四 杜国の想い

気になる娘


 桜の木の下で男の子が泣いていた。傍らに立つ女の子も涙顔で、泣きじゃくる男の子の手を握っている。


「母さんは、もう、もどってこないって」


 涙に詰まりながらの男の子の言葉に、女の子はただ手を強く握り締めることしかできない。


「おいしゃさんが、そう、父さんに言ったんだって」


 男の子の目からまたひとしきり溢れる涙。まるで自分の言葉で涙を誘い出してでもいるかのようだ。

 女の子は黙っていた。黙ったまま手を離すと、ポケットからみかんを、既に皮がむかれているみかんの房を取り出し、男の子の口に当てた。


「もう泣かないで」


 驚く男の子には構わず、女の子はみかんを口の中に押し込んだ。


「ね、あたし、おいしゃさんになる。そして、もう誰も泣かなくてすむようにしてあげる。だから、もう泣かないで」


 無理やり押し込まれたみかんを噛むと口の中に広がる香り。男の子の涙が止まった。それは母親がよく作ってくれたオレンジジュースと同じ香りだった……


* * *


「夢か」


 いつの間にか眠っていたようだ。微かに振動音が聞こえてくるから、まだ帰りのソノさんの車の中なのだろう。それにしても母が亡くなった時の夢なんて、どうして今頃見たんだろう。滅多に見ることなんてなかったのに……

 そこまで考えた時、覚えのある香りがした。これはシトラス、そうか、この香りのせいであんな夢を見たんだな。

 と、左肩が妙に重いのに気がついた。何か乗っているようだ。左側を向いてそれが何かわかった途端、僕は叫び声を上げそうになった。コトだった。本来なら先輩が座っているべき場所にコトが座っていて、僕の肩に頭を預けて眠っている。

 いや、眠ってはいない。目を開けてこちらを見ている。そして、静かにしろとでも言わんばかりに人差し指を唇の前に立てて、片目を閉じる。どういうことだ。眠ったままでいろということだろうか。


「あれ、起きたかな?」


 ソノさんの声だ。とりあえず僕は目を閉じると眠った振りをした。


「いや、まだ二人共よく寝てるよ。疲れたんだろうな。今日は色々あったから」


 これは先輩の声。コトと先輩は場所を替わったんだ。でもどうして。


「ごめんねライちゃんも疲れているのに、私の眠気覚ましにお喋りの相手をさせちゃって」

「あ、俺は全然平気ですよ。居眠り運転なんかされちゃ大変ですからね。話し相手くらいお安い御用ですよ。それで、さっきの話の続きですけど」

「現し身ね。去来にとっては初めての経験だったものね」

「はい、あれがどうして戒詠になるほど危険な業なのか、どうも理解できなくて」


 この話が聞きたくてコトは眠っている振りをしているのだろうか。僕も聞き耳を立てて二人の話を聞く。


「現し身は言霊と宿り手を繋ぐ業。今朝の吟詠境でのおにぎりみたいに、言霊が美味しく感じれば宿り手も同じ感覚を味わえる。でもね、逆に痛いとか苦しいとかいう感覚も宿り手に伝わっちゃうのよ。それはちょっと嫌よね」

「しかし、それはあくまで感覚だけで、実際の俺たちの体とは無関係なんでしょ」

「そうね、其角も最初はそう思っていたらしく、さして気にも留めずに現し身を使っていたみたいなの。でもある日、現し身を使って宿り手の女の子の姿で吟詠境に居た時、足を怪我してしまったのよ。そして吟詠境から出てみたら、怪我したのと同じ場所の宿り手の足が赤くなっていた」

「え、それって、現し身を使うと、感覚的なものだけでなく肉体の変化も宿り手に伝わるってことですか」

「ううん、違うわ。赤くなっていただけで怪我していたわけじゃないんだもの。つまりね、現し身は、言霊の力と生身の生命力、この二つの力を繋いでしまう業なのよ。吟詠境で言霊が季の詞を詠んで力を使ったり、言霊の力で形を成している体にダメージを受けたりして、言霊の力を減らしてしまうと、それに見合った分、生身の生命力も減ってしまうのよ。怪我した場所が赤くなっていたのは、その部分の細胞の生命力が減ってしまって炎症を起こした、と考えていいんじゃないかしら」

