獄中の俳諧師


 凡兆が投獄されている牢屋を、凡兆の妻、羽紅尼うこうにと共に去来が訪れたのは、芭蕉の死後数年を経てからである。出獄を許されて二人の前に立つ凡兆は見る影もなく衰えてはいたが、その面構えは以前と同じく剛毅な性格を露わにしていた。


「凡兆殿、長きに渡る苦難をよく辛抱なされた。今はゆるりと休まれるが良かろう」

「まさか貴殿に迎えてもらおうとは思いも寄らぬこと。去来殿」


 凡兆と去来は手を取り合うと、過ぎ去った昔を懐かしく思い起こした。


 去来が新たな句集編纂の志を抱いたのは、芭蕉が陸奥、北陸の旅を終えた翌々年のことである。旅に出立する直前に入門した凡兆と共に、芭蕉の助言を仰ぎながら、時に激論を戦わせて句撰に没頭した日々。二人が数ヶ月を費やして生み出した俳諧撰集――それは芭蕉の巻頭句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」から「猿蓑」と名付けられた――は、当時の蕉門俳諧最高の出来と言っても過言ではなかった。


「あの頃が懐かしいですな」


 猿蓑に収められた凡兆の発句は、師の芭蕉すらも抜いて門人一同中最多である。この頃の凡兆は俳諧師としての絶頂期であった。が、それは長くは続かなかった。芭蕉との軋轢が生じ始めたのである。蕉門でも奇人として知られた漂白の俳諧師、路通ろつうの振る舞いに我慢できなくなったのだ。その点に関しては凡兆のみならず、意を同じくする門人も多数居た。だが、芭蕉はあくまで路通を庇った。頑迷な凡兆はそれに耐えられず次第に芭蕉から遠のいていった。


 更に追い討ちをかけるように凡兆は投獄された。密貿易に加担したとの罪である。凡兆の生業は医者、その治療に使う薬は薬種問屋より入手する。問屋が扱うのは簡単には手に入らぬ薬種であって、基本的に高価である。特に支那より入ってくる生薬は、その希少性から一般の庶民に処することなど、おいそれとできるものではなかった。凡兆はそれが不満だった。


 交易品が高いのは幕府の海禁政策のためである。海禁とは他国との外交を絶つ政策ではない。貿易による利益を幕府が独占する為の外交手段であり、その利益の犠牲になっているのが庶民なのだ。梅毒の治療に使う唐山帰来からさんきらい、癩病の治療に使う大風子だいふうし、そして古来より妙薬として名高く、国内での栽培の試みが続けられている人参。世に出れば大いに人々の役に立つこれらの生薬も、「高価である」ただそれだけの理由で、求める人々が手にすることもなく薬種問屋の百味箪笥の中に眠っているのだ。それは人を助ける医者として凡兆には我慢ならないことだった。


 そんな凡兆が安価な薬種を求めたのは無理からぬことであった。それがご禁制の抜け荷であろうことは凡兆自身にもわかっていた。しかし禁を破る後ろめたさよりも、多くの病人を助けたいという信念の方が遥かに勝っていた。

 やがて密貿易は露見し、貿易商人は捕縛され、取引を行っていた凡兆も罪に問われることになった。それでも凡兆は持論を曲げなかった。むしろ我が国の病人を救済するために海禁を解くべしとの申し立てまで行う始末であった。去来を始めとする京の蕉門たちは救いの手を差し伸べようとしたが、幕府への恭順を一切見せない凡兆には、もはや為す術がなかった。こうして凡兆は数年間に渡って牢生活を余儀なくされることとなった。


「獄中では大して苦でもなかったわ。我ら言霊の俳諧師は一人でも吟詠境に遊ぶことができるのだからな。牢番には俳諧を嗜む者も居る。奴らはわしのことを獄中の俳諧師と呼んでおったわ、ははは」


