俳諧談義
田植えを待つばかりに水が張られた田を見下ろすように立つ神社の鳥居の前には一人の女と二人の男、その三人が畦道を歩いてやって来る男を今か今かと待っている。急ぐ様子もなく歩いてくる江戸小紋の小袖に黒染め十徳を羽織った丸坊主の男に、鳥居の前の男が声を掛けた。
「これは其角殿。そのような出で立ちでどこへお出掛けかな」
「うむ、茶でも嗜もうと思うてな」
「其角殿の茶とは酒のことであろう」
「ははは、去来殿も言うではないか、それにしても、」
其角は鳥居の前に立つ女に近づくと、その手を取った。
「宿り手の姿を残した寿貞尼殿がかように美しいとは。其角、驚きましたぞ。ご覧のようにこの其角、おなごに宿ってもむさい姿のまま。替わって欲しいくらいじゃわい」
其角に手を握られた寿貞尼は笑顔を作りながら、その手を振り解こうとした。しかし其角の手はしっかりと寿貞尼の手を握って離さない。寿貞尼の傍らに立つ年若い男が、二人の間に割って入ろうとでもするかのように、其角に話し掛けた。
「其角さん、初めまして」
「これは芭蕉翁、いや、今はまだショウ殿と呼ぶべきかな。意識が宿ってはおらぬのは残念じゃが、その姿はいかにも芭蕉翁らしい」
「本当に、旅装束がよう似合うております」
其角と同じく、ショウの旅装束姿を見るのはこれが初めてだった寿貞尼は、目を細めてその姿を見遣った。
「まるで芭蕉翁を見ているようでございます」
「いささか年が若すぎるようじゃがのう。さて、寿貞尼殿、酒など一杯いかがかな」
「其角殿、少しはお控えなされ」
去来の戒めの言葉などにはまるで頓着せず、其角は腰に手を回すと瓢箪を取り出した。片方の手は相変わらず寿貞尼の手を握っている。いかにも困った顔で笑顔を作っている寿貞尼を見て、ショウの中にちょっとした悪戯心が湧き上がった。両の手を合わせると発句を詠む。
「風流の初めや奥の田植え唄」
突然、其角の足元の地面がぬかるみに変わり、見る間にそこは水を張った田となった。いきなりの出来事に姿勢を崩して田の中へとはまり込む其角。その其角に手を握られている寿貞尼も一緒に田の中へ落ちそうになったが、それを見た去来がすぐさま寿貞尼の体を両手で支えた。其角の手は滑るように寿貞尼から離れ、結局、其角ひとりが田の中へ落ちた。
「ショウ殿、これはいったい」
腰の下辺りまで泥水に埋った其角の問いには答えず、ショウは季の詞を発す。
「田植え!」
其角の体が田の中へ沈み出した。慌てて這い上がろうとする其角の両手は、空しく田の面を打つばかりだ。
「これ、わしは早苗ではないぞ、う、これはたまらぬ」
ずぶずぶと音を立てながら、腹まで沈み、胸まで沈み、遂に顔を出すばかりになった其角は、堪り兼ねて季の詞を叫んだ。
「佐保姫!」
ショウは我が目を疑った。其角の言葉と共に畦道に忽然と姿を現したのは、身の丈十尺はあろうかと思われる大女。その背丈は去来の倍はある。百人一首の絵札から抜け出したかのような
「おう、佐保姫か。久し振りだな」
「これは去来殿か。若いおのこに宿ったものじゃのう。よき益荒男ぶりじゃ。我が主様はおなごに宿られてもこのようなお姿。おまけにこの哀れな有様は、よくよく情けのうございます。ほほほ」
「これ、佐保。御託はよいから早く助けぬか」
沈み行く自分の体の運命に抗うかのように、其角は顔を真上に向けて佐保姫をギロリと睨みつけた。佐保姫は口に当てていた手を其角の方へ伸ばすと、気品のある声で季の詞を発した。
「糸柳!」
佐保姫の両手から柳の枝が伸びると、ほとんど沈んでしまった其角の体に巻きついた。と同時に勢いよく田の中から其角を持ち上げると、畦道の上にその体を置いた。すっかり泥だらけになった己が体を、其角は恨めしそうに眺めた。
「少々お戯れが過ぎましたな、其角殿。芭蕉翁に灸を据えられたご気分はいかがかな」
