予期せぬ吟詠境
僕たちは川べりにいた。そう、初めてあの老人と会い、初めてコトと一緒に二人で歩いたあの川べりだ。
「雨、小降りになってきましたね」
ポニっ娘は傘の下から出ると、すっかり若葉になってしまった桜の木の下に一人で立った。
「私、ここに来たことがあるんです」
そう言って、ほんわりとはにかんだ顔するポニっ娘を見ながら、僕は僕の中で何かが蘇ってくるのを感じた。桜の木の下に立って、優しい顔を涙で濡らしていた女の子。これに似た情景をどこかで見たことがある。その情景の中でポニっ娘の横には誰かが居る。
その誰かは……僕、横に立っているのは僕だ。
「君は……」
「思い出してくれましたか」
そうだ、僕は思い出した。遠い昔、まだ小さい頃、母が亡くなって泣いていた時、慰めてくれた女の子がいた。「大きくなったらお医者さんになって、誰も泣かなくて済むようにしてあげる、だから泣かないで」そう言ったその子も髪を後ろで一つに束ねていた。
家の近所に住んでいて、先輩と一緒に遊んでいた子。母が亡くなってほどなくして引越ししてしまった子。それが彼女だったのだ。僕は傘を畳むと、桜の木の下にいるポニっ娘に駆け寄った。
「どうして教えてくれなかったの。今まで黙っているなんて、どうして」
「気づいて欲しかったんです。私が私だってことに」
それからポニっ娘はこれまでのことを簡単に話してくれた。引っ越したのは三つ隣の町に家を新築したためで、そこにずっと住んでいること。中学生の時、ここの桜祭りに遊びに来て僕を見掛けたけれど、気づいてはもらえなかったことなど。
「今の高校、通学に時間がかかるんですけど、もしかしたら一緒に通えるかも知れないと思って決めたんです。でも、まさか同じクラスになれるなんて」
ポニっ娘の純朴な笑顔は僕の胸を打った。自分はとっくに忘れてしまった約束事を今まで大切に心に留めておいてくれただけでなく、僕に会うためにこの高校を受けてくれたのだ。その健気な想いにどんなお礼の言葉で応えてあげればよいのか、僕には思いつかなかった。
「ごめん、今まで気づいてあげられなくて」
僕は謝っていた。実際、それが今の僕の正直な気持ちだったのだ。顔を伏せる僕を見てポニっ娘は驚いたように言った。
「謝ることないです。それに今、気づいてくれたじゃないですか、それで十分ですよ、ショウ君」
「その呼び方……」
「コトさんから聞いたんですよ。芭蕉の芭を取ってショウ君なんでしょ。あと、昔、一緒に遊んでいた先輩はライさん、大学生のソノさん、後輩のリクちゃん、いつもお昼を一緒に食べているトツさん」
本当に何でも話してるんだなあコトは、と改めて思う。
「私もこれからショウ君って呼びますね。あ、それから私のこと、できればモリって呼んでくれませんか」
「モリ? いいけど、何か理由でもあるの」
「ううん、なんとなくです。ちょっと苗字っぽいですけどね」
あまり女の子らしいあだ名ではない気もするが、本人がそう呼んでくれというのだから、その意思は尊重すべきだ。
「わかったよ。モリさん」
「あ、呼び捨てでもいいですよ」
「いや、コトさんも、さん付けで呼んでいるから」
「そう言えばそうですよね。わかりました」
ここで僕は当初の目的を思い出した。コトがどれくらい話しているのか、少し探りを入れてみよう。
「あの、それで僕やコトさんのことはどれくらい聞いているのかな」
「えっと、同じ中学出身で、今は文芸部の部員同士。この連休は部活動で滋賀へ行って来た。あ、それからショウ君はコトさんに忠告ばかりされるので、いつもお互いに悪口を言い合っているんでしょ。仲良くした方がいいですよ、コトさんは親切で言ってくれているんだから」
