁんはズボンのポケットに入れている右手に力を込めた。その右手が握っている物から、何か別の意志が自分の中に入り込んでくるのを父つぁんは感じた。


 ――さあ、今こそ封を破れ、牧童よ。お主の責務を果たすのだ。


 入り込んできた意志は今や父つぁんの全てを支配していた。その意志の命ずるままに、父つぁんの声ではない声で、父つぁんの言葉ではない言葉が、父つぁんの口から発せられた。


「破封!」

「なっ!」


 コトの目に映る光景は信じられないものだった。これまで感じたことのない圧倒的な濃さの言霊の影が父つぁんの背後に立ち上っている。もう間違いなかった。父つぁんは言霊を持っている。しかしどうして突然これほどの影が……コトは急変した事態に戸惑いながら、濃さを増していく言霊の影の正体を見極めようとした。


「牧童……」


 リクがつぶやいた。いつの間にかシイから離れ、父つぁんに立ち向かうように歩き始めている。その声を聞いてコトは、これがショウが言っていた牧童の言霊であることを改めて認識した。寿貞尼と牧童は面識がない。言霊を見ただけではそれが誰かわからなかったのだ。が、そうとわかってもコトには違和感があった。この尋常ならざる言霊の影は牧童一人で形成されているとは思えなかったのだ。


「許六、寿貞尼……」


 父つぁんの低い声。コトの違和感は更に大きくなった。自分の言霊を寿貞尼と認識している。一度も会ったことがないはずなのに牧童にはわかっている。これは本当に牧童なのだろうか。コトはもう一度父つぁんを見詰めた。右手をズボンのポケットに入れ、左手は胸の前で固く握り締めている。吟詠境を開こうとしているのは明らかだった。


「望むところだ、牧童」


 リクもまた両手を組んで顔の前に掲げている。コトが大声を上げた。


「駄目よ、リク。わかっているの? 杜国が封じられ芭蕉が居ない今、私もモリさんも吟詠境には行けない。あなた一人だけで行くのは危険すぎるわ」

「牧童如き、許六ひとりで十分。コト先輩の手を煩わせるまでもありません。それに許六と牧童は浅からぬ因縁があるんです。決着をつけておくには丁度いい」


 リクも父つぁんも互いに己の意識を高めあっている。戦いの場として吟詠境を開く時、発句を詠んだ者が断然有利になる。危機が訪れれば挙句を詠んで逃れることができ、利があれば閉じずに攻め続けられる。開かれる発句を決めるのは、詠み手の言霊の力の大きさと、選択した発句への想いの多寡である。発句争いに勝つべく、父つぁんとリクは互いの意識を己の拳へと集中させているのだ。


「待って、リク。この言霊は変だわ。一人じゃない。吟詠境を開いては駄目!」


 だが、リクからの返事はなかった。もはやコトの言葉さえ耳には入らないようだった。そしてコトにはわかっていた。この発句争いにリクは勝てない。疑いなく牧童の発句で吟詠境は開かれる……コトは父つぁんから目を離すと背後を振り向いた。もう自分たちだけで事態を収拾するのは不可能だ。


「モリさん、ライさんに連絡して。すぐここへ来るように。二人を止めなくては」


 シイの肩を抱いて成り行きを見守っていたモリは、慌てて携帯を取り出した。杜国が封じられているモリには宿り手としての能力はほとんどない。牧童の言霊は見えないし、発句を感じることもできない。それでも父つぁんに言霊が宿り、リクと二人で吟詠境に行こうとしているのはわかった。コトのこの言葉だけで今の状況は十分に理解できたのだ。

 コトも自分の携帯を取り出すとソノへのメールを入力し始めた。とにかく一刻も早くここに来て欲しい、焦る指先で文字を入力し始めたその時、コトの頭の中に声ならぬ声で発句が鳴り響いた。牧童の詠唱する、吟詠境を開くための発句が。コトの中の寿貞尼が叫んだ。


「許六殿、詠んではなりませぬ!」


 しかしその声は許六には届かなかった。牧童に合わせて許六が詠んだ発句により吟詠境は開かれ、二人はその中へと引き込まれて行った。

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