準備室の三人


 次の日も僕らは四人で昼食を取った。ただ昨日の今日ということもあって、少し気まずい雰囲気が漂っていた。父つぁんとモリがたまに口を開くのだが、僕もコトも話に入らないので、すぐに会話が尽きてしまい、結局、その二人だけが喋り続けることになってしまう。


「……まあ、剣道部って言っても、今はランニングや筋トレばかりなんだけどな。そういやモリさんはクラブ何だっけ?」

「パソコン部です」

「パソコン、興味あるの?」

「いえ、家が遠いので帰宅部クラブと言われているパソコン部にしたんです。部室に顔を出したのは最初の一度だけなんです」

「帰宅部クラブか。あ、ショウの文芸部もそうなんだよな」


 父つぁんの問い掛けに僕は黙って頷いた。


「そうですよね、今思うと文芸部にしておけばよかったなあって思います」

 と言ってモリはコトを見た。コトは何も言わない。

「あ、でもショウ君はこの前、滋賀まで行ってきたんだし、文芸部は結構活動しているのかも」


 今度はモリは僕は見た。僕は特に何も言わない。


「じゃあ、やっぱりパソコン部でよかったじゃないか、ははは」


 父つぁんの笑い声が虚ろに響く。二人には申し訳ないが、話ができる気分ではなかった。とにかく放課後まで待とう、ソノさんを交えて話をすればきっと上手くいくはずだ。僕はそう考えながら無言で今日のおにぎりを食べ続けた。

 虚ろな父つぁんの笑いをフォローする者はなく、僕らの昼食の場は再び静まり返ってしまった。その雰囲気に居た堪れなくなったのか、父つぁんが突拍子もないことを言い出した。


「もう五月か、早いなあ。そうだ、ショウ、五月の俳句で何か面白いものがあったら教えてくれよ」

「な、なんだよ、いきなり」

「いいじゃないか。文芸部なんだろ。滋賀の旅の成果を見せてくれよ」


 無茶振りもいいとこだ。さっきからほとんど口を利かない僕を喋らせようとする魂胆なのはわかっている。しかし、こちらはまだ俳句初心者、急に言われてもすぐには出てこない。食べ掛けのおにぎりを見詰めて、う~んと唸る僕の耳に、聞き慣れた冷たい声が聞こえてきた。


「時は今雨が下知る五月かな」


 コトだった。助け舟を出してくれたのか、毒舌の始まりなのかは定かではないが、とにかくこの場を凌げて、僕はやれやれと一息ついた。


「それは、明智光秀の句」


 モリの言葉に、コトは顔も上げずに弁当を食べながら淡々と話す。


「そう。本能寺の変は六月二日の未明。その直前、五月末に開かれた連歌会で光秀が詠んだ発句」


 まるで乗り気ではないものの、沈黙を守っていたコトが会話に参加したことで、父つぁんは俄然元気になった。


「本能寺かあ。どうして光秀が裏切ったのか、今でも色んな説があるよな。まあ、よっぽど腹に据えかねる事があったんだろうけどな」

「そうでもないんじゃない。人の心なんて、ちょっとした切っ掛けですぐに変わってしまうものよ。相手のなんでもない仕草で嫌いになったり、逆に、たった一言で、今までなんとも思っていなかった人を気にするようになったり。そうでしょ、ショウ君」


 やはりあの句は毒舌の前触れであったようだ。コトが言わんとすることはわかっている。モリと仲良くし始めた僕が、信長を裏切った光秀のような反逆者に見えているのだろう。

 けれども、モリに対する親密さはコトに対するものとは全く違っている。ただ、それを上手く説明するだけの自信がないのだ。

 僕は余計な言い訳はしなかった。何も言わない僕を代弁するかのように、モリが明るい声を出した。


「そうだ、五月と言えば、ショウ君、芭蕉さんの五月雨の句を詠んでくれたじゃないですか。あれも五月の句になるんじゃないですか」

「ああ、そう言えば」


 すっかり忘れていた。「さみだれ」という語感からは五月という漢字がすぐには出てこないので、思い出せなかったようだ。さっそく父つぁんがモリに訊いた。


「俺も知ってるよ、有名な最上川の句だろ。いつ詠んでもらったんだい?」

「急に雨が降ってきて、ショウ君に送ってもらった日です。あ、でもその時、ちょっと不思議なことがあって」

 それまで顔を伏せて弁当を食べていたコトが顔を上げた。僕もある事に気がついてモリを見た。

「俳句を詠んでもらったら、一瞬、ショウ君が着物を着ているように見えたんです」


 コトの顔色が変わった。僕は慌ててモリにその話はしないでくれと言おうとしたが、コトの「モリさん、詳しく話して」という言葉の方が早かった。


「詳しくっていうほど複雑な話じゃないですよ。あれ、変だなって思ったら、次にはもう普通のショウ君に戻っていて。あ、でもその前にショウ君、聞きなれない言葉を喋っていたかな、えーと」

