数ならぬ身


 病棟のデイルームの窓の外は真っ暗だった。その暗さを撥ね退けるかのように、広い室内は昼間のように明るい。大病院だけあって立派な談話室だ。ただ、人は少ない。僕と先輩とソノさん、それ以外には、患者とその家族らしき三人組、隅っこで缶コーヒーを飲んでいる若い男性、それだけだ。祝日なので面会も昼間が多かったのだろう。


「美味しいわね」 


 おにぎりを食べながらソノさんがボソリとつぶやく。父つぁん家特製のおにぎり。僕らのためにわざわざ作って持ってきてくれたのだ。


「僕が作るのとは一味違うな、やっぱり」


 二個目のおにぎりを頬張りながら、ここに着いてからのことを思い出す。目が覚めると僕の処置はもう終わっていた。牧童に痛めつけられた箇所は軽い打撲と診察されたようで、腹と肩に湿布が当てられ、数日分の痛み止めが処方された。その頃には自力で動けるまでに回復していたので、すぐ父に電話をした。既に先輩から連絡が行っており、またテレビのニュースでも軽傷と報道されていたので、さほど心配はしていなかった。あまり周りに迷惑を掛けないようになといつもの調子で電話は切れた。


 リクも打撲だけの診断だったが、箇所が多いのと左腕の腫れがひどいので、一日入院して様子を見ることになった。今はモリが付き添ってベッドの上で大人しくしているはずだ。

 父つぁんは右手の甲の怪我以外は至って元気。ただ、その裂傷は思ったより深く縫合することになった。こちらも一日様子を見るということでベッドの上で休息中。

 シイの体には目立った異常はなかった。しかしひどく衰弱している上になかなか意識が戻らなかった。現し身の詠まれた吟詠境で二度も発句を詠んだのだから当然と言える。でも医者にそんな事がわかるはずもない。結局、突然の倒木によるショックと診断されて、これまた入院して様子を見ることになった。今はシイの母親が付き添っているはずだ。


 ソノさんからの連絡を受けた父つぁんの家族は、シイの両親と父つぁんの母親が病院にやって来た。最初は意識のないシイを心配してかなり取り乱していた。しかし夕方に目が覚めて簡単な受け答えができるようになると、ひとまず安心ということでシイの母親を残して帰って行った。その時に、入院に必要な身の回りの物を持って迎えに来たおばあさんと父つぁんの父親が、おにぎりの差し入れを置いていってくれたのだ。


「あら、リクちゃん、大丈夫なの」


 ソノさんがデイルームの入り口を見ている。リクとモリが戸を開けて中に入ってくるところだった。リクの左腕の包帯が痛々しい。牧童にあれだけ痛めつけられたのだから無理もない。


「ちょうど良かったわ。おばあさんがおにぎりを持ってきてくれたのよ。どう、食べない」

「あ、いただきます」


 モリが嬉しそうにおにぎりを手に取ると隣のテーブルに着く。事故の当事者であいながら全く無傷のモリは、軽微な怪我のソノさんと共に、僕らの家族への連絡だけでなく、テレビ局や新聞社、警察への対応に追われて随分疲れているはずだった。それでも付き添いの誰も居ないリクが可哀想と言って、ずっと付いていてあげているのだ。食事も満足に取ってはいないのだろう。


「ボクは病院食が出ましたから」


 いつもの元気はどこに行ったのか、まるで別人のようにリクの声には覇気がない。傷が痛むのもあるだろうが、それ以上に胸を痛ませる心配事があるのだろう。


「でもリク、ほとんど食べなかったでしょ。せっかくだから食べたら」


 モリの言葉に俯いたまま無言で首を振るリク。そのまま抑揚のない声で、つぶやくように言った。


「コト先輩のこと、教えてくれませんか。モリ先輩は訊いても、大丈夫だから安心して、としか言ってくれないんです」


 わざわざ病室を抜け出して、別病棟のこんな所までやって来たのは、やはりコトを案じてのことだったのか。普段、あれだけ慕っているのだ、自分の怪我以上にコトが気に掛かるのだろう。しかも現し身が詠まれた吟詠境で寿貞尼はほとんど消えかかっていた。宿り手であるコトの生身の体がただで済むはずがない。それはリクにもわかっているだけに余計気になるのだろう。


