五 数ならぬ身

尋問スイーツ


 僕は駅前へ急いでいた。校則では、下校時は寄り道をせずに帰宅することになっているので、制服で飲食店に出入りするのは基本的に校則違反である。

 とは言っても、そこは食べ盛り、育ち盛りの高校生。部活動で腹を空かして自宅まで我慢できない者もいる。そんな哀れな生徒のために、学校側も大目に見ている店がある。モリから聞いたのはそんな店のひとつだった。ラーメン屋でありながらスイーツも充実していて、しかも値段もお手頃という女子生徒一番人気の店だ。

 ようやくたどりついた僕は、開いた自動ドアから中に入った。


「あ、ショウちゃん、やっと来たね。遅いよ~」


 店に入った途端、ソノさんの声が聞こえてきた。さすがにこの時間は混雑している。店内は二人掛けと四人掛けのテーブルが混在しているが、全員ひとつのテーブルには着けなかったようで、ソノさんとモリが向かい合って座り、そこから少し離れた場所にコトが一人で座っている。一人と言っても、四人掛けのテーブルに二人掛けのテーブルを寄せた、総勢五人の中の一人として座っているのだ。

 コトの隣に座っている子が、ソノさんの声に反応してこちらを振り向いた。その顔を見た瞬間、僕は棒立ちになってしまった。滋賀で別れたきり、顔を合わすどころか声すら聞いていない、生意気中学生のリクだったのだ。私服を着ているので、一度、学校から帰宅してこの店に来たのだろう。


「そうそう、リクちゃんも呼んじゃったんだ。ショウちゃんはそっちに座ってね」


 コトの正面の席の上に僕の鞄が置いてある。そこに座れということなのだろう。隣は見知らぬ女子生徒だが、これだけ人が居ては相席も仕方ない。そちらに向かおうとすると、リクが席を立ってこちらに歩いて来る。


「や、やあ、リクっち。久し……」


 僕の言葉は途中で断ち切られた。リクが僕の左頬を平手打ちしたからだ。生意気な口の利き方は我慢できても、暴力となるとそうもいかない。僕の頭には一気に血が上ってしまった。


「何するんだよ、いきなり叩くなんて」

「それはこっちのセリフです。コト先輩に怪我をさせるなんて、どういう了見ですか」

 僕らの声を聞いてこちらを振り向いたコトを見て、僕は驚いた。後ろからは長い髪に隠れて見えなかったコトの首に、白い包帯が巻かれていたからだ。


「女の子ひとり守れないなんて、ショウ先輩、サイテーですね」


 一旦頭に上った僕の血の気は、急速に体の方へと降りていった。リクの言う通りだ。理由はどうあれ、コトに怪我をさせた一番の原因は僕なのだから。


「おまけに、せっかくあげた許六の短冊も使っちゃったらしいですね。どうするんですか。これから何か起こっても知りませんよ」


 返す言葉もない。僕は頭を下げて「ごめん」とただ一言つぶやいた。


「ふん!」


 これまで何度も聞かされた軽蔑の言葉と共に、リクは自分の席へ戻って行った。その後を付いて僕もコトの正面の席に座る。遠慮がちに僕を見る隣の見知らぬ女子生徒。男子高校生がいきなり女子中学生に頬っぺたを引っ叩かれたのだから、気になるのも当然だろう。前に座るコトを見ると、首に巻きついている白い包帯が痛々しい。リクが怒るのも無理はない。


「コトさん、だいぶ酷いの?」

「ううん、保健室の先生が大袈裟なのよ。湿布を当ててあるだけなんだから。今は痛みもほとんどないわ」


 てっきり毒舌が返ってくるものと思っていたのだが、コトにしては素直な返事だった。まだ完全には本来のコトに戻っていないのかも知れない。


「コト先輩、甘やかしちゃダメですよ。女の体に傷を付けられたんですからね。損害賠償を請求すべきです」

「はいはい、リクちゃん弁護士の熱弁はそこまでにしてね」


 いつの間にかこちらの席にやって来たソノさんが、リクの頭をポンポンと叩く。


「悪いけど、リクちゃん、席を替わってくれないかな。これからショウちゃんの尋問を始めたいと思うから」


 じ、尋問! その響きだけで振るえ上がってしまいそうな言葉だ。リクは食べ掛けの白玉あんみつを手に取ると、少し離れたモリの正面の席へと移った。空いた席に座ったソノさんの眼鏡の奥から、まるで其角みたいな鋭い目がこちらを睨みつけている。


