三 お転婆娘にて候

春の女神


 ソノさんの言った「大変」はその日の内に判明した。今日の夕食は自分で取ると父に言って家を出たので、先輩と駅で別れた後、いつものスーパーで弁当を買って帰宅した。

 ドアを開けて「ただいま」と言うと、居間から「ああ、おかえり。明日、滋賀県に行くんだって」と、父の声が聞こえてきた。つい先程、先輩から電話があったらしい。こういう気遣いは本当に有難いと思う。

 居間に入ると父は食卓に座って何かの書類を読んでいる。会社の仕事を持ち返ってきているようだ。まだ夕食には早いので買ってきた弁当を冷蔵庫に入れていると、背後から父が話しかけてきた。


「芭蕉の墓所を訪問とはな。この前も俳句の本を読んでいたし、よっぽど気に入ったとみえるな」

「うん、色々あってね」

「父さんはそっちの方面には疎いんだが、母さんは好きだったな。前にも話したかもしれんが、母さんは自分でも和歌を詠んだり詩を書いたりしていたよ。お前のそんな所は母さん似かもしれんな」

「いや、僕は他人の作品を眺めているだけで、自分で作るなんてとても無理だよ」


 最近、父は母に触れることが多くなった。亡くなってからもう十年以上も経ち、父も落ち着いて記憶をたどれるようになってきたのだろう。ただ、僕はどうしても母の話題には緊張してしまう。小さい頃から内に押し込めて外に出さないようにしてきた話題、それをいきなり目の前に差し出されても戸惑うばかりだ。


「せっかく行くんだ、実地学習だけでなく観光も楽しんできなさい。一緒に行く人に迷惑を掛けないようにな」

「うん、わかってる」


 僕はそう言って居間を出て二階の自室に向かった。


 その日は遅めに夕食を取った。弁当のおかずはサバの味噌煮。ソノさんの言葉に従って魚にしたのだ。父は既に夕食を終えていたので、一人で食卓に着き、父が作った残りの味噌汁と一緒に食べていると声がした。


 ――旨そうじゃのう。


 最初は空耳かと思い気にせずに食事を続けた。しかし、次に聞こえてきた言葉によって、これは空耳ではないと判断せざるを得なくなった。


 ――主様は何故聞こえぬ振りなどなさっておいでかのう。


 どこかで聞いた声、これは佐保姫の声だ。その時、別れ際のソノさんの言葉が頭に浮かんだ。「これから大変かも……」これのことだったのだろうか。こちらの声が聞こえるかどうかわからないが、とにかく僕も頭の中で喋ってみる。


『もしかして、佐保姫?』

 ――わらわでなければ誰だと申すのじゃ。そんなことより、早く食わせてくれぬかのう。


 どうやらこちらの言葉は届いているようなので、僕は更に喋り続ける。


『食べさせてくれって、この弁当を?』

 ――そうじゃ。それが我が季の詞、佐保姫を使う者の義務であるからのう。

『でも、どうやって?』

 ――吟詠境でに決まっておろうが。わらわが一緒に発句を詠んでやるゆえ、一人でも案ずることはないぞえ。


 佐保姫の言葉には驚かされっ放しだ。ソノさんももっと詳しく教えてくれていれば、もう少し心の準備というものができていただろうに、と僕は心の中でつぶやく。しかし、更に驚いたのは次の佐保姫の言葉だった。


 ――ソノは主様の驚く顔を想像して、今頃喜んでおろうな、ほっほっほ。


 聞かれている! 心の中のつぶやきまで佐保姫には聞かれている。これでは佐保姫には隠し事など一切できなくなる。こうして驚いて隠し事ができないと焦っている今のこの気持ちも佐保姫には筒抜けなのだ。ソノさんが言った「これから大変かも……」の真の意味はこれだったのか。


 ――わらわは季の詞といえど、春の女神、神じゃからのう。何もかも知られてしまったとて恥ずべきこともなかろうが。それよりも、早く食わせてくれぬかのう。


 とにかく吟詠境で佐保姫と直接話をしよう。いや、その前に弁当を食べてしまわなくては。いくらなんでも食べかけでは行儀が悪すぎるだろう。僕は急いで弁当を片付けてしまうと、お茶を入れた湯飲みを持って二階に上がった。床の上に直接座り、お茶を飲んで気を落ち着かせる。