「リクちゃん……そうね、知りたいのは当然よね。あまり心配は掛けたくないけれど」

 ソノさんは躊躇しながらも、はっきりと言った。

「いいわ、教えましょう。コトちゃんは集中治療室に入っています。そして状況はとても厳しい。あたしたちが知っているのはこれだけ」


 知らせを受けて駆けつけたコトの母親が一番頼りにしていたのはソノさんだった。滋賀への旅の時にコトの家を訪問し、今回も電話で話をして旅に誘っている。僕らの中で最も親しい相手だからだ。

 僕らには聞かされないコトの容態も、ソノさんにだけは話していた。そしてつい先程、僕と先輩もソノさんから、コトはかなり危険な状態であると教えてもらったところだった。牧童が刺したことによる胸部の炎症は、倒木の際の打撲と判断されたようだ。それによる心肺機能低下により極端な低血圧を招き、このままでは多臓器不全を引き起こす危険もある、それが医師の診断だった。


 勿論、それが間違っているのは僕たちにはわかっていた。コトの危機的状況は単純に生命力が減少したからだ。ただ、生命力の減少が実際どのように生身の体に現れ、どうすれば解消できるのか、僕らにもわからなかった。食べ物の摂取と休息によって、ある程度回復できることは何となくわかる。しかし今のコトはそんな行為も不可能な程に、つまりは自力ではどうしようもできない程に、生命力が底を尽き掛けているのだろう。結局、僕らにできるのは現代医療の力を信じて祈ることだけだった。


「ボクが、あの時、コト先輩の言葉に従ってさえいれば……」


 俯いたリクの肩が震えている。僕らが到着する前の詳しい状況はモリから聞いていた。コトの制止を振り切って吟詠境を開いたリク。その軽率な行動が今回の事態を招いた大きな原因ではあるだろう。しかし、だかと言って、全てをリクに背負わせるのは酷すぎる。


「リクちゃん、過ぎたことを悔やんでも仕方ないわよ。それよりも早く自分の体を治すことに専念した方がいいわ。まだ痛むのでしょう」

「こんなもの、コト先輩の痛みに比べたら、怪我と呼ぶのもおこがましいです」


 いつも僕に食って掛かる攻撃的な性格のリク。今、その鉾先は僕ではなくリク自身に向けられている。自分の起こした行動とその結果が、どうしても許せないのだろう。誰の言葉も受け入れず自分を責め続けるリクの姿は痛々しかった。 


「あら、皆さん、こんな所にいらしたんですか」


 そう言いながらデイルームに入ってきたのはコトの母親だった。部屋の隅の自販機で飲料を買い、ソノさんの隣の椅子に座った。コーヒーの香りを漂わせながら紙コップを傾ける横顔は、昨晩に比べると随分やつれて見える。

 集中治療室に患者が居る場合、最低一名の家族が二十四時間病院に待機する義務を負わされるらしい。初めての土地での思い掛けない事故、ホテルのキャンセル、家族控え室に宿泊する準備、医師や事務局からの説明など、コトの母親も心身共に相当疲れているはずだった。


「あ、あのコト先輩の様子はどうですか」


 リクが遠慮がちに訊いた。それはリクだけでなくここに居る全員が一番知りたいことだった。もう病院に居る必要がない僕や先輩やソノさんが、今でもこうして集中治療室のある病棟に留まっているのは、コトを案じてのことだからだ。

 紙コップを両手で握り締めて少しぼんやりしていたコトの母親は、何かを思い出したようにこちらを向くと答えた。


「心配は無用、と言いたいのですが、あなた方には本当の事をお話ししないといけませんね。かなり悪いようです。今日、明日中に好転しなければ、最悪の事態もあり得る、先生にそう言われました」


 沈黙が僕らを襲う。実際、どう返事をすればわからない。集中治療室に入ったと聞かされた時から覚悟はしていたが、ここまで深刻だとは思いもしなかった。

 僕の隣でゴトリと音がした。先輩が立ち上がったのだ。


「すみませんでした!」


 それまでほとんど無言だった先輩の、腹の底から搾り出すような声。直立不動のまま頭を深々と下げている。


「俺たちが、いえ私たちがコトさんを誘ったりしなければ、お母さんと一緒に行動してさえいれば、こんな事にはならなかったはずです。お詫びのしようもありません。すみませんでした」