「さあて、ショウちゃん、全てを白状してもらうわよ」


 それからソノさんの粘着的で婉曲的で赤面的な尋問が始まった。既にモリからある程度の事情は聞いているようで、僕と彼女の関係については、それ程深い追及はなかった。それよりもソノさんが最も関心を持っているのは、モリとコトとどちらが僕の本命かということらしく、


「幼馴染って忘れられないものよね」とか、

「焼け木杭に火が点くって諺もあるしね」とか、

「コトちゃんは美人だけど、モリちゃんはカワイイって感じよね」とか、様々な言葉を弄して僕の気持ちに揺さぶりを掛けてきた。


 つまりは僕から「本命はコトさんです」との言葉を引き出したいのだろう。しかし衆人環視のこの状況で、しかも隣に座る赤の他人の女子生徒に、僕らの会話が完全に筒抜けなこの状況で、そんな小っ恥ずかしい告白など到底できようはずがない。唯一の救いはコトが黙って僕らの会話を聞いていることだった。もしコトの毒舌がソノさんの尋問に加わっていたら、それこそ針のむしろに座らされた囚人の如く、僕は断末魔の叫びを上げていたことだろう。

 注文したコーヒーゼリー入りのショコラフロートを飲みながら、ソノさんの独り言的な誘導尋問に、僕はただ顔を赤くして「ええ」とか「まあ」とか言葉を濁すだけだった。ソノさんはにやにやして、この状況を楽しんでいる。まるで猫に甚振られている瀕死の鼠みたいな気分だった。結論はもうわかっているはずなのに、いつまでも終わらないソノさんの可愛がり。僕の目から思わず涙が零れ落ちそうになった時、店の中に救世主が入ってきた。


「よう、みんな、お待たせ」


 先輩だった。父つぁんも一緒だ。その時、運のいいことに隣の女子生徒を含めた三人が席を立った。先輩と父つぁんは空いた二人掛けのテーブルに向かい合って座ると、即座に特製ラーメン大盛りを注文。二人共、相当空きっ腹なご様子だ。


「あ、ソノさん、俺たちは自分で金を出しますよ。幾らなんでも悪いですから」


 確かに先輩の胃袋の面倒までソノさんに見させるのは、少々酷というものだ。先輩が注文を終わると、すぐにモリが席を立ってこちらにやって来た。そして先輩の隣に立つと勢いよく頭を下げた。先ずは再会の挨拶ということなのだろう。


「お久し振りです。お元気そうでなによりです。それから、黙っていてごめんなさい。それから、あんな事になってしまって、ごめんなさい。それから、えっと」


 こうして言葉を交わすのは、二人にとっては数年振りのはずだ。先輩は頭を下げて口籠もっているモリを懐かしそうに眺めながら言った。


「久し振り。お前も元気そうで良かったよ。別に俺に秘密にしていたからって何とも思わんさ。小さい頃は結構いじめていたからなあ」


 そう言えば子供の頃、モリのおやつの大半は先輩が横取りして食べていたような気がする。食べ物の恨みは恐ろしいから、モリがまだ根に持っている可能性は捨てきれないが、秘密にしていた理由は僕にあるのだから、それは余り関係がないだろう。先輩の返事を聞いて、モリはようやく頭を上げた。


「あの、これからも昔同様よろしくお願いしますね、ライさん」

「おっ、その名で俺を呼ぶのか。こちらこそよろしくな、モリ、っと、呼び捨てにするのは特別な女だけにしておけと、亡くなった曽祖父が言っていたっけな」


 確かに曽祖父ならもう亡くなっているかも知れないけど、先輩、会ったことあるんですか、と心の中で問い掛ける僕にはお構いなしに、先輩は天井を見上げてしばらく考えた後、拳でポンと手の平を叩いた。


「そうだ、モリゾウがいいな。これからもよろしくな、モリゾウ」


 思わず先輩のネーミングセンスに疑問を呈したくなってしまった。うら若い女子高生にモリゾウとは、そりゃモリが可哀想すぎる。


「えっ、あ、あの、モリゾウって。どうしてモリゾウ?」

「何言ってるんだよ、もう忘れたのかい。昔、一緒に行った博覧会のお気に入りのキャラじゃないか。毎晩ぬいぐるみを抱いて寝てるって言っていただろ」

「あ~、それ、あたしも覚えてるわよ。モリゾウとキッコリでしょ。カワイイわよね、あれ」


 ソノさんが実に嬉しそうな顔で口を挟んできた。親にねだってモリコリグッズを買い捲くっていたであろう、子供の頃のソノさんの姿が目に浮かぶ。


「わ、わかりました。それじゃ、私は戻りますね」


 予期せぬ思い出話を持ち出されたモリは、少し顔を赤らめて元の席に帰って行った。まさか、まだモリゾウを大切にしているとか……いや、高校生にもなってそれはないだろう。


「ね、ライちゃん、ショウちゃんのことなんだけど」


 ソノさんが何か言おうとしている。ダメだ、せっかく中断した尋問を再開させるような真似はしたくない。僕はソノさんの言葉をさえぎって、立て続けに先輩に言葉をぶつけた。


「と、ところで、先輩、部活はもう終わったんですか。少し早くないですか。さっきは随分疲れていたみたいですけど、もう大丈夫なんですか。それと、どうして父つぁんも一緒なんですか。この店はよく来るんですか」

