槍と刀


 昨年秋より江戸に滞在していた許六が深川芭蕉庵を訪れたのは五月のことである。江戸勤番の役を解かれ彦根に帰藩するに当たって離別の辞を述べると共に、一月ほど前に甥の桃印とういんを亡くして以来、気力萎えている我が師芭蕉を見舞ってのことでもあった。

 門人となってまだ九ヵ月足らず。しかしこの間、公務の合間に幾度も芭蕉庵を訪れ教えを受け、また赤坂井伊家の屋敷を訪ねてくる芭蕉に、絵画の技法を教えてもいた。この九ヵ月ほどに濃密な時を過ごしたことがこれまでの自分の人生にあっただろうか、畳の上に正座した許六は、自分の前に居る我が師芭蕉を見遣りながら、これまでの江戸暮らしを懐かしく回想した。


「いよいよお戻りになられますか。寂しくなりますな」


 丁寧な口調の芭蕉の言葉に触れて、離別の悲しみの情が一層深くなった許六ではあったが、それでも武士らしく気丈な振る舞いで自分の師に別れを述べる。


「短き間とはいえ、門人の一人に加えていただき、多くのことを学ぶことができました。郷里に帰るに当たり、もう何の心残りもございません、ただひとつの憂い事を除いては」

「憂い事、とな?」

「師よりいただいた号、許六でございます。俳諧の他に、槍、剣、馬、書、画の六芸に秀でていると言われる師のお言葉は、切に有難くは思えど、それは逆に言えば一つとして真に究めた芸はないと言われているのと同じではないのか、かような想いに囚われておるのです。師はこの許六なる号、いかように考えておられるのでしょう」


 師の付けた号に意見を述べるのは、門人としてはあるまじき振る舞いではあった。が、芭蕉はむしろ許六の率直さに武士らしい一本気を感じた。そして許六の抱いている憂いもまた理解できたのである。真剣な眼差しを向ける許六に芭蕉は穏やかな笑顔で言った。


「許六殿、我らは心の内で常に何かを求めておる。その何かを目に見える形にする時、ある者は歌と成し、ある者は画と成し、またある者は武芸と成す。されど、それは形としてそう現れたもの。その元となる心の内で求めているものは常に唯一つ。そうではないかな」

「求めているものは、ひとつ……」

「わしは不器用ゆえ俳諧というひとつの形にしか成せぬ。一方、許六殿は秀でた芸により、六つの形を成せる。だが、我らが究めるのは形ではない、求めるものじゃ。されば、その一つを求め続けなさいませ。形に囚われてはなりませぬ」

「芭蕉翁……」

 芭蕉の言葉を聞き終わった時、許六の心を覆っていた暗雲は消え、晴れやかな青空へと変わっていた。今は許六という号に誇りさえ感じることができる。

「この許六、ようやく迷いを断つことができました。今の師のお言葉、生涯この胸に刻みつけておきます」


 礼を述べて座を辞する許六を芭蕉は柴門の外に出て見送った。二度と会うことはないかも知れぬ、そんな予感を抱きながら……


 * * *


 高台からは遥か西に湖水が見えた。そこを吹き渡ってくる風が柳を揺らす。その柳の下で、半裃姿の武士が、まるで瞑想でもしているかのように目を閉じて正座している。武士の側に立つのは一人の女と三人の男、先刻から身じろぎもせずに見守っている。