「それじゃあ、もし、現し身が詠まれている状態で、言霊の力を奪われたり、言霊の体に大きなダメージを負ったりしたら……」


 先輩の質問に、ソノさんはすぐには答えなかった。確信がないのか、言いたくないのか、あるいはその両方なのか、僕にはわからなかった。


「普通、人の生命力は言霊の力よりも大きいから、言霊の力を全て使い切ったとしても、それで宿り手の生命力も全てなくなるようなことはないと思うわ。ライちゃんやリクちゃんは特にね。ただ、私やコトちゃんはちょっと危ないかも」

「ソノさんはわかるけど、コトさんも?」

「コトちゃんの言霊って芭蕉さんのモノでしょ。あれで結構大きいのよ。そして一番危ないのはショウちゃん。潜在的な言霊の力があれだけ大きいと、使い尽くすまでもなく……」


 コトの体がビクリと震えた。僕もまたソノさんの言わんとすることの重大さを理解して、少なからぬ恐れを感じずにはいられなかった。


「そうか。吟詠境と現実世界とは基本的には無関係だと思っていたけど、そうでもないんだな」

「言霊の力も生命力も元は同じ、佐保ちゃんはそう言っていたわ。実際、ライちゃんだってわかっているはずよ。吟詠境での去来が自分の力を完全には発揮できてはいないって。それだけの共感をライちゃんは持てていない」

「うん、わかってる」

「もし、共感している以上の言霊の力を吟詠境で具現化させようとすれば、宿り手の気力と体力を犠牲にするしかない。昨日のライちゃんの例えで言えば、過電圧状態の電球にするしかない。つまり元々、吟詠境の言霊と実世界の宿り手は無関係ではいられないのよ。現し身はそれをより明確に繋ぎ合わせる業ってだけ」

「ありがとう、ソノさん。どうして現し身が戒詠なのかよくわかったよ。ところで現し身って姿だけでなく意識は移せないんですか?」

「……其角は、できないわね」


 淀んだソノさんの声。それは言うべきかどうか迷っているようにも聞こえた。幾分低い声でソノさんは続けた。


「現し身には二種類あるのよ。吟詠境全体に掛かる現し身と、ただひとりだけに掛かる現し身。そして意識が移せるのは後者、ある業の遣い手だけが出来る特別の現し身」

「ある業の……」

 先輩の言葉も淀んでいる。

「それは、もしかしたら、寿貞尼を……」

「う、う~ん……きゃっ!」


 先輩の言葉を断ち切るかの様に、コトはいきなり声を出すと僕を突き飛ばした。余りに勢いが強すぎて、僕の頭はゴツンと音をたてて窓ガラスに思い切りぶつかってしまった。


「お、起きたな」

「ど、どうして私、助手席じゃなくてここにいるんですか」

「ごめんね~、コトちゃん。助手席で眠るコトちゃんに釣られて私も眠くなっちゃうから、ライちゃんと場所を替わってもらったのよ」


 どうやらコトは眠ったまま後部座席に運ばれてきたようだ。それにしても演技なんだから、もう少し手加減して突き飛ばしてくれてもよさそうなもんだ。僕は「いてて」と言いながら斜めになった体を立て直した。