 それが空威張りにすぎないことは去来にも羽紅尼にもわかっていた。凡兆の言霊の力は明らかに磨り減っていた。猿蓑編纂当時の冴えは今や見る影もない。俳諧師としての凡兆はもはや終わってしまったのだろう、去来はそう感じた。


「これから如何なされるおつもりか、凡兆殿」

「京追放を受けておる故、ここには留まれぬ。妻と共に大坂へでも行こうかと思っておる。芭蕉翁が逝かれた地でもあるしな」


 芭蕉逝去時、凡兆は既に投獄されていた。師の亡くなった土地を訪れることで師の影を偲びたいのだろう。蕉門とは疎遠になり、投獄されて他の門人から見放されても、芭蕉を慕う気持ちはまだ残っているのだ。そんな凡兆に胸を熱くした去来は深々と頭を下げた。


「羽紅尼様共々、健やかにお暮らしくだされ。京の地より祈念しておりますぞ」

「うむ、去来殿も達者で。では羽紅、参ろうか」


 凡兆は羽紅尼の手を取ると歩き出した。が、すぐに止まり、去来を振り返った。


「そうそう、言い忘れておった。かつて去来殿と共に夢想しておった例の丸薬。やはり無理かと一旦は諦めかけたが、長きに渡る獄中生活のおかげで実現の目処がついた。これよりは丸薬完成目指して邁進する所存。去来殿、言霊となられた芭蕉翁をよろしくお頼み申しますぞ」


 凡兆の去り際の言葉は去来を驚かせた。まさかあの丸薬を! 本当だろうか、これも空威張りにすぎないのではないか……羽紅を連れて去っていく凡兆を見送りながら、去来はその言葉の真偽を測りかねていた……


 * * *


 清清しい初夏の陽光の中、朽ち果てた本殿を取り囲むように、幾本もの竹が天を目指して伸びている。雑草生い茂る参道に散り落ちた無数の茶色の竹葉。そこに直接腰を下ろした三人は、慎重に刃物を扱う一人の男の手元を眺めていた。柿渋色の十徳を襷掛けにした剃髪姿の男は、掘り出したばかりの筍の皮を剥き、薄く切り分けていく。その手さばきに其角が感嘆の声をあげた。


「さすが、医術に長けておられるだけあって見事な所作。凡兆殿は料理人としてもやっていけるのではないかな。同じ医者でも、藪にもなれぬ竹の子医者の去来殿とは一味違う」


 其角の言葉に去来が不機嫌な顔する。


「私は本道医ですからな。刃物は不得意でも仕方なかろう。もっとも刀ならば上手く扱えるがな」

「なるほど。竹の子の扱いは人の子よりも難しいと言うわけか。これはおかしい、わはは」


 笑う其角を横目で睨みながら、去来は吟詠境に入った途端に脳裏に蘇った凡兆との会合を思い返していた。出獄したばかりの凡兆。あれが生前最後に見た姿だった。だが今、目の前に居るのは宿り手の面影を微塵も感じさせぬ、猿蓑編纂当時の若々しい姿だった。ここまで本来の自分を表現できるほど、今の宿り手は凡兆を深く理解しているのだ。そう思うと、去来は若干の羨望を覚えずにはいられなかった。


「あの、凡兆さん、初めまして」


 三人の真ん中に座るショウが遠慮がちに声を掛けた。凡兆は軽く会釈をすると、薄切りの筍を皮に載せショウに差し出した。


「お久し振りでございますな、芭蕉翁、いや、今はショウ殿とお呼びすべきでしょうか。まずはこれをお召し上がりください」


 筍の皮を受け取ったショウは、そこに置かれた筍を指で摘んで口に入れた。甘い香りが鼻をくすぐり、程よい歯ごたえとほんのりした苦味が心地よい。思わず漏れ出た「美味しい」という声に、其角は矢も盾もたまらぬ様子になる。


「凡兆殿、わしにも早ういただけぬか」


 急かす其角に薄切りの筍を渡す凡兆。続けて去来が受け取る前に「旨い」と声を上げる其角。最後に去来がじっくりと味わうのを見届けると、何を思ったのか凡兆は残った筍を皮に包んで、掘り出した穴に捨ててしまった。驚く其角。


