奇妙な追い駆けっこ
「あ、あのう、ソノさん、確かに牛肉には違いないんですけど、」
僕たち四人は彦根のとある店内にいた。昼時ということもあって少々混雑しているにもかかわらず、首尾よく四人掛けのテーブルを確保できたのは幸運以外の何物でもない。
「これ、近江牛とは思えないんですが」
「やだっ、ショウちゃん何か勘違いしちゃっているのかな。近江牛は近江で育った牛の肉って意味じゃなくて、近江で食べる牛の肉ってことなのよ。だからこれも近江牛」
ソノさんは牛めしの肉を美味しそうに食べながら言った。そう、僕たちが居るのは牛丼屋。安い早いがモットーのチェーン店。一週間前にも似たようなモノを食べていたが、その時とは店が違うのでモノも少々変わっている。
コトとソノさんは生野菜セット。ただ、コトのサイズは相変わらずミニである。僕は普通に牛めし並のお新香セット。そして遂に本気を出した先輩は牛めし特に豚汁セットを付け、さらに牛皿を追加するという念の入れようである。
「安く済んでよかったじゃないのショウ君。これでもソノさん、気を遣ってくれているのよ」
「コトちゃん、あなたみたいな優しい女の子に、あたし、初めて出会ったわ」
ソノさんの芝居がかった対応にも幾分慣れてきた僕は、それもそうだなと思って飯を口に運ぶ。確かにここなら満腹になるほど食べても懐はそう寂しくはならない。
「でも、これでまた佐保姫が食わせろって言い出しそうだなあ」
「あ、それは大丈夫。佐保ちゃん以前、牛は車を引くもので食うものではないとか言っていたから」
「へぇ、そうなんですか。じゃあ豚は食べるのかな」
「豚じゃないけど、ぼたん鍋は龍田姫の好物だから好かん、とか言っていたかなあ。まあ、猪は秋の季語だしね。あ、でも鳥肉は好きみたいよ。あと、乳製品とかも」
女神と言っても好き嫌いがある点は人間と変わりないなあと感じる。取り敢えずこの昼食はのんびりと味わうことができそうだ。
「あ、ああー!」
何かに驚いたような声を誰かが上げている。声が聞こえてきた店の入り口に顔を向けると、大口を開けて男の子が突っ立っていた。中学生くらいだろうか、いや半ズボンを履いているので小学生かもしれない。
「せ、先輩!」
「あら、あなた」
その子はこちらのテーブル目掛けて突進してきた。一週間前にも似たような経験をした記憶があるが、今回は僕の知り合いではなく、どうやらコトの知り合いのようだった。
「先輩、こんな所でお目に掛かるなんて、なんという奇遇」
「あなたこそ、どうしてここにいるの?」
「あ、ボクの実家、滋賀なんです。三連休で帰省してて……はーい、いつもの頼んどいてー」
カウンター席に座っている両親と思しき男女に返事をして、その子は更に話し続けた。
「今日は彦根城に遊びに来たんですよ。で、先輩はどうしてここに?」
「もっちろん、ひこねゃんを見るためでーす!」
横から口を挟むソノさんに、いやあなたはそうかも知れないけど僕は違いますからね、といつものように心の中だけでツッコんでおいて、僕はコトに訊いた。
「コトさん、この子、誰? コトさんの知り合いなの」
「ショウ君、覚えてないの? 私たちの中学の一年下の後輩じゃない」
「いや、一年下って言ってもたくさんいるから」
「コトさん、ショウ君……」
その一年下の後輩はそうつぶやきながら、目付きの悪い眼差しでこちらを睨みつけている。どうやら僕に対して少なからぬ敵意を抱いているのは間違いなさそうだ。
「なんだか妙に慣れ慣れしいんですけど、この人、先輩の何ですか? もしかして、彼氏?」
ああ、そうだよ、と言いたくなる気持ちを抑え「いや、クラスメイトで同じ部の部員」と、いつものセリフを口にする。途端に一年下の後輩の顔が緩んだ。
「ですよねえ、こんな冴えない人が先輩の彼氏なわけないですよねえ」