「いや、そう言う去来殿にしても寿貞尼殿の体を抱きかかえて、満更でもないのではないかな」
「な、何を」
そう言われた去来は、それまで両手で支えていた寿貞尼の体から素早く離れた。その顔は少し赤らんでいる。
「こ、これは致し方なかろうが」
「どちらも同じ穴の狢じゃのう、ほっほっほ」
佐保姫の甲高い笑い声に其角も去来もばつの悪い顔をして互いを見ると、どちらからともなく笑い出した。それを見て寿貞尼とショウも釣られて笑い出す。一同ひとしきり笑った後、其角が大きなクシャミをした。
「クシュン、しかし泥だらけのこの有様では、気持ち悪くて仕方がない。佐保、雨でも降らせてくれぬか」
「やれやれ、人使いの荒い主様よのう」
佐保姫は雲ひとつなく晴れ渡った青空を見上げると涼やかな声を出す。
「春時雨!」
佐保姫の一声が周囲に響き渡るや俄かに雲が湧き起こり、たちまち空は雨雲に覆われた。
「むっ、これはいかん。ひとまず拝殿に身を寄せましょう」
去来は鳥居をくぐって参道を走り出した。ショウと寿貞尼もそれに続く。三人が拝殿の軒の下にたどり着いた時には、あたり一面は土砂降りの雨となった。その雨の中、佐保姫を従えて其角はゆっくりと歩いてくる。
ずぶ濡れの全身を気に掛ける風もなく、むしろさっぱりしたという顔つきで拝殿の前に立った其角は佐保姫を振り返った。それだけで佐保姫は其角の言わんとするところがわかったのだろう、両の手の平を天に掲げた。途端に雨は止み、雲の切れ間から青空が顔を覗かせた。その様子を見ていたショウは去来に言う。
「其角さんは自分では季の詞を詠まずに、佐保姫に詠ませてばかりですね」
「一度に詠める季の詞はひとつだけですからな。佐保姫は季の詞ゆえ、彼女が吟詠境に留まる限り、其角は季の詞が詠めぬのです。もっとも、複数詠唱できる非常に力の強い言霊も極少数は居るのです。芭蕉翁も本来ならば複数詠唱できるのですぞ」
まだまだ知らないことが多い、ショウはそう思いながら拝殿の軒下から出て其角に歩み寄った。吟詠境に来た目的を果たすためである。
「あの、其角さん、芭蕉さんから何か預かっていませんか」
「芭蕉翁から、とな?」
「はい。今、僕が着ている旅装束は言霊の宿り手となった者に渡すように、去来さんが芭蕉さんから預かったものなのです。其角さんも芭蕉さんから何か言付かっていないでしょうか」
ショウにそう言われた其角は、懐に手を入れたり、袂をまさぐったり、着物の上から両手で体を叩いたりしていたが、最後には覚束ない顔つきで首を傾げた。
「はて、何も預かってはおらぬようじゃが……何度も宿るうちに失くしてしまったかのう」
「其角殿!」
去来が大声を上げた。
「何度も宿るうちに、とはいかなる意味か。我々門人は言霊になる時、芭蕉翁の言霊によって封じられたはず。何度も宿れるはずがなかろう」
「主様は、封じられるのが嫌じゃと申されてのう」
「これ、佐保、余計なことを申すな」
佐保姫の言葉を打ち消そうとでもするかのように手を振る其角。しかし佐保姫は笑って取り合わない。
「言霊となるからには宿り手を得て吟詠境にて遊ばねば本末転倒、などと芭蕉翁を言いくるめ、封じられるのを断られたのじゃ。しかも宿るのは若いおのこやおなご、近頃はおなごばかりに宿っておりまする。いやいや、主様のおなご好きには、この佐保の口、開いたままで塞がりませぬ」
それを聞いた去来もまた呆れたような顔をする。
「なんと、では本当に失くされたのか」
「いや、それはないと思います。預かり物は言霊の片鱗なのですから」
ショウは去来との会話を思い出していた。芭蕉の言霊が存在しない吟詠境にはその片鱗も姿を現さない。其角が何度吟詠境に行こうと、そこに芭蕉の言霊がない限り、片鱗である預かり物もそこにはない。ならば、失くすこともないはずだ。去来もそれに気づくと、
「では、其角殿には何も預けられなかったのか」