「突風が起きて木が倒れたのは事故ですよ。あなた方には何の落ち度もありません。謝るのはおかしいですよ」


 突然の先輩の行動に面食らうコトの母親。頭を下げたままの先輩の両拳はぶるぶると震えている。その気持ちはよくわかった。謝りたいのは先輩だけではない。僕も、そして恐らくはソノさんとリクも、心から謝罪したい気持ちで一杯のはずだ。もし先輩が蔵の二階を見ようと言わなかったら、もしソノさんが牧童の言霊を頭ごなしに否定しなかったら、もし僕がコトの言葉をきちんと受け止めていたら、もしリクが吟詠境を開かなかったら、そしてそれらのどれかひとつでも実際に起こっていたら、コトもコトの母親もこんなに苦しむことはなかったのだ。


「あの、失礼なことを伺いますが、他の家族の方はまだいらっしゃらないのでしょうか」


 ソノさんがコトの母親に尋ねる。どうやらコトの家族はまだ到着していないようだ。飛行機ではなく電車を利用してもそれ程時間がかかる場所でもないのに、少し遅すぎる気がしないでもない。


「多分、来ないと思います。息子も上の娘も実家を離れて暮らしていますし、仕事第一の夫は、行ってどうなるものでもないと言っていましたから」

「それは少し冷たすぎませんか。危篤状態と言ってもいい状況なのに」


 ソノさんの意見に同感だ。情が深いコトの家族とは思えぬほどの冷血振りである。コトの母親は困ったように笑うと、長く息を吐いた。


「そうですね。それもお話ししておきましょうか。あの子がどれだけ自分のことをあなた方に話しているかはわかりませんが、これだけ親しくなったのですから、知っておいてもらってもいいでしょう」


 そう言って紙コップのコーヒーを飲み干し、コトの母親は話し始めた。


「私たちの家族は夫と息子、二人の娘の五人です。でもあの子と血の繋がりがあるのは私だけ。連れ子なのです。それについては詳しくは言いません。あの子の父親が亡くなった時、私が今の夫と一緒になる事が最上の選択だったのです。あの子はまだ幼かったのですが、それでも私以外は他人だとはっきりわかっていたようでした。父親とも、年の離れた兄と姉とも打ち解けようとしないあの子は、自分の居場所を見失っているようにも見えました。それは学校に通うようになっても変わることはありませんでした。親友どころか友人の一人も作ろうとはしなかったのです。気が強いのでいじめられることはありませんでしたが、家でも学校でもいつも一人だけで過ごすあの子は、群れからはぐれた渡り鳥のようでした。でも、今の高校に入学してしばらくしたある日、嬉しそうな声で私に言ってきたのです。自分にあだ名が付けられた、と。あの子のあんな笑顔を見るのは本当に久し振りでした。思えば、あだ名で呼び合うような仲間を、あの子はこれまで一人も持ったことがなかったのです。もちろん、友人たちと休日に旅行する事も初めてでした。滋賀から帰って来たあの子は、年頃の娘らしい生き生きとした顔で、私にお土産を渡してくれました。ライさん、座ってください。今度のことは確かに不幸な出来事でした。でも、だからと言って自分に責任を感じるのはやめてください。むしろ私はあなた方には本当に感謝しているのです。あなた方に出会わなければ、あの子は今も道なき荒野を一人で歩いていたでしょうから」


 先輩はもう一度礼をすると、静かに椅子に座った。話し終わったコトの母親はどこか満足げに見えた。そして僕もまた、これまで知ることもなかったコトの秘密を聞かされて、驚きと共に更に深い親愛の情をコトに感じた。

 しばらくの間、僕らは無言だった。誰もがこれまでのコトとの日々を思い出し、今の話と照らし合わせてコトという人物をもう一度振り返っているのだろう。そんな静けさを破るように、部屋の中に館内放送が流れた。それはコトの母親の氏名を呼び出していた。


