初めての吟詠境


 境内を取り囲む桜は既に満開、その中でも一際目立つ大木が鐘楼堂を包むが如く枝々に薄桃色の花を咲き誇らせている。時折吹く風にはらはらと花びら舞う参道に、玉砂利踏みしめて立つ男が二人。一人は和服の町人姿、もう一人は制服を着た少年、ショウである。激変した周囲の情景と目の前に立つ見知らぬ男の登場に、ショウは戸惑うばかりだった。


「こ、これは一体」

「なるほど、気配がほとんどなかったのはこのような理由であったか。姿ばかりか意識までも現し身のままだとはな。まあ無理もない。芭蕉翁の言霊を完全に宿すには、お主は小者過ぎるからのう、ショウ殿」

「ここはどこなんだ、そしてお前は何者だ」


 不安気な表情ながら、気丈に振舞おうとするショウを見て、町人姿の男は薄ら笑いを浮かべた。


「ふっ、ここに来るのが初めてでは、その有様も仕方あるまいな。ここは吟詠境、発句によって開かれた連歌の座。そしてその発句をお主と共に詠んだのは、作者たるこのわし。号を維舟いしゅうと言う。お主が部長と呼ぶ男に宿る言霊よ」


 ショウは維舟を見た。姿も声も部長とは似ても似つかないが、顔や髪型は部長そのままだ。


「それで、僕をこんな所に連れてきて何をするつもりなんだ」

「知れたこと。俳諧師が座に着けば、言葉のやり取りをするしかないであろう。連歌の座といえども、ここには式目の縛りはない。脇でも第三でも季の詞でも好きな言葉を詠めばよい。さあ、お主の番だ」


 ショウは頭をフル回転させていた。維舟の言葉、本で読んだ俳諧の知識、そして以前まで見ていた様々な夢の内容。あの夢の中の二人は確かに言葉を掛け合っていた。そして今、自分の番だとこの男は言っている。何を言えばいいのかわからないが、何か言わなければ事態は進展しないようだ。ショウは覚悟を決めた。脇、第三は思い浮かばない、だが季の詞、きっと季語のことだろう。ならばあの言葉しかない。


「さ、桜!」


 ショウの言葉と共に数枚の桜の花びらがチラホラと舞い落ちてきた。そして、それだけだった。桜の木を見上げるショウの気抜けした顔を見て、維舟が大声で笑う。


「ははは、これが芭蕉翁の言霊の宿り手とは笑止千万。この吟詠境で最も力のある季の詞でさえこの程度とは、なんと情けないことよ。よいか、季の詞はこのように使うのだ」


 維舟は傍らの木に右手を伸ばすと、満開に咲いている桜の枝をポキリと折った。そして花びらを散らしながら顔の前に枝を据えると、気合いを込めた一声を発した。


「花!」


 枝の花びらが一斉に散り、枝に咲いていた何百倍もの花びらが強風に乗ってショウを襲った。たまらず両手で顔を覆うも花びらの勢いは防ぎきれず、後ろへ仰向けに倒された。かろうじて両手で受身を取ったので頭は打たなかったが、尻をしたたかに打ち付けてしまい、すぐには起き上がれない。痛みに呻き声をあげるショウの側へ維舟はゆっくりと近寄った。


「芭蕉翁との手合わせとあって大いに楽しみにしていたのだが、実に残念至極。かような若輩者であったとはな。宿り手として似つかわしい者は他にも大勢居ろうものを、何故このような御仁を選ばれたのか」


 維舟は倒れているショウの上に身を屈めると、右手をショウの胸に置いた。


「これ以上の言葉の掛け合いは無意味。なればお主の言霊の力、貰い受けるといたそうか。芭蕉翁の言霊なれば、我が言霊の活力は十分に取り戻せよう」


 何かに集中するように維舟の目が閉じた。言霊の力を奪われたらどうなるのかショウにはわからなかったが、本能的にそれを避けようとする意識が働いた。両肘に力をこめると、ショウは地面を這って逃げようとした。しかし胸に置かれた維舟の右手は石のような重さで体を押さえつけている。カッと維舟の目が開き、その口から言葉が出ようとしたその時、