と、幾分疑わし気につぶやいた。
「そのようじゃ。期待に添えず、すまぬな」
その其角の言葉を聞いて、佐保姫はほとほと呆れたという顔した。
「やれやれ、主様はすっかり忘れておいでのようじゃのう」
「佐保、わしが何を忘れておるというのだ」
「芭蕉翁は言霊の宿り手に、このわらわ、季の詞『佐保姫』を返すように仰られたのです。この季の詞は元々芭蕉翁からお借りしたもの。宿り手が現れればお返しするのが当然でありましょうよ」
「おう、左様であったな。すっかり失念しておった」
其角は長らく探していた失せ物が見つかった時のような晴れ晴れとした顔になると、丸坊主の頭を叩いた。佐保姫と其角の会話を聞いていたショウが傍らの去来に訊いた。
「去来さん、季の詞を返すとは、どういうことなのですか」
「季の詞には二種類あるのです。桜や雨のように一つではなくどこにでもある詞と、佐保姫のようにこの世に一つしか存在し得ない詞。そして一つしかない季の詞は、一人の言霊にしか使えぬというのが吟詠境の式目。それ故、その使い手を変えるときには言霊の間で季の詞の譲り渡しが必要となります。芭蕉翁もこの佐保姫という季の詞は、宗鑑殿との戦いに挑まれる談林派の宗因殿から譲り受けたものと聞いております。宗因殿は言霊の力を宗鑑殿に完全に奪われたため、結局譲り受けたままになったとか」
ショウは季の詞の持つ意味の深さに改めて気づかされた。現実世界ではただの言葉に過ぎないが、この吟詠境では持ち主が限定されるほどに大きな役割を担っている言葉もあるのだ。心して口にすべきだ、ショウはそう感じた。ショウと去来の会話が終わったのを見て、其角が佐保姫に声を掛ける。
「では、佐保よ、ひとまず吟詠境から退いてくれぬか」
「主様に言われるまでもなく」
佐保姫が薄桃色の唐衣の袂を振ると、そこから春霞が棚引き出し、佐保姫の体全体を包むや、その姿を消し去ってしまった。其角は佐保姫が消えたのを見届けると、ショウに近づきその両肩に両手を置いた。
「其角、季の詞『佐保姫』、お返し申す!」
ショウは其角の目の中に先ほどの佐保姫の姿を見た。が、それは一瞬だった。そして譲り渡しはその一瞬で終わってしまった。一仕事終えて安堵する其角にショウは礼を言う。
「うむ、確かに受け取ったぞ、其角」
それは間違いなく芭蕉の声だった。久し振りに聞く師の声に其角の顔は驚きに変わり、やがて満足そうな笑顔になった。隣に立つ寿貞尼もまたその声に驚きショウを見た。
「芭蕉翁、お懐かしいお声でございますな」
寿貞尼の顔もほころんでいる。その喜び溢れる表情に、芭蕉に対する彼女の親愛の情の深さをショウは感じた。
「さて、この座もそろそろお開きにいたすか。一同、よろしいかな」
其角の問い掛けに他の三人は黙って頷く。それを見て其角も頷くと天を見上げて叫ぶ。
「其角、
空の太陽が一際明るく輝き出した。その光は神社と遠景の田園を包み込み、やがて四人はその光に飲み込まれて見えなくなった。
* * *
「これだから男って油断ならないわよね」
ソノさんの声が聞こえる。目を開けて前を向くと、少し憤慨した顔のソノさんがいた。
「其角なんて入る前は寿貞尼を敬遠していたのよ。それが吟詠境で若くて綺麗な娘を見た途端、あの態度。見ているこっちが恥ずかしくなっちゃったわ。去来も吟詠境の寿貞尼は初めて見たんでしょ。そんな感じだったんじゃない」
「う、うん。去来もあの寿貞尼は気に入ったみたいだったかな」
先輩はコトの顔をチラリと見て返事をした。去来だけでなく先輩もコトを気に入っているのは一目瞭然だ。ソノさんはそんな先輩をニヤニヤした顔で眺めている。これ以上先輩がソノさんに突っ込まれる前に、後輩の僕が助け舟を出す。
「あ、でも、これで寿貞尼も気兼ねなく吟詠境に入れますよね。少なくともさっきの二人には気に入ってもらえたみたいだから」
