桜の木の下の再会


「ほう」

 杜国の表情が変わった。目を細め、疑うようにショウを見詰める。

「宿り手が言霊を捨てるとは信じがたい申し出ですね」

「本気だ、信じてくれ」

「では、その道服を脱いでください。ならばその言葉、信じましょう」


 ショウは言われるままに、袈裟懸けにした風呂敷包みを解いて地に捨てると、道服に手を掛けた。コトが叫ぶ。


「ダメ、ショウ君、脱いじゃいけない」


 ショウは耳を貸さなかった。コトを助けるにはこれ以外の方法はないのだ。道服を脱ぎ捨てた白小袖姿のショウを見て、杜国は感心したような声を出した。


「ほほう、どうやら本気のようですね。わかりました。この娘には手を出しません」


 杜国はコトの体を勢いよく突き飛ばすと、ショウに向かって突進した。羽を持った右手が淡い光を発する。ショウは我が眼を疑った。


「それは、繋離詠!」

「いかにも。言霊を奪う前にショウ殿のお心、変えさせていただく」


 ショウは両手を組んだ。すかさず杜国は左手を伸ばし詞を発した。


「無季!」

「くっ」


 季の詞を封じられたショウの眼前に杜国が迫る。もはやこれまでかと思われた時、耳をつんざく大声で季の詞が響き渡った。


「山笑う!」


 吟詠境の大地が揺れた。足元をすくわれ尻餅をついたショウと杜国の間の地面が、見る見るうちに盛り上がると、それは二十尺近い小山となって二人の間に立ち塞がった。その頂に立つのは其角だ。


「道服を着られよ、ショウ殿」


 其角の声に、ショウは地に脱ぎ捨てた道服を身に着け、風呂敷包みを手に取って元通りに袈裟懸けに括り付けた。


「これは其角殿、噂通り豪放な詞を詠まれますな」


 突然現れた其角に驚く様子もなく、杜国は涼しい顔をしてゆるゆると立ち上がった。その杜国を鬼の様な形相で睨みつける其角。


「我らが宗匠に禁詠を使おうとするとは、血迷ったか、杜国」

「おやおや何を言われるのですか。私は既に蕉門ではありません。芭蕉翁といえども、今の私にとっては一介の俳諧師にすぎません」

「なるほど。ならばわしもお主にとっては一介の俳諧師にすぎぬのだな」


 其角は身構えた。杜国も其角の力は十分心得ている。すぐには詞を詠まず相手の出方を伺う。二人の間に走る緊張。が、その張り詰めた空気を緩めるように穏やかな声が聞こえてきた。


「挙句を詠んでくださらぬか、杜国殿」

 いつの間にか去来がコトの体を支えて、杜国の後方に離れて立っていた。コトは自分のハンカチで首の傷を押さえている。

「いかにお主が実力者といえど、其角、去来を敵に回しては勝ち目はなかろう。よき潮時とは思わぬか」


 去来の口調は優しいが、その厳しい眼光からは怒りを抑えているのがありありとわかる。二人に挟まれて窮地に立つ杜国、それでもその顔からは大胆不敵な笑みは消えない。


「去来殿のお申し出、有難く承りました。なれど、従えませぬ」

「なんと、我らと遣り合うおつもりか」

「是非もないこと」


 二人のやり取りを聞いていた其角が山の上からもどかし気に叫んだ。


「去来殿、もはや話し合いは無用。挙句を詠まぬなら奴の言霊の力を奪い尽くして、この吟詠境を閉じるのみ」


 去来は自分の心を決めかねていた。たった今ここに来た去来にわかるのは、杜国がショウに繋離詠を使おうとした、それだけだ。その経緯を聞くこともなく杜国の言霊を消し去るのは性急すぎる。加えて杜国は蕉門のひとり、しかも生前、正式に破門を言い渡されたわけではないのだ。本来なら手を握り合いこそすれ、いがみ合う間柄ではない。