「おいおい、いきなり何だよ」


 先輩はコップの水を飲み干すと、僕がモリを追って走り出してから後の事を簡単に説明してくれた。

 吟詠境で去来が発揮した共感を超えた言霊の力は、先輩の生身の体には相当堪えたらしく、立とうという気力すらなかなか起きなかったそうだ。そこで、保健室に向かうソノさんとコトに、武道場にいるはずの父つぁんを呼びに行かせ、駆けつけた父つぁんには近くのコンビニへ焼肉弁当を買いに行かせ、それを食べてようやく体力は回復。しかし、部活を続行できる状態ではなかったので、父つぁんは付き添いという形で、二人は早めに切り上げた、とのことだった。


「いや、ホント驚いたよ。あの頑強なライ先輩が、芝生の上に寝転がったまま、腹が減ったと呻いているんだから。思わず『素振り千回お疲れ様です』と敬礼してしまったよ」


 父つぁんの冗談は初めて聞いたなあと、僕は変な部分で感動してしまった。きっと冗談を言いたくなるくらい、父つぁんには衝撃的な光景だったのだろう。

 ここで注文したラーメンがやって来た。先輩は待ってましたとばかりに猛烈な勢いで食べ始めた。父つぁんも呆れるほどの食いっぷりだ。


「ね、それよりもライちゃん、ショウちゃんのことは訊かなくていいの。どうして、モリちゃんとの出会いを秘密にしていたのか、とか」


 しまった。先輩の話が一段落したところで、間髪入れずにソノさんが話を蒸し返しにきてしまった。先輩はラーメンを食べていた顔を上げて僕を見ると、まるで気のない声で「いや、いい」と言ってまた食べ続ける。意外そうな顔をするソノさん。


「あら、どうして。気にならないの?」

「訊かなくてもなんとなくわかるんだ。それにショウは昔から自分のことは余り話さないんだ。お袋さんが亡くなった時だって、俺が知ったのは葬式が始まってからだったしな。でも、ショウ、これからはできるだけ早く話すようにしてくれよ」

「な~んだ、つまんないなあ」


 先輩! やはり先輩は先輩だ。心の底までわかりあえる竹馬の友を持てた我が身の幸運を、僕はしみじみと実感した。次の言葉を聞くまでは。


「まあ、ショウが言い出し難かった気持ちもわかるけどな。今はカワイイ彼女が居るってのに、結婚を約束した相手が現れたんだから」

「け、結婚!」


 先輩を除く同席四人が、同時に同じ言葉を口にした。特に僕は飲み込もうとしていたコーヒーゼリーが喉に詰まり、豪快に咽てしまった。


「ゴホッ、ゴホゴホ。せ、先輩、何を言い出すんですか!」

「あれ、覚えてないのか」

「モリちゃ~ん、ちょっとこっちに来てくれる~」


 直ちにソノさんが離れた席に座るモリに声を掛けた。モリは食べ掛けのキャラメルカフェを持ってこっちにやって来た。リクも一緒だ。一緒だがこちらの空席はひとつしかない。


「あ、じゃあ、俺たちが向こうに移るよ。父つぁん、行こうぜ」


 先輩、どうしてこんな時だけ、そんな無用な気遣いをするんですか。ここに居てくださいよ、という僕の心の叫びは先輩の耳に届くはずもない。ラーメンを持って向こうに行った二人に替わり、僕の隣にモリ、そしてその斜め前に、ブラックコーヒーを一気飲みしたような苦々しい顔のリクが座った。


「ね、モリちゃん。今、ライちゃんから聞いたんだけど、ショウちゃんと結婚の約束をしたって本当なの?」


 モリにとっては答え難い質問だったのだろう。伏せた横顔が紅潮している。言おうか言うまいかためらっているように、モリはすぐには返事をしなかった。が、チラリと僕を見ると、小さな声で「はい」と言った。すかさずソノさんの鉾先が僕に向けられた。