 ――そうじゃ、言い忘れたが、発句は今の弁当を詠んだ主様の句にして給れ。でなければ主様の想いを味わえぬでのう。


 吟詠境に一人で入るのも、そのために発句を詠むのも初めてである。しかも芭蕉の句ではなく、自分の句を詠めと言う。僕の下手な句など芭蕉の言霊は詠んでくれるのだろうか。そもそもどんな句を詠めばいいのだろう。僕のこの煩悶も佐保姫にはわかっているはずなのに、もう何も言ってこない。それくらいは自分で考えろということなのだろう。

 僕は今まで読んできた俳句関連の書籍の内容をもう一度思い返した。良い句を作ろうなどとせず、ありのままを詠めばよい、それが初心者の作句の心得だった。ありのまま……そうだ、今日の夕食風景をそのまま句にしてみよう。


「ただひとりサバの味噌煮を食う夕べ」


 僕は感じた。僕の中の言霊は確かにその句を詠んでくれた。そして僕の中のまた別の所で、違う何かがその句を詠んでいた。


 ――ただひとりサバの味噌煮を食う夕べ


 * * *


 ショウが立っているのは居間兼台所のありふれた部屋の中だった。


「これは、僕の家か」


 食卓、流し台、テレビとソファー。見慣れた感じがするのは家の居間とそっくり同じだからだろう。ただ、それらは皆、ぼんやりと霞んでいる。はっきり見えるのは食卓の上の弁当、そして旅装束姿のショウだけだ。


「主様の力ではこの程度でも仕方なかろうて」


 随分下の方から声が聞こえた。ショウが自分の傍らを見下ろすと、そこには幼稚園児のような童女が立っていた。白小袖の上に桃色の狩衣と袴を身に着けて、まるでこれから稚児行列にでも加わろうかという風情である。


「あの、もしかして佐保姫?」

「もしかせずとも佐保じゃ」


 小さすぎる、とショウは思った。其角が詠んだ佐保姫は十尺はあろうかという大女、しかも十二単をまとっていたが、今、目の前に居るのは背丈がショウの腰の辺りまでしかない三尺ほどの子供、まとう装束も簡素である。ショウはしゃがみ込むと佐保姫の顔を正面に見て挨拶した。


「こんばんは、佐保姫。ところでどうしてこんなに小さいの?」

「主様の力が弱いからに決まっておろう。この吟詠境にしても、周りの景色がぼやけておる。ここまで力が弱いとは思わなんだのう。道理で開くのに其角の時とは比べ物にならぬほど、力が必要だったわけじゃ」


 成りは小さくても春を司る女神、気品に溢れる物言いである。佐保姫は呆気に取られているショウの前を離れ、広々とした居間へ行くと、


「春の膳!」


 と一声叫んだ。たちまち目の前に朱塗りの角|高杯(たかつき)膳を乗せた一畳ほどの布縁の薄畳が現れた。そこに座った佐保姫は、


「わらわはそのような卓ではなく膳で食事をいたすでのう。その弁当なるものをここに運んで給れ」


 とショウに言う。ショウは言われるままにテーブルの上の弁当を膳に乗せた。見るとそこには赤い小さな箸と湯呑茶碗が置かれている。ショウは食卓から急須を持ってくると、湯呑みにお茶を注いでやった。佐保姫は満足そうな顔をして弁当を食べ始めた。


「あの、佐保姫、ちょっと聞いてもいいかな?」

「なんじゃ?」

「どうして、わざわざ吟詠境を開いて、君に食べ物をあげないといけないのかな?」

「なんと虫の好い言い草じゃ。春の女神であるわらわが、何の見返りもなく人如きに力を貸すとでも、本気で思っておったのか」


 佐保姫は食べるのをやめると、目の前に座るショウを見た。その童顔から睨みつける二つの目に、ショウは紛うこと無き神的な眼力を感じた。人を超越した頼もしき存在、と同時にそれはまた畏れに似た不安をもショウに与えた。

