義仲寺


 四人が居るのは先程のフードコート。周囲の情景はぼやけているが、テーブルの上に置かれた四個の握り飯だけは、はっきりとその存在を主張している。


「これがショウ殿が開いた吟詠境……やはり朦朧としておるな」

「今のショウ殿のお力では仕方なかろう。さりとてこればかりは見事な出来よ」


 其角がテーブルの上の握り飯に手を伸ばそうとするのを、寿貞尼がたしなめた。


「これ、先ずは佐保姫であろう。ショウ殿、佐保姫を呼んでくだされ」


 寿貞尼に言われ、ショウが季の詞、佐保姫を発すると、角高杯を前にして薄畳の上に正座した佐保姫がテーブルの上に現れた。その童女の様に小さい姿を見て、三人は驚きの声を上げた。


「これは、お小さい」と其角。

「成りは小さくても女神ですぞ」と去来。

「愛らしいではありませぬか」と寿貞尼。


 それらの声を佐保姫は一向意に介せず、ショウに、


「主様、ここに握り飯を持ってきて給れ」

 と命じた。ショウが握り飯のひとつを差し出すと、佐保姫は小さな口でかぶりつく。

「ほう、これは……」


 それを聞いた其角は、まるで待ちきれないという様子で、


「では我らもご相伴に預かろうではないか、縁台!」


 と季の詞を発する。たちまち其角の前に長さが六尺ほどの黒竹組み縁台が現れた。ショウが尋ねる。


「其角さん、どうして縁台を?」

「我らも佐保姫同様、このような卓では食事を取らぬ。この縁台に腰掛けて食べることにいたす」


 其角はそう答えると、テーブルの上の握り飯をひとつ掴み、縁台にどっしりと尻を据えて、大きな口でかぶりついた。


「旨い!」


 その声につられるように、去来と寿貞尼も握り飯を掴み、縁台に腰掛けて食べ始めた。


「うむ、美味じゃ」

「ほんに、美味しゅうございますな」


 みんなが喜んで握り飯を食べる様子を見て、ショウは大きな手柄でも上げたかのような誇らしげな気分になった。コトが作り、それを食べた自分が言霊の力で練り上げた握り飯。みんなを喜ばせているのは二人の合作なのだ。食べるのを一休みして、手にした握り飯を眺めながら佐保姫が満足げに言った。


「これほどの旨さは久し振りじゃ。感謝と至福に満ち溢れておる。握り飯ひとつ詠むのに、これだけの想いを込められるとはのう。主様にとって、あのコトとやらは特別のおなごの様じゃな」

「ショウ殿は果報者ですな」

「これをこしらえた我が宿り手もさぞかし喜びましょう」

「うむ、これは宿り手にもしっかり味わわせねばいかぬな」


 突然、其角が立ち上がり両手を合わせた。何をするのか悟った佐保姫は声を上げた。



「こりゃ、其角、止めぬか!」

 佐保姫の制止の声など聞く耳持たぬという風情で、其角は言葉を発した。

現し身うつしみ!」


 その声と同時に佐保姫は薄畳ごと消えてしまった。それだけではない。縁台に腰掛けていた三人も、そしてショウも、その姿は消え別の姿となってそこに居た。


「こ、これは……」


 ショウは学生服姿の自分に驚いていた。去来から旅装束を貰い受けてから、吟詠境では必ずその姿をしていたのに、今、それを貰う前の姿に戻っている。縁台に目をやれば、そこに腰掛けているのは、学生服姿のコト、剣道着姿のライ、パンツスーツ姿のソノ。言霊の姿は消え、宿り手の姿になっている。ライの姿をした去来が大声を出した。


