言えなかった言葉
翌日、昨日までの胸のもやもやが綺麗さっぱりなくなった僕は、機嫌よく昼食の席に着いていた。
「お、何かいい事でもあったのかい」
と尋ねる父つぁんに、
「まあね」
と返事をする。確かにいい事には違いない。久し振りに幼馴染と話ができたのだから。父つぁんは少し笑って、しかしそれ以上は訊こうとしない。他人の領域には深く立ち入らない、いつもの父つぁんだ。僕は包みを広げて今日のおにぎりを手に取った。
「あの」
横を見るとモリが立っていた。昨日、話をしたとはいえ、教室でモリから話し掛けられるのは初めてだった僕は、図らずも胸を高鳴らさせてしまった。
「何?」
と訊き返すと、少しはにかんだ表情でモリは言った。
「よかったらお昼、一緒に食べませんか。もう五月で窓際の席は暑いし、コトさんの席もここなので、その方がいいかなって思って」
見ると、こちらの返事も待たずにコトは自分の机を動かして、父つぁんの横にくっ付けている。相変わらずの問答無用ぶりだ。
「もちろんOKだよ。女子と食べた方が楽しいしな。そうだろ、ショウ」
父つぁんの顔は今まで見たこともないほどに崩れている。父つぁんの返事を聞いたモリは、僕の隣の机を移動させて横にくっ付けた。そこの席の女子は、昨日までコトとモリが食べていた席で、窓にカーテンを引いて他の女子と食事をしている。相当周到な根回しがされている気がしないでもないが、そこは敢えてツッコまずにおく。
モリは僕の隣に座ると、父つぁんに声を掛けた。
「あの、私もトツさんって呼んでいいですか?」
「もちろん、こちらは何と呼べばいい?」
「私はモリで」
「よろしくモリさん」
父つぁんは最初から「さん」を付けて呼んでいる。同級女子呼び捨て断固反対を唱えるコトの思想は、父つぁんにも深く浸透しているようだ。
モリが自分の弁当を取り出した。女子にしては大きいなあと思いつつ蓋を開けた中身を見た時、僕は小さく驚きの声を上げた。おにぎりだった。ふりかけで色とりどりに綾取られ、真ん中に海苔を巻かれた俵型のおにぎりが幾つも並んでいる。
「へえ~、おにぎりかあ。俺やショウのとは違ってお洒落な感じだな。それ、自分で作ったの?」
感嘆の声を上げる父つぁんに対して、モリは恥ずかしそうに、
「今日だけ特別なんです」
と頷き、それから僕に向かって、よく見てくださいと言わんばかりに、おにぎり弁当を傾けてみせた。
「ショウ君、おにぎり好きでしょ。よかったら食べてください。昨日のお礼です」
父つぁんの声が興奮気味になった。
「昨日の礼? おい、ショウ、いい事あったのいい事って、もしかしたら」
「なんでもないよ。傘を持っていなかったから送ってあげた、それだけだよ。でも、お礼なんて、そんな大した事してないのに」
僕はそう言いながらコトを見た。コトは口元に笑みを浮かべてこちらを見ている。昨日はうまくやれたみたいね、そう言っているようだった。もっとも、口からは別の言葉が出てくるのだが。
「いいじゃない、ショウ君。せっかく作ってきてくれたんだから、食べてあげなさいよ」
その命令口調なんとかなりませんか、と心の中でコトに口答えしてから、
「それじゃ、ひとつ貰おうかな」
と紫色のおにぎりを手に取った。食べてみるとご飯は紫蘇味で中の具は梅干だ。モリが心配そうに訊いてきた。
「あの、お口に合いますか?」
「うん、美味しいよ」
そう答えてはみたものの、ご飯と具が同じ系統なのが少し物足りない。ご飯が紫蘇なら具は佃煮かな、などと思いながら食べる。そんな僕を羨望の眼差しで眺めている父つぁんに気づいたモリは、
「あ、トツさんもよかったらどうぞ」
とおにぎりを勧める。喜びに満ちた笑顔でモリのおにぎりを手に取った父つぁんは、一口食べて感動の賛辞を述べ始めた。おにぎりの美味しさより、女子におにぎりを貰ったという事実に感動しているようだ。
友達の多い父つぁんではあるが、そのほとんどは、と言うか全員、男子なのだろう。父つぁん、よかったなあと僕はつぶやく、心の中で。
――ほう、握り飯か。主様よ、食わしてくれぬか。