この物言いにはさすがに頭に来たが、そこは一年上の先輩の貫禄でぐっと耐え、僕は更にコトに訊いた。
「それで、コトさんとこの子と、どんな関係なの?」
「百人一首大会の決勝で二年連続で対戦した相手なのよ。二回とも私が勝ってしまったけど、この子の実力もなかなかのものよ」
「来年は先輩がいないから、ボクの優勝は間違いなしです」
百人一首大会は全学年統一だから後輩との対戦もある。二年連続で当たった相手ならコトも覚えているわけだ。いやしかし、待てよ。
「でも、それじゃおかしくない? 準優勝したのって確か女子じゃなかったっけ」
「何が、おかしいって?」
二年連続準優勝の後輩がまた僕を睨みつけた。え、だってこの子は……僕の疑問を理解したのか、コトが小声で僕に囁く。
「ショウ君、念のために言っておくけど、この子、女の子よ」
冒頭三十秒を省略したハイドンの交響曲第九十四番第二楽章を、何の前触れもなく大音響で演奏し始めたような驚愕が僕を襲った。女の子! だってこめかみを刈り上げているし、半ズボンを履いているし、おまけに一人称はボク。今時、ボクっ
「おーい、いつまでそこにいるんだあ」
父親らしき男性が声を掛けてきた。ボクっ娘は「はーい」と返事をすると、
「先輩たちもこれからお城に行くんでしょ。向こうで会えたらいいですね。じゃ」
とコトに言ったあと、こちらに顔を向けた。
「……ふん!」
まるで汚らわしいモノでも見るような一瞥を僕にくらわして、ボクっ娘は両親の元へ戻って行った。確かに勘違いしたのは申し訳ないが、一応、僕もコトと同じ先輩、もう少し言い方ってものがあるだろうにと憤懣やるかたない気分になる。
「ショウも見る目がないなあ、はっはっは」
あれだけの量にもかかわらず、一番先に料理を平らげてしまった先輩が僕の背中を叩きながら愉快そうに笑う。脳天気な先輩の口調に僕はムッとした。
「じゃあ、先輩は一目で女の子だってわかりましたか?」
「ん、俺? いや、まあそりゃな」
「ショウちゃんはコトちゃんに言い寄る人は、男女に関係なく、みんなライバルに見えちゃうのよね」
「ソノさん、からかわないで下さいよ」
自分一人だけが貧乏くじを引いたみたいで、なんだか損した気分である。僕は丼を掴むと、食べかけの牛めしを口の中に放り込んだ。さっさと昼食を済ませてこの店を出よう、願わくは、もうあの生意気なボクっ娘とは二度と顔を合わせたくないものだと思いながら。
彦根城は観光地だけあって周辺には多くの駐車場がある。が、さすがにゴールデンウィーク中の人気スポット、どこも満車だ。城を一周して探し回った挙句に僕たちが停めたのは、義仲寺の時と同じく、城の西側にある大型商業施設の駐車場だった。
「いや~ん、早くしないと、ひこねゃん、見逃しちゃう。みんな、急いで」
ソノさんの説明によると、ひこねゃんは天守閣前に現れるらしい。早足のソノさんを先頭に内堀を回って表門のチケット売り場に着いた。博物館にも入れるセット券がお得なのでそれを買い、さっそく天守閣に向かう。
急ぎ足のソノさんを追って、まるで城攻めの足軽の如く、僕たちは石段を登る。その石段は間隔が不規則で実に登り難い。隊列を組んで登っていたら、各自の歩調が乱れて転倒者が続出するんじゃないかと思ってしまうほどだ。
天秤櫓、太鼓門櫓を過ぎて本丸に着けば、大変な人だかりだ。ひこねゃん人気恐るべし。しかも天守閣の入場待ち時間は六十分。連休に観光地へ来るもんじゃないなとしみじみ思う。と、急に歓声が上がった。
「きゃー、ひこねゃん!」
ソノさんが人だかりの中へ突進して行った。どうやら本日の主役の登場には間に合ったようだ。僕たちも人垣の後ろから見物する。それなりのステージが用意されていて、そこに立って、色々とポーズを取ったり、動いてみせたり。まあ、確かにカワイイとは思うが、写真を撮ろうとまでは思えない。先輩やコトもどことなく冷めた目で眺めている。