「凡兆殿、何故捨てられるのか。一切れでは物足りぬぞ」

「其角殿、この食べ方で一番旨いのは最初の一切れのみ。あとはえぐみが強くなって不味くなるばかり。捨てるより他にない」

「む……いや、しかしすぐに食べれば、それほど味は落ちぬだろう」


 説明を聞いても食い下がろうとする其角を見て、まるで去来の宿り手のようだとショウは感じた。彼が其角の宿り手と妙に気が合うのは、共に食い意地が張っているからかも知れない。


「其角さん、吟詠境での食べ物の味は詠み手の想いに左右されることを忘れちゃいませんか。こんなに美味しいのは、宿り手のおじいさんが余程この食べ方が好きだからなんでしょう」

「そう、竹の子は我が宿り手の好物。そして食べさせたいのは最初の一切れのみ。二切れ目には我が宿り手の想いは込められておらぬ。恐らく極端に不味くなるはず。其角殿、諦めてくだされ」

「うむむ、そうか。ならばやむを得ぬな」


 それでも名残惜しそうに捨てられた筍を眺める其角。駄々をこねる子供を諌める母親のような顔をして凡兆が手を差し出す。


「お三方、竹の子を載せていた皮を渡していただけぬか」


 言われた通りに三人は筍の皮を渡すと、凡兆はまるで大切なものでも扱うかのように、丁寧に折り畳んで懐に収めた。筍料理を振舞って満足そうな凡兆を見て、今度はこちらの番とばかりに去来が凡兆に尋ねた。


「ところで、凡兆殿。私に渡したい物があると聞いておるのだが。まさかこの竹の子というわけではなかろうし、一体何であろう」


 凡兆は襷掛けを解くと、居住まいを正して去来に向き直った。そのまま返事をせずに両手を合わせ、詞を発する。


「猿蓑!」


 言い終わって開いた凡兆の手には、古ぼけた四つ目綴じの和本が載っていた。去来の目の色が変わった。


「これは、芭蕉七部集のひとつ、猿蓑。凡兆殿が持っておられたのか」

「僭越ながら我が手元にて預かっておった。ようやく去来殿にお返しできる。お役立てくだされ」


 まるで長らく会わなかった旧友に出会いでもしたかのような感激に打ち震える去来。その様子を見てショウはややも不思議になった。猿蓑という本は知っているがただの句集である。去来がこれほど有難がるほどの物でもないはずだ。


「吟詠境で本を持つことに、何か意味があるのですか」

「それはわしが説明しよう」


 熱心に和本をめくり始めた去来に代わって、其角が勿体振った口調でショウの問い掛けに答えた。


「吟詠境で我らが口にする発句は、基本的に己が詠んだもの。他人の発句も詠むことはできるが、己の発句に比べればその発現力は著しく低下する。そこで我らは他人の発句も己の発句の如くに詠む方法はないかと考えた。行き着いた結論が撰集を用いる方法であったのだ」

「句集を? どう使うのですか」

「これはただの書ではないのですよ、ショウ殿」


 去来はようやく和本から目を離すと、手に持った猿蓑をショウに掲げた。


「この撰集に載せられた発句の作者一人一人が吟詠境に集い、己の発句を言霊の力に変えて一句ずつ練りこんで作り上げたのです。それ故、この書を手にした者は、ここに載せられた発句の全てを、己の発句と同じように詠むことができるのです」

「じゃあ、僕がその本を持てば、去来さんや其角さんの発句を使えるってことですか」

「左様。そして私や其角殿が持てば、芭蕉翁の発句を己の発句の如く詠めるのです。ただし、それは一度きり。他人の発句を詠めばただちに消え失せ、二度と詠むことは叶いません。我らは芭蕉翁の存命中にこのような撰集を七部作り上げ、芭蕉七部集として編纂に当たった門人に一部ずつ持たせたのです。無論、これは我らだけの秘密。蕉門以外の俳諧師には公にはしなかった、のですが」