「其角殿、これは芭蕉翁より、みだらに詠むこと罷り成らぬと申し渡された戒詠ではないか。何故ここで詠まれるのか」

「まあまあ、去来殿、大目に見られよ。この握り飯の旨さが、この其角に禁を破らせたのじゃ。我らが宿り手もこの美味を味わうべき、そう思ったまでよ」

「あの、去来さん、これは一体……」


 何が起きたのかわからないショウは、おずおずと去来に尋ねた。去来は少々苦い顔をして答えた。


「現し身とは言霊と宿り手を繋ぐ業。本来、吟詠境での出来事は言霊だけが体験できるもの。しかし、この業を使えば言霊の状態がそのまま宿り手にも伝わるのです」

「左様。普段は傍観しかできぬ宿り手も、この業を使えば同じ想いを味わえる。我らが旨いと感じれば、宿り手も同じ旨さを感じる。腹が膨れれば宿り手の腹も膨れ、酒に酔えば宿り手も酒に酔う。もっともそれは頭でそう感じるだけで、体の方は酔いもせず満腹にもなってはおらぬがな」


 其角はそう言いながら握り飯を一口食べる。


「うむ。これで、この旨さは宿り手にも伝わろう。我らが口で旨いというより、この方がよかろうが、去来殿」

「仕方ありませぬな。今回は大目に見ましょう。だが、この一度きりにして頂きたい。蕉門十哲でこの業を許されたのは其角、嵐雪の二名のみとは言え、戒詠には違いないのですからな」


 去来と寿貞尼も其角に倣って残りの握り飯を食べ始めた。姿だけならいつものソノ、ライ、コト、そのものである。そんな三人を眺めながら、ショウは独り言のようにつぶやいた。


「でも、佐保姫はどうして消えてしまったんだろう。まだ食べ掛けだったのに」

「現し身を使えば、宿り手が現し世で最も馴染んでいる姿に変わるのです。佐保姫は現し世に宿り手を持たぬゆえ、消えてしまわれたのです」


 最も馴染んだ姿……自分とコトが学生服姿なのは、それを着ている時間が一番長いからなのだろう。とすればライの剣道着姿は、いかに彼の心に剣道の占める部分が大きいかを物語るようで、ショウは可笑しくなった。去来が立ち上がる。


「さて、握り飯も食べ終わり、佐保姫が消えた吟詠境にもう用はござらぬ。ショウ殿、挙句を」

「あ、はい」


 少々ご機嫌斜めの去来ではあるが、顔には笑みが浮かんでいる。ショウはしばらく考えた後、挙句を詠んだ。


「芭蕉翁の言霊の宿り手ショウ、挙句を申す。満ちた心に吹く若葉風!」


 フードコートを爽やかな風が吹き抜けていく。その中で満足そうな四人の影は次第に薄らいでいった。


 * * *


「ショウ、俺はお前が羨ましいぞ」


 目を開けると僕の両肩を掴んで、興奮気味に話す先輩の顔が目の前にあった。


「ちょ、ちょっと先輩、落ち着いてくださいよ」

「あんなモノ食べさせられて落ち着いていられるわけがないだろう。あ~、俺もあんなおにぎりを作ってくれる彼女が欲しい」

「いや、だから彼女は彼女じゃなくて、クラスメイトで同じ部の部員ってだけで」

「あ~、あたしもあんなおにぎりを作ってくれる彼氏が欲しい」


 ソノさんの場合は作ってくれるじゃなくて作ってあげるでしょ、とツッコミたくなる気持ちを抑え、僕は先輩の胸を押して引き離した。


「ソノさんも先輩も、あのおにぎりがそんなに美味しかったんですか?」

「美味しいと言うか、まあ、お前の気持ちがわかったって言うか」

「そうそう、ショウちゃん。ただのクラスメイトなんて言ってるけど、もっと自分に正直にならなくちゃダメよ。それよりもコトちゃんはどうなの。あのおにぎりを味わった感想を言ってみて」