 ここに居るのは人ではなく神。人には制御できぬ、人よりも力のある存在だ。対応の仕方によっては敵にも味方にもなるのではないだろうか……ショウは返事ができなかった。返事ができずともショウの心の内は佐保姫にはわかっている。再び箸を動かし始めると、気遣うように言った。


「わらわを畏れているのか、無理もないのう。じゃが安心せい。わらわは他の女神と違って春の陽だまりの様に温厚な気質ゆえ、季の詞の使い手に仇なすことなどありえぬぞ」

「他って、佐保姫以外にも女神が居るの?」

「当たり前ではないか。わらわの次に温和な女神と言えば、秋の龍田姫じゃろうな。あやつは実りの季節の女神だけあって食うには困らぬ。山を紅葉に染めるために使った力など、たわわに実った山の幸をたらふく食えばそれで事足りる。わらわなぞ、若草を萌え出させ、花を咲かせ、葉を芽吹かせようとも、口にできるのは土筆、タラの芽、蓬、そんな物ばかりじゃ。まったく春の女神は骨折り損で敵わぬのう」


 そうぼやく佐保姫は年端も行かぬ幼子のようだった。ショウは少し可笑しくなった。


「女神と言っても色々大変なんですね。それで春、秋とくれば」

「察しの通り、夏も冬も女神は居る。夏は筒姫と言うてな、こやつは水を司る。筒とは井筒、井戸の意味じゃ」

「水? 夏なのに火じゃなくて水の女神?」

「夏だからこそ水なのじゃ。水の有難味を身にしみて感じるのは暑さ故、さればこそ夏には水が相応しいと言えようぞ。筒姫は人ではなく日より力を得る。雨も風も雷も、日の力によって起きるからのう。それ故、人とはほとんど関わりを持たぬ。ただ、あやつは少々短気でな、五月雨をしとしと降らしている分には良いが、一度怒ると嵐や雷雨で、せっかくわらわが綺麗に設えた草木をなぎ倒し、押し流してしまう。この女神を扱える季の詞の使い手は滅多に居らぬのう」


 女神が複数存在するのなら、他にも女神の季の詞を持っている言霊が居るかもしれない、それはショウにひとつの懸念を抱かせた。もし吟詠境で相対した時、互いの言霊が敵対的であれば、それぞれに詠まれた女神たちもまた互いに争いあうことになる。それは女神たちにとって酷なことではないのだろうか。ショウの心を読める佐保姫は箸を休めて彼を見上げた。


「主様は余計な心配をせずとも良い。わらわたち女神は詠み手の意思にはくみせぬ。争いたければ争うし、争いたくなければ争わぬ。それだけのことじゃ」


 佐保姫はそう言ってまた食べ始めた。それ以上は何も言わない。ショウはしばらく待っていたが、じれったくなって自分から声を掛けた。


「あの、それで冬の女神は?」

「冬か。あれは人の手には負えぬ」


 弁当を食べ終わった佐保姫は湯呑みのお茶を飲むと、満足気に一息ついて話し始めた。


「草木を枯らせ、大地を凍てつかせ、生き物を眠らせる、あやつの力の源は生命力。それは季の詞の使い手に対しても向けられる。あやつを使おうとすれば、その代償に使い手は己が命の力を捧げねばならぬ。故にこれまでに使いおおせた言霊は唯の一人も居らぬ。黒姫とも白姫とも宇津田姫とも言われるのは、その正体が人に知られておらぬからじゃ。さりとて、それは好き好んでのことではないぞえ。それがあやつの宿命なのじゃ。命の力を与える女神が居れば、命の力を奪う女神も居る。どちらが欠けてもこの世は立ち行かぬからのう」

「命の力を奪う女神……」


 ショウは冬の荒野を心に描いていた。葉を落とした木々、茶色く枯れた草、物音ひとつしない銀世界。それらの情景を作り出すことを義務付けられた女神の心情は、どれほど辛いものだろうか。