「挙句……」

「あ、そうです、コトさん。そんな感じの言葉でした。その後に短歌の下の句みたいなのを詠んだんです」

「まあ、ショウは爺くさいところがあるからな。俳句を詠めば和服を着た爺さんに見えるのも無理ないよ、ははは」


 父つぁんの笑い声は僕の耳には入らなかった。コトの瞳はこれまでにない程の怒りを放ち始めていたからだ。同時にその瞳からは寿貞尼の影が立ち上がり、コトの体全体を覆い始めた。その寿貞尼の影の濃さ……吟詠境に入る時でも、これほどまでに濃い寿貞尼の影を見たことはなかった。ただならぬ様相を見せているコトの瞳から、僕はもう目が離せなくなっていた。そしてその瞳でコトはモリを凝視している。


「あの、コトさん、そんなに見詰めてどうかしましたか」


 モリが少し怯えた声を出す。構わずに見詰め続けるコト。やがてその口から震える声が聞こえてきた。


「モリ……杜、まさか、杜国……」

 コトは僕に顔を向けると立ち上がった。

「ショウ君、来て!」


 そして僕の返事を待たずに教室を出て行った。驚き顔の父つぁんとモリをそのままにして、僕も席を立つと廊下に出てコトの後を追った。何の用事かはわかっている。コトにはモリの言霊が見えたのだ。どうしてもっと早く話しておかなかったのだろう、そんな後悔が僕を襲う。コトは廊下の端で立ち止まると、こちらを振り返った。


「モリさんのこと、ライさんやソノさんには話したの?」

 僕は首を振って、まだ誰にも話してないと答えた。コトの瞳の怒りの色が一層強くなる。

「こんな、こんな大事なことをどうして話してくれなかったの。言霊のことなのよ。ショウ君一人だけの問題じゃないのよ」

「ごめん、僕にはモリの言霊は見えないし、それに僕自身、吟詠境に行ったのかどうかも半信半疑だったんだ。話すのは確信が持ててからでもいいかと思って」


 それが僕の本心なのか、それとも苦し紛れの弁解なのか、言った僕自身も定かではなかった。自信無げな僕の心はお見通しとでも言わんばかりに、コトは僕を睨みつけたまま命令した。


「四人で昼食を取るのは今日でやめます。明日からは前と同じように、私とモリさんの二人だけで食べます。それからショウ君、モリさんには近づかないで。今日からは無用な会話は慎んでちょうだい」


 あまりにも高圧的な言い方だった。幾らコトでもそこまで僕の自由を奪えるはずがない。それにそんな事をしたら、モリがひどく悲しむのは目に見えている。とても容易に飲める要求ではない。


「それはおかしいよ。モリさんに近づく切っ掛けを作ったのはコトさんじゃないか。今になって近づくななんて理不尽すぎるよ」

「言霊が宿っているなんて知らなかったからよ。あの時と今じゃ状況が違うのよ」

「言霊が宿っているからって、それが何なんだよ。言霊とモリさんは別じゃないか」

「ショウ君はあの言霊を何もわかってない。だからそんなことが言えるのよ」

「そうだよ、僕には見えてない。どんな言霊かもわかってない。でも、どれほど危険な言霊だったとしても、それがどうしてモリさんを避ける理由になるんだい」

「いいから! もうこれ以上モリさんには近づかないで!」

 激昂して荒々しい言葉を吐くコト。その傲慢な態度に、僕の心は一層頑なになった。

「そんな、そんなのコトさんらしくないよ」

 それに続く言葉を口にすることを、僕の理性は一瞬躊躇した。しかし、僕の感情はそれを押し留めることを許さなかった。

「コトさんが嫉妬するなんて」

「嫉妬、私が、嫉妬……」


 コトの瞳の色が変わった。怒りの中に深い悲しみを含んだ色に。そしてその瞳の色は、これまで聞かされたどんな毒舌よりも容赦ない鋭利さで、僕の胸を切り裂いた。

 コトを覆っていた寿貞尼の影が薄れ始めた。コトはしばらく黙って僕を見ていた。やがて寿貞尼の影が完全に消えてしまうと、その瞳からは怒りが消え、ただ悲しみだけが残った。誰にも自分を理解してもらえない、そんな孤独な悲しみだけが。