「わ、私は……」

 コトには珍しく言い澱んでいる。

「自分が作ったおにぎりを喜んでもらえて嬉しいって思うだけです」


 そう言いながらコトは僕をチラリと見た。おにぎりのお礼を言おうかと思ったが、僕の口からは言葉が出なかった。結局、僕もコトも黙ったままになってしまった。


「えっと、まだ朝なのに、なんだか暑いわね」

「うん、暑い。ソノさん、窓を開けてもいいかな」

「ダメよ、高速を走るんだから。あ、ライちゃん助手席に来る? そうすれば暑いのは後ろの席だけになると思うから」

「もう、二人共、いい加減にしてくださいよ」


 これ以上二人にからかわれ続けると、コトが何か言い出しそうだ。しかもこんな時のコトは間違いなく毒舌だろうから、その対象となるであろう僕自身はたまったものじゃない。僕は別の話題を振る。


「おにぎりよりも佐保姫はどうでしたか。小さいのは僕の力が足りないせいなのだろうけど、ソノさんの時とは性格まで違うみたいでしたよね」

「ああ、佐保ちゃんはね、使い手の好みの性格になるみたいよ」

「使い手の好み?」

「其角はのんびりしたタイプが好きなので、佐保ちゃんも大らかな感じだったのよ。ショウちゃんの佐保ちゃんは気が強いタイプかな。つまりそれがショウちゃんの好みってこと。芭蕉さんが詠めばまた違った佐保ちゃんになると思うわ」

「なるほど。そう言われてみると、コトさんも気が強いからな」

「ね~、やっぱりそうよねえ~」


 せっかく別の話題に振ったのに、先輩の一言でまた元に戻ってしまった。少々苛立ちを感じ始めた僕はソノさんを急かす。


「ソノさん、時間は大丈夫なんですか。そろそろ出発しないと」


 時計に目をやったソノさんが焦り気味な声を出す。


「あらやだ、もうこんな時間。少しのんびりし過ぎたわね。飛ばすわよ」


 エンジンを掛ける音がした。僕はほっとして窓の外に目をやった。



 義仲寺には十時頃に到着した。駐車場もない小さな寺なので、近くの大型商業施設の駐車場に車を停め、後は徒歩で寺に向かった。芭蕉が古里のようだと言った膳所の風景も、今はどこでも見掛けるありふれた町並みになってしまっている。そんな町並みに埋もれるように義仲寺はある。昭和六十年再建の新しい山門をくぐれば、義仲や芭蕉を思い起こさせる古色蒼然とした趣が、境内のあちこちに感じられる。


「ここからは各自で散策ってことにしましょう。そんなに広くないから迷うこともないでしょうし」


 ソノさんはそう言って、句碑や説明板の写真を撮り始めた。先輩は近くの史料観に入っていった。コトは受付で貰ったパンフを眺めている。僕は取り敢えず中庭を歩くことにした。巴御前を供養した巴塚、義仲の墓、そして芭蕉の墓と見ていく。何百年も日本人の記憶にある人たちの墓とは思えぬほどこぢんまりとした佇まいに、そこはかとない物寂しさを感じる。

 僕は芭蕉の墓の前に立った。四百年以上も前に大阪で亡くなった芭蕉は、其角や去来に付き添われてここに来て、この場所に埋葬されたのだ。その時、既に言霊となっていた芭蕉は、どんな気持ちで埋葬される自分を眺めていたのだろう。そして僕の中に宿っている言霊は今、どんな気持ちで自分の墓を眺めているのだろう。


「何か感じるものがある? ショウ君」


 背後からコトが話し掛けてきた。僕は黙って首を振った。今の僕には芭蕉の気持ちはわからない。僕にとって、目の前の墓はただの古びた小さな墓石、それだけの意味しかなかった。


「芭蕉さんってどうして義仲が好きだったのかしら。ただの乱暴者って印象しかないのに」


 コトが独り言みたいにつぶやく。生前の芭蕉が、木曽殿と塚を並べて埋葬して欲しい、と語ったことは僕も知っていた。その遺言に従ってこの地に葬られたのだ。芭蕉が抱いていた義仲への恋慕の理由など考えたこともなかったが、最初に見た巴塚のひっそりとした印象が、僕にこんな言葉を言わせた。