「お待ちなされ」


 誰かの声、それも女の声がした。ショウと維舟が声のした方に目をやると、そこには一人の尼僧が立っていた。黒い真衣に輪袈裟を付けているが帽子もうすは被らず長い黒髪が背中まで伸びている。その尼僧の顔を見てショウは我が目を疑った。野武士にそっくりだった。


「維舟殿、ここまでにして退いてはくださらぬか」


 思いがけぬ人物の登場に維舟は顔を曇らせた。ショウの胸から右手を離し、ゆっくりと立ち上がると、尼僧に向かい合った。


「お主、俳諧師ではないな。何故ここに来られる。それに、その尼僧姿……」


 訝しげに尼僧を見詰める維舟は、ふと、何かを合点したようだった。その顔に不敵な笑みが浮かんだ。


「そうか、あの女がお前か。言霊の正体すらわからなかったが、今ようやく合点がいった。あの時、吟詠境が開かなかったのは、お主が俳諧師ではなかったから。のう、そうじゃろう、寿貞尼じゅていに殿よ」


 寿貞尼の眉がピクリと動いたのを見て、維舟の言葉は正しいのだろうとショウは感じた。そして維舟の言うあの女とは野武士以外に考えられなかった。それはショウにとって驚きであると同時に、心嬉しいことでもあった。理由はどうあれ野武士がここに来てくれたのだから。維舟の右手の束縛から解放されたショウは立ち上がった。寿貞尼は維舟の言葉に耳を貸さず、再度の懇願をする。


「退いてくだされと申しておるのです、維舟殿。既にそなたの言霊の力が尽きかけているのはわかっております。こうして吟詠境を維持するだけでも精一杯ではないのですか。これ以上の力を使うのは無意味」

「なればこそよ。尽きかけた力のために力を使い力を奪う、言霊として当たり前のことではないか。丁度よい、お主の力から先にいただこうか。季の詞を詠めぬお主なぞ、この小僧よりも容易い相手。先ずは季の詞で動きを封じてやろう。覚悟せい」


 維舟は両手を合わせ目を閉じた。それを見るや寿貞尼は手にした数珠を握り締め目の前に掲げると、大声で叫んだ。


「無季!」

「むっ!」


 閉じた目を開いた維舟は何か言おうとしているかのように口を開けてはいるが、言葉は発せられない。やがて観念したように維舟は組み合わせた両手を解いた。


「なるほど全ての季の詞を無効にしたか。そんな業を持っているとはな。だがそれは束縛詠、縛っている間、言霊の力は消耗される。長くは持つまい」


 寿貞尼の顔が次第に青ざめていく。ショウはふらつきながら彼女に近付いた。何もできないことはわかっているが、せめて側に居たかった。ショウの気配に気づいた寿貞尼はか細い声を出す。


「ショウ殿、季の詞を発してくだされ。俳諧師でない私にはできぬのです」

「いや、でも僕は、」

 寿貞尼の必死の言葉に、否定的な返答しかできない自分を情けなく感じながら、ショウは自分の非力を説明する。

「僕の季の詞は弱すぎるんだ。花びらを散らすくらいしかできなくて」

「なれば私に発句を与えてくだされ。さすれば私にも発することが叶います。お急ぎくだされ、この宿り手の初めての吟詠境ゆえ力を十分に出せぬのです。もう長くは持ちませぬ」


 ショウの頭は混乱していた。発句、普通の句でいいのだろうか。だが何を詠めばいいのだろう。咄嗟に言われても何も出てこない自分の頭に苛立ちを感じるばかりだ。維舟はそんな二人を黙って眺めている。急ぐ必要はない、この縛りが解ければ、この二人の言霊の力を奪うのは実に容易いこと、こうして待っているだけでよいのだ。


