涙の笑顔


「こ、これは……」


 ライは二人を見下ろして驚きのあまり絶句した。一人は芝生に胡坐をかいて座っているショウ、もう一人は父つぁんがモリと言っていた女子で正座をしている。どちらも目を閉じ頭を垂れ、眠っているかのようにビクリともしない。


「間違いない、吟詠境が開かれている」


 ランニングの途中で二人を見掛けたライは、妙な胸騒ぎがいつまで経っても収まらないので、別の二年生に新入部員を頼み、二人が向かった体育館の辺りまで来てみたのだった。

 ライの頭は混乱していた。言霊を持つ生徒が居たことだけでなく、その生徒が自分の幼馴染だったことは、より一層の驚きをライに与えていた。モリを間近で見たライはそれが誰かすぐにわかった。後ろで一つに束ねた頭髪や、左目尻のすぐ下にある泣きぼくろは、ライの記憶にある幼い頃の彼女と同じだった。


「どうしてショウは言わなかったんだ、言霊も、モリのことも」


 だが、今はそれよりももっと重要なことがある。ショウが杜国と一緒に吟詠境に行っていることだ。去来も杜国の恐ろしさはよくわかっていた。佐保姫が居るとはいえ、なぜ寿貞尼を連れずに吟詠境に行くようなことをしたのだろう。


「探ってみるか」


 ライの目が去来の目に変わった。二人の横に座り、目を閉じる。吟詠境の景色が見えてくる。漂う言霊の気配は杜国のもの、では開いたのは杜国か。発句は? 海、岬、鷹、そうか芭蕉の発句か。ライは目を開けた。どうする、自分もこのまま吟詠境に入るか、いや、杜国が開いたのなら彼が挙句を詠むまで出られぬ。迂闊に入るのは危険だ。


「コトさんなら何か知っているかも」


 父つぁんは四人で昼飯を食べていると言っていた。きっと事情を知っているに違いない。ライは立ち上がると校舎に向かった。剣道着姿の時は内でも外でも裸足である。そのまま階段を上がり、一年生の教室へ行く。コトの姿は無い。今度は図書室へ向かう。中へ入ると閲覧室の隅でぼんやり外を眺めているコトを見つけた。ライは息を乱したまま話し掛けた。


「コトさん、ショウが吟詠境に居る。杜国も一緒だ」

「そう」


 まるで関係ないとでも言わんばかりのコトの態度に、ライは苛立ちを隠せない。


「そうって、どうして言霊のことを教えてくれなかったんだ。相手は杜国なんだぜ」

「ごめんなさい。私も今日のお昼に知ったばかりなのよ。それにショウ君が言わないのに私が言うのも変でしょ」

「そうか、それなら仕方ないか。じゃあ、二人だけで吟詠境に行っているのはどういう事なんだい」

「それはショウ君に聞いて。私にはわからないわ。でも、心配することないんじゃない。モリさんは向こうでもモリさんのままみたいだから」

「いや、それは違う」

 真剣味を帯びたライの声に、コトも少し真顔になる。

「吟詠境を開いたのは杜国だ、それも芭蕉の発句で。ショウは無理やり引き込まれた、そんな気がするんだ」

「何ですって!」


 いつも冷静なコトにしては大きな声だった。しかしそれも無理はなかった。今日の昼、モリの瞳を見た時に感じた言霊はショウのそれより遥かに小さいものだった、だから安全だと思ったのに……

 コトはそこまで考えてから、先程の準備室の出来事を思い出した。ショウへの想いを断ち切られたモリの姿、それは寿貞尼の記憶に残っている、芭蕉に疎遠にされ一人寂しくこの世を去ったと伝え聞く杜国の姿と同じだった。あの時、杜国とモリの報われない想いが共鳴し合ったとすれば……コトは立ち上がった。