「それは自分の最期を悟った時に巴御前と別れたから。自分は死んでも彼女が生きることを願った義仲の心情に共感したんだよ、きっと」

「あら、義仲は、女と一緒に死ぬと笑い者になるって理由で彼女を逃がしたのでしょう。そんな義仲に共感できたのかしら」

「それは方便、そう言わなければ巴は逃げなかったからだよ。巴も、それから最期まで付き従った兼平も義仲の幼馴染。死ぬ時は必ず一緒にと誓って戦ってきたはず。けれど義仲は、巴だけは自分の目指す生き方の道連れにはしたくなかったんだ。ちょうど、芭蕉が寿貞尼から離れ、一人で俳諧の道を歩んだおかげで今の芭蕉になったように」


 こんなにはっきり物を言う僕は初めてだったのだろう、コトは驚いた顔で僕を見ていた。だが、一番驚いていたのは僕自身だった。こんな考えを持っていた自分がまるで他人のように感じられた。


「それ、ショウ君の言葉、それとも芭蕉さんが言わせているの?」


 コトの疑問はまた僕の疑問でもあった。コトの問いには答えず、

「翁堂へ行ってみるよ」

 と言って僕は歩き出した。コトが後ろを付いて来る。


「別に付き合ってくれなくてもいいよ」

 と言う僕の言葉に、

「偶然同じ方向へ歩いているだけよ」

 と返事をして尚も付いて来る。それ以上僕は何も言わなかった。


 翁堂は義仲寺の奥まった場所にあり、芭蕉像を安置してある。その像の左右には丈草と去来の像が師を慕うように座っている。少し明るすぎる堂の内部は現代の建物という雰囲気が漂っている。僕は正面に座る芭蕉像を見ながら、像を作るのは後世の人々の我がままなのだ、と感じた。芭蕉が自分の像を拝んでもらうことを望んでいたとは思えない。それを望んでいるのは、あくまで芭蕉の後の世の人だけなのだから。


「お、二人で仲良く見学か」


 先輩の声がした。翁堂の間口は狭いので、コトが下がって場所を譲った。中を覗き込む先輩。


「ふ~ん、あれが去来の像か」


 芭蕉よりも先に去来の像に目が行くところが、いかにも去来の言霊の宿り手らしい。


「あの去来の像、先輩はどう思いますか」

「そりゃ、実物の方がいい男に決まっているじゃないか。あれじゃまるで仏像だよ。俳諧師なんて聖人君子じゃないんだから、もっとカッコよく作って欲しいよな」


 先輩に宿った去来の言霊も同じことを考えているのだろうか。先輩は像にはすぐに飽きてしまったようで、体を堂の中に入れ込むようにして、十五枚の天井画を見上げている。僕はもう一度正面の芭蕉像を見てみたが、もう何の感慨も湧いては来なかった。

 ほどなく翁堂を後にした僕たちは近くにある小さな句碑を見ていた。境内の二十近くある句碑の内、芭蕉の句碑は三つしかない。そのうちのひとつ、芭蕉の病中吟の句碑である。


「あら、みんな揃っているわね」


 そう言いながら歩いてきたソノさんはカメラを構えて句碑に近づくと、写真を撮った。


「卒論の資料集め、どうですか?」

「う~ん、ボチボチかなあ。正直なところ資料集めより、卒論執筆に向けて気合いを入れるために来たって感じなのよね。この鄙びた情緒に浸っていると、よし、書こうって気になってくるじゃない」


 ソノさんの心情は今一理解できないのだが、このお寺の雰囲気は確かに独特である。視線を上げて現代の建造物を目に入れなければ、芭蕉の生きた時代を歩いているような気分になれる。ソノさんは句碑の前にしゃがみ込むと、声に出して読み始めた。


「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る……破れた風に飛ぶ寒雀」


 僕はハッとして先輩を見た。先輩の表情も真剣みを帯びている。最後の七七は句碑には刻まれていない、芭蕉の臨終の夢の中で詠まれたもの。やはりソノさんもあの夢を見ていたのだ。先輩がソノさんに訊いた。


