繋離詠


 杜国は死の床にあった。命が尽きる前に吟詠境に行き言霊になる、その覚悟はとっくにできている。が、たった一点の心残りが、杜国にそれを躊躇させていた。あの冬の日と同じようにあの方が訪ねて来てくれるのではないか、生きている内にもう一度、あの方とお会いできるのではないか。毎朝毎夜、幾度となくその想いが湧き上り、杜国の決断を鈍らせるのだった。

 杜国は芭蕉がここに来た翌年の春から夏にかけての数ヶ月間の出来事を思い起こした。あれは自分の人生の中で最も輝いていた時ではなかったかと思えるほど、今の杜国には大切な思い出となっていた。


 芭蕉が保美の里を訪れて三ヵ月後の翌年二月、杜国は三河を抜け出し、船で伊勢へ向かった。杜国の罪は国払い、尾張藩に足を踏み入れさえしなければ咎められる事はないとはいえ、恭順の意を疑わせる行為だ。それでも杜国をそんな行動に駆り立てたのは偏に芭蕉への思慕だった。

 伊勢で芭蕉と落ち合った杜国は、その後、伊賀から吉野へ花見に向かう芭蕉に同行した。二人の笠には「乾坤無住同行二人けんこんむじゅうどうぎょうににん」の文字。仏と己の二人だけで旅をする巡礼の文句を、杜国と芭蕉の道連れに置き換えたのだ。


 吉野で桜を愛でた後、奈良、大阪、須磨へと一月に及ぶ旅は、二年間の三河での侘暮らしと比べれば、夢としか言いようのない日々だった。大店の旦那という身分を捨てたからこそ、このように敬愛する師と同行できるのなら、むしろ罪人となった今の方が幸せなのかもしれぬ。それほどの想いを抱かせるほど、その時の杜国は自分の境遇に満足していた。

 だが、その想いは旅を終えて京に立ち寄った時、無残にも踏みにじられてしまった。芭蕉と共に歌舞伎を見物した翌夜、杜国は師と門人たちとの会話を耳にした。明らかに芭蕉を責める門人たちの口ぶりに、杜国は物陰からそっと聞き耳を立てた。


「芭蕉翁、こたびの杜国との旅は、蕉門の宗匠としてはいかにも相応しからぬ振る舞いでございましょう。尾張蕉門の尽力で罪一等減ぜられたとは申せ、一度は死罪言い渡された罪人でございますぞ。そのような御仁と旅をなさるなど、我々は我慢なりませぬ」

「そちらの気持ちはようわかる。が、俳諧は万人に開かれておる。罪人とて例外ではない。恥ずべきは罪の有る無しではなく、風雅を求める心の有るか無しかじゃ。罪人と共に俳諧の道を進むことに、何の支障があろうか」

「では、何故旅の道中、杜国ではなく万菊丸などと戯号をお使いなさるのか。杜国という罪人の名を恥じてのことではないのですか」

「いや、それは……」


 芭蕉は言い淀んだ。ここぞとばかりに門人たちは畳み掛ける。


「体裁を考えてくださいませ。もはや宗匠一人の身ではござらぬのですぞ。我々門人全てが同じ目で見られるのです。芭蕉翁には自重して頂きたい、これが我ら蕉門一同の要望でございます」

「では、具体的に何をすればよい?」

「杜国を蕉門より絶縁して頂きたい」


 芭蕉の顔が険しくなった。


「破門せよと申すのか」

「できぬのなら、今後杜国とは一切関わりを持たぬと約束してくだされ」


 一歩も引かぬ構えの門人たちの物腰に、芭蕉は我を通すことができなかった。杜国一人よりも門人たちとの和を重んじるのは、蕉門の宗匠として当然の選択である。芭蕉は苦渋の決断をした。


「わかった、杜国は本日より蕉門ではない。門人でなければ関わりを持っても構わぬのであろうな」

「ご随意に」


 得意顔で引き上げていく門人たちを物陰から見送る杜国の頬は、知らぬ間に涙で濡れていた。悲しかった。蕉門を追われたことより、自分が芭蕉を苦しめていることが何より悲しかった。杜国は芭蕉に別れも告げず、ひっそりと伊良湖へ帰った。