「ぴぃー!」


 鳴り響く甲高い音が去来の思考を中断した。見れば杜国は口に指を当てている。


「しまった、鷹笛か」


 気づいた時には鷹は去来の目の前にいた。ショウの時と同じく額を蹴ると再び空高く舞い上がった。仰向けに地面に倒れる去来とコト。


「去来殿、既に戦いは始まっておりますよ」


 この杜国の言葉は山の上の其角の怒りに火をつけた。


「不意討ちとは卑怯なり。ショウ殿、山から離れられよ」

 これまでに溜まった怒りを爆発させる如く、其角は季の詞を発した。

「山眠る!」


 再び吟詠境の大地が揺れた。と、其角の足元の山が地響きを立てて崩れ始めた。驚いて山裾から逃れようとするショウと杜国。その二人を崩落した土塊が襲う。其角の意思に従って、土塊のほとんどは杜国の頭上へ落ちていくが、山の反対側に居るショウの頭上にも土塊は襲い掛かる。ショウは走りながら両手を合わせ季の詞を発した。


「初蝶!」


 ショウの周りを無数の小灰しじみ蝶が舞い始めた。その蝶に当たった土塊は、瞬時に蝶と共に消滅していく。舞い飛ぶ小灰蝶に守られて十間程走ったところで、ようやく地響きは止み、山の崩落は終わった。

 もうもうと立ちのぼる土煙の中から其角が姿を現した。崩落する山の頂上に居たにもかかわらず、余程この業を使い慣れているのだろう、その身には傷一つ負っていない。うず高く積み重なった土塊を眺めながら、其角は忌々しげに舌打ちをした。


「杜国め、生き埋めになる寸前に季の詞を発しおったか。さしずめ雪洞でも作って中で震えておるのだろうな」

「其角殿、もう少しお手柔らかにできぬのか。危うくショウ殿が巻き込まれるところでしたぞ」


 コトと共にこちらに歩み寄りながら自分をたしなめる去来に、其角は不機嫌な顔をした。


「詠む前に離れよと申しましたぞ。それにあの通り無事なのだからよいではないか」


 ショウもまた三人に駆け寄った。その身を取り巻いていた小灰蝶は既に消えている。去来の額の傷を拭いていたコトは、今度は同じハンカチでショウの額の血を拭った。幸い傷は小さく血も止まっているので、大事無いようだ。四人が互いの無事を確認したところで其角が尋ねた。


「時にショウ殿、佐保はどうされた。まだ詠んではおられぬのか?」


 ショウは言い難そうに顔を伏せて、事の成り行きを簡単に説明した。話の途中、佐保姫の最後の笑顔が脳裏をよぎり、ショウの声は思わず震えた。


「ごめんなさい、其角さん。せっかく譲ってもらった佐保姫をこんな目に遭わせてしまって」


 それまで顔をしかめてショウの話を聞いていた其角は、この言葉を聞いて、まるで己を戒めるかの様に首を振った。


「いや、ショウ殿ひとりのせいではない。徳川の世が終わってから、言霊との争いに佐保を使ったことは、ただの一度もなかったのだ。いつも酒の酌ばかりさせていたからな。いかに女神とて百年以上も遊んでいれば、戦いの勘を忘れてしまうのも無理はない」

「お気になされるな、ショウ殿」


 いつになく明るい声の去来に、ショウは自分を励まそうとする去来の気遣いを感じた。


「佐保姫たち女神は我らの想像も及ばない卓越した存在。間もなく立夏とはいえ、春の気配はまだそこかしこに漂っております。やがて力を回復し、忘れた頃に話し掛けてこられるかも知れませぬぞ。元気をお出しなさい」


 去来はそう言うと右の手の平を大きく広げて、勢いよくショウの背中を叩いた。現し世の先輩と寸分たがわぬ去来の仕草に、ショウは思わず噴き出しそうになった。ショウに元気が戻ったところで、其角の顔が再び険しくなる。


「ところで、去来殿、杜国をどうするお積もりか。今は埋っていても、やがて季の詞を発して出て来よう。こうなったら、奴は意地でも挙句は詠むまい。このままではこの吟詠境は閉じぬぞ」