 言葉を切って去来に視線を移された其角は、まるで渋柿を食べさせられたかのような顔になった。苦々しげな口調で去来の後を継ぐ。


「どこから聞きつけたのか、旗本俳諧師の柳居りゅうきょの奴めが、事もあろうかこの七部をまとめて世に出し、言霊で練られた撰集の存在をぶちまけおったのだ。その頃には去来殿は勿論、蕉門の主だった門人は言霊となって封じられていた。わしや凡兆殿は宿り手の俳諧師となってはいたが、奴の企てを阻止出来なんだわ。以来、この七部集は全ての言霊の俳諧師から狙われ、その持ち主を隠すために完全に散逸してしまった。残り六部が誰の手にあるのか、今となってはわしらにもわからぬ」


 なるほど、とショウは思った。撰集を持ちさえすれば誰でもその発句を詠める。一見便利なようだが、蕉門と対立する俳諧師の手に渡れば、これ程厄介なことはない。吟詠境では同じ発句や季の詞は一度読めば二度と詠めぬ。それは相手に詠まれれば、こちらが詠めなくなることを意味する。自分の戦略の幅を狭めるに等しい。よく凡兆が守り抜けたものだと改めて感心した。


「ところで、凡兆殿、先程調べてみたが、発句が所々抜けておりますな。これは貴殿が詠まれたのか」


 去来の問い掛けに凡兆は苦笑いをした。


「すまぬな。去来殿と違ってわしは封じられなかった故、宿り主となったこの身を守るために、不本意ながら幾つかは詠ませてもらった。しかし、そのおかげでこうしてこの猿蓑を去来殿にお渡しできたのだから、まあ、大目に見てくだされ」


 凡兆は坊主頭をパシリと叩くと、許しを請うように頭を下げた。自分のお得意の仕草を真似されて其角も苦笑いをする。そんな二人を見てショウも可笑しくなってしまった。


「でもそうなると、やっぱりこの本は凡兆さんが持っていた方がいいんじゃないですか。これからも本に頼らないといけない場面が訪れないとも限らないでしょう」

「いや、それは違う、ショウ殿」


 そう言って自分に向けた凡兆の顔を見て、ショウはこの俳諧師の頑固な性格を垣間見た気がした。たとえ師の言葉でも己の意に沿わねば平然と否定する、そんな傲慢さが感じられる表情をしていた。


「わしは自分を長らえるために猿蓑を使ったのではない。猿蓑を長らえさせるために猿蓑を使ったのだ。書の持ち主たる言霊が消えれば、その所有物である書も消える。そうさせぬよう書を使って我が言霊を守り抜いた、ただそれだけのこと。蕉門の俳諧師たちの言霊の結晶である撰集を残す、それが我が目的。そして今、それは去来殿の元に戻り我が目的は達せられた。もはやわしにはその書は不要」

「不要なんてことないですよ。知っているはずですよ、芭蕉は再び宗鑑と相見えるために、門人の言霊を封じ自分の言霊も封じて、今に至っていること。凡兆さんも僕らに力を貸してください。そのためにも本を使って自分自身を守ってください」

「ショウ殿……」


 凡兆は言葉を詰まらせた。同時にこれまでの頑なな表情が、少し緩んだようにショウは感じた。


「その言葉、芭蕉翁よりお聞きしたかった……わしは去来殿や其角殿とは違う。封じられもせず、預かり物を託されもしなかったわしは、芭蕉翁が頼りにする門人の数のうちには、最初から入っておらぬのだ。そして、我が姿を見ればおわかりであろう。我が言霊の力が尽きかけていることを。宿り手を替えながら数百年の時を経てきたわしには、もはや芭蕉翁のお役に立つだけの力は残されておらぬ。この猿蓑にわしの分まで働いて欲しい、そう願うばかりなのだ」