「別の意味で気兼ねしそうだわ」
コトの冷めた声を聞いて、先程の其角の態度が相当気に入らなかったのだろうと感じた。実際、現実世界であんなことされたら、未成年者に対する条例違反くらいにはなるかもしれない。
「大丈夫よ、ショウ君が付いているんだから。他の門人に言い寄られたって、いつでも守ってくれるわよ」
「とても頼りにならないわね。さっきも下手をすれば私も一緒に田んぼに落ちていたわけだし。もっとマシな助け方はできなかったのかしら」
「コトちゃん、キッツィ~。ショウちゃん、ドンマイよ!」
ソノさんは気の毒そうな顔で僕を見た。先輩も、バラに隠されたトゲの意味をようやく理解できたよとでも言いたそうな顔で僕を見ている。二人の気持ちに感謝しつつ、これくらいの毒舌ではもはやビクともしなくなった自分の心臓に僕は哀れみを抱かざるを得なかった。コトのトゲにはすっかり慣れっこになってしまったようだ。いや、こんなことに慣れちゃいけないんだろうけど。僕は話題を変える。
「でも、佐保姫には驚きましたよ。そんな季語があるなんて知りませんでした」
「短歌では結構使われているのじゃないかしら。定家も詠んでいるし」
さすがは百人一首の達人、コト。どうやら彼女にはお馴染みの言葉だったようだ。コトの言葉にソノさんが頷く。
「そうよねえ、俳句ではあんまり使わないかなあ。有名どころでは、『佐保姫の春立ちながら
「シト? 何ですか、シトって」
僕がそう尋ねると、いきなりソノさんは両手を頬に当てた。妙に嬉しそうな顔をしている。
「やだあ~、もしかしてショウちゃんって、女の子に恥ずかしい言葉を言わせて喜ぶタイプ?」
「な、何を言い出すんですか、ソノさん」
「だって、ねえ……まあ、私も嫌いじゃないけど。でも、こんな所で」
もしかして、ボケ? と思わないでもない。コトもそうだが、ツッコんでいいのか真面目に受けるべきかどうにも判断に苦しむ。と、ここで意外なことに先輩が答えてくれた。
「小便だよ。佐保姫が春になって小便をして、って意味かな。でも、これ、ちょっと中途半端な感じだな」
「あら、ライちゃん、いいセンスしているじゃない。実はこれ発句じゃなくて前句付けなのよ。『霞の衣裾は濡れけり』の付け句」
「なるほど。裾が濡れたのは小便したからってことか。誰が詠んだんですか」
「犬莵玖波集に載っているから、それを編纂した宗鑑の作ってことになっているわね」
宗鑑という名前を聞いて、弛んでいた僕の神経が緊張した。芭蕉と争っていた宗鑑はこんな句を詠んでいたのか。確かにこれじゃ品がなさすぎる。佐保姫だっていい気はしないだろう。
「ほとんど親父ギャグですね。芭蕉が新しい風を取り入れようとした気持ちがなんとなくわかりましたよ。あ、でもソノさん、前句付けって何ですか?」
「前句付けはね、最初に長句か短句を提示して、それに付く短句や長句を考えさせるものよ。そうねえ、宗鑑と同じく俳諧の祖と言われる荒木田守武の句でこんなのがあるわよ。『苦々しくもをかしかりけり』 はい、これに相応しい五七五を考えてください」
まるで国語の授業のようだ。名答には座布団が支給される某テレビ番組の解答者のように、急に言われてすぐに思い浮かぶものでもない。僕もコトも先輩も互いに顔を見合わせて、首を捻るばかりである。
「は~い、では守武ちゃんの答え発表です。『わが親の死ぬる時にも屁をこきて』でしたあー」
「やっぱり親父ギャグですね」
「ちょっとお下品よね。でも面白いでしょ。付け句は元々俳諧連歌の修練のためのものだったんだけど、江戸時代にはそれ自体を楽しむようになって、やがて前句なしの独立した句だけを集めた誹風柳多留なんて文芸にまで発展するのよ」
「それが今で言う川柳なんだよな」