「ごめんなさい、失礼するわ」


 慌てた様子で立ち上がったコトの母親は、紙コップを握ったまま部屋を出て行った。コトの容態の急変、それ以外の言葉は僕の頭には浮かばなかった。


「ショウ先輩、お願いがあります。ボクに佐保姫を譲ってください」


 コトの母親が部屋を出るのと同時にリクが話し掛けてきた。これまでの態度からは考えられないようなしおらしい声。しかしその内容は突拍子もないお願いだ。


「いきなり何を言うんだよ、リクっち」

「今度はボクが現し世を使います。あの業でコト先輩を助けます」


 真剣な眼差しで僕を見るリク。ここまで自分を追い詰めるほどに責任を感じているリクがいじらしい。


「いや、それは無理だよ。あの業を使った後、佐保姫は秋眠に入ってしまったから。それに現し世の業で生身の人間を救えるかどうか、それも定かじゃないだろう」

「でも、このままだと、コト先輩が……」


 リクの声が震えている。わかっている。ここに居る誰もがそれはわかっているはずだ。でも、どうしようもないのだ。こうして祈る以外、何も……


「ライちゃん、どうして黙っているの」


 ソノさんらしからぬ非難めいた声が聞こえた。確かにこの病院に来てからの先輩は無口だ。この部屋でもコトの母親にお詫びを言っただけで、他には一言も喋っていない。そして今もソノさんに答えようともせず、口を閉じている。


「気づいているはずよ、コトちゃんを助ける方法。ライちゃんが了解すればすぐに実行に移せる方法」


 僕もリクもソノさんの言葉に色めき立った。すぐに訊き返す。


「ソノさん、それはどんな方法なんですか」

「本復丹丸、あれを使うのよ」

「本復丹丸。じゃあショウ先輩たちが今日会ったのは凡兆だったんですか」


 リクの言葉から察するに、どうやら許六もまたあの丸薬の名前は知っていたようだ。凡兆や去来の取り組みは、蕉門の間でもよく知られていたのだろう。ソノさんが頷く。


「リクちゃんにはまだ話してなかったわね。私たちが今日会ったのは凡兆。そして彼の言霊を犠牲にして、回復の秘薬を手に入れた」

「だけど、あれは言霊の力を回復するだけで、生身の生命力を回復するわけじゃないでしょう」

「その通りよ、ショウちゃん。でも考えてみて。コトちゃんがこうなったのは現し身の詠まれた吟詠境で言霊の力を失ったからでしょ。なら今度はその逆、現し身の読まれた吟詠境で言霊の力を回復してあげればいいのよ。そうすれば生身の生命力も回復するわ」


 そうか、どうしてこんな単純なことに気づかなかったのだろう。もしあの吟詠境に去来が居てくれたら、寿貞尼はすぐに助かっていたはずなのだ。返す返すも先輩の到着の遅れが残念でならない。

 ソノさんや僕の話を聞いていた先輩は、観念したようにようやく口を開いた。


「ソノさんの言うとおりだ。現し身を詠み、本復丹丸で寿貞尼を回復すればコトさんも回復する。だがな、考えてみてくれ。俺たちは既に芭蕉から預けられた片鱗を二つも使っているんだ。今、またあの丸薬を失うのは、俺たちにとって大きな損失なんじゃないか。しかもあれは許六の短冊や北枝の護符とは別格の価値がある。一人の言霊を犠牲にして練られたものなんだからな。恐らく二度と手に入らないだろう。コトさんはまだ現代の医学で回復する見込みが残っている。それなら無理に使わなくても」

「それはライちゃんの本音じゃないわね」 


 先輩の言葉をさえぎって、ソノさんが決め付けるように言った。


「それは去来の言葉。ライちゃんはコトちゃんを助けたいと心底思っている。でも去来は寿貞尼のためにあの丸薬を使いたくないと思っている。ライちゃんは去来の考えに引き摺られているだけ、そうでしょう」


 先輩はまた口を閉ざした。宿り手が言霊の影響を受けるのはこれまで何度も見てきた。去来はまだ寿貞尼を快くは思っていないのだろう。だからこそ先輩にはこの話をさせることなく、無言を通させたのだろう。

 先輩は何か考えているように目を閉じて黙っていた。が、すぐに目を開け僕を見ると言った。


「わかった。じゃあ、ショウ、お前がどうするか決めてくれ。芭蕉の宿り手の決定なら去来も文句は言わないだろう。だが、よく考えてくれよ。あの丸薬を今使うことは、将来お前を窮地に追い込むことにもなりかねないんだ。その事を忘れないでくれ」


 それは一種の脅迫にも聞こえた。強敵だった牧童。宗鑑の言霊の片鱗でさえ、あれだけの苦戦を強いられたのだ。宗鑑本人がどれだけの強さなのか想像も出来ない。先輩の言うように、今、本復丹丸を手放すのは自分で自分の首を絞めるのに等しい愚行なのかも知れない。迷い始めた僕の腕を誰かが掴んだ。リクだった。