 あの日から二年、芭蕉とは一度も会っていない。破門を告げる使者も書状も受け取ってはいないが、杜国の心は既に蕉門を離れていた。この二年の内に杜国は他の流派の俳諧師たちと吟詠境に赴き、蕉門では禁じられている詠唱の幾つかも身に付けるほどになっていた。だが、そのために犠牲にした己が生命力もまた大きいものだった。美青年だった頃の面影は今は無く、その顔には不吉な死の影が漂っていた。

 杜国は床に着いたまま、二ヶ月前に届いた芭蕉からの書状を顔の前にかざした。何度も読んで所々破れているその書状には、伊賀へ来るように書かれている。


「芭蕉翁自ら破門を言い渡すお積りなのだろう」


 杜国が他の流派の俳諧師と接触している事は、既に芭蕉の耳に入っているはずだ。そして今の杜国にはもはや風雅の心などない。俳諧は己のためだけに使う道具と成り果てている。例え罪人でなくとも破門されて当然の自分なのだ。

 杜国は二年前のあの日を思い出した。できるならあの頃の自分に戻りたい、そしてもう一度芭蕉翁と共に吟詠境で座を共にしたい。だがそれはもはや叶わぬ夢である。結局、この二年間、芭蕉の訪れを待っていた自分は徒労に過ぎなかった。

 風の便りに、芭蕉が他の門人と共に陸奥、北陸を半年間旅していたことを杜国は聞き及んでいた。その笠にはあの時と同じ「乾坤無住同行二人」の文字が書き付けられていたと聞く。もはや芭蕉の心はこの杜国を離れ、別の門人に移ってしまっているのだ、そう頭ではわかっていながら、それでもこうして待ち続けていた己が愚かで哀れであった。

 杜国は書状を畳んで懐にしまうと、遂に心を決めた。いつまでも幻影を追い求めても仕方がない。未練はきっぱりと捨て、言霊となり、己と同じく報われぬ想いを抱いて悲しむ人々のために我が力を使おう。そして杜国はあの懐かしい芭蕉の発句を詠んで、今生最後の吟詠境を開き言霊となった……


 * * *


 遠くに青い海が広がる真昼の日差しの中に、粗末な屋敷が一軒建っていた。その戸口を開けて出てきたのは、肩裾模様の小袖の上に小紋羽織を羽織った町人風の男。総髪を後ろで一つに束ねた、女かと見紛うほどの美青年だが、その頬はやつれて見えた。


「杜国さん」


 誰か呼び掛ける者がある。ショウだ。その声を聞いた杜国の顔は落胆に変わった。


「残念ですね。やはり意識も姿も芭蕉翁ではないのですね」

 それでも杜国はショウに近づき深々とお辞儀をした。

「お久し振りでございます、芭蕉翁、いや、今はショウ殿でしょうか」


 杜国の態度はショウには意外だった。コトや佐保姫が近づくなと命じるほど危険な言霊とは露も思えなかった。むしろ、今まで会った中で最も礼儀正しいと言ってもよいほどだ。


「ショウ殿、少しお話をしませんか」


 昼の日差しの中、一本の大樹が作る木陰に杜国は腰を下ろした。その横に並んで座るショウ。耳を澄ますと遠くの潮騒がかすかに聞こえてくる。杜国はゆっくりとした口調で話し始めた。


「私は己の言葉ではなく、芭蕉翁の発句、そう、この吟詠境を開いた発句に言霊として宿ったのです。私と同じ想いを抱く宿り手を見つけるため、そしてその宿り手の想いを叶えるため。元々、言霊は宿り手に忠義を尽くすもの。己の言葉に共感し、己の想いを共有してくれるのですからね。宿り手の苦しみは我が苦しみと同じ、それを消し去りたいと願うのに何の不思議もございません。時に、ショウ殿、我が宿り手があなたに想いを抱いているのはご存知でしょう」


 ショウは無言で頷いた。杜国は続ける。


「ならば、その想い、叶えてやっていただけませぬか。我が宿り手は必ず報われると信じながら、幾年もの間ショウ殿への想いを抱き続けてきたのです。私もまた、報われぬ想いを抱き続けた一人です。あの辛さをこの宿り手には味わわせたくないのです。ショウ殿、我が宿り手を哀れに思うのなら、この想い、叶えてやってくださいませ」