「お、ショウも起きたな。今日はお疲れだったな」

「あ、すみません、ついうっかり眠ってしまって」


 さっきから目が覚めていたとは言え、眠ってしまったのは本当なので、ここは素直に謝っておく。


「ところで、ソノさん。つかぬことを伺いますが、私を後部座席に運んだのって、ライさんですか?」


 コトがおずおずとした声で訊いた。それなりに親しい仲と言っても、男性に体を触られるのは少なからぬ抵抗があるのだろう。


「それは心配しないで、私が運んだから。コトちゃんって身長の割に体重が軽いんでびっくりしちゃった」

「そうですか」


 ホッとした顔のコトがいつになくかわいい。こんな表情ばかりならこちらの気分も安らぐのだが。一方、ソノさんは先程までの先輩との会話の時とは打って変わって、すっかりいつもの明るい口調に戻っている。勿論、口調だけでなくその内容も。


「あ、それとこれはお姉さんからのアドバイス。女の魅力は胸の大きさでは決まらないから安心して」

「ソノさん! 眠っているのをいいことに、どこ触ったんですか」

「つい出来心で、えへっ」


 そうなんだと思いながら、僕はコトの胸を見た。普段は気にも留めなかったが、確かにボリュームが少ないようだ。顔立ちは美人の部類だし、言葉や振る舞いも品があるのに、どことなく女っぽさに欠けるのは、こんな所にその原因があるのかもしれないと思ったりする。と、コトは僕の視線に気づいたようで、いきなり両手で胸を隠した。


「ショウ君、どこ見てるの!」

「え、あ、いや別に……うぐっ!」


 いきなりコトが僕に掴み掛かった。両腕を交差させてポロシャツの襟を掴み、絞め上げてくる。そして地の底から響いてくるような今まで聞いたこともない低い声で僕にささやく。


「ソノさんの言ったことは全て忘れなさい」


 まるで柔道の十字絞めのように、僕の首は完全にコトの両手に支配されてしまった。息ができず、声を出すこともままならない。


「コ、コトさん、苦しい……」

「早く言いなさい、ソノさんの言葉は全て忘れると、早く!」


 僕はコトの腕を掴んで引き離そうとしたがビクともしない。やがて頭が朦朧とし始めた。どうやら脳に来るべき血液がどこかで滞っているようだ。このままでは危ない、早く言わなくては、早く。僕は動かない口を動かして、言うべき言葉を口にした。


「すべて、わすれ、ます……」


 ふっと、首が楽になった。僕はコトから離れると、はあはあと荒い息をしながら、自由に呼吸できることの有難さを実感した。


「ライさん!」


 幾分怒り気味のコトの声に続き、狼狽気味の先輩の声が聞こえてくる。


「お、俺は何も聞いてません、知りません」

「そう、それならいいのよ」


 先輩の返事に満足したのか、コトは何事もなかったかのように座席に座り直した。これほど狂暴なコトの姿を見るのは初めてだ。これからはコトのいる場所で胸の話は絶対にするまい、僕は固く心に誓った。


「コトちゃ~ん、暴力はいけないわよ」

「ソノさんこそ、セクハラ発言はやめてくださいね」

「いやん、コトちゃん怖い。でもおかげで目が覚めたわ。飛ばすわよ」


 こうして覚醒したソノさんが頑張って車を運転してくれたおかげで、僕たちはほどなく家に着いた。行きとは逆に先に降りた僕と先輩の「今日はありがとうございました」の声を背に、コトを乗せて走り去って行くソノさんの車を見送った後、僕は早々に先輩とさよならをして家へ入った。

 居間でくつろいでいた父にはお土産の小鮎の佃煮を渡し、僕は買ってきた弁当を食べ、すぐに二階の自室へ向かった。早く吟詠境に行きたかったのだ。佐保姫には聞きたい事が山ほどある。頭の中で呼び掛けて答えてくれぬ佐保姫でも、吟詠境なら僕を無視し続けることもないはずだ。

 部屋に入った僕は持参したお茶の湯呑みを机に置き、発句を詠んで吟詠境を開いた。


 * * *


 正座をしたショウは途方に暮れた顔をして、悠然と弁当を味わっている佐保姫を眺めていた。先程から何度も話し掛けているのに、佐保姫は全く返事をしない。ショウの心が読める佐保姫に、問い掛けなどする必要もないのだが、返答してくれぬ以上、声に出さずにはいられない。ショウは無駄だろうと思いながらも、また同じ言葉を繰り返した。