「わかったわ。私にショウ君の行動を束縛する権利はないものね。姿と意識がそのままのあの子と、二人だけで吟詠境に行きたいのでしょう。だから誰にも言わなかったのでしょう。安心して、私もモリさんのことは誰にも言わない。ショウ君は自分の好きなようにするといいわ」


 コトは僕に向かって歩き出した。そのまま僕の横を通り過ぎ、教室へ帰って行った。僕は振り返りもせず、そこに立っていた。


 ――何故コトの言うことが聞けぬ、主様よ。あれは寿貞尼の言葉でもあるのじゃぞ。


 あの悲しみに満ちた瞳、コトは何を悲しんでいたんだろう。僕は何をわかってやれなかったのだろう。


 ――のう、主様よ。コトは主様の弱みを握っておる。その気になればそれを盾に、主様に命ずることもできたはずじゃ。なのに、そうはせなんだ。何故かわかるか。人を想う心に無理強いはできぬからじゃ。己とは違うおなごに対して抱いている主様の気持ちでさえも、大切にしてあげたいと思うたからじゃ。それほどまでに主様のことを想っておるおなごの言葉を、何故素直に聞いてやれぬのじゃ。


 モリと二人だけで吟詠境に行きたい、そのコトの言葉を僕は否定できるだろうか。吟詠境ではいつも力不足を思い知らされていた僕が、唯一優位に立てる相手を見つけた。その相手を独り占めにしたい、そんな気持ちがなかったと言い切れるだろうか。

 まるで何の灯りも持たずに夕暮れの道を行くような覚束ない足取りで、僕は教室に向かって歩き出した。


 ――やれやれ何と意固地な主様であることよ。旨い飯にありつけるのは、一体いつになることやら。


 佐保姫の声はそれっきり聞こえてこなかった。教室に戻ると昨日と同じくコトはおらず、机も元に戻されていた。


「何かあったのか?」


 父つぁんが心配そうに訊いてくる。


「何でもないよ」


 僕は座って昼食を続けた。隣のモリはまるで自分を責めてでもいるかのように、身じろぎもせずに俯いていた。固く握り締めたモリの右拳が妙に痛々しく見えた。そしてコトは授業が始まるまで戻って来なかった。


 その日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、終礼が済むと、いきなり僕の横に誰かがやってきた。モリだった。


「ショウ君、今日、部室に行きますか?」

「いや、今日はちょっと用事があるから、どうしようかと思ってる」

「コトさんはどうですか」

「私は帰るわ。約束があるの」


 コトの言う約束は、恐らくソノさんのことだろう。コトが会う気になっているのなら誘う手間が省けていい。一刻も早くソノさんを交えて話がしたいところではあるが、モリの頼みを無下に断るわけにもいかない。


「話したいことがあるんです。ショウ君もコトさんも、時間は取らせないので、来てくれませんか」


 控え目なタイプのモリにしては強気な言葉だった。彼女の迫力に押されたのか、コトは「そう、じゃあ掃除が終わったら行くわ」と言って教室を出て行った。


「すぐに終わるなら僕も行くよ。掃除当番だから先に行っててくれる?」

「わかりました、図書室で待っていますね」


 そう返事をするモリは思い詰めたような表情をしていた。それから僕も教室を出て、自分の掃除受け持ち場所へ向かった。

 掃除を終えて図書室に入ると、閲覧室の隅の席にモリは一人で座っていた。コトはまだ来ていないようだった。「お待たせ」と言ってモリの横に座ると、モリは少し沈んだ顔をして話し掛けてきた。