「しかし、中の人も大変だろうなあ」
先輩がまるで夢のないことを言い出した。某巨大遊園地のネズミさんの前でそんなセリフを吐けば、大ひんしゅくモノであるが、ひこねゃんなら辛うじて許されるような気がしないでもない。ソノさんは相変わらず夢中で写真を撮っているようだ。正直、かなり飽きてきてはいるのだが、この旅の主催のソノさんがここを動かない以上、僕たちも動くわけにはいかない。この白いゆるキャラの謎めいた動きを眺め続けるしかないのである。
「あ~、満足」
雨が永遠に降り続くことはないように、ひこねゃんも永遠にゆるい動きを続けてはいない。三十分ほど後、ソノさんは幸せそうな顔で僕たちの元へ戻って来た。
「ひこねゃん、堪能できましたか、ソノさん」
「うん、初めての生ひこねゃんに、あたし、もうメロメロ~」
「それはそうと、天守閣はどうしますか。まだ待ち時間は六十分ですよ」
「やめときましょ。コトちゃん、スカートだし」
「別にスカートでもいいじゃないですか」
そう言う僕の顔をしばらく眺めて、ソノさんはにやりと笑った。
「ショウちゃん、エッチね」
「ど、どうして僕がエッチなんですか?」
「もう、ショウちゃん、何も知らないのね。昔から残っているお城の天守閣の階段って、すっごく急なのよ。スカートじゃ見えちゃうじゃない」
それは正直知らなかった。そもそも城に来たこと自体が初めてなので、そこまで気が回らなかったとも言える。でもここで引き下がるのも悔しいので、少しだけ食い下がってみた。
「そ、それなら、コトさんを最後にして登ればいいじゃないですか」
「やあねえ、そしたら全然関係のない人に見られちゃうじゃないの。ショウちゃん、それでもいいの?」
勿論、いいわけがない。ここで僕の敗北が決定した。
「ごめんなさい、彦根城に来るとわかっていたらスカートなんて履いてこなかったのに」
「別にコトさんが謝る必要はないよ。急に決まったんだから。なあ、ショウ、天守閣はまたの機会でいいじゃないか。六十分も待っていたら時間が勿体無いよ。これからチケットでセットになっている庭園と博物館を観なきゃいけないんだから」
「そうそう、ライちゃんの言う通り。見せてもらうのは二人っきりだけの時にして、今日は諦めてね」
「二人っきりでも見ません!」
別に見たいわけでも天守閣に登りたいわけでもなかったのに、我を張ってしまった僕は、また貧乏くじを引いた気分になってしまった。話がまとまった僕たちは、再びソノさんを先頭に西の丸に向けて歩き始めた。
「あ、先輩!」
背後から聞き覚えのある声がした。いや、聞きたくない声がしたと言った方がいい。
「よかった、会えましたね」
ボクっ娘は一直線にコト目掛けて走って来ると、嬉しそうに声を掛けた。ソノさんがコトの代わりに返事をする。
「残念、ひこねゃんショーはたった今終わったところよ」
「えっと、ボクはそれほどひこねゃんには興味ないですから。それよりも」
ボクっ娘はウエストポーチからデジタルカメラを取り出した。
「先輩、一緒に写真を撮ってもらってもいいですか」
ボクっ娘はよっぽどコトが気に入っているようだ。憧れの先輩といったところなのだろう。容姿はまるで正反対だが気の強い点は似ていなくもない。コトがOKの返事をすると、ボクっ娘は僕にカメラを差し出した。
「はい、これ」
どうやら写真を撮ってくれということらしい。しかし、コトと違ってこの横柄な口の利き方はなんなのだ。仮にも先輩である僕に頼み事をするのに「これ」はないだろう。
僕はすぐには返事をせず、差し出されたボクっ娘の手を見た。体の割りには大きい手だ。中指の内側が少し膨らんでいる。頭髪も短いし、何か球技でもやっているのだろうか。それにこのカメラ、父親から借りたのかと思ったが、かわいいネームシールが貼ってある。自分のカメラなのだろう。