 杜国の気持ちはショウには痛いほど理解できた。だが、それを叶えることは今のショウにはできなかった。モリのためなら何でもしてやりたいと思う気持ちに嘘偽りはない、ただモリの気持ちに応えるという、その一点だけは無理なのだ。今のショウにとってはモリの存在より、コトの存在の方が遥かに大きくなっていた。


「ごめんなさい、杜国さん。そのお願いだけは叶えられません」


 ショウの謝罪の言葉を聞いても杜国はそれほど表情を変えなかった。むしろその言葉は予想通りとでも言わんばかりの顔付きであった。


「ショウ殿、京を去って伊良湖に戻ってからの二年間、私は一つの事だけを考え続けていました。私を罪人にした空米売買。あの事件さえなければ私はいつまでも蕉門の一人として、俳諧の道に勤しむ事ができたのです。何故米の値は下がらなかったのか。番頭の目利きは確かで、あの年は豊作、米の値が下がらぬはずがない、なのに上がり続けた、何か理由があるはず。それを探る内に、言霊の隠された業を見出したのです。言葉と言葉を繋ぎ離す業を」

「言葉と言葉を、繋ぎ、離す?」

「俳諧の祖、宗鑑殿は応仁の乱の二年前に生を受け、戦国の世の只中で言霊になられました。忠義や信頼より、裏切りや疑心がのさばった下克上の戦国の世、あの乱世の陰には俳諧師たちの暗躍があったのです。宗鑑殿は恐るべき業を作り出していました。吟詠境に招いた者の意識の中に存在する言葉と言葉を切り離し、繋ぎ合わせる業、繋離けいり詠。この業を持つ俳諧師は狙いを定めた家臣を吟詠境に招き、その者の意識にある主君という言葉から忠義という言葉を切り離し、裏切りという言葉を繋ぎ合わせるのです。人の心は脆いもの、ただそれだけでその家臣は容易に逆臣となるのです。敵対する国に謀反を起こさせるため、多くの俳諧師たちが大名に抱えられました。また、この業のためだけに俳諧師となった武将もいたようです。こうして世の中も人心も乱れに乱れ、あの戦国の世となったのです」

「そんなことが……」


 杜国の言葉はショウには信じられなかった。他人の心を操るなど、人の為しえる技ではない、いや、それ以前に許されざる行為だ。驚きと怒りの色に染まるショウの顔を、杜国は薄っすらとした笑いを浮かべた瞳で眺めていた。


「信じられませぬか、ショウ殿。それでは、ひとつ、例を挙げてみせましょう。『時は今雨が下知る五月かな』ご存知でしょう」

「それは、光秀の句」

「そう、愛宕百韻連歌の光秀殿の発句。これに続く脇句は座の亭主、行祐ぎょうゆう法印の『水上みなかみまさる庭の夏山』、第三句は連歌師、紹巴じょうは殿の『花落つる池の流れをせきとめて』この句を見た後の世の人々は、お二人共、既に光秀殿の謀反の意志がわかっていたのだと解釈しています。そう、わかっていたのです。貞門派を開いた貞徳殿の師に当たる連歌師、第三句を詠んだ紹巴殿、この紹巴殿こそ繋離詠の遣い手だったのですから」

「では、光秀は、紹巴の仕掛けた言霊の業によって信長を裏切り、本能寺の変を引き起こしたと……」


 杜国は黙って頷いた。そして、それ以上の説明はショウには不要だった。杜国の言葉に裏付けはない。どんなに詳細に語られても、完全な確証を得ることはできないだろう。だが、これまでショウが見てきた言霊たちが為した業を思い返せば、杜国の言葉はむしろ真実と受け止めた方が理に叶っている。

 ショウは自分が悪い夢の中に叩き込まれでもしたかのような非現実感に襲われた。信じるに値する、が、信じたくはない、自分の中でせめぎ合う二つの感情は、自分自身をも滅ぼそうとするかのように激しくショウ自身を弄んだ。