「教えてくれないかな、佐保姫」


 まるで何も聞こえはせぬという風情で、箸を動かし続ける佐保姫は無論、黙ったままだ。ショウは半ば諦めの表情で、気ままな女神様を眺めていた。


「今日の弁当はあまり旨くないのう、主様よ。もう少し想いを込めて詠んではくれぬか」


 食べ終わった後、不満を口にしてお茶を飲む佐保姫。ショウはお返しとばかりに返事をしなかった。それに、こんな気懸かりがある状態で、想いを込めた発句など詠めるものではない。旨い弁当を食べたいのならこちらの質問に答えてくれればいいのに……そんなショウの気持ちを読んだ佐保姫は、ふっとため息をついた。


「やれやれ、手を焼かせる主様じゃのう。あのおなごも言っておったろうが、ソノの言葉は忘れろと。あれは胸のことだけではないのじゃぞ」

「それなら、どうしてコトは僕に眠った振りをさせてまで、あの会話を聞かせたんだい」

「本人が知りたかったのじゃろう。去来の宿り手とて言霊から知識を与えてもらっておらぬ業なのじゃ。寿貞尼の宿り手が知りたがったとしても不思議はなかろう」

「じゃあ、僕が知りたいと思うのも仕方ないじゃないか。現し身の業のこと、もっと詳しく教えてくれないか」


 珍しく諦めの悪いショウに佐保姫は眉をひそめた。このまま無視して消えてしまってもよいが、機嫌の悪い状態が続けば、ろくな発句は詠めず、旨い飯も食えなくなるだろう。不味いものを食わされることほど辛いものはない。仕方ないとばかりに佐保姫は湯呑みを置くと、淡々と話し始めた。


「生身と言霊が違う宿り手にとっては意味があっても、両者が同じ言霊の俳諧師ならば吟詠境での感覚が直接伝わる。それ故、現し身は基本的には無意味な業なのじゃ。しかも一旦現し身を掛ければ、言霊の力を消費する業の使用には危険が伴うことになる。言霊の力が減れば、それだけ生身なまみの生命力も減るのだからのう。故に、徳川の世に入ってからは、ほとんどの俳諧師からは忘れられた業だったのじゃ。門人共が知らぬのも無理はなかろう」


 佐保姫はそれだけ言ってショウを見た。そこにはまだ納得しきれていない顔をしてこちらを見詰めているショウが居た。その心を読んで眉間に皺が寄るほどに眉をひそめた佐保姫は、やれやれと言わんばかりにまた話し出した。


「ならば、何故そんな業が作り出されたのか、釈然とせぬのも無理はない。現し身の業にはもうひとつ別の一面がある。のう、主様よ。芭蕉の門人たちが敵とみなす俳諧の祖、宗鑑も、元々そのような言霊ではなかった。滑稽に親しみ、俗世を笑いで風刺する、ひとりの好漢に過ぎなんだ。あやつを変えたのは言霊になってからのこの世の変化。戦国と呼ばれる過酷な時代を生き抜くため、そして己の言霊を守るために宗鑑は変わっていかざるを得なかったのじゃ。そのためにあやつは新しい業を次々に作り出していった。現し身もそのひとつ。その本来の呼び名は暗殺詠」


 今度はショウの表情が変わった。同時に車の中で聞いたライの言葉も思い出していた。もし、現し身が掛けられた状態で言霊の力を奪われたら……


「そうじゃ。言霊の俳諧師ならば、言霊を持たぬ者も吟詠境に引き込むことができる。実世界ではどれほど屈強な者であろうと、ひとたび吟詠境に入れば、言霊の力を使える俳諧師に敵うはずもない。現し身を掛け、力を奪い、生身の体を瀕死にさせてしまえば、それを討つのは造作もないこと。それが現し身の業の本来の姿なのじゃ。どうじゃ、これだけ聞けば満足か」