「早く」
尚も催促してくるので、少々不満ではあるが、ここも一年上の先輩の貫禄でぐっと耐え、カメラを受け取る。
ボクっ娘とコトは天守をバックに仲良く並ぶ。並ぶとボクっ娘の背の低さが際立つ。球技をやるにしてもバスケやバレーは無理っぽい。日に焼けているから戸外のスポーツだろうか、などと考えながら適当にシャッターを押した。
「はーい、じゃあ次はお姉さんもー」
ソノさんが先輩を引き連れて二人の横に立つ。四人で並ぶと先輩の大きさが浮き彫りになる。やっぱり体格いいなあ先輩は、と思いながらシャッターを押した。
「次はショウちゃんねえー。あたしが撮ってあげるから、こっちに来て」
「いえ、あの人とは撮りません」
ソノさんの申し出をあっさり断り、ボクっ娘は一人でこちらにやって来ると、無言で手を差し出した。どうやらカメラを返せということらしい。さすがにこれだけ傍若無人な態度を取られると、日頃温厚な僕でも受け入れがたいものがある。僕はすぐにはカメラを返さず、ボクっ娘に質問してみた。
「君、ソフトボールをやってるの?」
ボクっ娘の顔つきが変わった。正解だったようだ。もう少し遊んでみようか。
「絵も好きなのかな。この写真もそれを元に、絵かイラストでも描くために撮ってるとか?」
「どうしてボクのことをそんなに知ってる!」
写真は携帯で撮るのが主流のご時勢に、わざわざ自分の名前の入ったデジタルカメラを持ち歩いていることと、中指の膨らみをペンだこだと推測しての山勘だったが、ドンピシャだったようだ。狼狽気味のボクっ娘の表情を見て、これまで曇っていた僕の内心は日本晴れへと変わっていった。ここで先輩らしくガツンと言ってやろう。
「君ね、年上に対してその態度と言葉遣いはないだろう。それに頼んでおいてお礼の一言もないのは無礼すぎるよ。もう少し気を遣っても……」
「いいから返せ!」
こちらの話の途中にもかかわらず、ボクっ娘は両手でカメラを奪いに来た。僕はカメラを持った手を高く上げる。諦めずに跳び上がって奪おうとするボクっ娘、しかし、その度に僕が向きを変えるので全く手が届かない。
「コラコラ、喧嘩はよくないぞ」
ソノさんがボクっ娘の頭をポンポン叩きながら、明るい声で言う。先輩やコトもいつの間にかすぐ側までやって来ていた。
「カメラを返してくれないんです」
ボクっ娘は妙にしおらしい声でソノさんに訴えている。ソノさんはにこにこ笑っているのだが、実はこんな時こそ用心しなければいけない女性なのだと、僕はこの時、骨身にしみて理解できた。ソノさんは時に予想もできないことを口にするのである。
「そっかー。でもね、男の子って好きな女の子には意地悪したくなるものだから、許してあげてね」
「じょ、冗談じゃない。誰がこんな跳ねっ返り娘!」
「こっちだってお断りだ! えいっ!」
ソノさんの言葉に気を取られた僕の隙を突いて、ボクっ娘は首尾よくカメラを奪還してしまった。したり顔でカメラをウエストポーチにしまうボクっ娘を、ソノさんはじっと見詰めている。むしろ気があるのはソノさんの方じゃないのかと思うような見詰め方だ。ボクっ娘もさすがに気になったらしく、ソノさんに訊いた。
「あの、何か?」
「ううん、何でも……」
――ほう、さすがは其角の宿り手。感じるものがあるようじゃのう。
佐保姫の声だ。食べていない時に聞こえてくるのは初めてだ。僕は頭の中で『感じるものって何?』と聞いてみたが、佐保姫の返事はなかった。
「ところで、両親はどうしたんだ。見当たらないみたいだが」
「あそこに並んでいます」
先輩の質問にボクっ娘が指差したのは、天守閣入場待ちの列。待ち人数は減るどころか増えているような気がする。コトが驚きの声を上げる。