「まだ疑っておいでのようですね、ショウ殿。しかし考えてごらんなさい。そのような業を使わずとも人の心は容易く変わるのです。ちょっとした讒言、心地よい甘言、誠しやかな流言、そんなもので人は他人を貶め、信頼し、踊らされるのです。繋離詠はこれを吟詠境で行っているだけのこと、さほど不思議でもありますまい。もっともこの業も太平の世になれば、さほど使い道もありませぬ。信長公亡き後、この業を持つ俳諧師たちは徹底的に探し出され闇に葬られたようです。そのため、我らの時代にはほとんど知られていなかったのです。しかし、徳川の世になってもこの業を持つ俳諧師は少数とはいえ残っておりました。その者たちの業を使う目的は銭金。ここまで言えば、おわかりでしょう。その俳諧師たちの一人が、あの年の米の値を操作したのです。米商人を吟詠境に招き、米の値という言葉に高騰という言葉を繋ぎ合わせる、ただそれだけで、豊作という事実など目に入らなくなり、安値の内に米を買っておこうという行動に走らされたのです。それが米の値が上がり続けた理由でした。この事実を知った時、私は俳諧師という者の底知れぬ恐ろしさと可能性を悟りました。人心を操るこの業があれば、この世すら意のままになるのでないか、いや、それほど大きなことを考えずとも、今のこの私を救えるのではないか。杜国という言葉に親愛という言葉を繋ぎ合わせる、それだけで私は誰からも愛される存在になれる、そう考えた時、私はこの業が欲しくなりました。手に入れるためには己の生命力の幾ばくかを代償とせねばなりませんでしたが、それは私には取るに足らぬ事でした。こうして私は繋離詠を手に入れたのです。ところが事は思ったようには進みませんでした。そう、私を嫌う者は私と共に吟詠境を開いてすらくれぬのです。この業は吟詠境に入ればこそ使えます、現実の世界では何の役にも立ちません。結局、私はその業を一度も使うことなく言霊になりました。それがこんなところで役に立とうとは……」


 杜国のショウを見る目が変わった。禍々しい何かをそこに見たショウは思わず立ち上がった。


「ショウ殿、私はあなたの心を操れるのです。たとえあなたが拒んでも、あなたの意識にあるモリという言葉に愛慕という言葉を繋ぎ合わせれば、ショウ殿は我が宿り手を愛さずにはいられなくなるでしょう。それで私と宿り手の想いは叶えられるのです」


 杜国も立ち上がるとその右手をショウの胸に向けて伸ばした。ショウは数歩後ずさりすると大声を上げた。


「杜国さん、あなたは間違っている。人の心を弄ぶなんて許されるはずがない」

「そうかもしれませんね。しかし、叶えたい願いがある以上、それも仕方ありません。例え無理強いすることになったとしても」


 杜国は本気だ、そう感じたショウは両手を合わせ、杜国を睨みつけた。


「ほう、私と遣り合うお積りですか」


 ――主様よ、寿貞尼がおらぬ吟詠境で、主様一人で何ができようぞ。わらわの季の詞を発するのじゃ。早う致せ。


 ショウには意地があった。佐保姫とコトの忠告を無視してこの状況を作ったのは自分自身だ。ならば佐保姫に頼らず自分の力で解決したい。それに今は去来と許六から貰った言霊の片鱗を身に着けている。佐保姫の力など借りなくても切り抜けられるはずだ。ショウは自らを鼓舞すると発句を詠んだ。


「星崎の闇を見よとや啼千鳥」


 ショウの周囲を数十羽の千鳥が舞い始めた。それを見るや杜国はじりじりと後ろに下がり、ショウとの間合いを広げる。


「千鳥!」


 ショウの季の詞と共に、千鳥は杜国目掛けて矢の如く襲い掛かった。すかさず杜国も季の詞を発する。


「鷹!」


 杜国の頭上に眼光鋭い一羽の鷹が現れたかと思うと、それはまるで閃光のように千鳥の一団を横切った。千鳥は嘴に刺さり、爪に捕らえられ、羽で打たれ、瞬く間に全て消えてしまった。


「無駄な抵抗ですよ、ショウ殿。芭蕉翁の意識すら宿しておらぬあなたに、私は倒せません」


 杜国は左腕に鷹を止まらせると、哀れむような目をショウに向けた。だがショウは諦めない。再び両手を合わせ発句を詠もうとする。


「無駄だと申したはず!」


 杜国の腕から放たれた鷹がショウに向かって一直線に飛び、左頬をかすめて舞い上がった。ショウは微かな痛みを感じ頬に手をやると、血の感触があった。が、それに気を向ける余裕はない。舞い上がった鷹は再び舞い降りると、今度はショウの前方で大きく羽ばたいた。信じられぬ強風に吹きつけられ、仰向けに倒れるショウ。すぐさま起き上がろうとしても腕が動かない。見れば釘でも打ち込まれたかの様に、鷹の羽が道服の両袖を大地に刺し貫いている。杜国は鷹の羽を手にして、大の字になったまま身動きできずにもがき続けるショウに、ゆっくり近づくと身を屈めた。