「ショウ先輩、お願いです、お願いします。コト先輩を助けてください」


 僕を見詰めるリクの瞳。その目尻が光っている。そうだ、僕は何を迷っていたんだろう。結論は既に出ているのに。


「先輩、僕の答えを聞く必要はないでしょう。寿貞尼さんと一緒に吟詠境を開きましょう。そして凡兆さんの丸薬を使いましょう」


 花が咲いたように明るくなるリクの顔。ソノさんが両手を叩いた。


「はい、決まりね。ライちゃん、文句はないわよね。ただ問題は寿貞尼が吟詠境を開いてくれるかどうかね。コトちゃんと同じく意識がない状態だと思うのよ」


 宿り手のコトがあの状態では寿貞尼の言霊の力もほとんど回復していないだろう。吟詠境で消えかかっていたあのままの状態で今も居ることになる。果たして発句を詠めるかどうか、疑わしくはあった。


「でも、こうなったらやってみるしかないわよね。あたしが発句を詠むわ。みんなはすぐに発句を詠まずに、上五と中七だけ詠んで寿貞尼に呼び掛けて。そして寿貞尼が発句を詠んだら、みんなも詠んで吟詠境を開きましょう。でないと寿貞尼を置いてきぼりにしちゃうから。あ、モリちゃんは吟詠境に行けないから、あたしたちを見守りつつ上手く行くように祈っていてね。さあ、そうと決まったら行きましょう」


 一旦決まるとソノさんの行動は早い。僕らはデイルームを出ると、集中治療室のあるフロアに行き、事務室へ入った。コトの友人だと説明し、なんとか中に入れてもらえないかと頼む。だが、その返事は素っ気無いものだった。


「集中治療室への入室は、患者の家族の方のみとさせていただいています。それ以外の方の入室はお断りしています」

「でも、あたしたちは一緒に事故に遭った友人同士なのです。家族以上に親しく付き合っているのです」

「事情がどうあろうと規則ですので」

「心配で気になって仕方ないのです。一目だけで構いません。様子を見れさえすればそれでいいのです」

「面会を制限するのは患者さんのためです。安静と感染防止のためのやむを得ない処置です。ご理解ください」


 ソノさんの必死の訴えかけも、事務方の責任者には全く通じなかった。けれどもそれは当然のことだ。僕らが無理なお願いをしているのは十分承知している。承知の上でのお願いなのだ。今度は僕が言ってみよう、そう思った時、


「お願いしますっ!」


 大声が上がった。リクだった。その小さな体が小刻みに震えている。


「コト先輩をあんな目に遭わせたのはボクなんです。会って謝りたいんです。お願いです。お願いします、会わせてください」

「そう言われても……困りましたね」

「会わせてあげてやってください」


 背後から声が聞こえてきた。コトの母親だった。


「あの子の母親です。今、容態は安定しています。少しの時間でいいのです。中に入れてあげてやってはくれませんか」

「しかし、私の一存では……」

「いいよ、会わせてあげても」


 そう言ったのは、コトの母親の隣に立つ白衣を着た男性。きっとコトを担当している医師なのだろう。まだ若いが自信に満ちた表情をしている。


「君たち、あの倒木事故に遭った子たちなんだろう。よくそんな軽傷で済んだもんだと、みんな驚いていたよ。もしかしたら君たちの分まであの子が背負い込んだのかも知れないな。それなら一度会ってお礼を言わなくちゃな。君、いいよ、入室を許可しよう」

「ま、まあ、先生がそう仰るなら」


 僕らの顔が喜びに輝く。特にリクは、もうコトが全快したかのような笑顔になった。


「だけど、条件を付けさせてもらう。中に居るのは五分間だけ。そして私語は一切禁止。患者に話し掛けたりするのもやめてくれ。それと人数が多すぎるな。四人まで認めよう。これを守れるのなら許可する」


 四人となると吟詠境に行けないモリが外れることになる。モリは「部屋の外から祈っています」と、快く仲間外れを引き受けてくれた。

 医師に連れられて、僕らとコトの母親は集中治療室に入った。思ったより広いその部屋には、様々な機器と幾つかのベッドが整然と置かれている、その中にコトは居た。呼吸器や計測のためのコード、生体維持のための管が付けられたコト。生物ではなく機械のようなその姿は、それだけで痛々しく見えた。