「登るの! まだまだ時間かかりそうだけど大丈夫?」
「ひこねゃんが出ていた頃から並んでいるので、もうそれほど待たなくていいと思いますよ。それじゃ、ボクは戻りますね。写真、一緒に写ってくれてありがとう」
ボクっ娘はコトにお礼を言った後、牛丼屋の時と同じように僕に向かっては「ふん!」と言い捨てて入場待ちの列に戻って行った。先輩が背中を叩く。
「嫌われたもんだなあ、ショウ」
「二年間憧れていた先輩に、こんな彼氏がいると知ってショックだったのよねえ。ショウちゃんがもうちょっとカッコよければ、また違う反応だったのかもしれないけど」
「彼氏って……僕はただの友達だし、それにあっちは女の子でしょ。ショックを受ける方がどうかしているよ。それよりもソノさん」
先程の佐保姫の言葉が気になっていた僕は、ソノさんに尋ねてみた。
「さっき、あの子を見詰めていたけど、何かありましたか?」
「そうねえ……私もあの子に惚れちゃったかな」
冗談とも本気ともわからないソノさんの言葉に、もうこれ以上追及する気が失せてしまった。先輩が威勢のいい声をあげる。
「さあ、それよりも先を急ごうぜ。時間は待っちゃくれないんだから」
それから僕たちは西の丸から黒門を抜けて内堀を渡り、玄宮楽々園へ入った。池を主体にした庭園で、園内には四つの島に橋が九つ掛かっているらしい。
「この橋の配置だと、同じ橋を二度渡らずに九つの橋を全て渡って一周するのは無理だね」
「そうだな、だが出発点を蓬莱島にして終着点を蘇鉄島にすれば、二度渡らずに全ての橋を渡れるぞ。まあ、柵があって島には入れないから、どのみち無理だけどな」
先輩とこんな会話をしながら園内をそぞろに歩き、東口から外に出る。近くの公園には大型のテントが張られていて、滋賀の特産品などが売られていた。もちろんひこねゃん関連の品もあるので、ソノさんは大喜びだ。まだ博物館を観なきゃいけないので、ここで買うと荷物になるとソノさんをなだめて、ようやく表坂にある博物館に戻ってきた。城山に登る前に博物館に入るのが正しい道順なのだろうが、ひこねゃん登場に間に合わせるために最後の見学になってしまった。
ここは江戸時代の表御殿を復元したもので表向きの空間が展示室、奥向きの空間には座敷や茶室が再現されている。能舞台を取り巻くように配置された展示室を僕たちは見ていく。武具、茶道具、絵画など、骨董と呼ぶに相応しい品の数々が展示されている。本丸ではひこねゃん一色だったソノさんも、さすがにここでは写真を撮っていた。ストロボ禁止なので少々苦労しながら、真面目な顔でシャッターを押す姿はやっぱり卒論を控えた大学生だなと思う。
奥向きの空間には庭園もあった。緑が目に優しい落ち着いた風景は、ゆったりとした時の過ごし方もいいものだなと感じさせてくれる。一通り見終った僕たちは、再び展示室入口へ戻った。そしてそこで二度あることは三度あるの諺を、身を以って体験することになった。
「あっ」
ボクっ娘御一行様と出くわしてしまった。時間的に天守閣に登った後、すぐにこちらに向かったものと思われる。またボクっ娘の無礼千万な言葉を浴びるのかと一瞬身構えはしたものの、今回は両親同伴、更に、私語を慎むのが常識の博物館内ということもあり、僕たちは会釈をして擦れ違っただけだった。
「ホントによく会うな。もしかして逃れられない運命なんじゃないか、ショウ」
先輩の戯言は軽い笑いであしらって、僕たちは出口に向かった。あとはキャッスルロードでお土産を買って駐車場に行き、帰途につくだけだ。これでもうあのボクっ娘と会うことはないだろう。ソノさん、先輩、コトに続いて、僕も受付の前を通って展示室から出ようとした時、
――主様よ。旨い握り飯の礼でもないが、ひとつ忠告してやろう。あの小娘をしばらく追うてみなされ。