「ショウ君、私と一緒にお昼を食べて楽しいですか」

「うん、楽しいよ。父つぁんも喜んでるし」

「でも昨日も今日も、コトさんは途中で席を立ってしまいましたよね」

「それは、あくまでコトさんの問題だよ、モリさんが気にすることないよ」

「そうでしょうか、私が、あっ……」


 モリの言葉が途切れた。閲覧室の入り口からコトが入ってきたのだ。


「あら、私、お邪魔だったかしら、お二人さん」


 コトはいつもの悪戯っぽい目でそんなことを言う。


「邪魔なはずないだろ。待ってたんだから」

 僕は立ち上がると、

「人が多くなってきたから準備室に行かないか。あそこなら落ち着いて話ができると思うから」

 と言って、二人を準備室に誘った。中へ入ると作業机の上には多くの書類が山積みになっていて、腰掛けられる状態ではなかった。僕たちは立ったまま話を始めた。


「それで、話って何なの、モリさん」

「あの、コトさんとショウ君に仲直りして欲しいんです」

「仲直り?」

「はい。以前はコトさんはお喋りしながらお昼を食べていたのに、最近はあまり口を利いてくれないし、ショウ君もトツさんとはあまりお喋りしないでしょう。それって多分、私のせいだと思うんです。もし私に何か気になる所があって、それで二人の仲がおかしくなっているのなら、言ってくれませんか、直しますから」


 モリの言葉は僕に幾分の後ろめたさを感じさせた。僕とコトの仲は悪化の一途をたどっているし、その原因の一端がモリにあるのは確かだが、モリ自身は何も悪くないのだ。悪いのは言うべきことを言わなかった僕、昨日も今日もきちんとコトに話しておけば、あんなことにはならなかったのだ。そう思うと、自分を責めているモリが気の毒で仕方なかった。しかし、コトはそうは思わなかったようだ。


「本当に仲直りして欲しいの? モリさん」


 それはまるでモリに挑みかかるような口調だった。


「どういうことですか、コトさん」

「私とショウ君の仲が悪くなった方が、あなたには都合がいいんじゃなくて。だって、あなたショウ君のことが好きなのでしょう。自分に振り向かせるチャンスじゃない」


 思いがけないコトの言葉にモリは明らかに動揺して見えた。その頬が薄桃色に染まっている。だが、何かを吹っ切ったようにコトを見据えると、モリは力の籠もった声で言った。


「そうです。私、ショウ君が好きです。でも、だからって二人の仲が壊れるのを望んだりはしません。私はコトさんとは正々堂々と戦いたいんです。知ってるんです。コトさんが私のことをショウ君に言ってくれたから、ショウ君は私に気づいてくれたってこと。だから、私も二人の役に立つことがしたいんです。その上でショウ君に私を選んで欲しいんです」

「戦う? 私と? モリさん、あなた勘違いしているわ。私は戦ったりしない」

「でも私とコトさんはどちらもショウ君が好き同士なライバルでしょ」

「違うわ、逆よ。私がショウ君を好きなんじゃない」


 コトはそう言うと僕に顔を向けた。まさか、コトは言うつもりなのか。僕は、あの事は言わないでくれ、という意味を込めて首を横に振った。それを見たコトの顔には明らかな失望の色が浮かんだ。そして僕の意志などどうでもいいとばかりに、言い放った。


「いいわ、教えてあげる。私、ショウ君に告白されたのよ。中学の卒業式の日に」

「コトさん!」


 僕は大声を出した、が、それは空しい響きだった。コトの言い放った言葉の重みに比べれば、僕の絶叫は何の意味も持たない獣の遠吠えと同じだった。僕はモリを見た。紅潮していた頬は血の気を失って蒼白くなり、胸の前で握り締めた両手は僅かに震えていた。


「うそ、嘘でしょ……」


 まるで悪夢にうなされて発するうわ言のように、力ない言葉をつぶやくモリ。それでもコトは容赦なく追い討ちをかける。


「嘘じゃないわ。ラブレターだってもらったのよ」

「ショウ君……ホントなの?」


 そう言って僕を見詰めるモリの、子供の頃と変わらない邪気のない瞳は、僕の胸をひどく締め付けた。この瞳に向かって僕は何と答えればいいのだろう。否定すれば嘘になる、肯定すればモリを傷つける。僕は何も言えなかった。しかし何も言わないのは肯定と同じだった。やがてモリの瞳に涙が溢れ出した。


「そうだったんだ、ごめんなさい。二人の仲を知りもしないで、私ひとりでいい気になっていたんだね。私ってバカだよね。いつまでも昔のままなはずがないのに、あんな約束を、いつまでも……」


