三人の後悔


 顔を上げると目の前にはおじいさんが居た。左右には先輩とソノさん。知らぬ間に吟詠境が閉じてしまったようだ。僕は先程までの出来事を回想した。筍の刺身、俳諧撰集猿蓑、真紅の丸薬本復丹丸、それを完成させるために詠唱する凡兆……僕の記憶はそこまでだ。だが、何かが足りない。


「挙句……」


 そうだ。座を開いた凡兆が詠むはずの挙句を聞いていない。挙句を詠まねば吟詠境が閉じるはずもないのに、それを聞いていない。僕は先輩を見た。おじいさんを見詰めている。ソノさんもまたおじいさんを見ている。二人共僕同様、吟詠境から出ているのは間違いなさそうだ。では、おじいさんは……力なくベッドに座るおじいさんは虚ろな目をして顔を伏せていた。やはり吟詠境からは出ているようだ。だが、そこから受ける印象は全く変わっていた。


「凡兆の言霊が……」


 見えなかった。弱弱しいながらもはっきり見えていた凡兆の言霊が、全く見えなくなっていた。それは、初めて僕を吟詠境に引き込んだ言霊、維舟の姿を思い起こさせた。桜の花びらに包まれて消えていった維舟。あの時も挙句が詠まれることなく吟詠境は閉じた。発句を詠んだ言霊が消えてしまったからだ。


「まさか、凡兆は……」

「そうだ。凡兆の言霊は消えた。あの丸薬は、込められた言霊の力によって失われた力を回復させる。問題は言霊の力をどのように丸薬に込めるかだった。俺たちが食べた後の竹の子の皮。多分、あれが凡兆が見つけ出した方法だったんだろう。あの皮を触媒にして凡兆は自分の言霊の力を全てあの丸薬に移したんだ。自分の存在が失われることも厭わずにな」


 平然と話す先輩の口調とは裏腹に、その内容は僕にとっては余りにも衝撃的だった。丸薬の説明をすぐにはしてくれなかったのも、去来が頑なに受け取りを拒んだのも、こうなることがわかっていたからなのだ。突き上げてきたやるせない怒りが僕の声を大きくした。


「どうして、どうしてそんな大事なことを、去来も其角も教えてくれなかったんですか。こんな、騙すような真似をして、僕は……」

「もし言えば。あなたは受け取りを拒んだ、そうではないですかな」


 おじいさんの低い声。先程までの虚ろな目ではなく、しっかりした眼差しをしている。


「おじいさん、覚えているんですか」


 言霊が消えればそれに関する記憶も消える。維舟を宿していた文芸部の部長がそうだった。このおじいさんとて例外ではないはずだ。僕の問い掛けにおじいさんは軽く首を振った。


「いや、凡兆から流れ込んでいた知識や、吟詠境での記憶はほとんど失われてしまいましたよ。ですが、私はこれまでの人生のほとんどを凡兆と共に過ごしてきたのです。彼と二人で作った記憶は今も私の中に残っています。それに、去来に渡したいものがあると蕪村に頼んだのはこの私です。それを成し遂げるために、今日、凡兆は己の言霊を犠牲にした、そうなのでしょう」


 言霊の消失が記憶の消失を招くのは間違いないようだ。それでもおじいさんは正しく推測をしている。僕が「はい、そうです」と相槌を打つと、おじいさんは遠くを見るような目で話を続けた。


「私が凡兆を宿したのは皆さんと同じく十代の頃でした。その切っ掛けは忘れましたが、地元の、そして医者でもあった俳人ということで興味があったのでしょう。しかしその興味も長く続くものではありません。歳と共に凡兆への私の共感は次第に希薄になっていきました。皆さんも覚えがあるでしょう。真っ赤な夕日が沈んでいく、入道雲が青空に湧き上がる、幼い頃はただそれだけで感動していたのに、大人になればそれしきの事では心は動きません。共感が薄れた私は、もう凡兆に言霊の力を与えてやることはほとんどできなくなっていました。けれども凡兆は私から離れ、新しい宿り手を探そうとはしませんでした。それは私が若い頃に偶然出会った蕪村、彼に賭けたのだと思います。新たな宿り手を見つけるより、蕪村の再訪を待った方が去来に出会える可能性が高いのではないか、そう考えたのでしょう。そして今日、その思惑通りに去来が芭蕉が其角が、この地にやって来ました。渡すべき物を手にした瞬間から抱き続けていた願い、言霊として数百年間抱き続けていた自分の願いが、遂に叶う時がやって来たのです。凡兆が消えた事を悲しむ気持ちはよくわかります。けれどもあなたは凡兆の望みを叶えてあげられたのです。それでいいではありませんか。凡兆から託された物、それを凡兆と思って大切にしてください」