佐保姫の声がした。あの小娘……まさかボクっ娘のことだろうか。『追うってどういうこと、佐保姫?』頭の中で問い掛けても返事がない。女神様の気紛れにも困ったものだ。他の三人は既に外に出てしまっている。どうしようか迷っているとコトがこちらを振り向いた。仕方ない、ここは佐保姫に従ってみるか。
「ごめん、ちょっと戻るよ。先に行ってて」
僕はそう言ってボクっ娘たちの居る展示室に引き返した。
* * *
「ごめん、ちょっと戻るよ。先に行ってて」
その声を聞いてソノとライも振り返った。ショウは出口の手前で向きを変えて奥に歩いて行く。
「どうしたんだ、アイツ」
不審な顔でつぶやくライ。展示室に戻っていくショウをじっと見ているソノとコト。その姿が見えなくなると、ソノが言った。
「怪しいわね。私たちも行ってみない?」
「いや、行ってみないって言っても、もう出ちゃったし」
「あーら、大丈夫よ。すみませーん!」
ソノは受付に近寄ると入場券を見せながら、
「中に忘れ物しちゃったみたいなので取りに戻りたいのですけど、いいかしら」
とお願いをする。出て間もなくのことでもあるので、すぐに了承された。三人は再び展示室へ戻り、ショウの後を追った。
「お、いたいた」
三人から少し離れた場所にショウ、そしてその少し先にボクっ娘御一行。明らかにショウはボクっ娘の後をつけている。
「あんなに嫌っていたのに、どうして追いかけているんだ、アイツ」
「もしかして、本当にあの子に惚れちゃった、とか? どうするコトちゃん!」
「わ、私は別になんとも……」
コトはそう言いながらも不安げな様子でショウを見ていた。こんな行動をショウが取るのは初めてなだけに、その真意を測りかねているようだ。
「お、動くぞ、静かに静かに」
こうして三人の後をつける一人と、その一人の後をつける三人の、奇妙な追い駆けっこがしばらく続いた。展示室の中を動いて行く謎めいた七人。と、不意に、ある展示物の前でその動きが停止した。余程気に入ったのか、ボクっ娘はそこからなかなか動かない。両親が別の場所に行ってしまっても、やはり見続けている。ショウも他の三人も動きを止めてボクっ娘を見詰めていた。
「んっ!」
不意にソノが何かに気づいたかのような声を上げた。
「今、確実に宿ったわ、コトちゃん、感じた?」
「私は、ぼんやりとしか……ライさんは?」
「おい、宿ったって、まさか言霊? 俺は何も感じなかったぞ」
ライはもう一度ボクっ娘を見たが、やはり何も感じない。ソノが満足そうに言う。
「やっぱりね。あの子、言霊を宿していたのよ。でも、それは凄く弱い共感で、誰もそれを感じられなかった。でも、今、ここで大きな共感に出会った」
「じゃあ、ショウ君はそれを知ってて?」
「ううん、ショウちゃんにはそれほどの力はないわ。きっと佐保ちゃんの差し金ね。あたしが初めてライちゃんに会ったのも、佐保ちゃんに言われたからだったし。さあ、もうコソコソする必要はないわ。行きましょう。あたしがあの子の言霊を引き出してやるわ」
ソノはショウのいる場所へ歩き出した。他の二人もソノの後に従った。
* * *
――やはりのう。思った通りじゃ。
また佐保姫の声がした。さっきからちっとも動かないボクっ娘に退屈しかけていた僕は、どうせ返事はないだろうなと考えながら『思った通りって?』と問い掛ける。
――後は、其角の宿り手にでも聞いてみるのじゃな。
返事があった。あったのはいいが、回答にはなっていない。僕は凍り付いたように動かないボクっ娘をまた見守ることにした。
「こんな所で何をしているのかしら」
この声! まさかと思って振り返るとコトが立っていた。いや、コトだけでなくソノさんと先輩も居る。その姿を見て、僕の心臓は一気に縮み上がった。
「み、みんな、どうしてここに……」