「うむ。だが、わしは杜国殿とは争いたくない。できれば挙句を詠んで欲しいのだが、それができぬとあらば」

 去来はショウに顔を向けた。いきなりこちらを見られてショウはドキリとした。

「封じてくださらぬか、ショウ殿」

「封じる? 僕が」

「左様。発句を詠んだ言霊が吟詠境から居なくなれば、挙句を詠まずとも吟詠境は閉じるのです。力を奪わずに言霊を消すには封じるしかありませぬ」

「待たれよ、去来殿。確かに封印詠は芭蕉翁だけにしかできぬ業なれど、今のショウ殿の力では到底無理であろう。あの業は力を使いすぎる」

「それにはわしも同感じゃ。宿り手から追い出し、元の言葉へ封じ込めるのは無理であろうな」

「それがわかっているのなら、何故、ショウ殿に封じろなどと?」

「宿り手から追い出すのは無理でも、宿り手の中に封じるなら可能かも知れぬ」

「おおっ」

 其角は感嘆の声を上げると、己の頭をぺしりと叩いた。

「そんな手を思いつかれるとは、さすがは去来殿」

「世辞はいい、其角殿に言われると返って気分が悪くなる。さて、そうと決まれば、ショウ殿、その風呂敷包みを解いてくだされ」

「風呂敷を?」

「許六殿より授かった短冊を使うのです。それは芭蕉翁の言霊の片鱗、ショウ殿の発する詞に大きな力を与えてくれるはず。更には、短冊に触れる者の力も利用できます。されば、去来、其角もご助力できましょう」

「待って」

 去来の隣で大人しくしていたコトが声を上げた。

「許六は言っていたわ。短冊と矢立ては一度使えばなくなるから、いざという時のために大切にしろって。今、ここで使ってしまっていいの。宗鑑に出会うまで大切に取って置いた方がいいんじゃないの」

「でも、それ以外に方法が……」

 困惑するショウに、コトは覚悟を決めたような真っ直ぐな瞳を向けた。

「もし、私に繋離詠を使うことで、杜国が満足して挙句を詠んでくれるのなら、私……」

「コトさん!」


 ショウはコトの言葉をさえぎった。杜国に挙句を詠ませる為に、コトに繋離詠を掛けさせる、それこそ愚策中の愚策である。ショウは袈裟懸けにした風呂敷包みを解くと、コトの前にそれを掲げて、強い口調で言った。


「この短冊も矢立ても芭蕉が作り出した物。今使ってしまっても、芭蕉が吟詠境に姿を現せば、また作り出すことができる。だけど、繋離詠は一度掛けられてしまえば、もう後戻りはできなくなる。どちらが大切か、考えるまでもないよ」

「……わかったわ」


 それきりコトは口を閉ざしてしまった。安堵の吐息を漏らすショウ。自己犠牲をも厭わないコトの想いが素直に嬉しかった。「主様には勿体無い、情が深きおなご」という佐保姫の言葉を、ショウはようやく理解できた気がした。


「話は済みましたかな」 


 二人を優しい眼差しで見詰めていた去来はそう言うと、ショウの手から風呂敷包みを受け取り、中から短冊と矢立てを取り出した。 


「では、ショウ殿、宗鑑と戦われた夢を思い出してくだされ。そこで宗鑑を封じた時に芭蕉翁が詠まれた発句をこの短冊に書くのです。封じる場所は……うむ、あの屋敷がいい。あそこに吟詠境とは別の空間を作り、杜国を封じましょう」


 去来が指差したのは杜国が姿を現した粗末な屋敷である。ショウは丁寧に畳まれた風呂敷と共に、矢立と短冊を受け取ると「わかりました」と返事をした。その時、崩れた山の一角が微かに動いた。


「むっ!」

「来るぞ」


 両手を組む其角と去来。ショウもまた、かばう様にコトの前に立つと、気を引き締めて身構えた。


「地吹雪!」


 杜国の季の詞が響き渡ったかと思うと、動いた山の一角の土が凍りつきでもしたかの如く白い霜に覆われた。が、それは一瞬にすぎなかった。白くなった山土は一気に炸裂し、細かい破片となって四方八方へ吹き飛び始めた。すぐさま去来が季の詞を発す。