「私も吟詠境に行くわ。ライさん、場所を教えて」

「お、おう。了解だ」


 ライは場所を教えるとコトと一緒に閲覧室を飛び出した。走ってはいけないことになっている廊下を二人は走る。


「そうだ、コトさん、今日はソノさんが来ているんじゃなかったっけ。今、どこにいるんだい?」


 ライの言葉にコトは走りながら携帯を取り出し、ソノを呼び出す。しかし冷たいメッセージが流れるだけだ。


「ダメだわ、繋がらない。やっぱりバッテリーが切れてるんだわ。ライさん、ごめんなさい。私もショウ君も都合が悪くて、ソノさんには帰ってもらったの。昨晩、電車で来るって言っていたから、今頃歩いて駅へ向かっているはずだわ。ライさん、悪いけど呼んで来てくれないかしら。一人でも多い方がいいでしょ。まだそれほど遠くには行ってないと思うわ」

「わかった。ダッシュで追いついてやるぜ。それはそうと、コトさん」

「何?」

「滋賀への旅行の時に言っていた、ショウを好きな女子って、あのモリのことなんだろ」


 コトは無言で頷く。


「だったら当たり前だよ。あの子、俺たちの幼馴染なんだ。小さい頃この町に住んでいて、よく一緒に遊んだもんだ。俺が小学生の頃に引越しちゃったけどな。俺の方だってあいつに色々聞きたいくらいだ」

「幼馴染……そう、だから」

「じゃあ、俺はひとっ走りしてくるよ、ショウのこと頼んだぜ」


 ライは猛然と廊下を走って行った。コトは一人で昇降口に向かいながら、自分の中にわだかまっていた何かが溶けていくのを感じた。ライの言葉を聞いて全てがわかったのだ。どうしてモリがショウの母親が亡くなったことを知っていたのか、どうしてショウがあれほどモリから遠ざかるのを拒否したのか。モリは自分とは別の意味でショウの親友だったのだ。


「ショウ君、あなたって大切な事はホントに何も話してくれないのね……」


 * * *


「佐保姫……」

 ショウは地に倒れた佐保姫を抱き起こした。その姿が全体的に薄くなっている。

「ごめん、佐保姫、僕のために」

「主様が謝る必要はない。言うたじゃろう、女神は詠み手の意思には与せぬ。これは女神としてのわらわの意地じゃ。あやつの思い通りになるのが悔しゅうてのう」


 悲しそうな瞳で自分を見詰めるショウの顔に佐保姫は手を伸ばし、その頬に手の平を当てた。


「そんな顔をするでない。わらわは女神じゃ、神が死ぬはずがなかろう。じゃが、この吟詠境で一度でも言霊の体を失えば、季の詞としての『佐保姫』は二度と詠めなくなる。奪われた言霊の力のために女神の力を使い過ぎてしもうたわ。主様にはすまぬが、次の春まで休ませて貰うぞ」


 ショウもまた佐保姫の頬に自分の手を当てた。一瞬、子供のような笑顔が浮かぶ。が、すぐに真顔になり、諌めるようにショウに言った。


「のう、主様よ。コトは諦めなされ」

「コトを?」

「杜国の芭蕉を慕う気持ちは、長い年月の内に、芭蕉の言霊と同化する望みへと変貌してしもうた。この望みが叶わね限り、あやつは吟詠境を閉じぬじゃろう。ひとつ可能性があるとすれば、あやつの宿り手への忠義の心じゃ。宿り手の想いが叶えられるなら、それで満足し挙句を詠むやもしれぬ」