「ショウ殿、早く!」


 寿貞尼の体が力なく崩れると、その両膝が地に着いた。だが崩れ落ちるその刹那の声は、ショウの奥底にある何かに触れた。不意に、ひとつの句がショウの口をついて出た。


「花の雲鐘は上野か浅草か」

「解けた!」


 縛りの消失を感じ取った維舟が再び手を組み合わせた瞬間、桜が満開の境内に梵鐘の音が響き渡った。何事か、と維舟は境内に視線を巡らした。鐘楼堂の吊り鐘は微動だにしていない、しかし鐘の音は周囲に満ちている。ハッとして視線を元に戻した維舟の目に、立ち上がって数珠を握り締めた寿貞尼の姿が映った。


「維舟殿、お覚悟召されよ」


 寿貞尼の後ろに立ち、抱きしめるように前に回されたショウの両手が、握り締めた数珠の上に重ねられた。そして声を合わせてひとつの季の詞が発せられた。


「花の雲!」


 鐘楼堂の傍らに立つ桜の大木の花が一斉に散ると、寿貞尼とショウの頭上に集まり出した。あたかも雲の塊のようになった花びらの一団は、獲物を補足した鷹の如く、猛烈な速さで維舟を襲った。維舟は即座に身構えると大音声で季の詞を叫ぶ。


「花散る!」


 維舟の前面に一陣の風が舞い上がると、目前に迫った花びらの一団に竜巻の如く吹きかかった。だがそれは塊の周辺の花びらを吹き散らしたにすぎなかった。勢いは衰えることなく維舟に襲い掛かる。


「うおっ!」


 無数の花びらに取り巻かれた維舟はそのまま体を持ち上げられ、本堂の壁面に叩きつけられた。そのまま力なく地に伏した維舟の体には、今は動きを止めた桜の花びらが、薄桃色の掛け布のように覆いかぶさっている。ショウと寿貞尼は側へ駆け寄った。維舟の体の輪郭がぼやけている。消えかかっているのだ。


「維舟殿、今の詠唱で力を使い果たされたか。さればこそあれほど申し上げたものを」


 寿貞尼の言葉に維舟は力なく首を振る。


「いやいや、この宿り手は既にわしへの関心を失い始めておった。この座を開かずとも、遅かれ早かれ消え去る運命であったのよ」


 ショウには事態が飲み込めていなかった。なぜこうまでして力を奪おうとするのか、なぜ今、消えようとしているのか。そして、桜の花びらに包まれた維舟に対して、先ほどまでの恐れは消え、別離の悲しみが湧き始めていた。自分を見詰めるショウに気づき、維舟は口元に笑みを浮かべた。


「そんな顔をなされるな、ショウ、いや芭蕉翁。最期に翁と言葉を掛け合うことができたのは望外の喜びであった。その力、大切になされよ」


 維舟の言葉にショウは何も言えず、ただ頷くだけだった。


「もはや挙句を詠ずるまでもあるまい。わしの力が尽きると共に、この吟詠境も消え去ろう。されば、長かった漂泊の身に別れを告げ、永久の眠りにつくとしようぞ」


 維舟が目を閉じると、体を覆っていた桜の花びらが一挙に舞い上がった。それはまるで春の明るい日差しの中を舞う花吹雪のようだった。ショウと寿貞尼は乱舞する花びらの美しさに心奪われ、しばしの間、見惚れていた。


 * * *


 気がつくと正面に部長が居た。顔を机に伏せて眠っている。どうやら僕も眠っていたようだ。頭がぼんやりする。今のは夢? これまで見てきたのと同じ、ただの夢だったのだろうか。傍らに誰かの気配がする。見上げると見慣れた顔が僕を見下ろしている。野武士だ。


「う、ううーん」

 部長が目を覚ましたようだ。寝ぼけたような眼でキョロキョロと部屋の中を見回している。

「ここは、準備室。あれ、どうしてこんな所に居るんだっけ」


 忘れてしまったのだろうか、とりあえずフォローを入れておこう。


「えっと、明日からはもう部室には来ないって話をしていたんです」

「ああ、そうだった。すまないね、部長なのにちょっと無責任かもしれないけど。あれ、ああ、君も来ていたんだ。ごくろうさん」


 僕の傍らに立つ野武士に気づいた部長が声を掛けた。しかし野武士は何の返答もせず黙っている。やはり彼女も覚えていないのだろうか。それとも今見ていたのは僕一人だけで、他の二人とは関係なかったのだろうか。僕は恐る恐る部長に尋ねてみた。