「山茶花!」


 四人の前に山茶花を植えた生垣が現れた。その陰に身を潜めて、四人は飛来する無数の土塊をやり過ごす。


「ショウ殿、コト殿はお任せしました。杜国に奪われぬよう守ってくだされ」

「はい」


 ショウは矢立の筆を手に取ると、夢の中で宗鑑を封じた発句、野ざらし紀行の第一句を短冊に書きつけた。書き終わった途端、矢立ては跡形もなく消えてしまった。


「其角殿、手荒な真似にもほどがありますよ」


 ようやく土の飛散が収まると、山の一角から杜国が姿を現した。待ちかねたと言わんばかりに、其角が生垣の陰から身を踊り出し両手を組んだ。


「杜国、覚悟せよ!」


 だが其角が発する季の詞より杜国の業が先んじた。


「無季!」

「かっ、詞など使わずとも、お主如き、この体で十分」


 其角は怯むことなく猛然と突進すると、そのまま杜国に体当たりした。もつれあって地面に転がる二人。そこまで見届けた去来は静かに立ち上がり発句を詠んだ。


「秋風や白木の弓に弦張らん」


 一陣の涼やかな風が去来に吹き付け、旋風となってその体を取り巻いた。と、見る間に去来の装束は消え、藍筒袖の弓胴着に臙脂えんじの小袴、右手に弓懸けを嵌め、大弓を持った左腕には射籠手を当てた射手の姿へと変化した。

 去来は背筋を伸ばして腰のえびらから矢を取り出した。弓にあてがい、構えて、弦を一杯に引き絞ると、己が力を矢に込めるが如く季の詞を発した。


「秋風!」


 詞と共に放たれた矢は突風に姿を変えて、地に転がる杜国と其角を舞き上げ、そのまま屋敷の戸口へと吹き当てた。大きな音がして外れた引き戸と共に、屋敷の中へと消える二人。

 去来が生垣から飛び出した。ショウとコトもそれに続く。屋敷の中から其角がふらつく足取りで出てくるのが見えた。


「去来殿、お手柔らかに頼みますぞ。いくらわしでも体が持たぬ」

「すまん、すまん、して杜国は」

「頭を一発ぶん殴ってやったわい。またすぐに気がつくとは思うがな」


 去来は戸口の前で立ち止まり季の詞を発す。


「北窓塞ぐ!」


 引き戸の外れた戸口に大きな戸板が現れ、出入り口をぴったりと塞いだ。少し離れて去来が矢を数本射掛け、戸板を屋敷に固定する。


「ショウ殿、短冊を戸板に」


 発句を書きつけた短冊をショウが戸板に当てると、去来は右手の弓懸けを脱ぎ捨て、その短冊に手を当てた。去来に続いて其角、そして、コトも短冊に手を当てようとした時、去来の激しい叱責の声が飛んだ。


「コト殿はお控えくだされ。現し身が詠まれておるのですぞ。それでなくとも既に怪我を負っている身。これ以上、言霊の力を使っては生身の体に障ります」


 コトは短冊に伸ばした手を力なく下ろした。現し身が詠まれた今の自分にできるのは、ただ三人の俳諧師を見守ることだけなのだ。三人から離れてひとり佇むコトの姿は、ショウにはひどく寂しく見えた。


「各々方、短冊に言霊の力を込めてくだされ。この短冊が戸板と同化せねば封はできぬ」


 去来の檄に鼓舞されて、ショウと其角は短冊に当てた己の手に意識を集中した。短冊が薄っすらと光り出す。しかし、それ以上は何も起こらない。屋敷の中から「どーん」と大きな音がした。押さえた戸板に衝撃が走る。


「杜国め、もう眼を覚ましおったか。どんな季の詞を詠んだのじゃ」


 三人は更に意識を短冊へ集中させる、だが、もはや限界なのだろう、光を発したままの短冊には何の変化もない。「どーん、どーん」と音は激しさを増して、杜国の内側からの攻撃が続く。


「いかん、このままでは戸板が外れる」


 去来は覚悟を決めた。封じるための力が足りないのなら、より大きな力を短冊に加えるしかない。


「宿り手にはすまぬが、力を出させてもらうか」

「そうじゃな、わしも出そう」


 ショウは感じた。其角と去来の気配が明らかに変わった。見ると、今までライのものだった去来の顔と頭髪が、見たこともない年老いた男のものになっている。そうか、これが宿り手の共感を越えた言霊の力の発動……

 見る間に短冊の発光が強くなった。一瞬強く輝くと、短冊は戸板に貼り付き、あたかもそこに直接書かれたかのように発句の文字だけが残った。


「ショウ殿、発句を!」


 去来が叫ぶ。ショウは発句を詠んだ。


「野ざらしを心に風のしむ身かな」


 三人の背後に巨大な旅装束姿の髑髏が浮かび上がった。その時、一際大きな衝撃が戸板に加えられた。


 どーん!