 僕ら四人はベッドの左右に二人ずつ分かれ、床にひざまずき両手を組んだ。ソノさんが発句を詠む。頭の中に響く発句の上五と中七を僕も詠む。寿貞尼、気がついてくれ、発句を詠んでくれ、そう願いながら繰り返す。だが、寿貞尼の反応はない。

 何度かの試みの後、ソノさんは首を横に振ると先輩を見た。今度は先輩が発句を詠む。同じだった。寿貞尼の反応はない。やはり駄目なのか。先輩は首を振ると僕を見た。ソノさんもリクも僕を見ている。僕は音もなく深呼吸をして心の中で願った。寿貞尼よ、気づいてくれ、僕はここに居る。君のすぐ側に居る。そして僕の声を、僕の詠む発句を聞いてくれ。


 数ならぬ身とな思いそ魂祭たままつり……


 * * *


 上方へ旅立って主の居なくなった江戸深川の芭蕉庵に寿貞尼が移り住んでから、間もなくひと月が過ぎようとしていた。そのほとんどを胸の病によって床に伏して過ごしてきた寿貞尼が、まどろむような午後の眠りから目を覚ますと、人の気配があった。


「これは好斎こうさい老、お出ででしたか」


 好斎は芭蕉庵の近隣に隠棲している老人である。病の寿貞尼を案じ、帰郷に際して芭蕉が世話を頼んでいったのだ。


「気持ちよく眠っておられましたのでな、声を掛けずに眺めておりました」


 人の良さそうな笑顔に心和まされて、寿貞尼も明るい顔になると、力ない声で言った。


「夢を見ておりました」

「ほう、どのような。よければお話しくださらぬか」

「江戸に出る前、伊賀に居た頃の思い出……笑い話にすぎませぬが」


 そうして遠くを見遣りながら、寿貞尼は話し始めた。


「伊賀に居られた頃の芭蕉翁は伊賀上野城の城代、藤堂良精殿の三男、良忠殿に仕えておりました。良忠殿と共にお城へ登られる芭蕉翁に付き添って、この私も桜が美しい城内に足を踏み入れることもありました。そんなある春の日、芭蕉翁が私に一枚の短冊を差し出したのです」

「ほう、何が書いてありましたな」

「和歌です。それも恋の歌。けれどもそれは随分とお粗末な歌でした。私はひどく笑ったように覚えています。芭蕉翁は顔を真っ赤にしておられました。そしてその翌日、俳諧師として名高い京の季吟殿の門下となられたのです。私に笑われたのがよほど悔しかったのでしょう。それからは今まで以上に俳諧連歌に身を入れ始めました」

「なるほど。では今日、芭蕉翁が一角の俳諧師になれたのは寿貞尼様のおかげ、ということですかな」

「そうかも知れませんね。ただ、ひどく笑いはしたものの、今でも覚えているのですよ、あの出来損ないの和歌を」


 二人は声をあげて笑った。ほとんど忘れかけていた懐かしい思い出。どうして今、それを夢に見たのか、寿貞尼は不思議な気持ちに捕らわれると同時に、大きく変わった今の自分を嘆かわしく感じた。