「あ、あの部長、今、夢みたいなものを見ていませんでしたか?」

「夢? そう言えばなんだか桜の木の下で、誰かと、そうだショウ君、君とそれからもう一人、そうだ、尼さんと言い争っている夢を見ていたような気がするよ。おかしなもんだね」

「それだけ、ですか?」

「それだけって、まあ、他にもあったかも知れないけど、もうよく覚えてないよ」

「そうですか」


 ここまで内容が一致するのだからあれは僕一人だけの夢じゃない。でもどうして部長の記憶は曖昧なんだろう。僕はしっかり覚えているのに。


「維舟」

 突然、野武士が声を出した。

「維舟って、覚えていますか?」

「ああ、松江重頼の号だろう。よく知ってるね。まあ、先週は俳句の話が出たからショウ君にその人を紹介したけど、実は最近は短歌の方に興味があるんだ。受験対策としても俳諧より短歌の方が重要度が大きいしね。でも、それがどうかしたのかい?」

「いえ」


 野武士はそのまま黙ってしまった。部長は拍子抜けしたような顔をして席を立った。


「それじゃ、僕はこれで失礼するよ。もしかして新入部員歓迎会とか期待していたのならごめんね。本当にウチは帰宅部クラブだから」


 部長はそう言って準備室から出て行った。野武士は相変わらずだ。出て行くでもなく、何か言うでもなく、ただ僕の横に立っている。これまでの経験から野武士と会話すれば散々な目に遭うことは十分承知しているものの、いつまでも黙っているわけにもいかない。彼女に聞きたいことは山ほどあるのだ。僕は思い切って口を開いた。


「あの、君は覚えているの?」

「覚えているわ」

「部長はほとんど忘れているみたいだったけど」

「宿していた言霊が消えたからでしょう、きっと」


 言霊! その言葉を聞いたのは初めてだった。いや、正確には現実の人間の口からその言葉を聞いたのが初めてだった。夢の中では散々聞かされた言葉だが、それはこれまで僕の頭の中にだけ存在する言葉だったのだ。だが今、野武士はその言葉を喋った。やはり彼女は何かを知っている、それもきっと僕よりも多くのことを。僕は立ち上がって野武士に向かい合った。


「ねえ、教えてくれないか。さっきのあれは何だい。部長や君の姿は変わっているのに僕だけ僕のままだし、それに、言霊とか力とか季の詞とか、一体何が起こったんだ」

「少し落ち着いてくれないかしら」

 野武士の冷静さは天下一品だった。こんな時でも動じることなく表情も変えず、いつも通りの口調で話す。

「聞きたいのはこちらも同じ。私にとっても初めての体験だったのよ」

「でも、君は僕を助けに来てくれたんじゃ」

「勘違いしないでちょうだい。あなたを助けたのは、あの尼さんよ。私じゃないわ」

「そしたら、君はどうやってあそこに来たんだい。来る方法を知っていたんじゃないのかい。それに先週、部長に気をつけろって忠告してくれたのは、どんな意味があったんだい」

「以前、私もあの部長に維舟の句を詠まされたことがあったのよ。先週のあなたと同じようにね。でもその時は何も起こらなかった。今日はあなたたち二人が向き合って座っているのを見て、試しにその時と同じ句を詠んでみたのよ。そしたらあの場に入ることができた。もっとも句を詠んだのは私ではなくあの尼さんだったのだけれどね。今の私にわかるのはそれだけ」

「それだけって……」


 野武士の説明は明瞭ではあったが、知りたいことは何もわからなかった。何の推測も無く、ただ淡々と自分の身に起こった事実を語っただけで、その原因や理由は不明のままだ。僕は少し苛立ってきた。


「だから、どうして僕たちにそんなことが起こるのか、それが知りたいんだよ」

「さっきの言葉、もう忘れたのかしら。聞きたいのはこちらも同じ。私だって知らないことだらけなのよ。でもいいじゃないの、理由なんかどうでも。あんなの、夢と大差ない出来事で、現実世界には何の支障もないんですもの。放っておけば言霊なんか消えてしまうんじゃないのかしら、あの部長みたいに」