「その七七、どういう意味だと思いますか」

「そうねえ、前に吟詠境で其角が自分の言霊に封をされるのを断ったって言っていたでしょ。あれと関係あると思うのよ」

「封と?」

「封印詠なんて基本的にはまるで意味のない業なのよ。わざわざ力を使って相手を封じるくらいなら、相手の言霊の力を奪ってしまった方がいいに決まっているもの。だから蕉門でこの業を身に付けたのは芭蕉だけだった」


 そうだ、あの夢の中で芭蕉は宗鑑の言霊の力を奪おうとはしなかった。できなかったからではなく、そうはしたくなかったのだ。争うのではなく、あくまで宗鑑とわかり合いたい、そう願ってのことだったのだろう。


「死んで言霊となった芭蕉は、死が迫った門人たちに宿り、その言霊を封じていった。言霊は自分の言葉に留まっていると徐々に力を失っていく。だから宿り手を見つけて力を回復させないといけない。でも封をされた言霊はそうはならない。力を失っていくのは封の方だから。封によって、時間による言霊の力の消耗を防いでもらっていると言ってもいいわね。だからこそ、芭蕉やその門人たちは自分の言霊を封じたのよ。来たるべき時に向けて自分たちの力を温存するためにね」

「時の経過による言霊の力の損失って、そんなに大きいものなんですか」

「みたいね。其角なんて何度も宿り手を替えて、その度に宿り手から力を貰っていたけど、それでも随分力が減っちゃったみたいよ。もし他の門人と同じように封じられていれば、芭蕉さんと同じくらいの力を今でも維持できたんじゃないかなあ」


 死んだ後も門人たちを訪れ続けた芭蕉。そうして自分の力の片鱗を預け、封をし、それが終わった後に自分自身をも封じたのだろう。


「死後も弟子の前に姿を現すなんて、十字架の上で亡くなった西洋の神様みたいですね」

「あら、ショウちゃん、面白いこと言うわね。あの人も『歩け!』と言ったら、歩けない人が歩けるようになったそうだから、意外と言霊を持っていたのかもね」

「変な横槍入れないで、話を聞いたらどうなの。ショウ君」


 コトがこちらを睨んでいる。本当だ。言ってしまった後でおかしな事を言ったものだと思う。ソノさんが苦笑した。


「まあ、それはともかく、封の話よね。時間と共に効力を失っていった封が完全に消えてしまった時、元の力を保持したままで言霊は自由になれる。だとすればもうわかるでしょ。破れた風とは封が破れること。寒雀は言霊のこと。時が経ち封が解ければ、鳥が羽ばたくように私は帰って来るって意味なんだと思うわ」


 ソノさんの話を聞いている内に、僕の中にひとつの懸念が湧き上がった。封をされているのは芭蕉や門人たちだけではない。彼らと明らかに敵対している宗鑑もまた封をされているのだ。


「でも、ソノさん、封が解けて自由になるのは芭蕉さんたちだけじゃないですよね」

「そう、最初に封じられた宗鑑も元の力を保ったまま帰って来る。今、芭蕉や門人たちの言霊がこうして出現しているのは彼らの封が解けたから。とすれば宗鑑の封も解けているか、あるいは既に宿り手を見つけているかも……」


 軽い恐怖が僕を襲った。あの夢の中で芭蕉が全力を尽くしても封じることしかできなかった宗鑑。今の僕の状態では到底太刀打ちできる相手ではない。もし僕の目の前に彼の宿り手が現れて吟詠境に誘い込まれたら、間違いなく打ち負かされ、芭蕉の言霊の力を奪われてしまうだろう。


「やだあ、ショウちゃん、何を深刻な顔しているの。大丈夫よ、吟詠境に行かなければ言霊なんて全然関係ないんだから。それにあたしやライちゃん、コトちゃんだって居るじゃない。ホラホラ、暗い顔してないで一緒に境内を見学しましょう」