前半は正しいが後半は明らかにおかしい。悪口、と言うか毒舌を浴びせるのはコトの方で、僕はそれを浴びるだけだ。こちらから悪口を言った覚えなんて全然ないのに、言い合っていることにしてしまうとは。しかも悪者はあちらではなくこちらになっている。コトの奴め。だが、それを訂正するのも面倒なので、ここはひとまず流しておく。
「ははは、コトさんって本当にお喋りだね。そんなことまで話してるんだ。それで、それ以外は?」
「それ以外って……他に何かあるんですか?」
「あ、いや、そんなもんだよね、うん」
僕は胸を撫で下ろした。この口振りなら恋文短冊の一件は、知られていないと判断してもいいだろう。どうやら杞憂だったようだ。一昨日から続いていた胸のもやもやが晴れて、僕の気持ちはようやく楽になった。ところが、続いてモリの口から出た言葉で、その楽な気持ちが一気に吹き飛んでしまった。
「それでショウ君とコトさんは、どんな仲なんですか。」
完全に意表を突かれてしまった。探りを入れたつもりが逆に探りを入れられるとは。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこの事だろう。とはいえ、想定外の質問だとは言い難い。なにしろ休日に一緒に大学キャンパスを訪れたり、他県へ遠出をしたりしているのだから。特別の間柄ではないかと疑われるのも無理はない。
「えっと、それは……」
口籠りつつベストな回答を模索する。まさか正直に「告白したけど振られた仲です」なんて言えるわけがない。結局、僕はまたもやお決まりの言葉を口にした。
「べ、別にただのクラスメイトで同じ部の部員ってだけだよ」
「そうなんだ。だけど、コトさんはそうは思ってないですよ、たぶん」
そうは思ってない……どういう意味だろう。モリの真意を量りかねて返事もできずにいる僕が余程おかしかったのか、モリはクスッと顔をほころばせた。
「ショウ君、子供の頃から少し鈍いところがあったからね。でも、私だって負けないよ」
「負けないって……」
またもや答えようのない言葉を聞かされて戸惑うばかりだ。そんな僕を、小首を傾げて見詰めるモリの瞳は、まるで疑うことを知らない幼子のようで、正直に話せなかった僕の胸はチクリと痛んだ。
僕はモリから目を逸らして前を流れる川を見た。いつの間にか切れ始めた雨雲の間から差す西日を浴びて、川面は橙色の光でキラキラとしている。僕にならって川の流れを眺めていたモリが、誰に言うともなく口を開いた。
「ね、何か好きな句を詠んでくれない?」
「今、ここで?」と訊き返すと、モリは「はい」と答える。どうしようかと思案する僕の頭に浮かんだのは、目の前の川から連想されたお馴染みの句だった。
「じゃあ、芭蕉の句で。五月雨をあつめて早し最上川」
詠み終わると同時に、不意に僕を襲った感覚。これは……違う、僕が詠んではいない。それはいつも吟詠境へ入る時の感覚と同じだった。
「五月雨をあつめて早し最上川……」
* * *
ショウの目の前には川が流れていた。はっきり見えるのはそれだけ、他の景色はぼやけている。そしてショウは自分の姿を見て驚いた。道服を着ている。去来に貰った風呂敷も袈裟懸けに括り付けてある。
『ここは、吟詠境! しかし今の自分の力で吟詠境に一人で入れるはずがない。では、佐保姫が? いや、佐保姫の姿はない。その代わりに学生服を着た少女がショウに背を向けて立っている。モリだ。まさか、モリが言霊を?』
「あら、ここ?」
意識も姿もモリのままだ。後ろを振り返ったモリが驚きの声を上げた。
「ショウ君、その格好!」