 次第に薄れていく佐保姫の体の周囲に春霞が棚引き始めた。ショウは佐保姫を抱く両手に力を込めた。


「コトを諦めなされ。それがわらわやコトの言葉を蔑ろにした主様の報いじゃ……」


 そう言い残して佐保姫の体は包まれた春霞の中へと消えていった。ショウは抱く者がいなくなった自分の両手を呆然と眺めた。


「さすがは女神様でございますな。我が奪霊を浴びても姿を留めておいでとは」

 近づく杜国に気づいたショウは素早く立ち上がり両手を合わせた。

「おやおや、まだ遣り合うお積りですか。女神様も仰っていたでしょう。コト殿は諦めよ、と」


 ショウは両手を合わせたまま何も言えなかった。佐保姫でも敵わなかった相手に自分が勝てるはずがない。


「あのお言葉の通りです。我が宿り手の想いを叶えて頂ければ、すぐにでも挙句を詠んで差し上げましょう」


 ショウは合わせた両手を離した。佐保姫の言葉に従うしかない、今のショウにできるのはただそれだけだ。力なく佇むショウを見て、杜国は勝ち誇った顔をした。


「ショウ殿、道服を脱いでくださりますな」


 まるで何かに操られるように、ショウは袈裟掛けにした風呂敷包みの結び目を解いた。それを足元に置くと、今度は両手で道服を掴む。これを脱ぎさえすれば全てが終わる、この吟詠境も、コトへの想いも……何もかも捨て去ろうとでも言わんばかりに道服を脱ごうとしたショウの背後から、叱責にも似た声が響いた。


「我が宿り手を悲しませるお積もりか、ショウ殿!」


 振り向いたショウの眼に映ったのは寿貞尼。数珠を握り締め仁王立ちしたその姿からは、怒りを露にしたコトと同じ気迫が感じられた。寿貞尼はすぐさまショウの元へ駆け寄ると背後から両手を前に回した。


「ショウ殿、発句を」


 ショウは両手を寿貞尼の手に重ね、杜国を睨んで発句を詠んだ。


「伊良湖崎似るものもなし鷹の声」


 突然現れた寿貞尼に驚きもせず、杜国は腕を組んで眺めていた。寿貞尼は俳諧師ではない、ましてや佐保姫ほどの力もない。ここに来たからと言ってどうなるものでもなかろう……杜国は敢えて何もせずに二人の好きにさせていた。


「鷹の声!」


 ショウと寿貞尼が季の詞を叫んだ。遠く、鷹の声が聞こえる。だが、それは杜国にだけ聞こえるのだ。なるほどまやかしの声か、このような業で何をしようと言うのか、杜国は薄ら笑いを浮かべた。

 が、すぐにその笑いは消えた。鷹の声が次第に多く大きく聞こえ出したのだ。四方八方上からも下からも敵を威嚇する鷹の声が響いてくる。杜国は耳を押さえた。頭の中は鷹の声だけで満たされて、他の言葉は全て消えてしまったかのようだ。

 この業、これだけの力を持つ業を何故出せる、これはショウだけの力ではない、寿貞尼とは一体……鳴り響く鷹の声に思考を奪われながら、杜国はかろうじて季の詞を発した。


「も、虎落笛もがりぶえ


 寂しい笛の音に似た音が響き、杜国の意識の中に満ちていた鷹の声の喧騒を打ち消していく。ようやく正気を取り戻した杜国は、知らぬ間に自分が耳を塞いで地面にうずくまっているのに気づいた。苦笑いをしながら立ち上がると居丈高な態度で、


「これはお見苦しいところをお見せしました。さりとてショウ殿もご存知でしょう。発句と季の詞は一度しか使えぬが、詞の業は何度でも使えるのです。所詮、勝ち目はないのですよ」

 そう言い放ち、左手を伸ばして詞を発した。

「無季!」


 同時に右手を上げて季の詞を詠もうとした瞬間、寿貞尼も詞を発した。


「無季!」

「むっ」


 杜国の動きが止まった。右手は寿貞尼の束縛詠で季の詞は詠めぬ。無論、ショウと寿貞尼も何もできぬ。このままでは両者とも無為に言霊の力を消耗するだけだ。季の詞が詠めぬなら詞の業を使うか、だが、その考えを杜国はすぐに打ち消した。左手をこちらに向けて無季を発している寿貞尼の右手が懐に入れられているからだ。恐らく懐剣を忍ばせているに違いない。奪霊の発動には時間が掛かる。その間に飛び掛かかられて業の集中が乱され、無季の束縛が解ければ、ショウはすぐに季の詞を詠むだろう。佐保姫の時とは勝手が違うのだ。やはりこのままでは何もできぬ。

 杜国は左手の束縛詠を解いた。それを感じた寿貞尼も杜国に掛けていた自分の束縛を解いた。杜国は今一度、寿貞尼を見詰めた。俳諧師ではないのに何故詞の業を使える……杜国は寿貞尼の言霊の気配を読み取ろうとした。あの女の言霊、芭蕉翁と同じ……そうか。