 それはショウにもわかっていた。凡兆の言霊の力は今の自分よりも遥かに弱い。この吟詠境で季の詞を発することすら、今の凡兆にとっては大きな苦難に違いない。筍料理の振る舞いも、久し振りに出会った師と言葉の掛け合いをできない凡兆の精一杯の持て成しだったのだろう。封じられずに時を過ごした言霊の、ひとつの宿命を目の当たりにして、ショウはただ顔を伏せるしかなかった。


「力ある者もいつかは滅びる。この廟もまた然り」


 己への戒めのようにそう言うと、凡兆は周囲を見回した。破壊された拝殿、雑草に覆われた参道、倒れたままの燈籠。荒れ果てた境内は目を覆いたくなるほどだ。


「あれだけ権勢を誇った太閤殿が眠るこの豊国廟ですら、徳川の時代となればかくの如く打ち捨てられ、誰一人訪れる者もなく時の流れの中で忘れられていった。蕉門とて同じこと。我らが一丸となって対していた相手、宗鑑は封じられ、我らをまとめていた宗匠、芭蕉翁も亡くなられると、我ら門人は要を失った扇の如く、散り散りに各々の道を歩き始めた。そして俳諧そのものが師の目指した高みから転がり落ちていった。そうであろう、其角殿」


 返事をする代わりに、今度は其角が自分の坊主頭をパシリと叩いた。其角が談林派の西鶴と親しくよしみを結んでいたのは、門人の中で知らぬ者はなかった。其角自身も己の洒落風の俳諧が蕉風から外れていたのは十分承知していたのだ。凡兆は話を続ける。


「わしは言霊となった後、宿り手を替えながら蕉風の廃れ行く様を傍観するしかなかった。そう、あの俳諧師、画と発句を得意とし、まるでこの地に生え出た竹の子のように真っ直ぐに、そして天の高みを目指すが如きあの俳諧師が出現するまでは」

「蕪村殿か」


 其角の言葉に凡兆は頷いた。蕪村が俳諧師として名を知られるようになる頃には、芭蕉と直接関わっていた門人のほとんどは世を去っていた。ただ宿り身の業を使った門人たちだけが、その死後も宿り手の俳諧師として蕪村を知ることができた。芭蕉に封じられずに言霊の宿り主となって時代を生きてきた其角もまた、凡兆と同じく当時の蕪村のことは知っていたのだ。

 図らずも其角の口から出たその俳諧師の名を聞いて、去来は身を乗り出した。


「そうだ、お二方、その蕪村殿について話してくださらぬか。かの俳諧師に関する知識は我が宿り手から得られるのみ。去来自身としては何も知らぬ。芭蕉翁亡き後、蕪村殿がどのようにして言霊の俳諧師になられたのか、何故、逆宿り身の業を使われたのか。知っておられるなら教えてくだされ」


 封じられた言霊の多くはその封の中で眠りにつく。力を使えば世の移り変わりを眺めることもできるが、大切な言霊の力を使ってそこまでする言霊は少ない。去来も例に漏れず、封じられている期間のほとんどを眠りの中で過ごした。その間の知識はないに等しい。

 懇願する去来に凡兆と其角は顔を見合わせた。互いに互いの答えを探り合っている、しばらくはそんな様子の二人だったが、やがて凡兆が口を開いた。


「わしも其角殿も宿り手の俳諧師として蕪村殿との面識はある。また蕪村殿の門人の中にも蕉門の宿り手の俳諧師が数人居た。だが、わしの知る限り、蕪村殿は言霊の業を持っていなかった。それゆえ共に吟詠境に行ったことは一度もない。そしてそのまま亡くなられた。それ以後、今の宿り手が蕪村殿に出くわすまでは一度も会ってはおらぬ。そうであろう其角殿」