「ショウ殿、繋離詠の業、見せて差し上げましょう」


 杜国が手にした鷹の羽が淡い光を発し始めた。徐々に大きくなる光から逃れようと、両腕に力を込めて身悶えするショウを、杜国は冷酷に見下ろし、叫んだ。


「開、心意!」


 と同時に、今や直視できぬほどに眩い輝きを放つ鷹の羽が、ショウの胸に突き立てられた。その羽が道服に触れようとした瞬間、まるで何かに弾かれでもしたかの様に、杜国が手にした羽は空高く飛ばされた。


「これは……」


 信じられぬという目付きで杜国はショウを、そしてショウの道服を見詰めた。道服……杜国は自分の手を、ショウの体を包む墨染めの道服にそっと触れさせた。


「この道服は、芭蕉翁の言霊……」

 杜国にはようやく事態が飲み込めた。

「なるほど。禁詠を唱える者を触れさせぬ業を、道服に掛けておかれたのですね。宿り手のためにそこまで心を砕くとは、流石は芭蕉翁」


 杜国はショウに顔を近づけた。その口元には再び薄ら笑いが浮かんでいる。


「ショウ殿、この道服、脱いでくださらぬか。これが邪魔で繋離詠が掛けられぬのです」

「何を馬鹿な。そんな願い聞けるものか」

「でしょうな。ならば致し方ありませぬ。芭蕉翁の言霊の力、全て奪い尽くすと致しましょう」


 ショウは自分の耳を疑った。言霊の力を奪い尽くす、それは芭蕉の言霊をこの世から消すのと同じだ。


「待て、杜国。お前は芭蕉と会いたかったんじゃないのか。なぜ芭蕉を消そうとするんだ」

「そう、私は芭蕉翁に会いたかった。私を訪ねて来てくれたあの時の芭蕉翁に、あの時の私のままで。しかし今はもう私も芭蕉翁も別人なのです。風雅の心を捨て禁詠を弄ぶこの私を、今の芭蕉翁は決して赦してはくれぬでしょう。そしてショウ殿、あなたも二度と私と共に吟詠境を開いてくれることはないでしょう。今、この時が芭蕉翁の言霊に触れられる最初で最後の機会なのです。ならば、その言霊を我が物とし、我が言霊が尽きる日まで芭蕉翁に寄り添い続けたいと思うこの心を、不義と断ずる権利が誰にありましょうや、ショウ殿」


 ショウの返事も待たずに杜国の右手が光り始めた。


「言霊を奪う業は体に触れずともできるのです。ショウ殿、お覚悟召されよ」


 ――主様、わらわを呼べ、主様よ。


 このままでは芭蕉の言霊を奪われる、躊躇している余裕はない。ショウは助けを求めるようにその名を詠んだ。


「佐保姫!」

「むっ!」


 春一番を思わせる強風が渦を巻いてショウの胸の上に湧き起こった。予期せぬ突風に思わず右手で顔を覆った杜国が、その手を下ろしてショウの胸の上に目を遣ると、薄れ行く霞の中に桃色の衣装をまとった童の如き人影が見えた。


「立たれよ、主様」


 ショウは自分の両腕が自由に動くのに気がついた。見れば佐保姫の両手には先程まで道服を貫いていた鷹の羽が握られている。胸から下りる佐保姫を見て、ショウは身を起こした。同時に杜国も屈めた我が身を立ち上がらせ、佐保姫に言葉を掛けた。


「初めてお目にかかります、佐保姫様」

「挨拶は無用じゃ」


 目の前に立つ杜国に物怖じすることなく、佐保姫は厳かに言うと両手の羽を投げ捨てた。


「のう、杜国よ、ここはわらわに免じてこの吟詠境を閉じてくれぬか。お主とは戦いとうはない」

「なんと慈悲深き姫様のお言葉、この杜国、深く傷み入りました。なれどその願い、聞けませぬな」

「ほう、女神の頼みを聞けぬと申すか」

「現し世では神の御業を振るわれる佐保姫様でも、この吟詠境ではただの季の詞に過ぎませぬ。しかも、遣い手の非力さゆえのその幼きお姿では、本来の十分の一の力も出せぬことでしょう。恐るるに足らぬ存在でございます」