 去来が射掛けた矢を刺したまま戸板が外れた。その内側には杜国が立っている。


「私を封じようとは、よくも……」


 だが、今度は杜国よりも三人の言葉の方が早かった。三人は戸板を押さえたまま声を合わせて季の詞を発した。


「身にしむ!」


 巨大な旅装束姿の男は三人の背中を押すように杜国に襲い掛かった。渾身の力で戸板を押し戻し、屋敷の出入り口を完全に塞ぐと、周囲は眩しい光に包まれた。その光の中へ屋敷も吟詠境も消えていく。何もかもが消え去る直前、ショウは悲鳴に似た声を聞いた気がした。しかしそれが杜国のものかどうかはわからなかった。


 * * *


 目を開けると近くに誰かが立っているのに気がついた。座ったまま見上げるとモリだった。両手を口に当て体を震わせている。僕は周囲を見回した。すぐ近くにコトが、そして少し離れて先輩とソノさんが芝生の上に倒れている。


「わ、わたし、私は何てことを……」


 涙声でつぶやくモリ。無理もない、初めての吟詠境で僕やコトを敵に回して戦ったのだから。言霊の仕出かした出来事でも、相当ショックだったに違いない。何か言葉を掛けてあげよう……僕は重い体に力を入れて、立ち上がろうとした。が、それよりも前にモリは足元の鞄を拾うと「ごめんなさい」と頭を下げて走り出した。


「モリさん!」


 慌てて引き止めようとした僕の言葉を背に、モリは校門目指して走って行く。追いかけるべきか、いや、モリよりも倒れている三人の方が気に掛かる。

 僕はすぐそばに倒れているコトの後頭部に手を当てて、半身を起こした。その首には虫に刺されたような赤い腫れがある。杜国の刺した羽の傷が生身の体に反映されたものだろう。改めて現し身の業の恐ろしさを感じた。


「う、うーん」


 コトが呻きながら目を開けた。


「コトさん、大丈夫」

 声を掛けるとコトは黙って頷き、首の腫れに手をやった。

「痛む?」

「少し」


 手の平で首を押さえるコトの顔はぼんやりとしている。まるで、まだ夢の続きでも見ているようだ。


「ソノさんやライさんは?」

「まだ倒れている。でも大丈夫だと思うよ」

「そう」


 コトのその声には幾分の安堵の響きが感じられた。が、すぐに何かに気づいた様に大きな声を上げた。


「モリさん、モリさんはどうしたの?」

「それが、走って行ってしまって」

「どうして追いかけないの?」

「だってみんなが心配で」

「バカ!」


 言葉と同時に僕の左頬に軽い衝撃が加えられた。コトの右手が叩きつけられたのだ。


「まだわからないの。あの子を救えるのはショウ君だけなのよ。早く追いかけなさい!」

「う、うん、わかった」


 コトの剣幕に気後れした僕は、慌てて立ち上がると、鞄も持たずに校門目指して走り出した。左頬からはじんわりとした痛みがやってくる。けれどもコトの無礼な仕打ちも、今の僕にはさして不愉快ではなかった。

 吟詠境では元気がなかったコト。今まで見たこともない程、打ちひしがれた様子を見せていたコト。でも現実の世界ではやっぱりコトはコトだ。男子を引っ叩くくらいの元気があるなら大丈夫、そう思うと頬の痛さもむしろ嬉しいくらいだった。僕は校門から外に出ると、更にスピードを上げて駅を目指してひた走った。


 走り去って行くショウの後ろ姿を眺めながら、コトは頬を叩いた自分の右手を左手に包み込んだ。少しやりすぎたかな、そんな気がしないでもなかった。そんなコトの背後から声が掛かった。


「相変わらずキツイわね、コトちゃんは」

「ソノさん、気づいていたのね」


 コトは立ち上がると、地面に伏したままのソノの側に身を寄せた。ソノは精根尽き果てたと言わんばかりに、寝そべったままコトを見上げた。


「そうよ、コトちゃんが眼を覚ます、ずっと前からね。でもね、体がだるくて起きる気になれないのよ。其角が力を使いすぎたせいね」

「俺もだ」

 ライも体を横たえたまま声を出す。

「なんだか素振りを千回くらいやったような気分だよ。このまま飯食って眠りたい」


 情けない格好の二人に呆れ顔をするコト。だがこの二人の姿は、言霊が本来の力を出した時、宿り手にどれだけの負担を強いるかを物語るものでもあった。コトは今更ながらに言霊の持つ危険性を認識させられた気持ちだった。