「ショウちゃん、これ、どういう事なのかな。さっきはそんな話、全然してなかったよねえ」


 どういう事も何もあったもんじゃない。僕には全く記憶にないのだから。しかし先輩もモリも嘘を付く人間ではない。僕に覚えがなくても、そんな約束をしてしまったのは事実なのだろう。ここは素直に認めて笑って誤魔化そう。


「えっと、僕は全然覚えてないんだよ。まあ、子供の頃の話だし、きっと忘れちゃったんだよね。ははは」

「忘れたって、便利な言葉よね~」


 ソノさんは実に嬉しそうな目で僕を見ている。これはマズイ。事態は悪化の一途をたどっている。何とか収束させないとこのままでは……と焦る僕に、更にリクの一言が浴びせられる。


「ショウ先輩がそこまで浅ましい男だとは、思いも寄りませんでしたよ。どうせ二股掛けるつもりだったんでしょう」

「リクっち、何を言ってるんだよ」

「そうよね~。口では何とでも言えるものね。本当は覚えていたから誰にも話せなかったんじゃないのかな。忘れていたって言うのなら証明してみせて欲しいなあ~」

「ソノさん、そんな証明、無理に決まってるじゃないですか。僕を信じてくださいよ」

「言霊のことも幼馴染のことも秘密にしていたショウ先輩の言葉なんか、今更信じられるはずがないでしょう。誰にも言わずにやり過ごそうとするなんて、それだけでも不誠実極まりないのに、バレたらバレたで『忘れていました』なんてシラを切る。愚劣にも程があります。コト先輩、こんな浮気な男とはきっぱり別れた方がいいですよ」


 それまでほとんど喋らずに、ぼんやりとあんみつ豆を食べていたコトは、リクから話を振られて顔を上げた。その目にはいつもの気丈な輝きがない。


「そうね、リクの言う通りかもしれないわね。考えてみようかな」


 これまで寡黙だったコトの口から出た言葉に、僕は心が折れそうになってしまった。こんな台詞なら毒舌を聞かされる方がよっぽどマシだ。


「コ、コトさん、僕は本当に……」

「あ、あの」

 ソノさんとリクの集中砲火を浴びる僕の横で、身を固くして話を聞いていたモリが遠慮がちに話に加わった。

「あの、皆さんには悪いんですけど、ショウ君、本当に忘れていたんだと思います」

「モリ先輩、こんな男の肩なんて持つ必要ないですよ」


 リクの手厳しいツッコミにも負けず、モリは話を続ける。


「いえ、あの、実は、私、ライさんとも結婚の約束をしていたものですから」


 その場が水を打ったように静まり返ってしまった。ソノさんに詳細を求められてモリが話した説明によれば、どうやらまだ小さすぎて結婚の意味をよく理解できておらず、ただ単に、とても仲の良い友達になる、という意味で使っていたらしいと判明した。


「たぶん、男女に関係なく、『じゃあ結婚しようね』って言っていたんだと思います。だからショウ君も、仲良くなるって意味でしか覚えていないんだと思うんです」

「なんだ、がっかり~」

「命拾いしたわね、ショウ君」

「それでも二股疑惑が消えたわけじゃないですからね、ふん」


 モリの説明によって窮地を脱することができた僕は、ようやく人心地つけた気分だった。予想していたとはいえ、これほど厳しい糾弾の場になるとは……全く人生とは厳しいものだ。下手に隠し事なんてするもんじゃないな、これからは気をつけよう。残りのショコラフロートを飲み干して、僕は大きく息を吐いた。