 切々と語るおじいさんの言葉は、凡兆自身が語っているように聞こえた。僕の胸のわだかまりも悲しみも、おじいさんの言葉で完全に消えることはなかった。けれども、凡兆が抱き続けていた願いを叶えられたという事実は、少なくとも今の僕の心には大きな慰めとなった。僕はおじいさんに頭を下げた。


「わかりました。心して使わせていただきます。ありがとうございました」


 凡兆に言えなかったお礼の言葉。今はもうおじいさんに言うしかない。もっと凡兆と話をしておくべきだった、もっと話を聞いておくべきだった、こうなるとわかっていたのなら……先輩が僕の背中を叩いた。さすがに遠慮して普段の十分の一程度の迫力しかない平手打ちだったが、そんな先輩の心遣いは嬉しかった。元気を取り戻した僕を見て、気分を変えるようにおじいさんが言う。


「さあ、では少し早いですが、昼食をご一緒してくださいませんかな。いつも妻と二人だけで取っているので、たまには賑やかに楽しみたいのですよ」

「あ、でも私たちは別の場所に連れがおりますので」


 ソノさんがやんわりと断る。同感だ。食に関しては傍若無人で大食漢の先輩と一緒に初対面の人物と食事だなんて、料理を味わうこともままならなくなりそうだ。


「おや、それは困りました。実は私は竹の子が好物でして、既に二人では食べきれぬほど料理が出来上がっておるのですよ。食べてもらわねば捨ててしまうことになりかねません」


 先輩の目が輝いた。腹を減らしたライオンの前に丸々と太った子豚を置くと、きっとこんな目になるんだろう。そして目だけでなく声まで輝かせて先輩が主張する。


「そりゃ、食べて行かない方が失礼になるよな。せっかく用意してくれたんだからご馳走になろうぜ。父つぁんたちにはメールしとけばいいじゃないか。それにまだ知りたいこともあるだろう。食べながら話を聞こうぜ」


 知りたいこと、そうか、凡兆は蕪村さんについてさらに知りたければ、宿り手と話をしろと言っていたんだ。蕪村さんと二度も会い、直接話をしたこのおじいさんなら、多くのことを知っているはずだ。


「そうですね、僕も賛成です。ソノさん、食べていきましょうよ」

「仕方ないわね。じゃあ、あたしはコトちゃんにメールしておくわ」


 さっそく携帯を取り出して入力を始める先輩とソノさん。そんな二人をにこやかに眺めながら「おーい」と声を上げるおじいさん。程なくしておばあさんがやって来ると、ベッドの傍らに折り畳んであった車椅子を広げた。


「では食卓へ行きましょう。もう用意はできているはず、だな?」


 もちろんと頷くおばあさんに嬉しそうな顔をしたのは、おじいさんだけではなかった。ニコニコ顔の先輩はおじいさんを軽々と持ち上げて車椅子に座らせると、待ちきれないとばかりにそれを押して部屋を出て行った。これから先輩の独壇場が始まるのかと思うと、気分も胃も重くなってしまいそうだ。


 食卓には予想以上の料理が並んでいた。しかも全て筍がらみである。筍と鶏肉の炊き込みごはん、筍と山菜の煮物、筍汁、筍と海草の酢の物、筍味噌焼きなどなど。


「ははは、そんなに慌てなくても沢山ありますから」


 これは勿論、先輩に言っているのである。既に食の風林火山の山以外が発動している先輩に、呆れて塞がらなくなった口をなんとか塞いで、僕とソノさんは食事を続けた。そもそもほんの数時間前にあれだけ食べておきながら、どうしてこれ程詰め込むことができるのか、驚異を通り越してもはや謎である。世界七不思議のひとつに推薦したいくらいだ。


「先輩、少しは遠慮してくださいよ」

「ん、いや、お前はいいよな。凡兆の竹の子の刺身を味わえたんだから。俺とソノさんは、去来と其角が食べるのを黙って眺めているだけだったから、ホント辛かったんだぜ。だからさ、ちょっとは大目に見ろや」


 現し身を使わなくても吟詠境での意識がそのままの僕は、確かに絶品の筍の刺身を味わえた。お預けを食らった状態の先輩の気持ちはわからないでもない。しかし、いくら何でも牛飲馬食を地で行くかのようなこの食いっ振りは……と思っているうちに、食卓の上の料理はあらかた片付いてしまった。