「芭蕉翁は変わりませんね。あの頃と同じく真っ直ぐに生きておられます。それに引き換え、我が身の醜さは目を覆いたくなる程です」

「そのようにご自分を卑下なされますな、寿貞尼様」


 芭蕉を裏切り、他の男へ走った寿貞尼の話は好斎も知っていた。そしてそれが言霊の業によって引き起こされたことも。


「過ぎたことは忘れなされ。芭蕉翁も寿貞尼様を許されたからこそ、こうして芭蕉庵に住まわせているのでしょう」

「芭蕉翁は許しても私自身が許せないのです。どんな償いをしようとも、うっ、ごほごほ」


 体を横にして咳き込んだ寿貞尼の口から鮮血がほとばしり出た。そのただならぬ量に好斎は色を失った。


「これはいかん。今すぐ医者を呼んで参ります」


 慌てて立ち上がろうとした好斎の袖を寿貞尼が掴む。


「よいのです、そばに居てください。好斎老お一人に看取ってもらえればそれで十分です」

「何をおっしゃられる、寿貞尼様」


 袖を掴んでいる寿貞尼の手を好斎は優しく引き離した。先程までの元気はとうに失せ、寿貞尼の顔は蒼ざめ、息は乱れている。


「好斎老、短い間とはいえお世話になりました。感謝しております。厚かましいお願いですが、残していく二人の娘も頼みます」

「寿貞尼様、そのような事、口にするものではないですぞ」


 そう言いながらも、寿貞尼に死が迫っているのは好斎にもわかっていた。己の元気を分け与えるかのように、両手で寿貞尼のか細い手を握り締める。


「ようやくわかりました。あの懐かしい夢。人生で最も輝いていた頃の私を、この今わの際に見せてくれたのでしょう」

「寿貞尼様」

「あとは頼みました、好斎老。芭蕉翁に、よろしく……」

「寿貞尼様、寿貞尼様」


 己の名を呼ぶ好斎の声がだんだん遠ざかっていくように寿貞尼は感じた。同時に何もかもが光を失い、暗闇の中に沈んでいくようだった。全てが消えていく感覚の中、寿貞尼は知らぬ内に、今も覚えているあの和歌を口ずさんでいた。不意に声が聞こえた。寿貞、わしはここに居る。お前のすぐ近くに居る。わしの詠む声を聞いてくれ……



「ここは……」


 寿貞尼が立っているのは桜の木の下だった。満開の桜は風が吹くたびにその薄桃色の花を散らす。その風景に寿貞尼は見覚えがあった。


「これは、伊賀上野のお城の桜の木」

「そう、わしとそなたが若い頃を過ごした、あの思い出深い場所」


 その声の主は寿貞尼を驚かせた。芭蕉だった。京都、嵯峨の落柿舎に居るはずの芭蕉が何故ここに、まさか……


「まさか、ここは吟詠境」


 芭蕉は頷くと寿貞尼に近づきその手を取った。


「今わの際にそなたが詠んだ和歌の上句を発句としてこの吟詠境を開いた。寿貞よ、そなたの命は尽きた。だが魂はまだ残っている。頼む。我が言霊の片鱗となってはくれぬか、今ならまだ間に合う」

「命が尽きれば宿り身の業は使えぬはず。最早、間に合いませぬ」

「我が命を削ってそなたの言霊としよう。寿貞、そなたを失いたくはないのだ」


 寿貞尼は芭蕉の手を振り払った。己にそれだけの価値がないことはよくわかっていたのだ。


「何故でございますか。何故それ程までに私に優しくされるのです。私は芭蕉翁を裏切ったのです。あなたの元を去ったのです。憎まれこそすれ、愛されるような女ではないはずです」


 激しい寿貞尼の拒絶。しかしそれに怯むことなく、芭蕉は再びその手を握ると、穏やかな声で語り始めた。 


「のう、寿貞よ。四季の美しさを表す雪月花という言葉を知っておろう。雪の清廉さ、満月の高潔さ、花の華やかさ。我らはそれらを愛し慈しむ。何故愛せるのか。永遠ではないからだ。変わり行くものだからこそ愛せるのだ。雪は必ず解け、月は必ず欠け、花は必ず散る。解けもせぬ雪を惜しむことができようか。欠けもせぬ月を有難いと思えようか。散りもせぬ花に愛おしさを抱けようか。人の心も同じぞ。雪が解けるように消えて行く心、月が欠けるように移ろい行く心、花が散るように果てて行く心。だからこそ今の気持ちを大切にしたいと思えるのだ。大事にしたいと思えるのだ。永遠不滅の愛などにどれ程の価値があろう。決して壊れぬ物ならば、誰も大事にしようとは思わぬであろう。寿貞、そなたの心は確かに変わった。それ故にこそ、わしはその心を大切にし、慈しみ、愛したいのだ」

「芭蕉翁……」


 芭蕉の言葉の一言一言は寿貞尼の胸に染みた。もうその手を振り解く必要はなかった、芭蕉の想いがようやく理解できたからだ。


「そして我らはまた知っている。解けた雪は再び積もり、欠けた月は再び満ち、散った花は再び咲く事を。寿貞よ、繋離詠によって歪められたそなたの心も、再び元に戻る時が来よう。それまで我が言霊の片鱗となって我が発句に宿るがよい。そなたには無季の業を与えよう。我が十哲と同じく、頼りにする数の内にそなたも入っているのだから」