「うむ、凡兆殿の言葉通り。わしも蕪村殿に言霊は見出せず、鬼籍に入られた後は今に至るまで一度も蕪村殿に会ってはいない。ただの俳諧師に過ぎぬと思っていた。それ故、ショウ殿から蕪村殿が言霊の俳諧師であると教えられた時には、俄かには信じ難い思いだった」

「なんと。ではお二方とも、蕪村殿と言霊についての関わりはわからぬ、ということですか」


 去来の言葉に黙って頷く二人。一気に意気消沈する去来。ショウもまた蕪村についての手掛かりがほとんど得られそうにないとわかって、当てが外れた気分になった。それでも凡兆が自分たちよりも蕪村について多くのことを知っているのは間違いなかった。

 蕪村が自分と別れてから数日で凡兆の宿り手を紹介できたのは、事前に知っていたからだ。つまり凡兆の宿り手と蕪村は、少なくとも一度は会話をしていたことになる。その会話の中で何か有益な情報はなかったのだろうか。ショウは凡兆に尋ねた。


「あの、凡兆さん。蕪村さんが言霊を得た経緯や、今まで生き長らえた理由はわからないにしても、他に何か知っていることはないですか。凡兆さんの宿り手はどうやって蕪村さんを知ったのですか」


 ショウに問い掛けられた凡兆は、まるで遠い昔を思い出そうとでもするかのように静かに目を閉じた。


「あれは、もう数十年も前。わしがこの宿り手を得てまだ幾ばくも経っていない頃。医者の資格を取ってこの地に戻り父と共に働き始めたある日、具合が悪そうに道端にうずくまっている老人を見つけたのだ。最初はただの老人にしか見えなかった。しかし、医院に連れて帰り治療を施すうちに、わしは気がついた。この老人は紛れもなく蕪村殿であると。問いただすと老人は決まりが悪そうに『凡兆殿、久しいのう』と仰られた。気がつかなければ知らぬ振りをして別れるつもりであったようだ」

「旧知の仲なのに、どうして知らない振りをしようとしたんでしょう」

「それはわしにもわからぬ。確かなのは蕪村殿は己を死んだことにした後、他の言霊の宿り手たちに気づかれぬよう、ひっそりとこの世を渡って来られたということだけだ。そして今の世まで生身の体を保てた以上、逆宿り身の業を使ったとしか考えられなかった。さすがにわしも尋ねずにはいられなかった。言霊の業を持っていながら、どうしてただの長生きの老人と成り下がったのか。何のために逆宿り身の業を使ったのか。その問いに蕪村殿はこう答えてくれた。ある約束を果たすため、それ以上は言えぬ、と」

「約束……」


 ショウの口から思わず言葉が漏れた。その約束が何なのか、蕪村が凡兆に話さなかった以上、自分が訊いても教えてくれないに違いない。それだけに、今、この時代にまで生き続ける蕪村が一層不気味な存在に思われた。


「蕪村殿はそれだけを言って去って行かれた。そして長い年月が過ぎ、出会ったことすら忘れてしまっていた頃、蕪村殿は再びわしの前に姿を現し、こう告げた。芭蕉翁の宿り手が見つかったと。遂に門人たちの封が解け始めたことを知ったわしは、去来殿の宿り手への言付けを頼んだ。それが数日前のこと」


 凡兆はそこまで話すと閉じていた眼を開いた。蕪村についてこれ以上語ることはない、開いた凡兆の瞳はそう告げていた。それでもショウは訊かずにはいられなかった。


「あ、あの、凡兆さんは、蕪村さんと宗鑑はどのような関係だと思いますか。」


 口籠りながら尋ねるショウに、凡兆の眼差しが幾分優しくなった。


「わかっておる、ショウ殿。蕪村殿は宗鑑の宿り手なのではないか、そう思っておられるのであろう」

 頷くショウを見て凡兆は続ける。

「言霊の俳諧師がこの世に存在するなら、宿り手としてこれ程好都合な者は居ない。そして封が解けた宗鑑がそれを見逃すはずがない。わしもそう考えた。だが、最初もそして二回目も蕪村殿に言霊を見出すことは出来なかった。逆宿り身の業を使えば、己の言霊の力は無いに等しくなる。それ故、蕪村殿の言霊が見えないのは至極当然のこと。宗鑑の言霊が見えなかったのは、宿っていないからか、あるいは言霊隠しの業を使っているからか、それはどちらとも言い難い。ただ、蕪村殿は二回目に会った時こう言われた。宗鑑は黒姫の業を持っている、用心なされるがよい、と」