「ふっ、言うてくれるではないか、杜国よ。お主如き小者が相手では、この姿でも役不足じゃわ。そこまで言うなら、わらわの恐ろしさ、見せてやろうぞ」


 佐保姫は右手を上げた。


「春霞!」

 ショウの周囲に霞が棚引き始め、みるみる内にその姿を隠してしまった。

「わらわが吟詠境に居る間、主様は季の詞を詠めぬ、丸腰同然じゃ。その霞の中に隠れておれ」


 ショウにそう言い渡すと、佐保姫は再び杜国を睨みつけた。そして女神の貫禄漂う幼い体が杜国の頭上高く浮いたと見るや、直ちに季の詞が発せられた。


「糸柳!」


 佐保姫の両手から柳の枝が伸びて杜国の両手にからみついた。引っ張り上げるように杜国の体も浮き上がったが、それは一瞬にすぎなかった。頭上を舞っていた鷹が一直線に横切ると、柳の枝を切断してしまったからである。


「ほほう」

 佐保姫は感心した声を出すと、すぐさま次の季の詞を発した。

鷹化為鳩たかかしてはととなる!」 


 佐保姫が言い終わるや、舞い上がろうとしていた鷹はたちまちの内に鳩となり、地に降り立った。長閑に喉を鳴らしながら足元へ歩いてくる鳩に、杜国は眼を細めた。


「おやおや、あれほど獰猛だった鷹を、このように穏やかな鳩にして仕舞われるとは。流石は春の女神様ですね」

「ふん、鳥鍋にして食われなんだだけでも感謝いたせ」


 己から五間ほど離れて宙に浮いたままの佐保姫を、杜国は感嘆と共に仰ぎ見た。成りは幼くてもやはり女神、手加減できる相手ではないと思いながら。


「では、今度はこちらから参ります」

 今までとは打って変わった真剣さをその顔に漂わせ、杜国は両手を合わせて発句を詠んだ。

「行く秋も伊良湖を去らぬ鴎かな」


 一羽の鴎が佐保姫の頭上を舞い始めた。すかさず佐保姫の柳枝がそれを捕らえる。と、次の鴎が舞い始めた。


「同じことじゃ」


 伸ばした柳枝がその鴎も捕らえる。二本の柳枝が使われてしまったのを確認した杜国は、ここぞとばかりに季の詞を発した。


「行く秋!」


 瞬時に、数十羽の鴎が空中に出現した。そして、佐保姫目掛けて一斉に全羽が力強く羽ばたくと、野分を思わせる暴風が巻き起こり、宙に浮かんだ佐保姫を襲った。


「うぬっ!」


 風圧から逃れる間もなく地に吹き落とされた佐保姫の体は、襲い掛かる鴎の集団の中へ埋もれる様に隠れてしまった。杜国がニヤリと笑う。


「晩秋の鴎たちは、春の陽溜りの如き姫様の温もりが恋しいようですね」


 甲高い声で鳴き続ける鴎の一群を眺め続ける杜国。と、俄かに周囲が暗くなった。空を見上げると黒雲が広がり始めている。


「これは……」


 先程までの眩しいほどの昼の日差しは、今では夕暮れのように弱くなっている。杜国はハッとして身構えた。佐保姫の大音声が響き渡る。


「春雷!」


 耳をつんざくような雷鳴と落雷。鴎の集団は目もくらむような雷に撃たれ、一瞬にして消失してしまった。直ちに杜国が季の詞を叫ぶ。


「冬木!」


 背後に葉を落とした枯れ木が出現するや、次の雷がそこに落ちた。木の裂ける音がして炎が上がる。杜国は直撃こそ免れたが、木の近くにいたために側撃を受け、大地にうつ伏せに倒れた。