「ライちゃんの言う通り。芸術性を高めた芭蕉の発句が俳句となって今も親しまれているのに対し、宗鑑や守武の室町時代の俳諧の精神は川柳となって今も生き残っていると言えるかもしれないわね。まあ、最近の現代川柳は必ずしも滑稽だけじゃないから一概には言えないけれどね。ふう~」
ソノさんは一息つくとカップのコーヒーを口にした。やはり大学四年生ともなると知識量は半端無いなあとつくづく思う。それに、話し方が上手いのか、本よりもスムーズに頭に入ってくる。次にいつ会えるかわからないことだし、もう少しソノさんの講義を聞きたいものだ。僕はまた別の質問をする。
「そうだ、ソノさん、吟詠境に入る時に詠んだ発句はどんな意味なんですか。もしよかったら教えてくれませんか」
「ああ、あれ。実はね、あの句が其角に興味を持ち始めた最初なのよ」
ソノさんは得意げな顔で話し始めた。
「ある夏、其角が
確かに蕉門の句と言うよりは、以前文芸部の部長から聞いた維舟の作風に近い気がする。ソノさんはこの句のどこに興味を引かれたのだろう。
「これだけなら何てことない句だけど、実は驚くべきことにこの句を詠んだら本当に雨が降ったのよ」
「え、それは、まさに言霊!」
ソノさんの言葉に僕は驚いた。言霊の俳諧師といえども、その力はあくまで吟詠境の中でのみ発揮できる。現実世界ではただの人間にすぎないのだ。夕立の句を詠んで夕立を降らせるなんて、其角は現実でも言霊を使えたのだろうか。
「そうよねえ、びっくりよねえ、現実世界の言霊が存在するのかって思っちゃうよねえ。はーい、残念でした。実は降ったのはすぐじゃなくて翌日だったのです。だから、単なる偶然だったんでしょうね」
「なんだ、驚いて損した」
「ふふふ」
「でも、吟詠境の出来事を現実世界でも体現できるような業があったらいいですよね。そうすれば言霊の宿り手や俳諧師も世の中の役に立つことがたくさんできるでしょうから」
僕の言葉にソノさんの返事はなかった。ただ何も言わずじっと僕を見ている。僕は先輩を見た。先輩はソノさんを見たまま、何も言わない。コトを見た。僕を見たままやはり何も言わない。答えるべき返事はあるが答えたくない、そんな態度にも見えた。まさか……僕は震える声で訊いた。
「あるんですか、そんな業が……」
「今のショウちゃんは知らなくてもいいことよ。佐保姫の使い手となった今となっては特にね」
「そうそう、それに完全な芭蕉の宿り手となれば嫌でも知ることになるんだ。その時まで待っても遅くはないさ」
「そうね。幼稚園児に家の経済状態の話をして、お金の心配をさせるようなものだものね」
僕は不満だった。やはりここでも蚊帳の外だ。三人の言い分もわからないではないが、何もわからない僕の気持ちも少しはわかって欲しいと思う。一体どうして僕はいつまで経っても姿も意識も芭蕉にならないのだろう。
「それにしても吟詠境の僕は、みんなと違ってやっぱり意識も姿も僕のままですよね。ソノさんなんか完全に其角の姿だし。これってどうしてだと思いますか?」
「それはこう考えてみたらどうだ」
隣に座っている先輩が得意そうに話し出した。
「ショウはまだ一ボルトの豆電球なんだよ。だから電源は千ボルトあったとしても、そこには一ボルトしか負荷できない。その程度の電圧では意識も姿も元のままだし、言霊の力も一ボルト分しか発揮できない、今はそんな状態なんだよ。もっと明るく輝くには豆電球から白熱電球くらいになるように自分を鍛えないといけないんだろうな」
「ライさん、白熱電球はもう時代遅れ。今はLED電球が主流よ」
コトのツッコミに先輩は頭を掻いた。本当に誰に対しても容赦ないなあと改めて思う。一方、ソノさんは先輩の説明が気に入ったようだ。
「ライちゃん、うまいうまい。いい例えじゃない。でもね、あたし、ショウちゃんはもう百ボルトの電球くらいにはなっていると思うのよ。なのに豆電球の輝きのままっていうのは、多分、芭蕉さんが電圧をかけてくれてないからじゃないかなあ」