「ね、ショウ君、ひとりで行かせて大丈夫なの」


 心配顔で尋ねるソノ。コトは芝生の上に置かれたままのショウの鞄を拾い上げると、正座した自分の膝の上に載せた。


「今のショウ君なら、きっと大丈夫」


 そう返事をしたコトの顔は明るかった。


 僕は駅に向かって走っていた。モリはこのまま帰路に着く、そう考えてのことである。それほど俊足ではないが、モリとてずっと走り通せはしないだろうから、どこかで追いつけるはず。そう信じて走り続ける僕の目に、モリの姿は全く見えて来ない。とうとう駅に着いてしまった。

 まさか、もう電車に乗ってしまったのだろうか。戸惑う僕の脳裏に傘を差して二人で駅に向かったあの日の光景が蘇った。そうか、もしかしたら……


 * * *


 モリは桜の木の下に座って目の前を流れる川を眺めていた。ひどく乱れた心を落ち着かせようとしても、様々な想いが次々に湧いてくる。ショウには既に好きな子がいた、それはもう仕方のないことだ、そう思い込もうとしても、悲しみに打ちのめされた心は素直に従ってはくれなかった。

 もし、あのまま引っ越さなかったら、もし、ショウと一緒に同じ小学校、同じ中学校で学んでいたら、もし、桜祭りで見掛けた時に声を掛けていたら、そんな考えが涙と共に湧き上がってきて、モリの心はなかなか静まらなかった。

 なにより辛かったのは杜国によって自分の本心を見せつけられたことだった。口ではどんなに綺麗事を言っても、ショウを独り占めにしたいと思う気持ちが間違いなく自分の中にある。力尽くでコトからショウを奪おうとする杜国の姿は、紛れもない自分自身の投影であった。そう思うと、モリは自分さえも嫌いになっていく気がした。


「どうかされたのかな」

 誰かが声を掛けてきた。杖をついた一人の老人だった。

「おや、泣いておるのかね」

 穏やかな顔の老人はモリの隣に腰を下ろした。モリは涙をぬぐうと黙って川を眺め続けた。

「泣きたい時は思い切り泣きなされ。年を取ると泣きたくても泣けなくなるでのう」

 優しい言葉を掛けられて、モリは老人の顔を見た。老人の温和な目が鋭く光った気がした。

「ほう、お前さん、言霊を持っておるのか」

「え、どうして」


 驚くモリの瞳をじっと見詰める老人。


「杜国か、しかも封じられている。なるほど、さしずめ報われぬ想いに身を焦がしている、といったところじゃろうかな」

 あまりにも的確に自分の事を言い当てられて、驚きよりも不思議さを感じ始めたモリに、老人はにっこりと笑い掛けた。

「言霊を持っているのならお前さんも少しは俳句を知っているのじゃろう。俳句には不易流行ふえきりゅうこうという言葉がある。不易、変わらないもの。流行、変わり行くもの。相反する意味を持つこの二つは切っても切れぬ仲なのじゃ。どういう事かわかるかな」

 モリは首を振る。老人は話を続ける。

「お前さんに好きな人が居たとしよう。その人の笑顔、その人の言葉、その人の仕草は毎日見ても飽きることはないじゃろう。そしていつも新鮮な気持ちを抱き続けられる、なぜだかわかるかね。お前さんがその人を好きという想いを持ち続けているからじゃ。その想いが変わらないからこそ、お前さんは新しい感動にいつも出会える、そうではないかな」


「おじいさん……」


 不思議だった。初めて会った人なのに、どうしてこうも自分の心がわかるのか、モリには不思議でならなかった。


「この木は桜じゃな。わしも桜は好きで毎年下手な句を詠んでおる。これ以上、桜の句は詠めぬと思っても、次の年に満開の桜を見るとまた詠んでしまう。もちろん、そんな句を詠んでも桜は褒めてくれたりはせぬし、わしを好きになってもくれぬ。言わば、桜に対して片思いの恋文を書き続けているようなものじゃ。けれども、わしはそれでもいいのじゃ。毎年花を咲かせて見せてくれる、ただそれだけでわしは満足し、ずっと桜を好きでいられる。この想いが変わらぬ限り、いつも新しい桜を詠む事ができる」