「わらわをここまで怒らせるとはのう」

 立ち上がった佐保姫の顔には、今だかつてないほどの怒りが浮かんでいる。

「どうじゃ、杜国、まだやるか」


 杜国の体がビクリと動く。身を起こしふらふらと立ち上がったその羽織はとこどろころ焼け焦げ、体に負った手傷も軽くはないようだが、杜国はそれでも軽口を叩く。


「なんとお転婆な姫様であることか」

「ぬかせ。四人の女神の中ではわらわが最も淑やかなるぞ。他の女神ならばお主の言霊なぞとっくに消されておるわ」


 杜国は笑みを浮かべていた。これほどの力の違いを見せ付けられても、余裕さえ見えるその顔を佐保姫は冷ややかに見詰めた。


「わかっておるぞ、杜国。お主の切り札くらいな。現し身の業を持っておるのだろう。確かに現し身を使えばわらわは消える。じゃが、その為には吟詠境全体に業を掛けねばならぬ。そうなればお主も繋離詠は使えまい。現し身が掛けられた吟詠境で言霊の力を使えば、宿り手の命も削られるのじゃからな。宿り手に忠義を尽くすお主には、到底出来ぬことであろう」


 佐保姫の言葉を聞いても杜国の顔から笑みは消えなかった。佐保姫は眉をひそめた。既に勝負は決しているのに、それでも消えぬ杜国の余裕が理解できなった。


「流石は佐保姫様、何もかもお見通しですね。ですが、現し身など使うまでもありません」

「なにっ!」


 杜国は左手を佐保姫に向けて伸ばし、詞を発した。


「無季!」

「ぬっ!」

 佐保姫の体が硬直した。

「ほう、わらわの全ての季の詞を無効にするか。なれど、このような詠唱、意味がなかろう。お主の力を無駄に使うだけじゃ」

「果たしてそうですかな」


 杜国は今度は右手を別の方向に伸ばした。その先にはショウが隠れている春霞がある。その挙動を見て、佐保姫にはようやく合点がいった。杜国の本当の切り札はこれだったのだ。


「もしや、複数詠唱……」

「今頃気づかれましたか、姫様」


 二人の会話はショウにも聞こえていた。詞の業は一度に一回しか使えない。それ故、佐保姫を呼び出している間、ショウは他の季の詞を詠めないのだ。だが、力のある言霊の中には複数の詞を同時に詠める者もいる……其角の吟詠境で去来はそう言っていた。まさか、杜国は……


「くっ、ぬかったわ。わらわとしたことがお主の力を見誤るとは」

「これまでですな、佐保姫様。季の詞を詠めぬ女神なぞ、ただの童女にすぎませぬ」

「わらわの姿も霞に包んでおくべきじゃった。束縛詠は己が眼に映る相手に対してのみ掛けられると知っていながら……」


 佐保姫は両手から力なく垂れ下がる糸柳に力を籠めた。だが、無季の効果は既にそこにも及んでいる。微動だにしない糸柳を歯がゆく感じながら、佐保姫はただ杜国を睨みつけるしかなかった。


「空風!」


 杜国の右手から一陣の風が舞い上がり、ショウが隠れている霞に激しく吹きつけた。散り散りに消えていく霞。次第に明瞭な姿を現す両手で顔を覆ったショウ。

 佐保姫は詞を発しようとした。しかし杜国の左手の束縛詠がそれをさせない。口惜しさのあまり唇を強く噛んでショウを見詰める佐保姫を尻目に、杜国は右の手の平を大きく広げてショウに向けた。


「芭蕉翁の言霊、頂戴致す」

「主様、逃げなされ!」


 意識を集中する杜国の右手が淡い光を発し始めると、見る間にその光は大きくなっていく。杜国が詞を発した。


「奪霊!」


 右手の光が一際強く輝いたと見るや、大きな光の塊となってショウに向けて放たれた。


「……駄目だ、逃げられない」


 ショウは覚悟を決めた。こちらを見ている佐保姫に「今までありがとう」と心の中で礼を言うと、その光をしっかと見据えた。言霊を奪い取ろうとする光、この光に包まれて芭蕉の言霊は消えていくのだろう、その最後の瞬間を記憶に留めておきたかった。

 身の丈と同じほどにまで膨張した光の塊が眼前に迫る。その輝きに我が身が包まれようとした時、ショウの前に何かが姿を現した。小さな体で両手を大きく広げ、ショウをかばう様に宙に浮かんだその後ろ姿が光に飲み込まれ、消えていく。それが誰か、ショウにはすぐにわかった。


「佐保姫ー!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る