ショウは慌てて挙句を詠んだ。モリには言霊のことは知らさない方がいい。理由はわからないが、そんな気がしたのだ。
「挙句、岸にほたるを繋ぐ舟杭!」
* * *
僕は川を見ていた。そして目の前にはモリ。先程と同じように少し首を傾げて僕を見ている。
「あれ、今、ショウ君が着物を着ていたような気がしたけど……」
「そ、そう。夢でも見ていたんじゃないかな。それとも俳句を聞いて、そのイメージがそのまま目に見えちゃった、とか」
我ながら苦しい説明だと思う。だが先程激変した景色の理由を吟詠境以外に求めるのなら、この程度の説明しか思いつかない。それはモリも同じだろう。
「そうよね。やだ、私ったらショウ君にやっと気づいてもらえて、ちょっと舞い上がっちゃったのかも」
吟詠境が開いていたのは一瞬だったこともあって、モリはそれで納得したようだ。僕はモリの瞳をじっと見詰めた。何も見えてこない。モリは言霊を持ってはいないのだろうか、いや、自分の力で言霊を持たぬ者を吟詠境に引き入れられるはずがない。では、僕が見えるほどには宿り切っていないだけなのだろうか、今の僕には判断がつかなかった。
「雨、やんだね」
モリが空を見上げながら言う。ただの通り雨だったようだ。
「ここからは一人で帰ります。今日は送ってくれてありがとう」
「あ、ああ、気をつけて」
「また明日ね、ショウ君!」
モリは駅へ向かう道を歩き出した。途中一度だけこちらを振り返って手を振った。とても嬉しそうな顔をしていた。
「佐保姫、どうして教えてくれなかったんだい」
帰宅してから、彦根で佐保姫に買わされた和菓子を詠んで吟詠境に入ったショウが不満げに言う。先程から話し掛けられている佐保姫は、知らぬ顔で抹茶をまぶした白餡入りの餅菓子を食べている。返事をしない佐保姫にショウは少し苛立ってきた。
「モリのこと、佐保姫なら気づけないはずがないのに、どうして今日は何も言ってくれなかったんだい」
「何故わらわが一々そんなことを教えねばならんのじゃ」
ようやく口を開いてくれたものの、実につれない返事である。ショウは食い下がる。
「だって、リクの時は教えてくれたじゃないか」
「あれは旨い握り飯の礼じゃ。本来ならあんなことはせぬ」
「それは、そうかもしれないけど」
ショウの不満そうな顔を横目でちらりと眺めて、佐保姫はお茶をすすった。
「では、ひとつ忠告してやろうかの。あの言霊には近づかぬほうがいい」
佐保姫の言葉に、やはりモリには言霊が宿っているのだとショウは確信した。同時に最初に出会った言霊、維舟をショウに思い出させた。近づくなということは、あの維舟のように危険な言霊なのだろう。ではモリに宿っているのは蕉門ではなく別の流派の言霊なのか。
「いや、芭蕉の門人じゃ。しかも其角、嵐雪を遥かに凌ぐ俊英と言っても過言ではない力を持っておる」
心が読める佐保姫はショウが直接尋ねるまでもなく即答する。
「でも、それだったら芭蕉の言霊の片鱗を預かっているかもしれないよ。なのに近づくなって、どういうことだい」
「芭蕉の門人といえど一枚岩ではないからのう。あの言霊の刃は切れすぎるのじゃ。敵を傷つける鋭さで味方をも傷つける、言わば諸刃の剣じゃな」
「こちらには去来や其角や許六がいる。歯向かうようなら、言霊の力を奪ってしまうことも容易じゃないか」
「話はそれほど簡単ではないのじゃ。もし宗鑑に相見えることあらば、あの言霊の力は必ず必要になる。安易にあやつの力を奪っては、逆にこちらが窮地に立たされかねぬでのう」
ショウには佐保姫の言わんとする事がようやく飲み込めてきた。味方にすれば頼もしいが容易に味方にはなってくれぬ相手なのだろう。それに、そんな門人に芭蕉が己の力の片鱗を託すはずもない。その点では、近づくなという佐保姫の理屈は至極真っ当である。