 老人の言葉を聞いている内に、モリは自分の中の煩悶が取るに足りないちっぽけなものに思えてきた。そう、少なくともショウは自分を嫌っているわけではないのだ。それだけで十分なのではないか。


「のう、お前さんよ。人の心は移ろい易いもの。お前さんが今抱いている想いも、やがて色褪せてしまうかも知れぬ。それはそれで良い。もしかしたら新しい想いを抱くようになるかも知れぬ、それもそれで良い。じゃが、今抱いている想いを自ら捨てる必要はないじゃろう。そんな想いを抱けた事を大切に思いなされ。そんな想いを抱けた自分を好きになってあげなされ。想いは抱こうとして抱けるものではないからのう」

「おじいさん、ありがとう」


 モリは鞄を持って立ち上がった。その目にはもう涙はない。


「少しは元気が出たかな」

「はい、おじいさんのおかげ、あっ……」

 モリの言葉が途切れた。その視線の先に居るのは、息を切らして立っているショウだった。


 * * *


 やっぱりここだったんだ。ようやくモリに会えた僕は、よかったと思いながらも、その隣に立つ老人に目が釘付けになった。間違いない、俳句について、そして言霊について教えてくれたあの老人だ。また戻って来てくれたのだ。

 僕はモリよりも先に老人に声を掛けようとした。しかし老人は、わしに構うなとでも言わんばかりに目配せしてモリに目を遣る。その胸中を察した僕は、ひとまず老人のことは忘れ、モリに近づき頭を下げた。


「モリさん、今まで黙っていてごめん。コトさんの言った事は本当なんだ。ただ、今まで言えなかったのは……その、告白したのはいいけど、返事を貰えなかったし……と言うか、返事の代わりに思いっ切り悪口を浴びせられたような感じだったので、僕の中では忘れたい出来事のひとつになっていたからなんだ。でも、僕が言わなかった事でモリさんが傷ついたのなら、やっぱり悪いのは僕だよね。どうすれば赦してもらえるかな。できるだけの事はするよ」


 コトに告白した事をモリに告白する……これでコトだけでなくモリにも自分の弱みを握られてしまうことになる。けれどもモリが受けた辛さに比べれば、弱みを握られることくらい何でもない。僕は深々と頭を下げたまま、モリの返事を待った。


「変わらないね、ショウ君は」

「えっ?」


 予想外に明るいモリの声。顔を上げると、まるでテレビでお笑い芸人のコントを楽しんででもいるかのように、愉快な顔をして僕を見ている。


「子供の頃も、みんなで悪戯をして怒られた時は、真っ先に謝るのはショウ君だったよね。あの時と全然変わらないよ」

「そ、そうだっけ」

「うふふ」


 いきなり昔話をされてドギマギする僕がよほど可笑しかったのか、モリは声を上げて笑った。こんな笑い方ができるのなら、モリもコトと同じく、吟詠境で受けたショックから立ち直りつつあると考えていいだろう。


「そうだ、ショウ君、今、何でもしてくれるって言ったよね」

「う、うん、僕のできる範囲内で」

「それなら、これからも一緒にお昼ご飯を食べて。四人一緒に」


 モリの申し出に僕は拍子抜けしてしまった。


「そんな事でいいの?」

「はい、お願いします」


 今度はモリが頭を下げた。と、何かに気づいたようにポケットから携帯電話を取り出した。しばらく画面を眺め、鞄を持ったままキーを叩き、元通りに折り畳んでポケットにしまう。


「コトさんからメールが来てました。これから駅前のお店に集合だって。ソノさんがご馳走してくれるみたいよ。あ、それと、『追伸:ショウ君は必ず連れてくるように』だって」

「そ、そうなんだ」


 嫌な予感しかしない。僕がモリについて黙っていた理由を、ソノさんが厳しく問い詰めてくるのは目に見えている。コトにしても当然の如く毒舌を浴びせてくるだろう。どうやら先程まで居た吟詠境に匹敵するくらい、僕にとっては辛い時間になりそうだ。 