佐保姫だ。僕のおにぎりの時は知らん振りだが、さすがにこのおにぎりには興味を引かれたようだ。しかし今ここで吟詠境に入るわけにもいかないので、昼食が済んで席を戻してからと言っておく。それで納得したようで、それ以上は何も言ってこなかった。僕はモリのおにぎりを食べてしまってから、今度はモリに自分の弁当を見せた。
「お返しに僕のおにぎりも食べてみてよ」
相変わらず具がひとつだけのコト用のおにぎりを僕は毎日持参していた。結局自分で食べることになるのだが、今日はそれをモリに食べてもらうのも悪くない。
「え、でもそれじゃお礼にならないし」
「いいよ、僕はお礼なんて思ってないんだから。僕のおにぎりも食べてみて」
「それじゃ」
遠慮がちに僕のおにぎりに手を伸ばすモリ。
「お、おい、モリ……」
理由はわからないが、父つぁんが心配そうにモリを見ている。コトは知らぬ顔で自分の弁当を食べている。モリは一番小さいおにぎりを手に取った。それはコト用のおにぎりではないものの、今日の自信作だ。手に取ったおにぎりを食べ始めたモリが、いきなり口を押さえた。
「……んぐっ! シ、ショウ君、これ!」
「気に入ってもらえたかな。それは滋賀で買った和菓子を参考にして作ったデザートおにぎりなんだ。中身は小豆餡とすりつぶした梅肉、それに砕いたハッカ飴を混ぜたもの。結構イケるでしょ」
「う、うん、美味しいよ」
ジャリジャリと音を立てながら食べ続けるモリの顔が、なぜか辛そうに見える。しかし「おい、無理するなよ」と心配そうに声を掛ける父つぁんに「大丈夫です」と言いながらも、とうとうモリは食べ切ってしまったのだから、今日のおにぎりは大成功だったと言えるだろう。
「当てが外れたわね、ショウ君」
それまで黙って弁当を食べていたコトが口を開いた。
「なんだよ、当てが外れたって」
そう訊き返した僕を無視して、コトはふふんと鼻先で笑いながらモリに言った。
「ね、モリさん、どうしてショウ君がそんな激マズのおにぎりを作ってくるか教えてあげましょうか。ショウ君はあなたの食べかけのおにぎりが欲しかったのよ」
またその話かと僕は思う。同じボケを二度使うとは、コトにしては芸がない。
「どうしてですか」
「あら、わからない? モリさんと間接キスがしたいからよ。本当は全部食べ切らずに、こんなの食べられないって突き返して欲しかったのよ。でも残念だったわね、ショウ君。モリさん、綺麗に全部食べちゃったから」
「そうだったんですか」
モリの頬が少し赤くなった。恥ずかしそうに顔を伏せて、まるで独り言みたいにつぶやく。
「そんな回りくどいことをせずに言ってくれれば、食べかけのおにぎりなんて幾らでもあげたのに」
僕たちの周りの空気が一瞬にして凍り付いてしまったかの様だった。こ、これは天然ボケというやつか。コトも父つぁんもそして僕も、完全に言葉を失い、ただ恥ずかしそうにしているモリを見ているばかりだった。場の異様な雰囲気に気がついたモリが僕らを見回した。
「あ、すみません、私、変なこと言いましたか?」
「そ、それにしても、ショウ君、自分でお弁当を作るの、考えた方がいいんじゃない」
コトが強引に別の話題を持ち出してきた。彼女らしい力業である。
「どういうこと? 自分で作るのの何が悪いんだい」
「栄養が偏りすぎているわ、そう思わない? 素直にお母さんに作ってもらえば。それが無理なら、おにぎりの具の種類だけでも考えてもらうとかできないの」
これは辛い話題だった。僕は適当に「そうだね、考えてみる」と答えた。が、今日のコトはそう簡単には許してくれなかった。
「考える必要なんてないじゃない。一言会話するだけ、それで終わるわ。それとも、ショウ君、そんなこともできないの? 母親に頼み事もできないなんて、ひょっとしてマザコン?」
コトにとっては普段の毒舌のひとつに過ぎなくても、僕にはかなりキツイ言葉だった。何も言えずに下を向いていると、隣からモリの震えるような声が聞こえた。
「コトさん、それは、言いすぎです」