「そういうことじゃ。あと数個の言霊の片鱗を身に付ければ、主様は芭蕉翁の姿と意識をその身に宿すことができよう。それまでは、あのおなごには近づかぬ方がよい。今の主様では扱いきれぬ相手じゃ」
言霊が危険なのはわかったが、それとモリとは関係ないだろう、とショウは思った。モリにすら近づくなという佐保姫の言葉は大げさすぎる。それに今のショウにとって、モリは父つぁんやコトと同じくらいの親友になってしまっている。疎遠にできるはずもない。
「彼女に近づいても、吟詠境に入らなければ全然関係ないじゃないか。発句を詠まなければいいだけのことだし」
「やれやれ、主様はこれだけ吟詠境に入っておきながら、何もわかっておらぬようじゃのう。吟詠境に入る発句は詠みたい意志が優先される。宿り手が詠みたくないと思っても言霊が詠みたいと思えば、詠まれてしまう。逆に宿り手が詠みたいと思えば、嫌でも言霊は詠まねばならぬ。だからこそ、主様の不甲斐ない発句でさえも芭蕉は詠んでくれておるのじゃ」
「それはつまり、両者とも詠む意志がなければ発句は詠まれず、吟詠境に入ることもないんだろう。それならモリに近づいたって安全じゃないか」
「主様はこれまで何度も宿り手の眼を見ているはず。何も感じられなんだかのう」
佐保姫はお茶を飲み干すと、キリリとした目でショウを見詰めた。成りは童女だがその眼は紛うことなき女神の神々しさに溢れている。その威圧的な輝きに、ショウは思わず畏怖の念を抱いた。
「そうであろう。我が眼を見ただけでも、主様の心は揺れ動くのじゃ。言霊を感じるのは宿り手の眼から。そして言霊も宿り手の眼を通して、己の意志を体現しようとする。力の強い言霊ならば、主様の心を揺り動かし、詠もうとする意志を引き出すことぐらい造作もないことじゃ。一種の
ショウは思い出した。維舟によって初めて吟詠境に引き入れられた時、ソノによって言霊を見る能力を引き出された時、何れも相手の目を見たのが切っ掛けだった。佐保姫の言い分は間違いなく正しい、それはショウにもよくわかった。だがそれでも、佐保姫の言葉には従いたくないという気持ちを、ショウは捨て切ることが出来なかった。危険な言霊を宿していたとしても、それはモリ本人には関係ないのだから。
「主様は言霊を軽く考えすぎておるようじゃのう。この様な業は本来、人が扱えるものではない。人の分を超えておる。言霊などには深く関わらぬ方が賢明なのじゃ」
幾分きつい口調でそう言うと佐保姫は立ち上がった。薄畳と角高杯が消える。
「人の世の物も掟も仕組みも人の手によって作られてきた。人の手を動かすのは人の意志、その意志は言葉によって構築される。言霊はその言葉を自在に操る業を司る。つまり、人の世を決定付ける力を持っているとも言えようぞ。軽々しく考えるものではないぞえ」
佐保姫は袂を振るといつものように春霞の中へ消えてしまった。ショウは物足りない気持ちのまま挙句を詠み、吟詠境を閉じた。
* * *
「ただいま!」
元気なモリの声が玄関に響いた。いつにもまして機嫌の良い声を聞いた母親も明るい声で返事をした。
「おかえり。雨に降られなかった?」
「降ってきたけど、クラスの子に送ってもらったの」
モリはそのまま二階に上がり自分の部屋に入った。鞄を放り出すと着替えもせず机の前にある本立てからノートを取り出した。
「気がついた、やっと気がついてもらえた」
それは彼女のお気に入りの言葉や文章が書き連ねられているノートだった。その中の一文を声に出して読む。