「黒姫、冬の女神の季の詞か」


 即座に其角が声を上げた。佐保姫は春の女神の季の詞。冬の女神は多くの季の詞を持ち、その中のひとつが黒姫である。


「左様。逆宿り身の業は佐保姫や龍田姫の業を応用したもの。女神は言霊の力を女神の力に変え、逆宿り身の業は言霊の力を己の生命力に変える。どちらも言霊の力を別の力に変えるのがその本質。宿り身の業はその逆、生命力を言霊の力に変える。しかしその本質は、何かの力を言霊の力に変えるのではない。生命力を別の力に変えること、これが黒姫の業の本質」

「つまり、黒姫が生命力を女神の力に変えるように、宗鑑は生命力を言霊の力に変えることが出来る、と」


 今度は去来が凡兆の言葉を継いだ。その通りとばかりに頷く凡兆。たまらずショウは声を出した。


「そんな事まで知っているのなら、やはり蕪村さんは宗鑑の言霊を宿しているのではないですか。しかも黒姫の業を使えば、宗鑑は蕪村さんの生命力を奪って自分の言霊の力に出来る。それを防ぐために蕪村さんが宗鑑の言い成りになってしまっている可能性だって」

「憶測でものを申すのはよくないですな、ショウ殿」


 去来は諌めるように言うとショウの肩に手を置いた。知らぬうちに自分の頭が熱くなっていたことに気づいたショウは、恥ずかしそうに身を固くして顔を伏せた。


「ショウ殿も我が宿り手たちも、蕪村殿を己の敵に見なしたいようですな。しかし、蕪村殿は芭蕉翁を深く尊敬し、再び蕉風を世に起こそうと尽力されたお方。容易く宗鑑になびくとは思えませぬ」

「うむ、去来殿の言われる通り、わしも蕪村殿は我らのために動いていると思っておる。しかも逆宿り身の業を使っておる蕪村殿は、宿り主の言霊の力を己の生命力に変えられるのだ。仮に宿り手になっていたとしてもその点で両者は互角。早合点は禁物であろうな」


 ショウの頭を混乱し始めていた。去来も其角も、蕪村はあくまで宗鑑の側に立ってはいないと思っている。そればかりか宿り手であることすら懐疑的だ。ライやソノとは逆の見解にショウはどう考えればいいのかわからなくなってきた。三人の意見が出尽くしたところで、凡兆が口を開く。


「これ以上蕪村殿について知りたいのなら、我が宿り手と話をしてみるのがよかろう。実際に蕪村殿と会い、言葉を交わしたのは我が宿り手であるのだからな。わしとはまた違った見方をしておるかも知れぬ」

「そうですな。では、この吟詠境もそろそろお開きといたしましょうか。少々長居が過ぎましたな凡兆殿、挙句を」

「いやっ!」


 激しい口調で凡兆は去来の言葉をさえぎった。驚いて顔を向けた去来に凡兆はもう一度力強い声を出す。

「いや、用はまだ済んではおらぬのだ、去来殿」


 凡兆は懐に手を入れると、先程三人から貰い受けた筍の皮を取り出した。丁寧に畳まれたその皮を開いて現れたのは、真珠の如き小粒の真紅の玉。去来の顔色が変わった。


「凡兆殿、それは、まさか……」

「そう、そのまさかだ。去来殿、覚えておろう。我らの今生の別れとなった牢獄の前で、わしが最後に言った言葉を。かつてわしと去来殿、そして十哲の俳諧師の中で唯一回復詠の業を持つ丈草殿の三人で、奪霊に打ち勝つために極めんとした丸薬、本復丹丸ほんぷくにがん。これがそうだ。あの言葉通り、わしはこれを完成させた。そしてこれこそが本当に去来殿に託したかった物」