まずい! と僕は思った。モリは僕に母親が居ないことを知っているのだ。
「モリさん、待って、その話は」と僕が止める前に、モリは喋り出してしまった。
「ショウ君のお母さんは小さい頃に亡くなったんです。だから、ショウ君は自分でお弁当を作るしかないんです」
おずおずと、僕はコトを見た。彼女の顔が暗く陰っている様な気がした。コトのこんな表情を見るのは初めてだった。
「そう。知らなかったとはいえ、言い過ぎたわね。謝るわ、ごめんなさい」
コトは食べかけの弁当を片付けると席を立ち、机を元の場所に戻した。そしてそのまま教室を出て行った。
「ごめんなさい、私、余計なこと言っちゃって」
「モリさんが謝ることないよ」
そう、悪いのは今まで秘密にしていた自分なのだ。誰のせいでもない、自分のせいなのだ。
「なあ、ショウ、お前どうして今まで話さなかったんだ」
いつになく真面目な顔で父つぁんが話し掛けてきた。僕が「ごめんな、言い出しにくくて」と答えると、父つぁんは顔を寄せて、真剣な声で言った。
「違うよ。言いたくない事は言う必要はないし、俺や他の奴らにはそんな事は言わなくていい。でも、コトさんには言っておくべきだったんじゃないのか」
「どうして?」
「どうしてって、お前、わからないのか。いいか、俺たちは他人に何か言う時、自分の言葉が相手を傷つけるんじゃないかと思って、変に本音と違うことを言ったりする。お前のおにぎりを不味いと言わないのもそのひとつだ。でも、それは相手を思ってのことじゃない、あくまで自分が嫌われるのを避けたいから、つまり自分を思ってのことなんだ。でもコトさんは違う。お前のためになることなら、どんなことでも正直に言う。あの人は自分が傷つくことを恐れていないんだ。そんな人だからこそ、お前も彼女のために傷つくことを厭わぬ覚悟でいなきゃいけないと思うぜ。でなきゃコトさんが可哀想だ」
驚きだった。いつもは凡庸とした男という印象しかない父つぁんが、これほど的確に僕とコトとの間柄を観察していたとは思いも寄らないことだった。
「と、俺もちょっと言いすぎたかな、気に障ったならゴメンな」
最後にそんな侘びを入れるのも父つぁんらしかった。
「いや、父つぁんの言う通りだよ、ありがとう」
僕は礼を言った。実際、父つぁんの忠告は本当に嬉しかった。
ただ、父つぁんもそして恐らくはモリも、本当は僕のおにぎりを不味いと思っていたのだとわかったことは、少なからぬ衝撃ではあった。まあ、人の好みはそれぞれなので二人の口に合わなかったとしても仕方ない。むしろ、そんな不味いおにぎりを完食してくれた友情に感謝すべきだろう。良い友を持ったものだ、と僕は自分で自分を納得させた。
結局、コトは午後の授業が始まるまで教室に戻って来なかった。佐保姫と吟詠境に行くこともなかった。「心が動揺しておる今の主様では、旨い握り飯は詠めぬじゃろう」というのがその理由だった。
放課後、僕は手早く自分の受け持ちの掃除を済ませて教室に戻った。コトと話がしたかったのだ。
昨日と同じようにしばらく待ってみたが、コトは戻って来ない。もしかしたら先に図書室に行ったのかもと思って行ってみたがやはり居ない。
そのまま昇降口へ行きコトの下駄箱を見ると上履きになっている。先に帰ってしまったのだ。僕は靴を替えて駅に向かって走り出した。どうしても今日中にコトに謝りたかったのだ。やがてコトの背中が見えてきた。
「コトさん!」
僕が呼び掛けるとコトは立ち止まってこちらを振り向いた。
「何?」
聞き慣れているはずの言葉がいつになく冷淡に聞こえた。僕は息を整えながら話す。
「コトさんに一言謝りたくて。今日はごめんなさい。もっと早く話すべきだったのに」
「謝るのは私の方でしょ。あなたに母親が居ない事くらい気づいて当然だったのに、気づけなかったんだから。あなたが謝る必要なんてないわ。それとも」
コトの瞳が一層冷淡に光った気がした。
「あんな謝り方じゃ不満なのかしら。もっと私に謝って欲しくて、こうして追いかけてきたの?」