「……この句、やっぱり素敵だな。見つけた芭蕉さんも見つけられた
ウキウキした気分でノートの文字に目をやるモリ。そのモリの中で、彼女自身すら気づかぬ何かもまた、喜びに満ちた声を上げていた。
――芭蕉翁、ようやくお会いできましたね……
* * *
杜国が郷里の尾張から三河に流されてから二年を越える月日が経とうとしていた。最初の住まいの畠村からこの保美の里に移っても侘しい暮らしに変わりはない。
季節は冬、格子窓から差し込む弱々しい光を体に浴びて、杜国は芭蕉と初めて会った、今から三年前の俳諧連歌の座を思い出していた。あれも今と同じ冬の日だった。
座に着いているのは尾張蕉門の名古屋連衆五人と芭蕉。一区切りついて吟詠境を閉じたところで雑談に興じる門人たちは皆芭蕉より若い。
「聞くところによると火事で焼け落ちた芭蕉庵が、昨年再建されたとか。江戸の方々の財力もたいしたものですな」
「なれば、ここ尾張にも芭蕉庵に負けぬほどの庵を建ててみてはいかがであろう。掘川端には材木が山と積まれておりますからな」
大阪夏の陣の後、木曽三十三村と裏木曽三村は尾張藩領となった。そこから伐採される上質の木曽檜は、今や豊かな藩財政の一翼を担うほどになっている。材木商を営む
「それは名案じゃ。我ら尾張蕉門のために、芭蕉翁には一日でも長く滞在していただきたいが、それには
「うむ。その考えには私も賛成です。ではその普請、任せていただけませんか」
こう言い出したのは杜国であった。壺屋という米穀商を営み、町代も勤めている豪商である。連衆は顔を見合わせて頷いた。杜国殿なら大丈夫であろうと言わんばかりの顔付きである。杜国は自信あり気に一同を見回し、最後に芭蕉と顔を合わせた。自分に向かって大きく頷く師を見て、門人であること以上の親愛の情が沸き上がってくるのを杜国は感じた。
壺屋を実質的に切り盛りしているのは先代より仕えている老番頭である。杜国より庵普請の話を聞かされて、その資金繰りのために番頭は
一昨年から昨年にかけて起こった天和の飢饉の影響で、今年は秋になっても米の値段は高止まりしていた。が、来年の秋には米の値は普段通りになるだろう、ならばこの高値の内に売っておけば大きな益を得られる、これが番頭の見立てであった。
もっとも、蔵にある米は既に買い手が付いている。それ以上の米を売るために、今は手形だけを渡し、収穫の時期に約束した売値より下がっているであろう値で米を買い付けて、手形と交換するのである。その差額が益となる。
空米売買は町奉行よりきつく禁じられているのは番頭もよく承知していた。しかし、その罪を問われた者はこれまで唯の一人もいなかった。行為に及んでも被害が出なければ目をつぶってくださる、それが米商人たちの暗黙の了解になっていた。
番頭の見立て通り、翌年の作付けは順調だった。雨も日照も過不足なく田に降り注ぎ今年の豊作は間違いなかった。ただ一点、番頭の思惑を外れていたのは米の値だった。今年になっても下がる兆しは見えず、逆に上がり続けている。夏になれば豊作を見越して下がり始めるだろうとの淡い期待も空しく、米の高騰は止まらなかった。
窮地に陥った番頭は売り手形を乱発して値を下げようとしたが、それでも下がらぬ米の値に、とうとう杜国に全てを打ち明けた。売値と買値の差が、資産の全てを投げ打っても埋まらぬほどに開いていることを、この時初めて知らされた杜国は愕然となった。更に大店の旦那らしく全てを番頭に任せていた杜国は、空米売買が御法度であることすら知らなかった。
壺屋の醜態はたちまち公の知るところとなった。壺屋に倣って他に名のある米商人たちも同様の空米売買を行っていたことで、被害が大きくなり、もはや、黙認することもできぬ事態となっていたのだ。