「なるほど、寿貞尼殿はその道服と同じく、芭蕉翁の言霊の片鱗であられたのですか。これは心強いお味方が現れましたね、ショウ殿。ですが」

 杜国の眼が妖しく光った。

「それはまた弱点にもなりうるのですよ」


 杜国は指を口に当てて吹いた。甲高い音が響き渡ると、一羽の鷹がショウを目掛けて一直線に向かってくる。


「くっ、まだ鷹がいたのか」

「それは季の詞の鷹ではなく、この座を開いた時の鷹。いわば私の最後の切り札です」


 ショウは迷った。寿貞尼の力を使うには発句から詠まねばならない。でなければ季の詞を同時に詠めないからだ。だが、それでは時間が掛かりすぎる。一人で季の詞を詠むか、発句から詠むか、その迷いがショウの判断を遅らせた。

 ショウが口を開く間もなく鷹は襲い掛かり、蹴り上げるようにその鋭い爪をショウの額に打ち当てると、再び空高く舞い上がった。勢いで地に倒れるショウと寿貞尼。割れたショウの額からは血が流れている。


「ショウ殿、しっかりなさいませ」


 寿貞尼は身を起こすと横たわったままのショウの体を揺り動かした、と、背後から自分の名を呼ぶ声がする。


「寿貞尼殿」


 振り向くと、いつの間に側に来たのか杜国が立っていた。慌てて懐に入れた寿貞尼の右手首を、杜国は素早く掴む。その手には匕首が握られていた。


「思ったとおりですね。尼僧でありながらこのような物騒なモノを隠しておいでとは」


 杜国は手首を掴んだまま寿貞尼を引き上げて立たせ、背後に腕を回して捻り上げた。堪らず匕首を地に落とす寿貞尼。それでも必死で振り解こうと身を捩る。


「何をなさいます、お離しなさい」


 寿貞尼の抗いも男の腕力には敵わない。杜国はもう片方の腕を背後から腹に回して寿貞尼を抱え、そのままじりじりとショウから遠ざかり始めた。


「杜国殿、何故これほどまでにショウ殿のお心を変えようとなさるのか。そなたには何の得にもならぬであろう」


 たった今、吟詠境に来たばかりの寿貞尼には、杜国の心情は計りかねるものだった。


「人は己の得のためだけに動くものではありませんよ。寿貞尼殿とてショウ殿のため、そして己の宿り手のためにここに来たのでしょう。私も我が最初の宿り手のために忠義を尽くしているだけのことです」

「最初の……」


 やがてショウは意識を取り戻した。寿貞尼が杜国に捕らわれているのに気づくと、額の血は流れるままに、立ち上がって両手を組んだ。


「どういうつもりだ杜国、寿貞尼を離せ」

「これが見えませんか、ショウ殿」


 杜国の右手に握られているのは鷹の羽、その鋭利な先端が寿貞尼の首に突きつけられている。


「あなたが季の詞を口にすればどうなるか、おわかりですね」

「ショウ殿、私に構わず発句を詠みなされ」


 気丈な寿貞尼の言葉に杜国は困った顔をした。


「やれやれ、佐保姫と言いあなたと言い、男勝りも大概になさいませ。ならば」

 杜国は羽を持った手を顔の前に掲げ、深く集中して詞を発した。

「現し身!」


 ショウは自分の姿を見た。道服も草鞋もそのままだ。杜国に眼を移せばやはり変わっていない。だが、寿貞尼だけは違っていた。制服を着たコトの姿に変わっている。現し身の業は寿貞尼ただ一人だけに掛けられたのだ。