「許六殿はまだお目覚めにならぬな」

「初めての吟詠境ゆえ仕方なかろう。宿り手に己が記憶を見せているのだろう。時にショウ殿、今回は言霊の片鱗があるようですぞ」


 去来が許六の膝を指差した。揃えられた両手の下に何かが置かれている。と、許六が呻き声をあげた。


「う、うむ……」

「目が覚めましたか、許六さん」


 ショウは許六の前に屈み込むとその顔を見た。短髪ではあるがその顔立ちは宿り手に似て、どことなく女性を感じさせる。許六は目の前の人物に気づき、慌ててお辞儀をした。


「お懐かしゅうございます芭蕉翁、いや、ショウ殿の方がよろしかろうか。封じられて以来、初めての吟詠境ゆえ、少々手間取りましてございます。さて、では」

 許六は挨拶もそこそこに、膝の上に置かれていた物を手に取った。

「芭蕉翁からの預かり物、お受け取りくださいませ」

「これは、短冊と矢立」

「左様、どちらも芭蕉翁の言霊の力が練りこまれております。ただし、この片鱗は一度使えばそれきり消えてしまう、そうも仰られておりました。いざという時のために、大切に取っておかれませ」


 許六はそう言うと、ショウに一枚の短冊と竹の矢立を差し出した。それを手にした瞬間、ショウは自分の中に新たな力が湧き起こるのを感じた。間違いなく芭蕉の言霊の片鱗、その実感は力と共に大きな喜びをももたらした。ショウは大切に貰い受けると許六に礼を言った。


「ありがとう、確かに受け取りました。しかし、どう持ち運べばいいかな」


 手に持ったままでは不便この上ない。困り顔のショウに去来が声を掛けた。


「ショウ殿、旅装束を包んでいた風呂敷はどうなされました」

「ここにあります」


 ショウは懐から丁寧にたたんだ風呂敷を取り出した。


「それに包んで身に着けてはいかがかな」


 去来の勧めに従ってショウは風呂敷に短冊と矢立てを包み、背中に回して袈裟懸けにし胸の前で両端を結んだ。その姿を見て其角が噴き出した。


「ははは、これはよい。まるでこれから初めての一人旅に出掛ける若者のようではないか」

「其角殿、我らの師をあまりからかうものではないぞ。時に、許六殿」

 去来が正座したままの許六に右手を差し出すと、許六はそれを掴んで立ち上がった。

「ショウ殿との言葉の掛け合いは致さぬのか。久し振りに季の詞を詠んでみるのもよかろうが」

「いや、この姿にはまだ馴染んではおらぬし、今はそれほど言霊の力も強くはない。遠慮しておこう。それよりも体を動かすほうがよい。去来殿、お手合わせを願えぬか」


 許六は返事を待つまでもなく肩衣を脱ぎ捨てた。思ってもみなかった許六の言動に去来は意表を突かれた表情になったが、すぐに心境を察し、自分も羽織を脱ぎ捨てた。


「なるほど、流石は六芸に秀でた許六殿。まずは武芸を試してみたいとの心積もりか。ならばお相手致そう。」


 二人は他の三人からやや離れた草地に場を移すと互いに向き合った。去来が腰の刀を抜く。


「去来殿は刀を使われるか。では、わしは」


 許六は両手を合わせると季の詞「槍遣初やりつかいぞめ」を発する。同時にその手には十尺近い鎌十文字槍が現れた。


 ――ほう、これは面白そうじゃ。主様よ、わらわも吟詠境で見物させてくれぬか。


 佐保姫の声を聞いたショウは季の詞「佐保姫」を発す。去来と許六の丁度中間に、宙に浮いた佐保姫が姿を現した。


「わらわが勝敗を見届けて遣わそうぞ。両者とも存分に力を振るわれよ」

「佐保姫様がご覧になるとあれば、本気を出しますかな」

「それはこちらも同じこと。いつぞやの借り、ここで返させていただきますぞ」


 睨み合い、互いに集中力を高める許六と去来。一方、其角はいつもと変わらぬ愉快そうな顔をして二人を眺めている。


「槍と刀ならば勝負は戦わずとも決まっておる。しかも許六殿は宝蔵院流槍術の名手。これは去来殿の慌てる様が見られそうじゃわい」


 そんな聞こえよがしの其角の言葉に動じもせず、去来は声を上げた。


「手加減無用、許六殿」

「願ってもない去来殿。参るぞ!」


 言い終わるや許六は去来を見据え槍を構える。その穂先が円を描き始めた。動きを見切ろうとする去来をあざ笑うかのように一の槍が繰り出された。かろうじて穂先を避ける去来に、すぐさま二の槍が来る。