「でも、モリさん、すっかり元気になったみたいでよかった。ショウ君はどんな風にモリさんを慰めたのかしら」


 正面に座るコトの、僕とモリのどちらに尋ねるでもない微妙な言い回し。なんだか、まだ僕とモリの関係を疑っているような気がしないでもない。


「あ、いえ、元気が出たのは、知らないおじいさんが励ましてくれたからなんです」

「知らないおじいさん?」

「はい。桜の木の下に座っていたら話し掛けてきてくれて。俳句に詳しいおじいさんでした」


 コトの目がこちらに向けられた。隠し事はするもんじゃないと決意したばかりの僕は即座に返答する。


「そ、そうだよ、コトさん。以前話したあのおじいさんが、偶然、今日この町に戻って来ていたんだ」

「そう、あのおじいさんが……やっぱり蕪村の宿り手だったの?」

「ちょっとちょっと、ショウちゃん。まだ何か隠していることがあるみたいね。今日はとことんショウちゃんの秘密を暴いちゃうわよ」


 一時はヤル気を失っていたソノさんの目が再び輝き出した。蕪村さんについては隠す必要もない。信じてもらえるかどうかは別にして、正直に話してしまおう。


「いや、そうじゃないよコトさん。宿り手じゃなかったんだ」

「それじゃ、昔、宿り手だったの?」

「ううん、そうでもなくて。実は蕪村さん本人だったんだ。なんだか信じられない話だけどね」


 コトのあんみつ豆をすくったスプーンが、そのまま止まった。ソノさんもリクもそしてモリまで、その表情は固く強張っている。誰も何も言わない。やはり俄かには信じられないのだろう。しかも現在、信用度が著しく低下中の僕の口から出た言葉なのだから、疑いたくなるのも当然だ。僕は話を変えようと、ポケットに手を入れて、蕪村さんに貰った紙切れを取り出した。


「ま、まあ、そのおじいさんについてはともかく、今日戻って来たのは去来に用事があったからみたいなんです。ここに書いてある住所に行ってみろって」

「ライちゃん、こっちに来て」


 ソノさんの声に応じて先輩と父つぁんが席を立った。いつの間にかラーメンを食べ終えたようで、手には食べ掛けのクリームぜんざいを持っている。モリとリクが向こうの席に移り、先輩と父つぁんが席に着いた。


「やれやれ、こう忙しくちゃデザートをじっくり味わう暇もないな。今度は何だい」

「ショウちゃん、そのおじいさんについて始めから話してくれない」


 ソノさんに言われて、出会いからこれまでの経緯を話し始める。父つぁんが居るので言霊についての説明は省き、吟行の途中で偶然出会ったこと、俳諧や芭蕉について教えてもらったこと、コトと一緒に会いに行ったけど会えなかったこと、などを簡単に説明した。もっとも、春の恋文短冊告白事件に関する会話については秘密にさせてもらった。こればかりは隠しておいても罰は当たらないだろう。


「それで、おじいさんの話に寄ると、先輩に会いたい人が居るらしいんです。これがその人の名前と住所」


 僕が机の上に置いた紙切れを見て、先輩は渋い顔をした。


「北陸かあ。ちょっと遠いな。日帰りで行こうとすると、飛行機か特急か。どっちにしても金も時間も掛かるな」


 北陸と聞いて、父つぁんが紙切れを覗き込んだ。


「なんだ、俺の実家のある町の隣じゃないですか。ちょっと遠いけどバスと電車で行けますよ。ここに用事があるんですか?」

「うん、まあな」

「なら一緒に行きませんか。この四連休も農作業の手伝いで明日の午後に帰省するんです。車なんですけど、あと二人は乗れますよ」

「いや、行きはそれでよくても帰りが大変だろ」

「何を言ってるんですか。泊まってって下さいよ。母屋のほかに新屋も建っているんで、ここに居る全員が泊まっても大丈夫ですよ。四日目の午前には帰りますから、休み明けの授業にも支障ないはずです。なあ、ショウ、お前も来るだろう」


 妙に機嫌の良い父つぁんの声。その機嫌の良さの裏に何が隠されているのか、訊かなくてもわかっている。


「つまり、僕と先輩に農作業の手伝いをしてくれと、そう言いたいんだろ、父つぁん」

「さすが、ショウ。相変わらず冴えてるな」

「そうか。一宿一飯の礼に農作業か。それならこちらも気兼ねなく世話になれるな。どうだ、ショウ。せっかくの父つぁんの申し出なんだし、一緒に行かないか。四連休は何の予定もないんだろ」


 確かにこれはいい機会だ。自力で行けば大幅な赤字が確実な旅を、ほぼ無出費で遂行できるのだから。


「そうだね、父さんの許可が下りれば僕も行くことにするよ」

「はい、ゴールデンウィーク後半の予定はこれで決まりね」


 ソノさんの明るい声。どうやらソノさんもすっかりその気になってしまっているようだ。


「トツちゃん、あたしたちも泊めていただけるのかしら。もちろん出来るだけのお手伝いはさせてもらうわよ」

「あ、はい。多分大丈夫だと思いますよ。と言うか、綺麗な女性なら大歓迎です。ただ、ショウとライ先輩を乗せると、車には……」

「それについては心配御無用。車はあたしが出すから。あ~、泊まりがけの北陸旅行なんて初めてよ。ドキドキしちゃうわ」


 ドキドキするのはこちらも同じだ。ソノさんが行くのだから、コトも付いて来るだろう。それはつまり、女子と一緒の外泊旅行である。さすがに意識せずにはいられない。こちらのドキドキをよそに、父つぁんは時計を見ると席を立った。