 佐保姫は立ち上がると袂を振った。薄畳と角高杯が消え、春霞が棚引き出す。ショウは慌てて佐保姫を引きとめた。


「待って、佐保姫、もうひとつ。以前、ソノさんが吟詠境の出来事を現実世界でも体現できるような業があるようなことを言っていたけど、あれはこの現し身のことなの?」

「主様よ、其角の宿り手が言えぬことを、わらわが言えようはずがなかろうが。ただ、違う、とだけ言っておこうかのう。それよりも」

 佐保姫の体を春霞が包み込み、その姿が淡くなっていく。

「しばらく言霊のことは忘れ、現実世界に目を向けてみてはどうじゃ。わかっておるぞ。主様の心に潜むもうひとつの気懸かり。髪を束ねたおなごの影がちらついておるでのう」


 ショウの顔が赤くなった。コトに言われた、自分を好きらしいというクラスメイト。その姿がショウの心の中に占める領域は以前と比べて格段に大きくなっている。それは佐保姫に言われるまでもなく、ショウ自身もまた自覚していた。


「主様にとってはそちらが先決であろう。首尾よく事を進めて旨い飯を食わせて給れ。ほほほ」


 明るい笑い声を残して佐保姫は消えてしまった。少し心残りではあったが、渋る佐保姫の口から聞きたいことはほとんど聞けたのだ。満足感と共にショウは挙句を詠んで吟詠境を閉じた。


 * * *


 二日続けて中身の濃い休日を過ごしたこともあって、三連休最後の日は一日中家でのんびり過ごすことにした。ただ、ぼんやりとした頭に浮かぶのは、やはりポニっ娘のことだった。昼休みにコトと一緒に食事をしているありふれたクラスメイトの一人。それだけの存在にすぎなかった彼女を、あのコトの一言だけで、これだけ意識せざるを得なくなるのだから、人間とは不安定な生き物だなと思う。佐保姫の言うとおり、ここは先ずこの問題を解決した方がいいのかもしれない。

 その夜は彦根で佐保姫が所望した和菓子を食べて吟詠境を開いた。懐かしい味じゃと言ってご機嫌な佐保姫に少し気が紛れた。



「へえ~、滋賀に行っていたのか」


 三連休明けの火曜日。いつものように父つぁんと昼食を共にしながら、僕たちは連休をどう過ごしたかを話していた。先輩の知り合いで来月教育実習に来るここの卒業生に連れられて、文芸部の活動の一環も兼ねてコトと先輩とで色々と回ってきた、との僕の説明に父つぁんは羨ましそうにため息をついた。


「いいなあ、俺は親と一緒に帰省していたんだけど、三日間農作業だったからな」


 父つぁんの父方の実家は、北陸のとある都市近郊の野菜農家で、こちらに引っ越して来るまでそこに住んでいたのだそうだ。


「子供の頃から毎日手伝っていたから、それが当たり前になっていてな。今はスイカの定植の時期だから、肥料撒いたり、トンネル作ったり。おまけに金曜日からの四連休も手伝いに行くことになってるんだ。もちろん、夏休みも冬休みも帰省すれば手伝うはめになる。やれやれだよ」


 そう言われてみれば父つぁんは腕も太いし、体格も先輩に負けず劣らずがっしりしている。野菜は稲作と違ってあまり機械化されていないから、体力も結構必要とするのだろう。


「そうだ、もしよかったら夏休みは俺の実家に遊びに来てもいいぞ。昔ながらの農家だから家は無駄に広いし、畑の近くに海があるから海水浴もできるし」

「う~ん、泳ぎは得意な方じゃないけど、海は好きだなあ。ん、ちょっと待てよ」

 僕は先程までの父つぁんとの会話を頭の中で反芻した。今、作っているのはスイカ、休みの日は手伝い、夏に来いよ……これって、つまり、

「なあ、父つぁん、もしかして、それ、夏休みはスイカの収穫を手伝いに来てくれって意味なんじゃないのかい」


 僕の言葉に父つぁんは両手を打ち合わせた。


「ご名答。さすがはショウ、冴えてるじゃないか。実はライ先輩にも同じことを言ってるんだ。向こうはかなり乗り気だったぞ。いい筋トレになりそうだってな」

「ライ先輩って、そのあだ名」

「ああ、お前たちそう呼んでいるんだろ。ライ先輩、気に入っているみたいで剣道部のみんなにそう呼ばせているぞ。ちなみに俺は父つぁんと呼ばれている。俺もこの呼び方、気に入っているんだ」