 左手は柄を握らずに滑らせて、右手だけで射出する許六の穂先は矢のように速く、しかも円を描きながら螺旋状に突き出される。ただでさえ見切るのが難しい速さに加え、一直線でない穂先の軌道に、さしもの去来も突きをかわすのが精一杯だ。


「去来殿、避けるだけでは勝負がつきませぬな」


 許六はそう言いながら、穂先を繰り出す手を緩めない。先程から避けてばかりの去来であるが、しかし次第にその穂先が見えてきた。加えて、連続して繰り出す許六も疲れが溜まればその速さは落ちる。と、許六の呼吸の合間に槍の突きが鈍くなった。


「今だ」


 去来は一気に間合いを詰めんと、刀を槍柄に滑らせながら許六に突き進んだ。しかし、去来の詰めよりも槍の引きの方が速い。許六は途中で引きを止めると、柄を両手でしっかと握り、去来を横様に殴りに掛かった。


「む!」


 それを見た去来は足を止め、殴り掛かる槍を刀で受け止める。止められた槍を半回転させ、今度は逆方向から殴りに掛かる許六。


「ほほう、棒術にも長けておるのか。許六の号は伊達ではないようじゃのう」


 佐保姫が感嘆の声を出す。丁度槍の中ほどを握って、許六の槍柄は去来の刀と互角の打ち合いを見せる。去来の間合いは、まだ詰め切ってはいない。しかも打ち合う毎に去来の意に反して、間合いは広がる一方だ。このままでは勝機はない。

 意を決した去来は、突然、身を屈めた。ここぞとばかりに頭上に振り下ろされた許六の槍柄を刀で受けた去来は、素早く左手で足元の小石を拾い許六に投げつけた。

 思いがけぬ石飛礫つぶてをかろうじてよける許六の隙に乗じて、去来は突きの構えで懐へ飛び込む。狙うは許六の喉元。しかし、その突きはかろうじてかわされ、ならばと振りかぶった渾身の一撃が許六の頭上に振り下ろされた。


 ガキン!


 素早く引いた許六の十文字槍が去来の刀を受け止めた。去来の額に汗が滲んだ。穂先の両側に枝刃の付いた十文字槍の役割のひとつは、相手の武具を搦め取ること。その術中に去来はまんまとはまってしまったのだ。


「飛礫などを使った罰が当たりましたな」


 去来の刀を穂先と枝刃に挟み込んだまま、許六は槍を大きく振った。その動きについていけず刀から手を離した去来は、今一度体勢を立て直そうと、後ろに飛び退く。許六は槍を地に打ち付けて刀を振り落とすと、そのまま大きく円を描いて去来の足元を横から払う。たまらず跳び上がって宙に逃げた去来は脇差の柄に手を掛けた。


「覚悟!」


 もはや空中で逃げ場のない去来目掛けて許六の槍が突き出されるのと、去来の脇差が許六目掛けて投げつけられるのはほとんど同時だった。そして勝負が決する前にひとつの季の詞が響き渡った。


「卯の花垣!」


 二人の間に空木を植え込んだ生垣が出現し、脇差と槍の穂先を止めた。一瞬の静寂の後、生垣は脇差と槍を突き刺されたまま地に落ちた。去来と許六は荒い息をしながら、ただ無言で互いを見ていた。


「引き分けじゃな」

 宙に浮いて二人の戦いを見物していた佐保姫はゆっくりと地上に降り立った。

「二人共、意気高揚なのはよいが頭に血が上りすぎじゃ。言霊の体とて傷つけば力が減り、息絶えれば言霊は消滅する。生身と同じくほどほどにな。さりとて面白き手合わせであったぞ」