「ご馳走様でした」


 両手を合わせてお辞儀をする先輩。食べながら蕪村さんの話を聞こうと思っていたのに、話をする前に食事が終わってしまった。


「若い方は食べるのも豪快で見ていて気持ちがいいですね。今、デザートを持って来ますからね」


 豪快なのは先輩一人だけで僕は普通ですと、席を立って台所に向かったおばあさんにツッコミたくなったが、それは止めて、おじいさんに話を向ける。


「あの、ところで凡兆さんは、蕪村さんについてもっと知りたいのなら宿り手に訊けと言っていました。おじいさんは蕪村さんをどう思っていますか」

「蕪村、あれも不思議な人物でしたな」


 おじいさんはほとんど食事をしなかったが、満腹に満足している先輩と同じく、にこやかな顔で僕らを見ている。


「腹痛を起こしたただの老人、それが第一印象でした。しかし凡兆によって江戸中期の俳人蕪村本人だと知らされた時には、その印象は一変しました。もはや人を超えた何か別の者のような気がしたのです。同時に言霊の業の底知れぬ力にも気づかされました」


 おじいさんの気持ちはよくわかる。数日前、蕪村さんに真実を教えられた僕も並大抵の衝撃ではなかったのだから。


「みなさん、お待たせしました」


 おばあさんがお盆を持って入ってきた。その上には脚付きのガラスカップ四つと大きな丼が一つ載っている。言うまでもなく丼は対先輩用の容器である。先輩の巨大胃袋を見抜いて即座に対処法を考え出すとは、このおばあさん、なかなかの切れ者のようだ。


「ちょっと変わった趣向のデザートですよ。お口に合えば嬉しいのですが」


 配られたカップの中には果物を固めた白い寒天。食べてみると、ヨーグルト風味の甘酸っぱさと不思議な食感。これは何のフルーツだろうと思いながら噛み締めて、それが筍であるとわかった途端、思わず頬が緩んだ。ここまで筍に拘るとは余程好きなのだろう。


「うん、いけますよ。最高のデザートです」


 カレーライス用の大きなスプーンで寒天を口に放り込みながら、先輩はご機嫌である。木匙で寒天をすくっていたおじいさんは二口ほど食べて満足したのか、また話し始めた。


「失礼、話が途切れましたな。最初の出会いは、ほとんど話をすることもなく終わってしまいました。それから数十年の時を経て、ほんの数日前、彼はまたやって来ました。その時には色々と話をしましたよ。特にある人物について、確か……そうそう宗鑑、俳諧の祖、山崎宗鑑について多くの事を語ってくれました。宗鑑の封は既に解かれている、蕪村はそう言っておりました」

「宗鑑の封が……」


 封が解けているのは予想通りだ。重要なのはどうして蕪村さんがそれを断言できたか、だ。やはり、蕪村さんは宗鑑の言霊を宿しているのか……僕の思考にお構いなしに、おじいさんは話を続ける。


「宗鑑は大した言霊のようでした。これまでに作り出された業のほとんどを使える、中でも最も恐ろしいのは、冬の女神の季の詞『黒姫』、彼女が使う業だ、そう言っておりましたな」

「ええ、それは凡兆さんも言っていました。生命力を言霊の力に変える業ですね」

「おや、そうですか。やはり言霊を失くすと吟詠境での記憶がほとんど失われるようですね。では、凡兆はこの事も言っておりましたかな。蕪村は今、宗鑑の言霊の片鱗を探し求めている、と」

「宗鑑の言霊の片鱗……」


 寒天を食べていた先輩の手が止まるのがわかった。ソノさんの動きも止まっている。僕らは互いに顔を見合わせた。思っていることはみんな同じようだった。


「その様子では話していないようですな。宗鑑が自分の言霊の片鱗を作り出していたことは、芭蕉の門人たちにはほとんど知られていなかったようです。正体を知られぬよう、片鱗たちには言霊隠しの業を与え、また片鱗となった俳諧師は直ちに目当ての門人を吟詠境に引き入れ、確実にとどめを刺し、そして無用になった片鱗の力はすぐさま宗鑑によって奪い取られる、そのような扱いだったため、気づく間もなかったのでしょう」

「まさか、宗鑑も自分の片鱗を作っていたとはな」

「気がつかなかったわ。あたしだけじゃなく、其角ですら気づいてなかった」


 先輩とソノさんの呟きを聞きながら、僕もまた闇討ちにも似た感情を抱いた。宗鑑も言霊の片鱗を持っている……だが、考えてみればそれは不思議なことではない。芭蕉にできることが宗鑑にできぬはずがないのだから。むしろ今までそこに考えが至らなかった自分が愚かに思われた。