「じゃ、さっそく行きましょう」


 すっかり以前の明るさを取り戻して僕を誘うモリ。けれども僕はすぐには応じられなかった。モリの横に立つ老人、あの老人をそのままにしてこの場を立ち去ることはできない。


「ごめん、僕は後で行くよ。モリさん、先に行っていて」


 それとなく老人を気に掛けている僕に気づいたのだろう。モリはそれ以上、誘いの言葉を口にしなかった。


「うん、わかった。でも急いで来てね。そうだ、『早く来ないとショウ君の鞄の中身を、ソノさんが勝手に覗いちゃうよ』とも書いてあったよ。急がないと、どうなっちゃうか知らないよ」

「え、いや、別に鞄の中身なんて」


 見られて困るものといえば、ノートの落書きくらいか。それも他愛ないものだからどうということもない。ソノさんも相変わらず変な趣味があるもんだ。


「じゃ、ショウ君、私、行くね」


 モリは僕に待ち合わせの店の名を告げると、駅に向かって走り出した。小さくなっていく後ろ姿を眺めながら「すっかり元気になったようじゃな」と老人がつぶやく。


「あの子、幼馴染なんです。小さい頃、ここでよく遊びました」


 僕は老人の側へ寄ってその顔を見た。、最後に会った時と変わらない、優しさの中に威厳がある眼差し……間違いなくあの老人だ。また会えた喜びに胸が躍り、僕は老人の手を両手で握った。


「お久し振りです。戻って来られたのですね」

「うむ。久し振りじゃな。それにしても杜国を封じるとは、お前さんも随分と力をつけたのではないかな」

「其角と去来のおかげですよ。僕一人じゃとても無理です」

「ほう、去来を見つけたか、それは好都合じゃ」


 老人は懐に手を入れると、小さく折り畳んだ紙を取り出し、僕に手渡した。


「去来に会いたがっている言霊を見つけてのう。ここに戻ったのはそれを伝えるためじゃ」


 僕は紙を広げた。書かれているのは氏名と、北陸にある都市の住所。父つぁんの実家に近い場所だった。


「用があるのは去来とはいえ、芭蕉に無関係でもあるまい。いつでもいいから行ってみなされ」


 老人は背を向けて歩き出した。用が済んだら立ち去ろうとする、この素っ気無さも以前とまるで変わらない。しかし、久し振りの再会で、これだけの会話では、幾らなんでも少なすぎる。それに一番知りたいことをまだ訊いていない。僕は慌てて声を掛けた。


「ま、待ってください、あの、あなたは蕪村の宿り手なのでしょう」


 老人の足が止まってこちらを向く。


「そうじゃな、確かに蕪村じゃ。しかし宿り手ではない」

「では、昔、宿り手だったのですか」


 老人は両手を杖に添えると、しっかりと僕を見据えた。


「以前、わしがお前さんに話したことを覚えているかな。残りの命を全て捧げ、言霊を言葉に宿らせる、宿り身の業。人の生命力と言霊の力は本来同じもの、それ故、その逆もまた可なのじゃ。言霊の力を捧げ、己の生命力とすることもな」

「逆、それじゃ、まさか」

「そう、わしは言霊の力を命に変えて生きておる。わしは言霊の宿り手ではない。言霊の俳諧師、蕪村本人じゃ」


 息が止まるかと思った。この老人は嘘をつくような人ではない。それがわかっているだけに、老人の口から出た言葉の意味は、僕が受け止めるには余りにも重く感じられた。

 蕪村が生まれたのは三百年前、老人の言葉が本当なら、それだけの間、生きてきたことになる。もはや人としての常識を超えている。


「驚いたか、無理もないのう。言霊の業にはかくも恐ろしき一面もある。心して扱うのじゃな」

 驚きのあまり身動きもできない僕の肩を叩き、蕪村さんは穏やかな声で言った。

「言霊を持つお前さんには、これからも辛い出来事が降りかかるやも知れぬ。だが、忘れるでないぞ、お前さんは一人ではない。助けてくれる仲間が必ず居る。心に留めておきなされ」


 そして蕪村さんは背を向けて去って行った。その後ろ姿が見えなくなっても、僕の驚きが収まることはなかった。

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