「つまり、ショウがあの姿と意識のままであることを、芭蕉自身が望んでいると?」
先輩の言葉にソノさんは頷く。しかし僕は頷けない。それが本当だとしたらあまりに理不尽過ぎる。僕がどんなに努力して芭蕉の句を深く理解しようとしても、それに見合った言霊の力を体現できないのなら、全くの徒労に過ぎなくなってしまう。芭蕉の意図は一体どこにあるのだろう。憤懣やるかたない僕の顔にソノさんも同情したようだ。
「ショウちゃん、お気の毒ね。でも芭蕉さんにも色々と考えるところがあると思うのよ」
「と言うと?」
「そうねえ、ひょっとして門人たちの力を見たいんじゃないかな。芭蕉さんが亡くなってから、門人たちはそれぞれの道を歩んでいるでしょ。其角は江戸座の宗匠、去来は西日本の蕉門を束ねていたし、嵐雪は雪門を率いていた。自分の門人たちがどれほど成長したのか見てみたいのかもね」
「そのために、敢えて僕に力を与えていない、と?」
「力のない自分に門人たちがどれだけ力を貸してくれるのか、試しているようにも感じるわ。芭蕉さん一人じゃできないことを成し遂げたいと思っているみたいだし。言霊を分けたのも、片鱗を求めることで門人を集めて欲しいからなんじゃないかな」
釈然としない思いはあったが、ソノさんの話には一理ある。僕の見た最後の夢の中で、芭蕉は門人たちに協力を要請し、みんなそれに同意していた。しかしそれから数百年も経っているのである。信頼に足る彼らのままであるかどうか、見極めておきたいと思うのは当然なのかもしれない。
「でもね、ショウ君の宿り手としての資質はまだまだ不十分だと思うわよ」
相変わらず冷淡に響く声でコトが言う。
「芭蕉さんが宿り手に見合っただけの力を注いでいないのは確かだけど、だからと言って、今、全ての力をショウ君に加えれば、過電圧に耐え切れず電球自体が破壊してしまうでしょうね。そうならないように……」
「コトちゃん!」
ソノさんが話の途中でコトをさえぎった。コトはハッとした顔をして手で口を押さえ黙ってしまった。ソノさんも珍しく真面目な顔をしている。
「え、破壊してしまうって、具体的にはどういうこと?」
僕の問い掛けに、コトもソノさんも互いに見詰め合ったまま何も答えようとしない。が、やがてソノさんはにっこり笑うと、
「大丈夫、芭蕉さんはそんなことしないわよ」
と、何でもないことのように言った。先輩もそれに続く。
「そうだな。それにショウには旅装束と寿貞尼という携帯型電源があるんだから、今の状態でも十分やっていけるよ」
「携帯型とはひどいわね、ライさん」
「これは失礼。携帯するには寿貞尼殿は重すぎますな、ははは」
先輩はそう言いながら僕の背中を叩いた。何だかはぐらかされたような気分ではある。芭蕉の意識が宿っていない自分はいつまで経っても傍観者だ。
「さてと、じゃここで気分を変えてっと」
ソノさんが僕たち三人を見回した。
「ね、あなたたち、この三連休、何か予定はあるの?」
コトと先輩は首を横に振る。自宅でのんびり休養するのを予定と言っていいのなら、僕には予定があることになる。しかしソノさんの意味する予定はそんな予定ではないだろうから、僕も首を横に振る。三人が首を横に振るのを見てソノさんは続ける。
「それなら明日、大津の義仲寺に行かない? 芭蕉について卒論を書く以上、一度は行かなきゃいけないって思っていたの」
義仲寺は遺言によって芭蕉が埋葬されている寺だ。僕も興味はあるし行ってみたいのは山々だが、今日言い出して明日出発とは、ソノさんの提案は電撃的すぎる。それは先輩も同じだったようで、渋い顔でソノさんに言う。
「いや、しかし時間と金がかかるし、我々のような学生の身分の者が、いきなりそんな遠出というのは」
「あたしが車で連れてってあげるわよ。交通費タダ、自己負担は食費とおみやげ代だけ。朝早く出れば日帰りできるし、どう、家でお昼寝しているよりも素敵な休日を過ごせそうじゃない。ねえ、行きましょうよ」