「あ、じゃあ、ライ先輩、俺はこれで帰ります。もうすぐ電車の時間なんで。詳しくはまた後で連絡してください。一応ここにいる六人全員が来るってことで、親には言っておきますから」

「ああ、わかった。よろしく頼む」


 父つぁんは鞄を持って出口へ向かい、金を払って出て行った。こちらの席に空きが二つできたので、離れた場所に居るリクとモリがやって来た。全員揃ったところでソノさんが改めて父つぁんの申し出について説明する。


「……という訳なんだけど、どうかな。もし四連休に何の予定もないなら、みんなで行かない」

「私も行っていいんですか」とモリ。

「まあ、コト先輩が行くなら、行ってもいいかな」とリク。

「私は……」

 コトの言葉が重い。即断即決のコトにしては珍しいことだ。吟詠境を出てからのコトはどこかおかしい。

「私は、やめておくわ」

「ど、どうして!」


 コトの意外な返答に、僕だけでなく全員が自分の耳を疑ったことだろう。ソノさんが問い掛ける。


「コトちゃん、もしかして何か予定でもあるの」

「ううん、何もないわ。そうじゃなくて、私は行かない方がいいでしょ」

「行かない方がいいって、そんな訳ないよ。予定がないなら一緒に行けばいいじゃないか」


 僕を見るコトの目は何時に無くぼんやりとしている。まるで別の世界を見ているみたいに、その瞳からはこの世界への興味が失せてしまっているかのようだ。コトはその目の輝きと同じぼんやりとした口調で話し出した。


「吟詠境で杜国が言っていたじゃない。今の私は足手まといだって。みんなが短冊に手を当てて力を合わせている時、私は何も出来なかった。それだけじゃなく、私のためにショウ君は言霊の力を捨てようとまでした。わかっているのよ。ソノさんもライさんも何も言わないけど、去来も其角も怒っているってこと。当然よね。ショウ君は私のために道服まで脱いでしまったんだから。私はもう吟詠境には行かない方がいいのよ」


 コトの言葉とは思えなかった。こんな後ろ向きな発言をすること自体、もういつものコトとは全く違っている。やはり吟詠境での出来事が、今もまだ尾を引いているのだろうか。僕は身を乗り出さんばかりにして、コトの言葉を否定した。


「そ、そんなはずないよ。コトさんの思い過ごしだよ。何も出来なかったのは現し身のせいだし、道服を脱いだのは僕の意思だし。みんなが怒っているなんて考えすぎだよ。ね、ソノさん、先輩、そうですよね」


 同意を求める僕の言葉に、ソノさんも先輩もただ黙って応えるだけだった。リクでさえも何も言わず、口をぎゅっと結んでいる。


「そ、そんな……」


 そして僕はこの時ようやく思い出した。芭蕉の門人たちは寿貞尼を必ずしも快くは思っていない、という先輩の言葉を。自分の命を削って寿貞尼を言霊にした芭蕉と同じ姿を、コトのために道服を脱いだ僕自身に重ね合わせて見ているのだろう。門人たちにとって、芭蕉の言霊は何よりも大切なもの。その大切なものを犠牲にしてまで守りたいと思わせる存在を、疎ましく感じないはすがない。コトの様子が普段と違っていたのは、そんな言霊たちの気持ちを敏感に察していたからなのだろう。コトはゆっくりと席を立った。


「私も帰るわ。そろそろ電車の時間だし。モリさんはどうするの。次の電車にする?」

「あ、それじゃ私も帰ります」


 モリも立ち上がると鞄を持ってコトと一緒に出口に向かおうとする。いや、このまま帰してはいけない。僕が声を掛けようとした時、リクが立ち上がった。


「コト先輩、待ってください。それでも旅には一緒に行きませんか。ボクはコト先輩のことは決して……」

「リクちゃん!」


 ソノさんがリクを押し留めると、首を横に振った。無理強いはやめた方がいい、そう言っているかのようだった。


「ありがとう、リク。でも仕方ないのよ。私の言霊はみんなとは違って俳諧師じゃないんですもの」


 それがコトが僕たちに残したその日の最後の言葉だった。コトとモリが店外に姿を消すと、残された僕たち四人もまた火の消えた蝋燭のように、寂しい闇の中に沈んでいくような気がした。


「やっぱり、コトちゃん気づいていたのね。私たち、言霊の気持ち」

「コトさん、勘がいいからな。無理もないよ」

「じゃあ、コトさんが言ったのは本当だったんですね」


 僕は全く気づけなかった。吟詠境では、去来も其角もそんな素振りは見せなかったからだ。けれども芭蕉の言霊を粗末に扱ったのは僕自身の意思だ。コト一人だけを責めるのはお門違いだろう。