 満足そうな佐保姫に対し、予期せぬ結末に不満そうな其角が地に落ちた生垣に近寄りつぶやく。


「せっかくの熱戦にこのような無粋な邪魔者を入れるとはな。一つの季の詞は一つの吟詠境に一回だけしか許されぬ。はてさて、いったい誰が発した季の詞なのやら」

「余計な詮索は無用じゃ。それともわらわの裁定に不服か」


 佐保姫の言葉に其角は慌てて首を振る。ショウも「卯の花垣」の季の詞は誰の声なのか聞き分けができなかった。両者同時に発したのか、あるいは佐保姫自身も発していたのかもしれない。


「今日は良き日じゃ。旨い握り飯を味わい、血気盛んな手合わせも見られた。これからもよろしく頼むぞ、主様よ」


 佐保姫が桃色の狩衣の袂を振った。春霞が棚引き出しその姿を包み込む。消えていく佐保姫に去来と許六はお辞儀をすると、互いに近寄って肩を抱き合った。


「許六殿、お見事であった」

「去来殿こそ、長らく武芸を離れていたとはいえ、腕は落ちてはおりませぬな」


 先程までの殺気は消えて、今は穏やかな表情で二人は互いを称え合った。


「時に、ショウ殿」

 許六は生垣に刺さったままの槍を引き抜くと、ショウに向かって言った。

「久し振りに早駆けをしたいのですが、お許し願えますか」


 許さぬ道理もないのでショウが頷くと、許六は季の詞「厩出うまやだし」を発する。目の前に馬具を着けた栗毛の馬が現れた。許六は槍を握ったまま軽々と馬に跨る。


「お言葉に甘え、しばし駆けて参ります。はいやっ!」


 腹を蹴られた馬はたちまち走り出した。脱ぎ捨てた羽織を再び身に着けた去来がその後ろ姿を見送りながら言う。


「ショウ殿には許六殿の振る舞いが、いささか奔放にも見えましょう。けれども私には許六殿のお気持ちがよくわかるのです。あのお方は晩年、病を患い、外出はおろか人に会うことも憚られるお暮らしでした。彦根藩三百石取りの藩士でありながら、武芸に打ち込むこともできぬまま言霊になられ、今、こうしてようやく広い空の下で自由になれた、その喜びが許六を駆っているのでしょう」


 許六は高台から駆け下り、今は、湖水を渡る涼しげな風に吹かれながら湖の辺を駆けている。馬の脚に合わせて躍動する許六の体は、彼自身の喜びを表しているようだった。その姿を高台から眺める四人の心にもまた、柳を揺らす西風の爽やかさに似た喜びが吹き抜けていた。やがて許六は立ち止まると馬に跨ったまま槍を天に突き上げた。遠くから許六の声が聞こえてくる。


「許六、挙句を申す。方々、よろしいか!」

「心得た!」


 其角が大声で返事をする。無論、他の三人も異存はない。其角の声を聞いた許六は槍を突き上げたまま天を見上げ挙句を詠む。


「挙句、吹かれるままに舞う初燕!」


 許六の周りを燕が舞い始めた。自由に乱れ飛ぶその姿は、この吟詠境で体の自由を得た許六の喜びのようにも見えた。次第に薄れていく吟詠境の中で、馬に跨って天を仰ぐ許六だけはいつまでもその姿を湖水の風景の中に留めていた。


 * * *


「リクちゃん、つんつん」


 顔を上げるとソノさんが、まだ目を閉じて机に伏したままのボクっ娘の頬を人差し指で突っついているのが見えた。さっそく言霊の名前を取ってリクと命名したようだ。左右を見ると先輩とコトは既に目を開け、リクにかまっているソノさんを眺めている。

 僕は腕を枕にして横を向いているリクの寝顔を見た。起きている時の生意気さが嘘のように無邪気な顔だ。吟詠境に入る前は声を聞くのも嫌だったが、言霊を宿しているとなればそうもいかない。これからも付き合っていかなければならないことだし、ここはひとつ考えを変えて、仲良くする努力をしてみようか。リクの方だって、自分の言霊の師に当たる芭蕉の言霊を僕が宿しているとわかった以上、今までの態度を改めてくれるかもしれないし……そんなことを考えていると、やがて「う~ん」と言いながら、リクが目を覚ました。