「馳走になったの。片付けて給れ」


 お茶を飲み干してしまった佐保姫がショウに命じた。ショウは見事に空になった弁当箱を膳から持ち上げて、台所の隅のゴミ箱に捨てた。戻ってくると、赤い高杯も薄畳もなくなっている。佐保姫が片付けたのだろう。


「こんなもので使った力の代わりになるの?」

「まあ、腹の足しになる程度じゃ。女神の力、言霊の力、命の力、気の力、形は違うがその元は同じ物、水が湯気になり氷になるのと同様にのう。この吟詠境にある物は全て主様の言霊の力で作られておる。その力を食うという形で取り入れたのじゃ。あの弁当は発句の主題ゆえ、最も強い力を持っておったからのう。」


 言霊の力を取り入れるという佐保姫の言葉に、ショウは最初に吟詠境で出会った維舟を思い出した。あの言霊はショウから直接力を奪おうとしていた。季の詞の女神たちもその気になれば、それと同様のことができるのではないのだろうか。その心配は声に出さずとも、すぐに佐保姫に知れた。


「ほう、主様はそんな言霊に出会っておったのか。安心せい、わらわはここではただの季の詞、言霊の力で姿形を成しているが、言霊それ自体ではない。女神の力とは力の形が違うのじゃ。氷と水はそのままでは混じり合わぬ。氷を融かさねば水に取り込めぬじゃろう。それと同じじゃ。言霊の力は直接には取り込めぬ。食うという手順を踏まねばな」


 別の言霊の女神と対峙しても、その女神が直接自分の言霊の力を奪うことはできないのだ。言霊の力を奪えるのは、あくまで言霊だけなのだろう。


「そうなんだ、安心したよ。それで、言霊の力でできた弁当の味はどうだった、美味しかった?」

「こんなものじゃろうな。腹が減ったから食う、主様はその程度の想いで食っておろう。そこには食物への感謝も喜びもない。発句からして寂しいのう、『ただひとり』で食べねばならぬとは。其角の宿り手もそうじゃったが、今を生きる者たちの何とも味気ない食事であることよ」

 佐保姫が桃色の狩衣の袂を振った。春霞が棚引き出す。

「わらわはこれにてお暇いたす。主様も早く休まれよ。明日は早いのじゃろう。」


 棚引き出した春霞は佐保姫の体を包み、その姿を消してしまった。お別れの挨拶もできないほどの突然の退去に、ショウは呆然とするばかりだ。――わらわたち女神は詠み手の意思には与せぬ――先ほどの佐保姫の言葉通りだとショウは改めて思う。佐保姫が居なくなった今、ここに留まる理由はない。ショウはしばらく考えた後、天井を見上げて挙句を詠んだ。


「芭蕉翁の言霊の宿り手ショウ、挙句を申す。両手の中で冷めゆく新茶」


 ぼやけていた部屋の情景は更に不明瞭になり、やがてショウの視界には何も映らなくなった。


 * * *


 次の日の早朝、僕と先輩は高校に向かって歩いていた。こうして二人並んで通学路を歩くのは久しぶりだ。ソノさんとの待ち合わせは高校の正門前に午前七時。先にコトの家に寄った後ここに来て、僕たち二人を乗せて出発する予定だ。


「晴れてよかったなあ、ショウ。向こうも雨の心配はないらしいぞ。今日は楽しむぞー」

「あ、はい。楽しみましょう」


 早起きと昨日の疲れで元気のない僕に比べて、毎日の朝練で早朝には慣れている先輩は普段と変わらぬテンションの高さだ。やがて高校の正門とその前に停まっている一台の車が見えてきた。車から人が降りてきて、こちらに向かって手を振る。