 ソノさんは僕の手を掴むと歩き出した。この明るい性格には問答無用の力がある。

 その後、僕たちは四人揃って境内をあっちへ行ったりこっちへ行ったり、写真を撮ったり撮られたりして、気がつけば山門を出て車を停めた商業施設に向かって歩いていた。


「結局、芭蕉さんの言霊の片鱗について、何の手掛かりもなかったわね。無駄足踏ませちゃってゴメンね」

「無駄足なんてことないですよ。芭蕉についての知識は深まったし、なにより楽しかったですから」

「ショウちゃん、優しい~。そう言ってもらえると、お姉さん嬉しくなっちゃう。ぞれじゃ次は彦根へ向けてレッツゴーね」

「はあ?」


 僕と先輩が同時に声を上げた。芭蕉と縁のある場所が彦根にもあっただろうか。考えを巡らせても何も思いつかない。歩きながら考えている先輩も心当たりはない様子で、結局ソノさんに尋ねる。


「あの、ソノさん、どうして彦根なんですか?」

「もう、愚問ね。滋賀に来てひこねゃんに会わずに帰れるわけがないじゃない」


 ひこねゃんは彦根市が選定したキャラクターだ。そのゆるキャラ振りが最近人気を博している。


「ひこねゃんって、あのひこねゃんですか?」

「そうよ、ひこねゃん♪ひこねゃん♪ひこねゃんねゃんの、ひこねゃん」

「そのひこねゃんと芭蕉と、どんな関係があるんですか」

「ないわねえ~……えへっ」


 笑ってごまかしているソノさんに、先輩の生真面目さが反応したようだ。少々怒りを含んだ声で意見する。


「ソノさん、わざわざ滋賀に来たのは、卒論と門人の言霊の手掛かりを探すためでしょう。だったら彦根よりも幻住庵に行った方がいいじゃないですか。ここから十キロくらいしか離れてないんだし」


 幻住庵は奥の細道の旅を終えた芭蕉が翌年の夏から秋にかけて四ヶ月ほど隠棲した庵で、そこで記した幻住庵記は有名だ。先輩の意見はもっとも至極なのであるが、ソノさんは首を振る。


「え~、そんな所に寄っていたら、ひこねゃんに会えなくなっちゃう」

「いや、だから俺たちがこんな所に来たのは、ひこねゃんに会うためじゃなくて」

「先輩、ちょっと待ってくれますか」


 ソノさんが気の毒になった僕は、先輩の言葉をさえぎってソノさんに問う。


「あの、ソノさん、もしかして今回の旅の目的は義仲寺じゃなくて、本当はひこねゃんに会いたかったんじゃないですか?」

「ピンポーン! ショウちゃん、わかっているじゃない」


 やっぱりかと納得する。土曜日の卒論ゼミにも不平を言うソノさんが、わざわざ休日を犠牲にして卒論のために時間を割くことに、そもそも違和感を抱いていたのだ。多分、僕たちと一緒に遊びたかった、それだけなのだろう。


「い、いや、しかしソノさん」

「いいじゃないの、ライさん」

 尚も食い下がる先輩に、今度はコトが意見する。

「私たちはソノさんに連れて来てもらっているのですもの。ソノさんが行きたいと言えば、そこに付いて行くのが当然の義務。そうじゃなくて」

「コトちゃん、ステキー。あたしコトちゃんに付いて行っちゃう」

「ま、まあ、コトさんがそう言うなら」


 相変わらず先輩はコトの一言に弱い。あっさりと引き下がってしまった。


「よおし、そうと決まればさっそく出発ね。そうだ、お昼は彦根で近江牛にしましょう。安くて美味しい店を知っているのよ」


 いくら安くても国産牛は相当高いんじゃないですか、という僕の不安をよそに、ソノさんは元気に道を進んで行く。僕たち三人はその後に付いて歩き始めた。

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