「ショウ君……」


 その弱弱しい声を聞いて、ショウは愕然とした。同時に滋賀の旅の帰宅途中の車の中で聞いたソノの言葉を思い出した。ある業の遣い手だけが出来る特別の現し身……


「こ、この現し身は、宿り手の意識を……」

「ふっ、ご存知でしたか。繋離詠の遣い手のみに許された、宿り手の姿のみならず意識をも移す現し身を」


 杜国は再びコトの首に鷹の羽を突きつけた。


「現し身を詠まれた言霊の体が傷つけば、現実の宿り手の体がどうなるか、ショウ殿とて知らぬ訳ではないでしょう」


 ショウは合わせた両手を解いた。何もできない、このままでは何も。


「言霊の片鱗である寿貞尼殿は、本体に触れていなければ発句も季の詞も詠めません。こうして引き離してしまえば完全にただの足手まとい。それが先程私が申した弱点です」

「コトをどうするつもりだ」


 憤りに満ちた目で自分を睨みつけるショウを、嘲笑うかのように杜国は答える。


「知れたこと。ショウ殿のお心を変えられぬのなら、その想い人、この娘の心を変えるまで。幸いこの片鱗には禁詠を弾く詞の業は詠み込まれていないようですから」


 コトの眼が大きく見開いた。その瞳に悲しみと恐れが漂い始めるのを見て、ショウは両手の拳を強く握り締めた。それだけはさせたくない、しかしそれを阻止する手段がない。


「そうですね、この娘の意識にあるショウという言葉から愛慕という言葉を引き離し、憎悪と嫌悪という言葉を繋ぎ合わせてみましょうか。想い人に嫌われれば、いかにショウ殿とてやがてその想いを捨てざるを得ないでしょう」


 思わずショウは両手を組んだ。させない、絶対にさせたくない、だが季の詞を口にする前に杜国は羽の先でコトの首を軽く突いた。


「うっ」


 低く呻いたコトの首から一筋の血が流れ落ちるのを見て、ショウは口を閉ざした。


「まだおわかりにならないのですか、ショウ殿。言霊の力だけでなく、この娘の命を奪うことすら、今の私にはできるのですよ」


 ショウは両手を組んだまま体を震わせた。自分を助けに来てくれたコトに何もしてやれない自分が情けなく、悔しかった。


「ショウ殿、人は憎しみ合うのが本来の姿なのです。どんなに愛し合い将来を誓い合っても、些細なことでいがみ合い別れる者たちのなんと多いことか。逆に一度は憎んでしまっても再び愛し合える者たちのなんと少ないことか。たとえ私がこの娘に繋離詠を使わずとも、あなたたちが未来永劫憎しみ合わぬという保証はないのです。さほど悲しむことでもないでしょう」


 杜国は哀れむようにショウを眺めた。ショウに憎まれることを楽しんでいる、いや、むしろ憎まれることで自分の存在を確かめているようにも見えた。


「それにしても言霊と同じ運命を宿り手もたどることになるとは、人の縁とは不思議なものですね」


 それは杜国にとっては取るに足らないつぶやきに過ぎなかった。だがショウにとっては隠されていた秘密を暴き出すが如き大きな意味を持っていた。


「まさか、寿貞尼も」

「その通り。繋離詠によって芭蕉翁と引き離されたのです。恐らくは蕉門と敵対する流派の俳諧師の仕業でしょう」


 羽を持った杜国の右手が淡い光を放ち始めた。詠唱を始めるつもりだ。ショウはコトを見詰めた。コトもショウを見詰めている、その眼に微かに光るものがあった。涙、泣いているのかコト……と、不意にコトの顔に笑みが浮かんだ。滅多に見せないコトの笑顔。なぜ、今ここで笑顔を……その理由がわかった時、ショウはコトの想いの深さを痛切に感じた。

 最後だからだ。嫌悪と憎悪を植えつけられれば、二度とショウに対して微笑むことはなくなる。だから今、ここで笑顔を見せてくれたのだ。もう二度と見せられなくなる自分の最後の笑顔を、涙を流しながら……

 ショウは思った。自分に対して向けられたこれほどの想いよりも大事なものなどあるのだろうか。この想いを犠牲にしてまで守るものなどあるのだろうか。たとえ、それが芭蕉の言霊だったとしても……ショウは叫んだ。


「待て、杜国。待ってくれ」


 今まさにコトの胸に羽を突き立てようとしていた杜国は、怪訝な顔でショウを見た。


「いかがなされました、ショウ殿」

「コトに繋離詠を使うのはやめてくれ。その代わり、この身に宿った芭蕉の言霊の力をお前にやる」

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