杜国に言い渡されたのは死罪である。町代という身分であることと、他の商人をも巻き込んだ扇動者と見なされたことがその理由であった。この重すぎる裁きに尾張蕉門の門人たちはこぞって減刑の嘆願を行った。それが二代藩主光友の耳に入ったのが幸いした。杜国が昨年詠んだ「蓬莱や御国のかざり桧木山」という尾張藩を賛辞する新年の発句を光友は覚えていたのである。
藩主の一声で杜国は死罪から尾張領追放へと減刑され、家屋敷一切を没収の上、三河へと放逐された。以来、杜国はただ俳諧のみを心の糧として毎日を送っているのである。
空が陰ってきたようだ。格子窓から差し込む陽光が薄くなっていく。杜国は尾張での華やかな暮らしを思い出した。多くの門人とよしみを結び吟詠境で興じた日々。なにより思い浮かぶのは芭蕉の面影であった。罪人となってしまっては、二度と会うことも叶うまい、そう思うと、一層の切なさが杜国を襲うのだった。
「……おや?」
規則正しい音が聞こえた。誰かの足音のようだ。この辺りには杜国の屋敷以外、家らしい家はない。今時分、誰が尋ねてきたのだろう、杜国は建付けの悪い引き戸を開けて外に出た。遠目に二人の人影が見えた。どちらも笠を被った男だが片方は杖をついている。と、杖をついていない男が顔を上げてこちらを見た。杜国は目を凝らした。
「あれは、
越人は名古屋で紺屋を営む尾張蕉門の一人である。
「わざわざ会いに来てくれたか」
杜国が二人に歩み寄ろうとした時、もう一人の男も顔を上げた。見覚えのあるふくよかな顔に優しさの宿る眼、あれは、まさか……
「芭蕉翁!」
杜国は走り出した。間違いない。三年前に会ったきり一度も顔を合わせていないが、あの方を忘れるはずがない。駆け寄った杜国は芭蕉の両手を握り締めると感極まった声を出した。
「よくぞ、このような所まで」
「杜国よ、久しいのう」
傍らの越人が痩せた杜国の背中をさする。
「杜国殿、芭蕉翁は伊賀への帰郷の道中、名古屋に立ち寄られたのです。そこで貴殿の消息を知り、私を案内に立てて鳴海より二十五里の道を戻って来られたのです」
「なんと、勿体無きことか。芭蕉翁、あれだけの大口を叩きながら、何のお役に立つこともできず、このような恥ずかしい姿を晒すことになろうとは。我が身の無力を嘆くばかりです」
「いや、全てはわしのためにやってくれたことであろう。この境遇にそなたを追い込んだのはわしじゃ。どのように詫びればよいものか」
「詫びる必要などありません。こうして、この地で、この杜国を見つけていただけた、それだけで十分でございます」
その時、一羽の鷹が冬の曇天を切り裂くように三人の頭上を飛翔していった。空を見上げて去り行く鷹を眺める芭蕉、その口からひとつの発句が転がり出た。まるでこの再会の喜びが言葉となって現れ出たかのように。
「鷹ひとつ見つけて嬉し伊良湖崎……」
* * *
「夢……」
目を覚ましたモリはぼやけた頭で、おぼろげに覚えている夢の内容を反芻した。芭蕉も杜国も夢に見るのは初めてだったが、不思議と身近に感じられた。きっと寝る前まで読んでいた俳句の本のせいだ、と、そこまで考えて慌てて目覚まし時計を手に取った。大丈夫、まだセットした時間よりも早い。モリは着替えもせずに一階に下り台所に入った。既に母親が朝食と弁当の支度を始めている。
「おはよう、お母さん。ご飯は大目に炊いておいてくれたんだよね」
頷く母親に笑顔で応えて、モリも台所に立った。
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