「ちょっとー、遅いよー」


 ソノさんだ。先輩が一気にダッシュする。僕も走り出したが、ほとんどジョギングだ。先輩のあの元気を少し分けて欲しいと心底思う。


「遅いって、まだ七時じゃないですよ」

「もおっ、女性を待たせないように三十分前に来るのは当たり前でしょう」


 先輩とソノさんの会話はまるで昨日の食堂の再現だ。これからソノさんと待ち合わせをする時には、必ず約束の時刻の三十分前には到着しようと、この時僕は心に誓った。


「ソノさん、おはようございます」

「ショウちゃん、おはよう。まだ寝たりないって感じね。車の中で眠っていってもいいわよ」

「いえ、そんな」


 ソノさんに運転させて自分は寝ているなんて厚かましすぎる。それ位の礼儀作法はわきまえているつもりだ。それにそんな無作法な真似をしでかしたら、コトに何と言われるか知れたものではない。


「あら、構わないのよ。コトちゃんだって寝ているし」

「ええっ!」


 助手席を覗き込むと、コトはシートに体を預けて目を閉じている。ソノさんの言う通り眠っているのだろう。どうやら先程の僕の心配は僅か数秒で取り越し苦労に終わってしまったようだ。


「あ~、それにしても母校の前に立つと青春が蘇るわね。来月の教育実習が楽しみだわ」

「はっ?」

「ソノさん、今、なんと」

「はいはい、乗った乗った。詳しい話は車の中でね」


 ソノさんに急かされて、僕と先輩は後部座席に乗り込んだ。どことなく上機嫌のソノさんも鼻歌まじりに乗り込むと、車を発進させた。動き出した後、ソノさんの独演会が始まった。最近は就職も大変だから教職も視野に入れて単位を取ってきたこと。と言っても採用試験に合格する見込みはあまりないこと。教育実習は中間試験が終わってから四週間の予定であること、などなど。


「それで、打ち合わせで五月の初め頃に一度来るかもしれないから、その時はよろしくね」

「わかりました。ソノさんに教わるのを楽しみに待っていますよ」

「あ、ライちゃんごめんね。受け持ちは多分一年生になると思うのよ。できればショウちゃんとコトちゃんのクラスがいいなあ。二人の初々しい毎日を覗き見るのが楽しみよ、ふふ」


 昨日、僕たち三人に見詰められただけで興奮していた、そのソノさんが教壇に立ってクラス全員の視線を一身に浴びる……一体どんな授業になるのだろう、恐ろしくて想像もできない。何卒ソノさんの受け持ちクラスにだけはならないようにと祈らずにはいられなかった。

 やがて車は高速道路に入った。その頃にはコトも目を覚まし、ソノさんの話も一段落したので、僕は昨晩の夕食時の出来事を話すことにした。


「ソノさん、昨日、びっくりしましたよ。弁当を食べていたら、いきなり声がするんですから。教えてくれればよかったのに」

「うふふ、驚いたでしょう。お姉さんからのサプライズプレゼント!」


 そんな贈り物要りません、と心の中で叫んでから、僕は吟詠境でのことを話し始めた。佐保姫が季の詞として仕える代償に食べ物を要求することは、去来が佐保姫を知っていることもあって、先輩は了承済みであった。しかし、俳諧師ではなかった寿貞尼は全く知らないことらしく、コトは興味深そうに僕の話を聞いていた。話が終わった後、


「女神様のご機嫌取りも大変ね、ショウ君」


 と言うコトに、いや、女神様よりもあなたのご機嫌取りの方が数倍大変です、といつものように心の中で口答えする。


「それにしても、これから毎日佐保姫に食べ物をあげなきゃいけないかと思うと、ちょっと気が滅入りますね」

「あ、それは大丈夫よ。佐保ちゃん、秋眠するから」

「秋眠?」

「佐保ちゃんて春の女神でしょ。だから基本的に春しか活動しないのよ。そうねえ、夏至が過ぎたら、もう何も話しかけて来なくなるわよ。季の詞を詠んでも現れなくなるしね」

「そうなんですか。ところで、ソノさん、佐保姫って普段はどうやって自分の力を取り入れているか知っていますか。まさか季の詞の使い手が与える食事だけで、力を賄っているわけじゃないでしょう」