「だからって、何も言ってあげないなんて酷いじゃないですか。あれじゃコトさんが可哀想ですよ」

「すまんな、ショウ。俺もソノさんもコトさんを悪く思ってはいないんだ。ただ、宿り手である以上、言霊の気持ちにある程度引き摺られてしまう部分もある。わかってくれよ」


 先輩に謝られては許さない訳にもいかない。それに責めたところで、どうにかなる話でもない。不意に先輩は立ち上がると、正面に座るリクも立たせて、横に寄せたままの二人掛けのテーブルを元の場所に戻した。空いたコトの席にリクが、僕の隣に先輩が座る。夕食時の店内の混雑度が増しているので、気を遣ってのことだろう。僕たちもそろそろ帰り時かもしれない。


「コトちゃんには、あたしからもう一度話してみるわ。あのままにしてはおけないものね。それよりも、ライちゃん、もうひとつ気になることがあるのよ」

「何ですか、ソノさん」


 ソノさんは先輩が手に持っている紙切れを指差した。


「それをくれた人、ライちゃんはまだ聞いてなかったわよね。誰だと思う?」

「誰って、言霊と俳句に詳しい人なんですよね。おい、ショウ、教えてくれよ」

「あ、ああ、先輩には話してませんでしたよね。蕪村さんです」

「蕪村、じゃあ与謝蕪村の宿り手だったのか。芭蕉没後の俳人なのに、言霊の業を持っていたとは驚いたな」

「いえ、宿り手ではなく蕪村さん本人、言霊の俳諧師だったんですよ。ちょっと信じられないですけどね」


 先輩の顔が一気に険しくなった。同じだった。最初にあの老人について話した時に見せたソノさんたちの反応と、寸分違わぬ変化を先輩も見せている。


「なあ、ショウ。どうしてその人が蕪村本人だってわかったんだい」

「そのおじいさんが自分で言ったんですよ。言霊の力を生命力に変えて生きているって」

「……逆宿り身の業……ソノさん、これはもしかすると」


 先輩と顔を見合わせたソノさんが小さく頷いた。二人共同じことを考えているようだ。


「ね、ショウちゃん、義仲寺でのあたしの言葉、覚えている? 芭蕉に一番早く封をされたのは宗鑑。だから、その封はもう解けて、既に宿り手を見つけているかも知れないってこと」

「あ、はい、覚えていますけど」


 そう答えながら、今、どうしてここで宗鑑の話を持ち出すのかと、僕はソノさんに奇異な気持ちを抱いた。


「今の時代に、室町の頃の宗鑑と共感できる人間なんて、それほど多く居るわけじゃない。だから例え宿ったとしても宗鑑は本来の力を出せないはず、あたしはそう思っていたのよ。でも、言霊の俳諧師が存在するなら話は別。既に言霊を持っている俳諧師を宿り手に選べば、宿った言霊は無条件で本来の力を発揮できる。だからこそ嵐雪に宿った宗鑑は、芭蕉と互角に戦えたのよ」

「それって、つまり……」

「そうだ。現代に言霊の俳諧師が存在し、宗鑑がその存在に気づいたのなら、間違いなく彼に宿るだろう。むしろ宿り手として選ばない方が不自然だ」


 蕪村さんに宗鑑の言霊が宿っている!……先輩の言葉は俄かには信じられなかった、いや、信じたくはなかった。あの優しい眼差しの奥に宗鑑が潜んでいるなんて……だが、待てよ、もしそうなら引っ掛かる部分がある。僕は反論する。


「で、でも、それならおかしい点があります。僕は蕪村さんには全く言霊を感じなかったんです。宗鑑ほどの言霊が宿っているなら、気づけないはずがないでしょう」

「言霊隠しの業を使っているのね」

「言霊隠し?」

「言霊の業によって人心が乱れた戦国時代、自分が言霊を持っていることを相手に知られない方が、有利に事を進められる場面も沢山あったのよ。そのために作られた、自分の言霊の気配を完全に消してしまう業。蕪村さんはそれを使っているんだと思うわ」

「それなら、どうして僕たちに親切にするんですか。言霊のことを教えてくれたり、今日だって新しい言霊の居場所を教えてくれたり」

「ショウ、落ち着けよ。モリを見ればわかるだろう。言霊と宿り手は全然別物なんだ。蕪村さんが俺たちの味方だからって、宿る言霊まで味方である保障はない。信じたくない気持ちはわかるがな」