 モリはそこまで言うと、ドアを開けて準備室を出て行った。すぐにでも追いかけたかったが、その前に言うべき事がある。僕はコトに向かい合った。


「コトさん、どうして……どうしてあの事を今言わなきゃいけなかったんだよ!」

「どうしてですって」

 コトもまた僕に向き合った。

「じゃあ、ショウ君はずっと言わずに済ますつもりだったの。いつまでも隠していられると本気で思っていたの」

「そ、それは……」

「ずっと秘密にしていてモリさんがそれを知ったとしたら、今よりも、もっと大きな悲しみがあの子を襲うわ。その悲しみを受け止める覚悟をショウ君は持っていた?」


 僕にはようやくコトの真意が見えてきた。嫉妬なんかじゃなかった。モリのために僕を近づけ、僕のためにモリを遠ざけようとしたコト。いつでも他人のために心を砕くコトの気持ちがなぜ見えなかったのだろう。


「どんな気持ちで私が毎日モリさんとお喋りしていたか、あなたにわかる? いつもあなたを見ているあの子の眼差しを、どんな気持ちで毎日眺めていたか、あなたにわかる? いつか来る悲しみからあの子を救ってあげたかった。でもそれができるのは私じゃない、ショウ君よ。だから私はあなたにあの子を託したのよ。それなのに、あなたはまた言えなかった。私に言えないのと同じように、あなたはあの子にも言えなかった。だから、私が……」


 僕は準備室を飛び出した。コトの言葉はもう聞きたくなかった。コトはきっと辛かったに違いない。言いたくても言えぬ秘密を抱えて、モリの話を聞き、モリの視線を追い、それでも僕には何も言わず、一人でその辛さに耐えていたのだ。

 そして僕はまた言えなかった。コトに言うべき言葉をモリに言わせた僕は、今また、モリに言うべき言葉をコトに言わせたのだ。なんて愚かな自分だったのだろう。

 僕はとにかくモリに謝りたかった。ロッカーに預けてある鞄を取り出して図書室を出た僕は昇降口へ向かった。モリの上履きがあるかどうか確認しよう、なければ教室に戻ってみよう。僕は走ってはいけないことになっている廊下を勢いよく走り続けた。


「あら、ショウちゃん」

 この声。見ると前方にソノさんが立っている。正門で待っているはずなのに、どうしてここに……

「もう、遅いぞ。女の子を待たせないように三十分前に来るのは当たり前だぞ」


 そうか、待ちくたびれてわざわざ図書室に来てくれたんだ。ソノさんの好意は嬉しいが、今はそれどころではない。


「ごめん、ソノさん。今、急いでるから」

「ちょ、ちょっと、ショウちゃん!」


 僕は驚き顔のソノさんの横を素通りして昇降口へ急いだ。階段を駆け下り、一階の廊下を走ってようやくたどり着くと、こちらに背を向けて立っているモリが目に入った。出入り口で鞄を胸に抱え、自分の足元に視線を落としているモリは、あの雨の日に途方に暮れていた時の姿とよく似ていた。