「蕪村の言葉によれば、宗鑑は蕉門との対決に当たり、幾つかの片鱗を作り出していたようです。が、十哲のひとり嵐雪がそれを見抜き、姦計をめぐらして己を宗鑑の宿り手とし、片鱗たちに助力させることなく芭蕉と相見えさせたのです。その戦いで宗鑑は宿り手から引き離されて元の言葉に封をされ、門人に宿っていた宗鑑の片鱗もまた、本体が封をされたことで宿り手を離れ、本体同様各々の言葉に封をされてしまいました。しかし、本体の封が解けた今、残された宗鑑の片鱗たちの封も解かれてしまっています。自分はその片鱗を探し求めているのだ、蕪村はそう言っていました」

「蕪村さんが宗鑑の言霊の片鱗を探している理由は何だと思いますか。よかったら考えを聞かせてくださらない」


 ソノさんがおじいさんに尋ねる。訊くまでもない。僕が芭蕉の言霊の片鱗を集めるのは、吟詠境での芭蕉の言霊が更なる力を得るため。蕪村さんだって同じ理由のはず。つまりそれは蕪村さんが宗鑑の言霊の宿り手である確たる証拠ではないか。


「ふふ、言いたいことはわかっておりますよ。蕪村は宗鑑の言霊の宿り手なのではないか、そう考えておられるのでしょう。残念ながら凡兆は蕪村に宗鑑の言霊を見い出せなかったようです。見えないものは存在を認めない、それが言霊たちの一貫した主義のようで、凡兆はその点について結論を出しませんでした。ただし私の、あくまで何の根拠もない私のカンですが、蕪村は宗鑑の言霊を宿している、そう思っています」


 おじいさんの言葉を聞いて僕の興奮が一気に高まった。それまで押さえていたものが噴出するように、僕は言葉を吐き出した。


「では、蕪村さんは僕らの敵、そういう事になりますよね。だって片鱗を集めるのは宗鑑の力を強くするため、それはつまり、芭蕉に打ち勝つためでもあるんですから。やはり蕪村さんは既に宗鑑の手に堕ち、宗鑑の意に従って僕らを」

「落ち着けよショウ。吟詠境でも言われただろう。推測で物を言うんじゃない」


 先輩の声が聞こえるのと同時に僕の肩に大きな手が置かれた。吟詠境で僕をたしなめた去来と同じ仕草。また我を忘れて突っ走ってしまったようだ。僕は口を閉ざすと身を固くして顔を伏せた。最近、熱しやすくていけないなと反省する。僕の剣幕に驚いていたおじいさんは、大人しくなった僕を元気づけるようにまた話し出す。


「そうですね。あなたも芭蕉の言霊の片鱗を集めているのですから、そう考えるのも無理はないでしょう。けれども私はそうは思いません。蕪村は宿り手となってはいるが、宗鑑には与していない、そう思っています。そうでないなら、こんな、宗鑑の秘密を暴くような話を私にするはずがないでしょう。私が皆さんにお話しすることを見込んで、蕪村は私に宗鑑の話をしたのです。皆さんに知っておいて欲しくて私に話したのです」

「それならどうして蕪村さんは宗鑑の言霊の片鱗を探し求めているのでしょうか。宗鑑の言霊の力を強くするためではないのですか」

「それは私にもわかりません。けれども彼には何か別の目的があるのではないかと思っています。我々の思いもつかない、しかし、言われてみれば単純な目的が」

「みんな、行こう」


 先輩がスプーンを置いた。見れば丼の中身は空になっている。いつも通りの早食いだが、先輩の至福の時である食後数十分の休憩は、今、始まったばかりだ。どうしてそれを中断させるようなことを……


「行こうって、僕もソノさんもまだ食べ掛けだし」

「じゃあ、早く食べてくれ」


 急かされて残りの寒天を口に放り込む。もっとじっくりと味わいたいところだが、今の精神状態ではゆっくり食べたところで味はわからないだろう。僕とソノさんが食べ終わったところで、先輩が立ち上がった。


「今日は本当にありがとうございました。凡兆から託されたもの、おじいさんから聞かされた話、おばあさんの手料理、どれも私たちには過ぎたものばかりでした。深く感謝します」


 こんな時にしか使わない丁寧な口調で礼を言うと、先輩が頭を下げた。僕とソノさんも立ち上がると、同様に頭を下げる。おじいさんとおばあさんは、もう帰るのかと言わんばかりに残念そうな表情になった。それでもおじいさんは軽く頭を下げ、お別れの挨拶を僕らにする。