 僕にはもう返す言葉がなかった。先輩やソノさんの言う通りだ。門人たちの誰よりも早く業を掛けられた宗鑑の封が既に解けていても、何の不思議もない。逆宿り身の業で蕪村さん自身の言霊の力はほとんど残っていなくても、宗鑑ほどの人物ならその存在に気づくだろう。気づけば間違いなく宿る、先輩の言葉に疑問の余地はない。やはり蕪村さんは宗鑑の宿り手なのか。もしそうならば、僕らはいつか、彼と戦わなくてはならないのか。


「も、もし、もし今の状態で蕪村さんと戦うことになったら、僕たちに勝ち目はあると思いますか?」

「芭蕉が自分の片鱗を預けた門人を全て集め、吟詠境で芭蕉本来の力を出せば、十分勝機はあると思うわ。ただ」

 ソノさんは厳しい目で僕を見た。

「ショウちゃんが全ての片鱗を身に着け、芭蕉の意識を持てるようになったとしても、芭蕉本来の力を出せば、多分、ショウちゃんの生身の体が持たないわ。だから、芭蕉は本来の力を出そうとはしないでしょうね」


 本来の力を出せば生身の体が持たない……今日、吟詠境を出た直後のソノさんと先輩の姿。封印詠のために、わずか一瞬、本来の力を出しただけで、あれだけの体力と気力を消耗させられるのだ。芭蕉の言霊の力は門人たちとは別格の強さのはず。あの程度では済まないだろう。

 体から力が抜けていくような気がした。門人を集めても、言霊の片鱗を集めても、今のままでは宗鑑に勝てないのだとしたら、それはただの徒労にすぎないのではないか。どうして芭蕉は僕のような人間を宿り手に選んだのだろう。僕なんかより深く共感できている人間は大勢居るはずなのに、どうして……


「何、情けない顔をしているんですか、ショウ先輩」


 まるで人生の落伍者でも見るような冷ややかな視線を僕に向けると、リクは力強い声で言った。


「吟詠境での戦いは詞だけで遣り合わなくちゃいけない、なんてルールはないんですよ。宗鑑なんてただのヨボヨボの爺さんじゃないですか。あっちが口を開く前に、六芸に秀でた許六の槍で一突きすれば、それで終わり。恐るるに足らず、ですよ。ショウ先輩、女々しい雰囲気を周囲に撒き散らすのはやめてくれませんか、迷惑です」

「リクっち……」


 リクの毒舌を聞いて、これ程に勇気付けられたのは初めてだ。どうやら僕は相当弱気になっていたようだ。


「そうだな、戦う前から戦意喪失していちゃ、勝てるものも勝てなくなる。とにかく、この紙切れに書かれた人物に会ってみようじゃないか。蕪村さんのことも知っているはずだから、何か新しい情報が手に入るかも知れないぞ」

「二人共、前向きでよろしい。暗くなっても事態は好転しないんだから明るくいきましょう。ところで」

 ソノさんが僕の前にぐっと顔を近づけてきた。

「言霊について、もう隠し事はないのよね、ショウちゃん」


 ソノさんの瞳が変わった。心の底まで暴きだそうとする輝き、それは紛れもなく其角の眼だった。無意識の内に僕の口から言葉が出た。


「い、維舟の言霊に会いました」

「文芸部の部長か。それは去来の宿り手から聞いた。他には?」

「あ、ありません」

「お、おい、ソノさん、こんな所で瞳術を……」


 先輩の言葉にふっと我に返ると、いつものソノさんがそこに居た。笑顔でうんうんと頷いている。


「さあ、今日はこれでお開きにしましょう。外泊となると色々準備も大変だしね。リクちゃんは自転車だっけ。遅くなっちゃったけど、お家の人に叱られたりしない?」

「平気ですよ。ウチは放任主義ですからね。そこで湿っぽい顔をしているお坊ちゃんとは、育てられ方が違うんです」


 この毒舌はいつものリクである。もっとも僕はその言葉に、腹立たしさよりは頼もしさを感じていた。僕が普段と違う目で見ているのに気づいたのか、お決まりの別れ際の「ふん」は、少々毒が抜けているような気がした。


 ソノさんとリクとは店の前で別れ、先輩と二人で家路を歩きながら、僕は余りにも濃すぎた今日一日の出来事を思い返した。コトの怒り、モリの涙、杜国の想い、蕪村さんの正体……多分、これはまだ始まりなのだろう。蕪村さんが言ったように、これからも心を掻き乱される出来事が次々に起こるに違いない。でも今の僕ならきっと乗り越えられる。六人の仲間を得た今の僕なら、きっと……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る