 自分が付けたあだ名を他人にも呼ばせているとは名付け親としては嬉しい限りだ。


「そうなんだ、まあ、気に入ってくれてよかったよ」

 と、ひとまず礼を言い、続けて、

「夏休みのことは、どうなるかわからないから考えておくよ」

 と、やんわりお断りの返事をする。

「そうかあ~。ま、まだ先の話だしな。いい返事待ってるよ」


 父つぁんは残念そうな顔をするも、それ以上の勧誘はしない。こんなサバサバしたところが父つぁんの良いところだ。

 やがて弁当も食べ終わり、昼休みの残りの時間はいつものように校庭で過ごそうかと立ち上がり掛けた僕に、父つぁんは顔を寄せると小声で聞いてきた。


「なあ、話は変わるけど、お前、弁当食ってる間、ずっとコトさんを気にしていたよな。何かあったのか?」


 さすがに父つぁんも気づいていたかと僕は思う。正確にはコトではなくコトと一緒に弁当を食べているポニっ娘の方だ。朝から気になり通しで、今だけでなく休み時間もそれとなく彼女を見ていた。見てどうなるものでもないのだが、それでも気になって見てしまうのは男の性というものだろう。


「うん、ちょっとな。大したことじゃないんだけど」


 僕はあやふやな返事をして、今日これまで何度も見てきたポニっ娘に何気なく目をやった。偶然というものは得てしてそんな時に起こるものだ。僕が見たのとほぼ同時にポニっ娘もこちらを見た。


「んっ……」


 彼女と目を合わせるのは入学以来初めてのはずだ、なのに僕はその目に不思議な懐かしさを感じた。この懐かしさは何だろうと思っている内に、向こうが目を逸らしてしまった。


「本当に大したことじゃないのか?」


 父つぁんの疑い深そうな問いには、やはり「ああ」としか答えられなかった。


 その日の午後もポニっ娘を気にしながら過ぎていき、放課後になった。その週は僕もコトも掃除当番だった。掃除が終わって教室に戻っても、こんな気分のまま帰宅する気にもなれず、取り敢えず図書室へ向かおうとすると、コトが教室に入ってきた。自分の受け持ち場所の掃除が終わったのだろう。


「文芸部、今日はどうする?」と訊くと、

「ショウ君はどうするの?」との返事。

「一応行っておこうかなと思ってる」と返せば、

「なら、一緒に行きましょうか」と珍しく機嫌の良い答え。


 僕たちは鞄を持って並んで廊下を歩き始めた。コトが話し掛けてくる。


「今日のショウ君、あの子ばっかり見ていたわね。よっぽど気になるのね」


 やっぱり気づいていたか、と思ったが、父つぁんにまで感づかれているのだから、コトが気づかない方がおかしいとも言える。


「それで、もう聞いたの、あの事?」

「そんなの、聞けるわけないじゃないか」


 もう一度、あの事を話したかどうか教えてくれるように頼んでみようかとも考えていたのだが、この口ぶりではその願いは叶いそうにない。どうやら今日はこの胸のもやもやを抱いたまま帰宅するしかなさそうだ。