「違うよ、そんな訳ないじゃないか。言うべきことを言わなかった、それを謝りたかっただけなんだ」
「そう、わかったわ。でも私に言いたくないのなら無理に言う必要はないのよ。あの子には言えても私には言えない、それだけのことでしょ」
この言葉に僕ははっとした。違う、コトは勘違いしている。母親のことは誰にも話してはいないのだから。そうか、コトはモリが僕の幼馴染であることを知らないんだ。自分だけが知らされていなかった、そう思っているんだ。
「違うんだよ、コトさん、モリは……」
「これ以上、私に恥をかかせないで!」
僕の言葉は悲鳴にも似たコトの声に消されてしまった。こんなに荒げたコトの声を、僕は聞いたことがなかった。
「私は謝った、あなたも謝った。それで十分でしょ。もうこの話は止めにしてちょうだい」
コトは僕に背を向けると駅に向かって歩き出した。その後ろ姿に声を掛けるだけの勇気を僕は持っていなかった。
* * *
「主様よ、この味はなんじゃ。これが最後の菓子だと言うのに、こんな物を食わせられるとはのう」
佐保姫がいかにも不満そうな顔で和菓子を食べている。ショウはぼんやりとした虚ろな眼でそんな佐保姫を眺めていた。コトと別れて帰宅し、夕食を済ませた後、吟詠境に入る前に食べた和菓子の味も思い出せぬほど、今のショウは心ここにあらずといった風情である。
「やれやれ、なんという腑抜けぶりじゃ。こんな有様では旨い物にはしばらくありつけそうにないのう」
吟詠境の食べ物の味を決めるのは、その食べ物の素材だけでなく、詠者の想いの深さである。味もわからぬまま詠まれたのでは、味気ないのも無理はない。佐保姫は苦々しい顔でお茶をすすった。
「時に主様よ。昨日から不思議に思っておったのじゃが、毎日一個だけ普通の握り飯を持参しておろう。あれは何のためなのじゃ。子細を話して給れ」
ショウは佐保姫に請われるままに、おにぎり弁当のいきさつを話し始めた。パンばかり食べている自分を見てコトがおにぎりを勧めたこと。しかしそれはコトがおにぎりを貰うためでもあったこと。一回食べたきり、コトは二度とおにぎりを要求しないことなどなど。お茶を飲みながら聞いていた佐保姫はショウの話が終わると、深いため息をついた。
「なんと、呆れたことよのう、主様よ。おのこの作る握り飯を欲しがるおなごが居ると、本当に思っておるのか」
「だって、コトは最初の日は僕のおにぎりを食べたんだよ」
「それはな、主様にこう言って欲しかったからじゃ。主様風に言えば、『僕のおにぎりを食べたんだから、コトも僕におにぎりを作ってよ』とな」
「どういうこと?」
「よいか、コトは主様の貧弱な昼飯を見て、なんとかしてやりたいと思ったのよ。じゃが、自分から言い出すのは気が引ける。そこで主様に握り飯を作らせ、それを食し、その見返りに今度は握り飯を作ってくれと主様が請うのを期待したのじゃ。さすれば主様のために堂々と握り飯を作ってやることができるからのう」
佐保姫の言葉はショウには思ってみない内容だった。コトの本当の目的は自分のためにおにぎりを作ること……いや、佐保姫は間違っている。
「でも、コトは最初のおにぎりは不味いと言って捨てようとしたんだよ。おかしいじゃないか」
「当たり前じゃ。そんな不味い握り飯を食わせられたら怒って当然であろう。コトもこう考えたろうな、これは己に対する嫌がらせだ、わざと不味い物を食わせようとしたのじゃと。が、そうではないとわかって、あのおなごは後悔したはずじゃ。なればこそ、主様のためにあの旨い握り飯を作ってきたのじゃ。あれだけの物を食わされても、まだおなごの真意に気づいてやれぬとは、なんと情けない主様であることよ」
ショウは滋賀への旅の途中で食べたおにぎりを思い返した。あのおにぎりにはショウを喜ばせたいというコトの想いが間違いなく籠もっていた。では、佐保姫の言葉は本当に正しいのか。
「のう、主様よ、おなごがおのこのために飯を作る時は、己が旨いと感じる物を作る。それは逆に言えば腕自慢にも成りかねぬ。今日の昼に食べたあのおなごの握り飯も、主様はさほど旨いとは思わなんだろう。じゃが、コトは違う。主様だけが旨いと感じる握り飯を作ってきた。あれほど情が深きおなご、主様には勿体無さ過ぎるわ。」