「リクちゃーん、気がついた?」

「……リク?」

 はっとして顔を上げたリクは僕たちを見回した。

「そうか、皆さんのあだ名、あれは言霊の名前から取っていたんですね」

「そうよー。許六のあなたはリクちゃん、其角のあたしはソノ。これからもよろしくね」

「あ、はい。よろしくお願いします、ソノさん」


 ソノが差し出した右手を握って笑顔で応えるリクに、今度はコトが話し掛けた。


「仲良くしましょうね、リク」

「えへ、コト先輩に呼び捨てにされると嬉しいような恥ずかしいような。ちょっと照れますね」


 机を隔てて握手をするリクとコト。それに続いて、僕もできるだけ和やかな顔でリクに呼び掛けた。


「リク、よろしくな」

「すみません、ちょっと抵抗を感じるんですけど」


 おもむろに嫌そうな顔をしてこちらを睨むリク。先程打ち立てた「リクと僕の仲良し小好し計画」が早くもここで揺らぎ始める。


「な、なんだよ、抵抗を感じるって」

「いや、ショウ先輩に呼び捨てにされるのは、ボクの中の何かが許さないって言うか、我慢できないって言うか」

「じゃあ、リクさんとでも呼べって言うのか」

「あ、できればそれでよろしく」

「どこの世界に後輩をさん付けで呼ぶ先輩がいるんだよ!」

「ここにいるじゃないか」


 先輩の野太い声。そうだった。先輩はコトをさん付けで呼んでいたんだ。それを聞いたリクがにんまりと笑う。


「はい、決定。ボクのことはこれからリクさんと呼び給え。よろしくショウ先輩」

「先輩と一緒にしないでくれ。さん付けなんてお断りだ」

「二人共、ちょっと落ち着けよ」

 高慢なリクの言葉に堪忍袋の緒が切れかけていた僕を、先輩がたしなめる。

「俺も呼び捨てにするのは特別な女性だけにしろという祖母の遺言に従って、リクを呼び捨てにはできないが、と言って、さん付けはしっくりこないなあ」


 確かコトの時は祖父の遺言って言っていませんでしたか、というツッコミは心の中だけにして、僕は先輩の次の言葉を待った。


「そうだな、俺はリクっち、とでも呼ぶか。ショウ、お前もそう呼べよ。あ、俺は去来のライでいいぞ、リクっち、よろしくな」

「先輩がそう言うのなら……この呼び方ならいいだろ、リクっち」

「仕方ないですね。ライ先輩の顔を立ててそれで手を打ちます」


 どうして僕にばかりこんなに生意気な口の利き方をするのかと、不思議に思えてならない。これも一種の毒舌なのだろう。ただコトの毒舌が一直線にグサリと突き刺さるのに比べて、リクの毒舌は心をかき乱し怒りを増幅させるので性質が悪い。


「えっと、それじゃこれから連絡することもあると思うから、リクちゃん、電話番号を教えてくれないかな。携帯とか持ってる?」


 少し険悪になっていた場の空気を繕うように、ソノさんはそう言うと携帯を取り出した。意外にもボクっ娘はウエストポーチから携帯を取り出している。昨日もそうだったが、携帯を持たない自分は少し居心地が悪い。

 ソノさんに続いて先輩、コトと番号を教え終わった後、リクが無言でこちらを見た。早く携帯を出せと言いたいらしい。持っていないのだから出せるはずもないが、素直に持っていないと言うのも癪だ。僕もそのまま黙っていた。睨みあったままの僕たち二人に見かねた先輩が助け舟を出す。