「そうねえ、春と秋の女神は人の喜びみたいなもので力を得ているらしいわよ」

「人の喜び?」

「春、花を咲かせ、霞を棚引かせ、山を色とりどりに染め上げることで、人々は喜び、楽しみ、感謝する、その気持ちが佐保ちゃんの力になっているみたい。秋の女神も同じね。でも最近は花を愛でるよりも飲んだり食べたり歌ったりするのに夢中で、みんな、そんな気持ちを抱いてくれないので、お腹が空いて仕方ない、みたいなことを言っていたかなあ」

「飲んだり食べたり歌ったりって、それ、ソノさんのことじゃないですか」

「やだ、ライちゃんたら。そう思っても口には出さずに黙っているのが、カッコイイ男子ってものよ」


 それで佐保姫は仕方なく自分が芽生えさせた山菜や木の芽を摘んでいるのか、と僕は納得した。考えてみれば現代の女神は昔ほど有難い存在ではないのだろう。娯楽の少ない時代には春や秋の美しい自然は心を喜ばす対象として、今とは比較にならないほどの価値があったはずだ。

 しかし、映画だテレビだネットだと娯楽で溢れ返っている現代においては、もはやかつてほどの価値はない。自然の美しさに有難さを感じる必要はなく、それゆえ、女神たちの業に敬意を払う理由もないのだ。そう考えると佐保姫たち女神が少し哀れにも思えた。


「ねえ、食べ物の話をしていたらお腹が空いてきちゃった。朝が早かったから、何も食べずに出てきちゃったのよ。みんなはどう? お腹空かない?」


 少し情けないソノさんの声。まあ、一番遅くまで寝ていたはずの自分でさえ何も食べずに出てきたのだから、この四人の中で一番早起きをしたはずのソノさんが、食事を抜いてきたのは至極当然と言えるだろう。


「あ、実は僕も朝抜きです。先輩は?」

「俺は一応、昨晩の残りの飯に味噌汁をぶっかけて三十秒で済ませてきたんだが、食い足りない気分ではある」


 さすが先輩、どんな時でも食うことは忘れないようだ。


「そうなるだろうと思って、朝ごはんを用意してきました」


 コトの意外な言葉に、一同、驚きの声を上げた。


「コトちゃん、ステキー。いいお嫁さんになれるわよ」

「さすが、コトさん。で、何を持ってきたんだい」

「おにぎりよ、私の手作り」


 その一言に僕は一瞬、息が止まった。コトはこちらを振り向くと、運転席の後ろに座っている僕を見詰めて言った。


「もちろんショウ君も食べてくれるわよね」

「う、うん」

「よかった。ショウ君のは特別製なの。一粒も残さずに全部食べてね」


 悪戯っぽい瞳と何かを含んでいるような口調。僕の背中に戦慄が走った。


「いや~ん、妬けるぅ。ショウちゃん、羨ましい」

「ショウ、お前は幸せ者過ぎるぞ」


 ソノさんと先輩の声は僕にはまったく届かなかった。コトが何かを企んでいるのは間違いない。まさか……仕返し! 月曜日に僕のおにぎりを食べた時のコトの怒り様は尋常ではなかった。あの仇をここで討つつもりなのか。とすればおにぎりの具は、それこそ常軌を逸した代物に違いない。例えばそう、激辛の具。ワサビとカラシとタバスコを混ぜた物に唐辛子と獅子唐と生姜を一週間漬け込んだ具とか。考えるだけで冷や汗が流れ落ちそうになる。


「おい、ショウ。顔色が悪いぞ。大丈夫か」

「あら、ショウちゃん、車に酔いやすいタイプ? 次のサービスエリアまであと少しだから我慢してね」

「あ、いえ、お構いなく」


 僕の気持ちをよそに車は進んでいく。ほどなくサービスエリアに着いた僕たち四人は車を降りた。コトは大き目の鞄を持っている。そこにおにぎりが入っているのだろう。

 建物の中のフードコートはゴールデンウィーク中ということもあって、そこそこ人が多い。僕たちは自販機で飲み物を買って席に着いた。コトが鞄からおにぎりの入った容器を取り出し、蓋を開けて説明する。