 芭蕉の右手が淡い光を放ち始めると、その光は寿貞尼の体全体を包んだ。降り散る桜の花びらの中で、寿貞尼は己が芭蕉の言霊の片鱗となったのを感じた、そして、同時に頭の中に聞こえてきた、己の宿るべき発句を寿貞尼は詠んでいた。


 数ならぬ身とな思いそ魂祭……



 開いた、開いたぞ。

 ショウ殿、お手柄ですな。

 

 ここは、吟詠境? ああでもさっきまで見ていた吟詠境とは違う。それに体が動かない。目も開けられない。


 ではさっそく現し身の業を。

 待たれよ其角殿。その前に丸薬を砕く。このままでは飲みにくかろうからな。許六殿、白湯の用意をしてくれ。それからショウ殿は寿貞尼殿の様子を見てくださらぬか。

 わしは何をすればよいのだ、去来殿。

 其角殿は何もせずともよい、しばらくそこで大人しくしておれ。


 そうだわ、思い出した。牧童との戦い。でもその吟詠境とも違う。牧童も北枝も気配が感じられない。あの吟詠境からは抜け出せたのかしら。ああ、誰かが寿貞尼の名を呼びながら私の頬を叩いている。低い呻き声が漏れてしまう。


 それにしても寿貞尼殿は、現し身を詠む前からコト殿の姿になっておられる。これは如何したことであろうか。

 うむ、恐らくは己の姿を保つだけの力すらないのだろうな。急がねば。時にショウ殿、寿貞尼殿の意識は戻っておりますか。無意識のまま飲ませると気管に入る恐れがありますからな。

 どうだろう。今、小さな声を出したんですけど……意識はあっても体が動かないだけなのかも知れないです。

 ではもう少し呼び掛けてくだされ。さて、準備はできた。其角殿、現し身を頼む。

 おう、わしの出番か。ではいくぞ。現し身!


 何故、現し身を? みんな何をしようとしているの。それに、今、気づいた。私は寿貞尼じゃない、コトだわ。其角の現し身では意識を移せないはずなのに、どうして。


 さあ、ショウ殿、これを寿貞尼殿に飲ませてくだされ。

 僕がやるんですか、去来さん。

 わしの声も其角殿の声も寿貞尼殿には届かなかった。だが、ショウ殿の発句には応えられ、この吟詠境は開かれたのです。寿貞尼殿を回復させるのはショウ殿こそが相応しい。

 わかりました。やってみます。


 何か、冷たいものが私の口に当てられた。温かい液体が私の口元を伝って流れていく。


 駄目だ。口を閉じているので流れてしまう。

 ならば口を開けねば。ショウ殿、お願い申す。

 あ、はい。

 これ、ショウ殿、手でこじ開けようとは何と無粋な。口を開かせるなら……

 そ、そんなこと、いくら其角さんの言葉でも。

 何を照れておる。寿貞尼殿の一大事なるぞ。のう、去来殿もそう思われよう。

 うむ。無理に飲ませると誤嚥の恐れがある、口に含ませるだけならその方が良かろう。ショウ殿、今一度試してくだされ。

 わ、わかりました。


 柔らかいものが私の唇に触れた。瞬間、今まで経験したことのない甘美な感覚が私を襲い、それは全身を包み込んだ。自分の全てを委ねたくなるようなこの感覚。更に深い感覚を味わいたくて薄く開く唇。そこから口の中へ流し込まれた何かを、私は飲み込んでいた。


 ショウ殿、如何かな。

 飲んでくれたみたいです。

 おう、寿貞尼殿の姿が濃くなり始めておりますぞ。さすがは凡兆殿の妙薬。わしもお会いしたかった。

 すまぬな、許六殿。こればかりは宿り手の都合ゆえ、我らにはどうしようもなかった。


 凡兆……そうだったの。今日、会いに行ったのは凡兆だったのね。そして去来が受け取ったのは、あの丸薬。そんな大事なものを私のために……


 さあ、これで寿貞尼殿もコト殿も助かりましょう。長居は無用。吟詠境を閉じましょう。ショウ殿、挙句を。

 はい。

 

 体も心も楽になっていく。手にも足にも力が蘇ってくる。私はゆっくりと目を開けた。ぼんやりとしていた目の前の顔がはっきり見えてくる。やっと約束を果たせた、そう言いたそうなあなたの満足げな顔。私の中に溢れ出した抑え切れない想いが、知らぬ間に言葉となって私の口を開かせた。


「ありがとう、ショウ君……」



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