 確かにその通りではあった。たまたま同じ夢を三人で見ていただけ、それだけのことなのかも知れない。夢ならば夢の理由を追い求めることには意味が無い。夢とは元々理不尽なものなのだから。野武士にそう言われて、僕はこれ以上言うべき言葉を見失ってしまった。


「それにしても」

 僕が黙ってしまったのを見て、野武士が見下したように言う。

「あなた、情けなかったわね。現実だけでなく夢の中でも腰抜けだなんて。もしかしたらヘタレ願望でも持っているのかしら。あんな調子なら、あなたの言霊が愛想を尽かしてどこかに行ってしまうのも時間の問題ね」


 この言葉は僕の中の反抗心を奮い立たせはしたものの、言い返す言葉は見当たらなかった。同じことを僕自身も感じていたからだ。あの二人に比べて自分の無力さは自己嫌悪に陥りそうなほど不甲斐ないものだった。完全に言葉を失った僕を哀れむように眺めながら、野武士は部屋を出て行った。一人残されて、もう一度椅子に腰掛けると、僕は今までの出来事を振り返った。しばらく見続けた奇妙な夢、さっき三人で見た夢のようなもの、野武士の言葉、桜の木の下で会った老人の言葉。


「そうだ、あのおじいさん」


 昨日会った老人。確かあの老人は別れ際、僕に芭蕉の句を詠ませたのだ、まるでさっきの部長みたいに。もしかしたら何か知っているかもしれない。僕は準備室を飛び出した。会えるかどうかわからないが、とにかくあの川べりに行ってみようと思った。


 老人に出会った場所は学校からだと家よりは大分近くなる。日頃の運動不足のせいで、ほとんどジョギング並みの駆け足しかできなかったが、まだ日が明るいうちに川べりに着けた。夕日を浴びて立つ桜の木の下にあの老人は居ない。木を離れて辺りを探してみるが見当たらない。やはり休日の午前中しか居ないのだろうか。諦めて帰ろうとすると僕の背後から声がした。


「また会いましたな」


 振り向くと昨日の老人だった。あんなに探しても見つからなかったのに一体どこから現れたんだろうと不思議に思ったが、今はそんなことを訊いている場合ではない。僕は「こんばんは」と挨拶してから早口でまくしたてた。


「あ、あの言霊って何ですか、季の詞とか、力を奪うとか、それから夢のような場所、確か、」

「吟詠境、じゃな」

「そうそう、それです。知っているんですね。教えてください。あれは一体何ですか。何が起きているんですか」

「そうか、あそこに入ったのか。さて何から話せばよいのか」


 老人はそう言いながら、少し離れた土手にある、花見や夕涼み用に町が設置したベンチに向かって歩いて行きそこに腰を下ろした。僕も同様に老人の横に座る。老人は遠い目で、陽が傾き始めた空をしばらく眺めていた。やがてポツリポツリと話し始めた。


「本来なら言霊が宿った時点である程度わかるのじゃ。言霊の記憶が宿り手に流れ込むからな。じゃが、お前さんの状態ではそれもないようじゃの。まあ、それほど難しい話でもない。お前さん、夢で見たであろう、俳諧連歌の祖、山崎宗鑑殿を」