「今日の事がどれほど皆さんのお役に立てるものか、正直、私にはわかりません。まあ、一段楽したらまた寄ってくださいな。託す物も、お話しすることも、もう無いのですが、ばあさんの手料理だけはありますから」

「はい、必ず。それでは失礼します」


先輩のこの「必ず」は社交辞令ではなく本気だろうなあ。けれども言霊のことにケリがついたら、今度はじっくりとおばあさんの手料理を味わいたいものだ。僕らは先輩を先頭に部屋を出ると、おばあさんに見送られて古ぼけた医院を後にした。

 バス停に向かう道を先輩は早足でドシドシ歩いて行く。その余りの急ぎっ振りに堪らず苦言を呈したくなる。


「先輩、何を急いでいるんですか。まだ正午前なんですよ。コトさんたちは昼食を取るどころか、今も美術館を見学中かも知れないんですよ。急ぐ必要はないでしょう」

「なあ、ショウ、俺たちはとんでもない勘違いをしていたのかも知れないぞ」


 いつになく真面目な先輩の声。寒天を食べる手が止まった時から、先輩の真顔は全く崩れない。


「勘違い?」

「そうだ。ソノさんだって気づいているでしょう、父つぁんのこと」

「そうね、宗鑑の言霊の片鱗。今になってみれば気づかなかった方が不思議なくらいね」


 父つぁんと言霊の片鱗と何の関係が……その時、昨夜のコトの言葉が頭に浮かんだ。――言霊の俳諧師でなくても言霊になれる――その言葉通り、寿貞尼は俳諧師ではないのに言霊となっている。芭蕉の言霊の片鱗だからだ。牧童もそれと同じだとしたら……


「まさか、牧童は宗鑑の言霊の片鱗になって、それが父つぁんに……」

「そうだ。それなら全て辻褄が合う。それにお前には言わなかったが、俺は今朝、父つぁんに言霊の影を感じたんだ。それは余りに小さくて、見間違いかと思った。いや見間違いであると思い込もうとしたんだ。言霊の俳諧師でない者が、今の世に宿り手を得られるはずがない、その考えが俺を誤った方向に導いてしまったんだ。だからお前には何も言わなかった。すまん、俺もまだまだ未熟者だな」


 朝食の時、様子が変だったのはそんな理由があったのか。今更ながらそれを見抜けなかった自分が腹立たしく思えてならなかった。


「そう、ライちゃん、影を感じていたの。ごめんなさい、あたしがみんなをミスリードしたせいね。あんな決め付けるような言い方をしなければ、ライちゃんだって朝の段階で気づけていたかも知れないのに」

「ソノさんや先輩のせいだけじゃないですよ、僕だって」

 そう言って、僕は昨晩のコトの言葉を二人に伝えた。

「僕がコトさんの言葉の意味をきちんと理解してすぐに二人に話していれば、おじいさんの話を聞くまでもなく父つぁんの言霊に気づけていたかも知れないんです。謝るのは僕の方です」

「つまりは三人が三人ともスネに傷を持っていたわけか。これは可笑しいな、ははは」

「そうね、とにかく今はトツちゃんを確かめたいところだけど、どうしよう。予定を変えてあたしも体育館へ行こうか、それとも体育館行きは止めてみんなで会う」

「いや、先ずは俺一人で父つぁんに会ってみます。喧嘩っ早い其角が宗鑑の言霊の片鱗を見れば、何を仕出かすかわかったもんじゃない。それに許六と牧童は、昔ちょっとした確執があったようです。二人の言霊を会わせるのはよくないでしょう。去来なら宗鑑の言霊の片鱗にも落ち着いて対応できるはず。取り敢えず俺一人で会って、それとなく父つぁんに探りを入れてみますよ。俺に影が見えるくらいだから、父つぁん自身も何らかの意識を持ち始めているでしょうから。二人は予定通り芭蕉の足跡を回ってください。ソノさんは卒論の資料にしたいでしょうし、ショウだってコトさんと色々話したいこともあるだろう」

「いや、僕は別にコトさんとは」

「はいはい、ショウちゃんのお決まりの台詞は聞き飽きたから、もう言わなくていいわ。じゃあ、トツちゃんの事はライちゃんに任せて、あたしたちはのんびり北陸の小京都を散策させてもらおうじゃないの。でも、急いでどうなるものでもないから、もう少しゆっくり行きましょう」


 ソノさんの歩くペースがガクリと落ちた。先輩も言いたいことを言って気持ちが軽くなったのか、せっかちな足取りが収まった。それから僕ら三人は、それぞれの考えを頭の中で巡らせながら無言でバス停へ急いだ。

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