「よかった、間に合った」


 僕は靴を替えて、声を掛けようとモリに近寄った。が、口を開く前にモリはいきなり右手で僕の左腕を掴んだ。


「来て、ショウ君」


 それはモリの声とは思われないほど低く暗い響きを持っていた。モリはそのまま歩き出した。


 ――いかん、主様。今のそのおなごに付いていっては駄目じゃ。


 佐保姫の声は聞こえていた。だが、指が制服に食い込むほどに、僕の左腕は力強く握られていた。僕はモリに引っ張られるように外に出ると、そのまま校庭の隅を歩き始めた。


 * * *


 ソノは図書室へ入った。ここに来るのは卒業して以来だ。久し振りの風景に高校生だった頃の懐かしい自分が蘇る。閲覧室に入ると、片隅にコトが座っているのが見えた。


「コトちゃ~ん、元気してる~」

 その声に我に返ったコトは、ソノに気づいて口に手をやった。

「もう、コトちゃんもショウちゃんも全然来ないんだもん。待ちきれなくて来ちゃったよ」

「ソノさん、ごめんなさい、今日は色々あって。でもそれなら携帯に電話してくれればよかったのに」

「えへ、今日はあっちこっち掛け過ぎて、バッテリー残量ゼロになっちゃってるんだ。ところで」

 いつになく元気のないコトを見て、ソノはコトの肩にそっと手を置いた。

「さっき、ショウちゃんとすれ違ったけど、もしかして喧嘩でもした?」

 ソノの言葉にコトは何も言わずに顔を伏せた。

「元気出せ出せ。仲が良いほど喧嘩するって言うじゃない。青春よね~」

 ソノの励ましにもコトは顔を伏せたままだ。ソノはコトの隣に腰掛けると、少し真面目な口調になった。

「ね、コトちゃんって勘がいいから、相手が何も言わなくてもわかっちゃって、それをすぐ口に出しちゃうでしょ。でもそれって相手にしてみると、結構きつく感じるたりするもんだよ。ショウちゃんは普段からあまり自分の事を話さないから、そんな事されると余計に話し辛くなるんじゃないかな。ちょっと聞いてあげようと思うだけで、相手の気持ちは随分ほぐれたりするもんだよ」


 ソノの言葉は落ち込んでいるコトの心にゆっくりと染み込んでいった。コトは顔を上げた。


「ありがとう、ソノさん」

「おっ、元気出たかな。じゃ、ショウちゃんなんか放っておいて、二人で美味しいものでも食べに行く? バイト代を貰ったばかりだから、おごっちゃうよ」

「ううん、もう少しここにいるわ、せっかく来てくれたのに、ごめんなさい」

「そっか~、残念。あ~あ、コトちゃんやショウちゃんの青春を垣間見ようと楽しみにしていたのにな~」

 ソノは名残り惜しそうに席を立った。

「今日じゃなくてもいいから、何かあったら連絡して。明日からの四連休、私も暇してるから。遊びたくなったらいつでも言ってね」

「暇って、ソノさん、卒論があるでしょ」

「いや~ん、そんなこと思い出させないで。じゃ、私、帰るわ。またね」


 閲覧室を出て行くソノにコトは心の中で感謝した。先程まで落ち込んでいた気持ちは徐々に回復しつつある。ソノだけが持つあの明るさの、ホンの少しでもいいから自分が持てたなら、コトはそう思わずにはいられなかった。


 * * *


 運動場では体育会系の部活動の真っ最中。丁度、剣道部の新入部員がグラウンドをランニングしている、それを指揮するのはライだ。


「ほらほら、ペースが落ちてるぞ。明日から連休だからって気を抜くなよ」

 ライは剣道着だが新入部員は体操着である。一学期の中間試験までは新入部員には竹刀を持たせず、体力作りをさせるのが剣道部の方針だ。

「おや、あれは」


 ライは校庭の隅を歩く二人の男女に気がついた。一人はショウだ、しかしもう一人はコトではない、誰だろう。余所見をしながら走るライの視線の先に居る二人に気がついた父つぁんが、意外そうな顔をした。


「あれ、ショウとモリさん、なんであんな所に」

「モリ?」

「そうですよ、ライ先輩。最近一緒に昼飯を食べている子です。コトさんも交えて四人で食べてるんですが、それにしてもショウの奴、いつの間にあんなに仲良くなったんだ」

「そうなのか、ふうん」

「何か、気になるんですか」

「あ、いや、別に。なんとなくな」


 ライは父つぁんにそう答えるとランニングを続けた。けれども心の中では何かが引っ掛かっていた。あの女子どこかで見たことがある……そんな気がしてならなかった。


 * * *


 やがて僕とモリは体育館横の自販機の前にやって来た。この一帯は芝生で記念樹も多く植えられているので、木陰で昼食を取る生徒も多い。モリは芝生の上に鞄を置くと、ようやく僕の左腕を離してくれた。


「ショウ君、私を見て」


 そう言って顔を上げたモリを見た時、僕はその言霊の強さに我が目を疑った。其角と同等、いやそれ以上の濃さを持つ言霊の影がモリの瞳から立ち上がり、一気にモリの体全体に覆いかぶさった。知らぬ間に僕の手から鞄が離れ芝生の上に落ちた。


「杜国、坪井杜国……」

「ようやく気がついていただけましたか、芭蕉翁。なれば吟詠境へ参りましょう」


 行ってはいけない、僕は理由もなくそう感じた。が、杜国が詠んだ発句は芭蕉のものだった。自分の発句を詠まれた僕の言霊は、まるでそうするのが当たり前であるかのように発句を詠まされていた。


「鷹ひとつ見つけて嬉し伊良湖崎……」

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