「リクッち、ショウは携帯を持ってないんだ。何かあったら俺から知らせるよ。ちなみにショウの家にはパソコンもないんだぞ。今時珍しいアナログ一家だな」


 また先輩は余計なことまで喋って、と僕は胸中で舌打ちをする。その音が聞こえでもしたかのように、リクは意地の悪そうな笑いを浮かべた。


「ふふん、ショウ先輩、携帯持ってないんですか。まあ、たとえ持っていたとしても番号なんか知りたくもないし、教えるつもりもないですけどね」

「こっちだってわざわざお前に電話を掛けて、悪口を聞かされるような真似はしないよ」


 相変わらず憎まれ口を叩くヤツだ。番号の教え合いが終わったリクは携帯を仕舞いながらまた僕に向かって言う。


「それからショウ先輩、言っておきますけど、コト先輩と言霊同士が親しい間柄でも、それは現実の親しさとは全く別物ですからね。コト先輩に手を出すような馬鹿な真似はしないでください。まあ、携帯も持たず、さん付けで呼んでいるくらいだから、心配ないとは思いますけど」


 もはや反論する気も失せてしまった僕は、聞こえない振りをして余所見をしていた。すると思いもかけずコトが口を開いた。


「リク、あまりショウ君をからかうものじゃないわよ。これでも結構人気があるんだから」

「へえ、そうなんですか」


 リクが意外そうに返事をした。人気があるなんてそれは僕も初耳だ。コトはこちらに顔を向けて話を続けた。


「ねえ、ショウ君、知っているかしら。いつも私と一緒に窓際でお昼を食べている子」


 それなら知っている。髪をポニーテールにしているので、密かにポニっ娘(こ)と呼んでいる子だ。


「知ってるけど、その子がどうしたの?」


 こう聞き返した時、コトの瞳が悪戯っぽい輝きに変わった。不吉な予感が僕を襲う。これは来る。ボケか毒舌かわからないがコトの爆弾が間違いなく炸裂する。僕は身を引き締めて次の言葉を待った。


「あの子、ショウ君のことが好きみたいよ」


 水を打ったような静けさが周囲に満ちた。目が点になるとはこのことだろうか。もはやツッコミを入れるどころの騒ぎではない。いや、これは果たしてボケなのか。それさえもわからぬまま、僕の口は意味不明な言葉を吐いていた。


「な、なな、何をいきなり、コ、コトさん……」

「お、いたいた」


 学習コーナーに二人の男女が入ってきた。リクの両親だ。小さく「あっ」と叫んでリクは立ち上がると、


「じゃ、ボクは行きますね。何かあったら連絡ください」


 そう言って両親の元へ駆け寄った。その時、僕の顔をチラリと見たが、今度は「ふん」などとは言わず、少し驚いた目をしているだけだった。三人はそのまま出口の方へ歩いていった。


「あ、え、えっと、じゃあ、私たちも行きましょうか。遅くなっちゃうし」


 ソノさんに促され僕たちも席を立ち出口へ向かった。先輩と並んで歩きながら、僕の頭の中は先程のコトの言葉が走馬灯の影絵のようにぐるぐると回り続けていた。どうしていきなりあんな事を……それは考えて結論が出る話ではないのだが、考えずにはいられないことでもあった。


 展示室から出ると妙に騒がしい。玄関にはなぜか人だかりができている。その理由はすぐにわかった。


「きゃー、ひこねゃん」


 ソノさんが歓声を上げた。博物館の玄関で先程の白いゆるキャラが謎の動きをしている。どうやらひこねゃんの登場は一度だけではなく何度かあるらしい。先輩が呆れた様に言う。