「具は、梅、昆布、鮭の三種類で、一人二個ずつです。そして」


 コトは鞄から別の包みを取り出した。開けると、他のおにぎりの二倍以上はあろうかという巨大おにぎりがひとつ出現した。


「これがショウ君のための特製おにぎり。食べて」


 コトが差し出すおにぎりを僕は受け取った。思った通りだ。これは間違いなく復讐のおにぎり。あまりの不味さに悶絶する僕を眺めて溜飲を下げるつもりなのだろう。ソノさんと先輩は美味しい美味しいと言いながらおにぎりを食べているが、僕はまるで食べる気になれない。なんとか食べるのを回避する手段はないだろうか、僕の頭はそればかりを考え続けた。


「おい、ショウ、早く食べろよ。時間が勿体無いだろ」


 先輩が急かす。コトはこちらをじっと見詰めている。そうだ、僕はコトには逆らえないんだった。ええい、ままよ。僕はおにぎりにかぶりついた。


「……えっ!」


 驚きだった。それは普通のおにぎりだった。いやむしろ美味しいくらいだった。僕はコトを見た。それは普通の女の子、早起きをしてみんなのおにぎりを作ったために、車の中で居眠りしてしまうような、そんなごくありふれた女の子だった。僕は自分が恥ずかしくなった。きっと僕はまだコトという人間をほとんどわかっていないに違いない。


「美味しい?」

「う、うん、美味しいよ。ありがとう」

「そう、よかった」


 その笑顔は僕の中に感謝の気持ちを呼び起こした。僕がコトを高慢で扱い難い女だと思っていることは、勘の良いコトなら間違いなく気づいているはずだ。そんな反感を抱いている相手に対してさえ、こうして普通のおにぎりを作ってきてくれる……コトは僕が考えている以上に親切で優しい女の子なのかもしれない。

 考えてみればいつもそうだった。恋文短冊を渡した時も、初めて吟詠境に行った時も、おにぎり弁当を提案してくれた時も、コトはいつでも僕のことを思って行動してくれていたのだ。そして、今も……その思いやりの深さはおにぎりの美味しさ以上に僕の胸を熱くした。涙を流さんばかりの表情でおにぎりを食べる僕を見て、ソノさんがコトに訊いた。


「ね、あのショウちゃんの特大おにぎりって何が入っているの?」

「梅と昆布と鮭を混ぜたもの。ショウ君、浮気性だからひとつの具では満足できないらしいの」


 コトの説明にソノさんと先輩は少し退いたようだ。「な、なにかの罰ゲームみたいね」とソノさんが言い、「ショウ、男は我慢が肝心だぞ」と僕の背中を叩きながら先輩が言う。


「いや、本当に美味しいんですよ」


 と僕が言っても、気の毒そうに僕を眺める二人の顔が何とも不可解だった。


 ――ほう、旨そうじゃの。食わせてくれぬか。


「あ、佐保姫!」


 僕が声を出すと、ソノさんはすぐに反応した。


「さっそく出てきたわね。あたしはおにぎりなんて滅多に食べなかったから、興味津々なのね」


 食べたいと言われたからには食べさせるのが使い手の義務である。最初は一人で吟詠境に行こうと思ったが、僕の詠む佐保姫を見てみたいということで、全員で行くことになった。ただ、ここでは人が多すぎるので、おにぎりを食べた後、車に戻り、そこで発句を詠むことにした。


 ――四人で発句を詠むのなら、わらわは詠まずともよかろう。開いた後で季の詞を詠んでわらわを呼んで給れ。


 その方が佐保姫も無駄な力を使わずに済む。僕は了解と言った後、車のシートにもたれて発句を考えた。今のこの気持ちをどう詠めばいいだろう。コトは助手席から、先輩は隣から僕を見ている。一方、ソノさんは運転席で前を向いたままだ。発句がわかれば僕を見ずとも吟詠境に入れるのだろう。僕はおにぎりを食べている時に感じたコトへの気持ちをもう一度思い出して発句を詠んだ。


「優しさを包んで梅の握り飯」


 僕の声に続き他の三人も同じ発句を詠んだ。


「優しさを包んで梅の握り飯……」


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