「あら、雨!」


 突然コトが声を上げた。廊下の窓から空を見上げると、灰色の雲から筋のような雨が落ちている。


「朝の予報では確率低かったのに。ショウ君、傘持ってる?」

「僕は徒歩通学だからね。いつも鞄に一本入れてるんだ」

「そう。私は教室に置き傘しているから取りに行ってくるわ」


 コトは早足で教室へ引き返した。しばらくして戻ってきたコトはもう一度窓の外を見て言う。


「雨足が強くなってきそうだから、悪いけど、私、このまま帰るわ。今日はショウ君一人で行って」


 一人で図書室に行っても仕方がない。むしろ胸のもやもやが増幅するだけだ。


「いや、僕も帰るよ」


 結局、僕たちはそのまま昇降口へ向かった。下駄箱が並ぶ殺風景な空間の出口付近で、数名の生徒が空を見上げて立っている。傘を持っていないのでどうするか迷っているのだろう。と、僕の目はその中の一人に釘付けになった。ポニっ娘だ。彼女もまた傘を持っていないようだった。

 何の前触れもなく、僕の右脇腹に何かが当たった。コトの左肘だ。顔を見ると、その瞳はお馴染みの悪戯っぽい輝きを放っている。


「私、教室に忘れ物しちゃったみたい。取りに行ってくるわ。あ、それとショウ君、傘を忘れたクラスメイトには親切にしてあげなくちゃダメよ」


 コトはそう言うと足早に教室に戻って行った。言わんとすることはわかっている。確かにこれはチャンスかもしれない。僕はポニっ娘の背後に近づくと声を掛けた。


「あの、傘がないなら送ってあげようか。駅まで行くんだろう」


 僕の言葉に振り向いたポニっ娘の驚いた表情は、コトの華やかさとは違う、可愛いという言葉が良く似合う魅力に溢れていて、僕の胸は少し高鳴った。


「いいんですか? 家と駅とは逆方向でしょ」

「うん、そうだけど。あ、でも、どうして僕の家の場所を知ってるの?」

「それは、クラス名簿で住所を見て……」


 確かにクラス名簿には住所が載っているが、この町に住んでいないのに住所だけでその位置がわかるとも思えない。わざわざ地図で確認したのだろうか。いや、細かいことはこの際どうでもいい。このチャンスを生かさなくては。


「えっと、今日は帰りにスーパーへ食料の買出しに行くつもりだったんだよ。だから気にしなくていいよ」


 ポニっ娘はこれで納得してくれたようだった。僕たちは傘を差すと雨の中を歩き始めた。

 しばらくは無言で歩く。何か言おうと思っても話の切っ掛けが全くない。コトと一緒にいる時も、そこはかとない緊張感で行動が抑制されるのだが、今はそれとはまた違う、言わば、互いに気を遣いすぎて何も出来なくなるような張り詰めた空気が漂っている。気がつけば既に駅までの距離の半分近くを歩いている。僕は焦り始めた。とにかく何か言おう。


「あの……」


 間が悪い時はこんなものだ。僕とポニっ娘は同時に同じ言葉を掛け合ってしまった。僕たちは再び黙ってしまう。ダメだ、このままでは本当に何もできずに終わってしまう。僕は口火を切った。


「あ、えっと、君、保健委員なんだよね。自分から希望したの?」

「はい。将来お医者さんになりたいから、ちょっとは役に立つかなと思って」

「医者かあ。女の子なら普通、看護師に憧れるのかなあって思うけど、医者は凄いね」

「小さい時、友達と約束したんです。大きくなったらお医者さんになってあげるって」


 不思議だった。この言葉を聞いた時、今日の昼に目が合った瞬間感じた、あの懐かしい気持ちが僕の中に再び湧き上ったのだ。あの瞳もこの言葉も、僕はどこかで聞いたことがある……そんな気がしてならなかった。奇妙な想いに囚われた僕が何も言わずにいると、不意にポニっ娘は立ち止まって僕を見た。


「あの、送ってもらっているのに、こんなお願い、図々しいかもしれませんが、寄り道したいところがあるんです。いいですか」

「構わないけど」


 僕の返事を聞いてポニっ娘は嬉しそうに微笑むと「こっちです」と言って東へ歩き始めた。

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