「なんだ、何回も登場するのなら、あんなに慌てる必要はなかったんじゃないですか、ソノさん、って、ちょっとソノさん!」


 先輩が引きとめようとしたが無駄だった。ソノさんは人だかりに向かって猛然と突進していく。


「ひこねゃーん!」

「ソノさん、そんなの見ていたら、帰るのが遅くなりますよ、ソノさん!」


 人ごみの中に消えていくソノさんと先輩、その後に続こうとするコトの背中に、僕は声を掛けた。


「ねえ、コトさん」


 コトは振り返ると僕を見た。


「何?」

「ちょっと、いいかな」


 僕の言葉にコトは無言で頷く。どうやら用件はお見通しのようだ。僕たち二人は博物館の外へ出ると、あまり人気のない塀際に行って向かい合った。


「あの、もう少し詳しく話してくれないかな。さっきの、その、僕を好きとかいう女の子の話」


 心穏やかでない僕とは対照的に、コトはいつも通りの平然とした口調と表情で話し始めた。いつも一緒に昼食を取っているポニっ娘と初めて出会ったのは入学式当日の電車の中だったらしい。そのまま駅から学校まで同行し、クラスまで一緒だったため、なんとなく意気投合し、今では毎朝同じ電車に乗り一緒に通学しているそうだ。


「それで、あの子、やたらとショウ君のことを聞いてくるものだから、私、あなたについて知っていることを全部教えてあげたわ。もう話すことがなくなって最近では直接聞きなさいとしか言えない位に。こんなにショウ君のことを気に掛けるのだから、少なくとも好意は持っていると考えて間違いないでしょう」


 全く気がつかなかった。ポニっ娘についてはコトと一緒に食事をしている子という認識しかなかった。いや、しかし考えてみればそれは無理のないことだろう。なにしろ入学して以来、右斜め後ろのコトの視線だけを意識して過ごしてきたのだ。他の子に気を回す余裕などなかった。おまけにコトは聞き捨てならないこと言った。知っていることを全部教えてあげた、と。全部……ま、まさか!


「あの、コトさん、つかぬことを伺いますが、何もかも喋ったってことは、あの事も?」


 あの事とはもちろん、我が人生最大の汚点、春の恋文短冊告白事件である。いくらコトでもそこまで口は軽くないとは思うのだが、万が一ということもある。僕の不安げな顔を見て、コトは口元に笑みを浮かべた。


「気になる?」

「は、はい。すごく気になります。もう夜も眠れなくなるんじゃないかというほどに」


 コトの瞳が悪戯っぽい輝きに変わった。僕の不安は一層増大する。


「気になるのなら自分で確かめてみれば」


 自らあのポニっ娘に尋ねろと? そんな事できるはずがない。これでは教えないと言っているのと同じだ。万事休す状態の僕に更に強烈な追い討ちが掛かる。


「ショウ先輩って、コト先輩に弱みでも握られているんですか?」


 この声! 振り向くとリクがいた。いやリクだけではない、いつの間にか先輩とソノさんまで居る。僕は気絶しそうなほどに顔面から血の気が失せて行くのを感じた。


「な、何を言ってるんだい。よ、よ、弱みなんてあるはずないじゃないか、ははは。そ、それよりソノさんも先輩もどうしてここに? ひこねゃんを見てたんじゃなかったの?」

「えへへ、ひこねゃんよりこっちの方が面白そうだなあって思って。いいもの見せてもらっちゃった」

「まあ、はっきり言ってお前は尻に敷かれるタイプだよな、ショウ」

「それじゃボクは本当にもう行きますね。皆さん、今日はありがとう」


 リクはそう言って少し離れた場所にいる両親の元へ戻って行った。僕はコトを見た。僕と向かい合って立っていたコトには、あの三人が聞いているのはわかっていたはずだ。だから、はっきりした答えを言わなかったのだろうか。しかし、それはもう考えても仕方ないことだった。コトの回答は既に出ているのだ。改めて聞いてみても同じだろう。やはり自分で確かめるしかないようだ。


 それから僕たちは京橋を渡った通りに並ぶ店で土産物を買った。ソノさんは相変わらずひこねゃんグッズを買い漁り、先輩は専ら食べ物中心、コトはかわいい蝋燭などを買ったりしていた。僕はと言えば、佐保姫が旨そうじゃから買うてくれという和菓子や今日の夕食代わりのお弁当など。そうして一通り各自の買物が終わると、駐車場代わりの商業施設へ行き、ようやく帰途に就くことになった。

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