「私は構わないわ」
コトの言葉にソノさんの顔が明るくなった。
「車に乗せていってくれるのなら何の問題もないじゃない。それに今はもう言霊の片鱗について何の手掛かりもなくなってしまったのでしょう。それなら芭蕉の墓所を訪れることで、新しい手掛かりを得られるかもしれない。そうじゃなくて、ライさん、ショウ君」
「コトちゃん、わかってるぅ~」
ソノさんは両手を打って喜んでいる。一方、先輩はすっかり意気消沈してしまった。
「ま、まあ、コトさんがそう言うのなら」
あっさりと折れてしまった先輩を僕は寂しく眺めた。所詮は先輩も男、綺麗な女性には弱いのだ。コトは勝ち誇った顔で締めくくる。
「じゃ、決まりね」
「ちょ、ちょっと待って」
まだ僕が一言も発していないのに決まりとは、いくらなんでも性急すぎる。僕の都合はどうなるんだ。
「何? ショウ君」
「僕はまだ行くとも行かないとも言ってないよ」
「あら、何を言っているの。誰のためにわざわざ車を出して滋賀まで行こうとしているのかわかっているのかしら。みんなショウ君のためじゃない。あなたに拒む権利なんてないのよ」
「コトちゃん、ステキ~。もっと言ってあげて」
「そうだぞ、ショウ。みんなお前のために頑張っているんだからな」
僕はこの時、四面楚歌という故事成語の意味を心から理解できた気がした。まあ、実際には三人から言われている三面楚歌なので、項羽の絶望よりは一面分だけ軽かったのかもしれないが。
「それに」
コトの瞳が悪戯っぽく光る。僕は不吉な予感に襲われて体が固くなった。
「ショウ君、私には逆らえないんじゃなかったのかしら」
思った通りの言葉。そう、あの短冊。あれがコトの手にある限り僕は彼女の言いなりだ。僕が何も言い返せないのを見て、ソノさんがニヤニヤ笑いながら言う。
「逆らえないって、もしかしてショウちゃん、コトちゃんに弱みでも握られているの?」
「そ、そんなことありませんっ!」
僕は即座に否定した。しかし、これでは余計に怪しまれそうだ。仕方なく僕はソノさんにカマをかける。
「わかりました。皆さんに従いますよ。でもソノさん、明日はアルコールは控えてくださいね。車なんですから」
ソノさんがギクリとなった。やはり思った通りだ。最初に会った時から匂っていたのは、僕らに会う直前に飲んでいたからなのだろう。
「や、やだ、わかっちゃった? だってせっかくの休みにゼミなんてやるもんだから、終わった後にちょっと一杯引っ掛けちゃったのよ。ホラ、ここの食堂だって平日の夜間はアルコールも出るのよ。あ、でも明日のために今日は今から禁酒します。誓います」
ソノさんの慌てぶりが可笑しくて、僕たち三人は大笑いしてしまった。「いかにも其角だな」「そうね」と、どうやら気づいていたらしい先輩とコトが愉快そうに話している。其角も自分に似つかわしい宿り手をよくも探し当てたものである。
それから僕たちは簡単に明日の打ち合わせをして別れることになった。これから色々連絡することもあると思うから、というソノさんの要請で、コトは携帯の番号を教えていた。こんな時、携帯を持たない自分は少々形見が狭い。一応、自宅の電話番号だけは教えておいた。別れ際、ソノさんが僕に話し掛けてきた。
「あ~あ、佐保ちゃんともお別れかあ、寂しくなるなあ。ショウちゃん、これから大変かもしれないけど、頑張ってね」
佐保ちゃんとは其角から譲り受けた季の詞「佐保姫」のことなのだろうが、何が大変なのだろう。
「ソノさん、何を頑張るんですか?」
「それは……ふふ、すぐわかるわよ。あ、今晩の夕食はお魚がいいかも」
ソノさんはそれだけ言って、自分の学部の校舎へ戻っていった。
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