 去来は無言でその丸薬を見詰めていた。差し出されたまま受け取ろうともせず、固く握り締めた両拳を正座した膝の上で震わせている。其角もまた何も言わなかった。その丸薬がどんなものか知っているかのように、去来と同じ険しい表情で口を閉ざしている。そんな二人がショウには奇妙に思われた。誰にともなく尋ねる。


「その丸薬はどんなものなのですか」


 答えはすぐには返って来なかった。言うのが憚られる、そんな気配さえ感じられた。が、やがて其角が重い口を開いた。


「ショウ殿は奪霊の業を知っておろう。相手の言霊の力を奪う必殺の業。それに対抗するため、失われた力を瞬時に回復する方法を我らは思案した。その結果のひとつがこの丸薬。これを服すれば、どれほど消耗された言霊の力であろうと立ち所に元に戻る」

「それは凄い!」


 ショウは単純に喜んだ。それ程の効果がある丸薬ならば、宗鑑と相対した時にどれだけ有利に事が進めるか考えるまでもない。


「ありがとうございます、凡兆さん。謹んで受け取らせていただきます」


 ショウが両手を差し出すのを見て凡兆は苦笑した。


「いや、ショウ殿が受け取っては意味がない。これは、もはや自力で丸薬も取り出せぬほどに弱った相手に飲ませるもの。それ故、去来殿に預けたいのだ。いざという時、芭蕉翁に飲ませるために」

「では、去来さん、受け取ってください」


 ショウにそう言われても、去来は拳を固く握り締めたまま身じろぎもしなかった。絶対に受け取りたくない、そんな意志がまざまざと感じられた。


「去来殿、我らの宗匠、芭蕉翁のご命令ですぞ」


 この一言には、さすがの去来も無視するわけにはいかなかった。丸薬を凝視し続けていた顔を上げ、固く閉ざしていた口をようやく開いた。


「凡兆殿、しかしこれは、この丸薬は……」

「先程も話したであろう。わしはもう俳諧師としては芭蕉翁のお役には立てぬ。今のわしに出来るのはこの丸薬を去来殿に託すだけ。もし情けがあるのなら、わしの最後の願い、叶えてはくれぬか」

「……かたじけない、凡兆殿」


 去来は体を震わせながら拳を開くと、差し出した凡兆の両手を包んだ。凡兆の顔に初めて笑みが浮かんだ。が、それは一瞬で消えると、今までにない力強い声を凡兆は発した。


「この丸薬はまだ完成しておらぬ。お三方の想いの籠もった竹の子の皮と、わしの最後の詠唱にて全き本復丹丸となる。恐れながらこの凡兆、発句を詠ませていただく」


 ショウは感じた。凡兆の全身からほとばしり出た言霊の力が、その両手に集まり始めたのを。あれだけ弱っていた力をこれ程までに集中させられる凡兆の底力に、ショウはこの俳諧師の本当の実力を初めて理解できた気がした。


「竹の子の力を誰にたとうべき!」


 吟詠境を開いた発句が凡兆によって詠まれた瞬間、凡兆と去来が合わせた両手から深紅の閃光が発せられた。その光はたちまちの内に吟詠境全体に広がると、周囲を夕焼けの茜色に包んだ。天に伸びた竹も、朽ち果てた豊国廟も、散り敷いた竹の葉に座る四人も、全てがその茜色の中へと飲み込まれていく。吟詠境が閉じられようとしているのだ。


 ――去来殿、言霊となられた芭蕉翁をよろしくお頼み申しますぞ……


 去来は聞いた、凡兆の声を。牢獄の前で別れた時と同じ、生きて二度と会うことはないと覚悟した、あの時と同じ凡兆の声を……


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