「それはこっちのセリフだろ。こんなカワイイ彼女がいるのに、他の女の子を追いかけるなんて、何を考えているんだ」
「いや、先輩、それは誤解……」
「ショウちゃん、正直に言いなさい。嫌っているような素振りを見せておいて、その実は気があったんでしょ」
「ソノさん、違うんですよ、佐保姫が……」
「これでショウ君が浮気性だってこと、よくわかってもらえたでしょう。私たちを騙した罰として、どんなお仕置きをしてあげようかしら」
「待ってコトさん、話を聞いて!」
三人に連続して責め立てられて僕は完全に追い詰められた気分だった。佐保姫の言葉に従っただけと言っても証拠がない。むしろ佐保姫を口実にして言い逃れをしようとしているとしか思われないだろう。絶体絶命の窮地に陥った僕は、この状況で猫を噛めるネズミさんの勇気に、心の底から感服した。
「あれ、皆さん」
ボクっ娘がこちらを振り向いた。これだけ賑やかにしているのだから気づかれて当然である。
「見終わって外に出たんじゃなかったんですか?」
「ちょっと気になることがあってね……ふうん、森川
ソノさんがゆっくりとボクっ娘に近寄っていく。
「あ、はい。なんだか漫画チックで面白いなあと思って」
素直に答えるボクっ娘の側へコトと先輩も近づいていく。妙だなと思いながら僕も従うことにした。
「ね、ちょっと付き合ってくれない。そんなに時間は取らせないから。そうね、あ、あそこがいいわ」
博物館の表向き空間の一番奥に、学習コーナーという書籍を読める場所がある。僕たちはそこに入ると、六人掛けの長机に座った。ソノさんの横にボクっ娘、その向かいに僕たち三人である。ソノさんがボクっ娘に話し掛ける。
「ね、あなた百人一首に興味があるんでしょ」
「はい。と言っても最初は読み札の絵が好きだっただけで、真似して描いている内に、歌も覚えちゃったみたいな感じです」
「俳句はどう? 好きな俳人とかいないの?」
「祖父が俳句をやっていて、少し知っています。この近くにある俳遊館も行ったことがあります」
さっきからソノさんは何をやっているんだろうと思いながら、次第に退屈になってきた。さっきまであんなに僕を責めていたのに、今はボクっ娘に付きっ切りだ。先輩もコトも何も言わずにソノさんの好きにさせているし、みんな、何を考えているんだろう。それはボクっ娘にしても同じ思いだったようで、逆にソノさんに質問を始めた。
「あの、どうしてこんな事を聞くんですか?」
「許六!」
まるで呼び掛けるようなソノさんの強い口調に、ボクっ娘はビクリと体を震わせた。
「知ってる? 森川許六。蕉門十哲の筆頭と言う人もあるほどの俳人」
「は、はい、知って……うっ!」
それは不思議な一瞬だった。今までただの女の子だったボクっ娘に、僕は言霊を感じたのだ。
「……其角」
ボクっ娘の口から出た言葉を聞いて、それは確信に変わった。ボクっ娘にはソノさんの言霊が見えているのだ。僕は声を上げた。
「まさか、あの子……」
先輩もコトもようやく気づいたかという顔で僕を見た。そして僕にはやっと事態が飲み込めた。佐保姫が言っていたのはこの事だったのか。彼女は言霊の宿り手だったのだ。ボクっ娘はソノさんから目を離すと、今度はこちらに顔を向けた。
「寿貞尼……去来……」
コトと先輩を見ながらそうつぶやき、最後に僕と目が合った時、僕は彼女の瞳の中に言霊を見た。
「芭蕉翁!」
瞳の中の裃を着た武士の姿が次第に大きくなっていく。それが彼女と重なった時、低くはっきりした声で発句が詠まれた。
「西風に東近江の柳かな」
そしてほとんど同時に僕たち四人も同じ句を詠んでいた。
「西風に東近江の柳かな……」
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