佐保姫が立ち上がると、いつものように薄畳と角高杯が消えた。今日はこれで立ち去るつもりのようだ。まだ聞き足りないショウは慌てて佐保姫に尋ねた。
「そんな目的でおにぎり弁当を提案したのなら、モリに気を向けるように仕向けたコトの目的はどこにあるんだい?」
「それくらい自分で考えなされ。わらわは縁結びの神ではないぞえ」
佐保姫に回答を拒絶され、ショウはがっかりした顔をする。そんなショウを眺めながら佐保姫は袂を振った。春霞が棚引き出す。
「今日のコトは機嫌が悪かったが、それは己が言い出した握り飯でも、主様の貧相な昼飯を改善できない苛立ちがあったのじゃろう。確かにコトは余計なことを言いすぎて、時として相手を傷つけることがある。じゃがな、主様のように何も言わずとも相手を傷つけることもあるのじゃ。一度腹を割ってとことん話し合ってみなされ。でなければ、いつまで経っても旨い飯にありつけぬわ」
まだ何か言いたそうなショウを残して佐保姫は消えてしまった。気抜けしたようにその場に突っ立っていたショウも、やがて挙句を詠んで吟詠境を閉じた。
* * *
「おーい、いるかあ!」
吟詠境から出た途端、階下から大声が聞こえてきた。慌てて部屋の外へ出て階段の下を見ると先輩が立っていた。
「お、いたいた。もう眠っちまったのかと思ったぞ」
「まだ八時ですよ。今時の小学生だってこんな早くから寝ないでしょ。佐保姫と吟詠境に行っていたんですよ」
いつもと変わらぬ先輩の軽口だ。それにしても父が帰宅しているこんな時間に訪問とは珍しい。余程急な用事でもあるのだろうか。そう思いながら階段を下りる僕に、まるで待ちきれないとでも言うように先輩が声を掛けた。
「明日、ソノさんが学校に来るらしいぞ」
「ソノさんが?」
「さっき電話があったんだ。教育実習の最後の打ち合わせだってさ。中間試験明けにすぐ実習が始まるんで、試験期間に入ってゴタゴタする前に済ませておくって言ってたぞ」
こんな用事でも電話を使わず、わざわざ直接言いに来るのは昔から変わらないなあと思う。もっとも歩いて数秒の隣同士なのだから、掛かる時間にそれほど違いはないだろう。
「そうなんだ。でも、それなら直接僕に電話してくれればいいのに」
「いや、俺が伝えておくからいいって言ったんだ。電話したらお前じゃなく、十中八九親父さんが出るだろ。ソノさんも余計な気を遣わなくて済むじゃないか」
携帯を持たない自分を少し申し訳なく思ってしまうのはこんな時だ。ソノさんに余計な気を遣わせまいと気を遣ってくれる先輩に感謝である。
「ソノさん、連休の前日に来るってことは、もしかしてまた僕たちと、どこかで遊ぶ相談でもしたいのかな」
「かもな」
「でも、最近、外出してばかりだし、もうすぐ試験もあるし、ちょっと考えちゃうよ」
「おい、冷たいこと言うなよ。せっかく来るんだから会ってやれよ。それにソノさん、あれでも結構気に掛けていてくれるんだぜ。俺は放課後は部活があるからそんなに時間は取れないけど、お前やコトさんは暇してるんだろ。少しくらい時間を割いてやってもいいじゃないか」
コト……そうだ、ソノさんが一緒ならコトとも話がし易い。ソノさんに間に入ってもらえば、今のこの閉塞状況も容易に打破できるのではないだろうか。今度こそ何もかも話してしまおう。モリのことも、彼女に宿っている言霊のことも。
「うん、わかった。僕も話したいことがあるんだ。ちょうどいいや」
「正門の前で待ってるってさ。授業が終わったらコトさんと一緒に行ってやれよ。何か美味いものでも食わせてもらえるかもしれんぞ。じゃあな」
食べ物の話題で締めるのがいかにも先輩らしい。それだけ言ってドスドスと玄関へ歩いて行く、その後ろ姿が今晩だけはなぜかいつもより広く見えた。
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