 宗鑑……確か夢の中で芭蕉と言い争っていた人だ。僕は頷いた。老人はそれを見て頷くと、また話し始めた。


「連歌とは数名の者が一堂に会し、上の句と下の句を詠み継いでいくもの。宗鑑殿はこれに滑稽さを加え、より気軽に楽しめるようにしたのじゃが、更に大きな改新を施された。一同の意識をひとつにまとめ、現世とは別の夢幻の境地に導き、そこで連歌の座を開く、吟詠境の構築じゃ。そこでは言葉、特に季の詞が目に見える形で現れる。お前さんも体験したじゃろう。まず発句を基礎として吟詠境が開き、続いて詠まれる季の詞が、その想いの通りに具現化する。宗鑑殿がその業をどうやって身に付けたかはわからぬが、とにかくこれは連歌を嗜む者にとっては大きな驚きじゃった。宗鑑殿はこれを言霊の業と名付け、吟詠境に現れる意識を言霊と呼んだ。良い言葉は良い事を招き、悪い言葉は悪い事を招くという言霊信仰になぞらえたのじゃろう。もっとも、それができるのは最初は宗鑑殿ただお一人、業を持たぬ他の者たちは吟詠境に招かれても、ただその業を見て感心することしかできぬ。当然誰もがその業を持ちたがる。宗鑑殿は業を与える試練として両吟百韻連歌を課せられ、お眼鏡に叶った者のみに業を与えられた。じゃが、そうして新たに言霊の業を得た者は、宗鑑殿のように他の者にその業を与えることはできなかった。付与の能力は宗鑑殿のみしか持ち得なかったのじゃ。その結果、多くの者が宗鑑殿の元に押し寄せた。その多さに辟易した宗鑑殿は結んだ庵を一夜庵と称して、一晩泊まりの長居の客を嫌うほどじゃった。こうして言霊の業を持つ者は世に多く生み出され、言霊の俳諧師と呼ばれるようになった。ひとたび言霊の俳諧師になれば、己一人でも吟詠境に入れる。傍から見れば眠っているか瞑想しているようにしか見えぬが、心は吟詠境に飛んで己の言葉を楽しんでおるのじゃ。季の詞も最初はただ単純にその言葉の通りに事が起こるだけであったが、やがてその言葉に想いを乗せることにより、想い通りの事を起こせるようにもなった。憂き事多き浮世を忘れ、吟詠境にて己の意のままに遊ぶのは、宗鑑殿にも言霊の俳諧師たちにとっても大きな慰めであったことじゃろう」


 老人はここで息をついた。差し出がましいとは思いながら、僕はここでひとつの疑問を投げ掛けてみた。


「でも、それなら吟詠境は本来連歌を楽しむ場であるはずなのに、僕の見た夢も、さっきまで居た吟詠境でも、言葉を掛け合って争っているようでした。それはどうしてなのでしょうか」

「そうじゃな。お前さんの言う通りじゃ。じゃが、その話はもう少し先にしておくれ。さて、そうして時が過ぎ、我が身に死の影が迫り出した時、宗鑑殿は大変な業を作り出してしまった。それが宿り身の業じゃ。」

「宿り身の業?」

「己が生命力を全て捧げ、己が言霊を己が言葉に宿らせる業じゃ。そしてもし、その言葉を強く意識している者があれば、その言葉を通じてその者に宿ることが出来る。今のお前さんがそうじゃ。お前さん、芭蕉の句に興味を抱いたのじゃろう。恐らくその時に宿られたのじゃ。言霊に宿られた者を言霊の俳諧師とは区別して言霊の宿り手と呼ぶ。どちらも吟詠境を開ける点では両者に差異はない。しかし、俳諧師だった時と何から何まで同じではない。その能力においてどうしても宿り主の言霊は劣ってしまう。一人で吟詠境を開くほどの力もないし、言霊を持たぬ者を吟詠境に招くだけの力もない。言霊を持つ者同士が力を合わせてようやく開く、その程度にまで宿り主の力は落ちてしまう。じゃが、それでも肉体が滅びた後も吟詠境で遊ぶことが可能になったのじゃ。宗鑑殿がこの宿り身の業を完成させた時、再び多くの言霊の俳諧師たちが、その業の教えを請いにやって来たそうじゃ。中には独力で身に付けた者も居たようじゃが、とにかく誰もがこう考えた。これは不老不死に近い業ではないかと。命尽きても尚、言葉と共に生きられるのじゃからのう。それ故この業を身に付けた者は自ら死を選び、喜んで言霊になった」

「それって凄いですね。自分の句と共に生きられるなんて。句を作るものとしては最高の幸せですよね」

「そう、誰もが初めはお前さんと同じように考えた。じゃがな、考えてみなされ。お前さん、芭蕉以外の者の句を何か知っているかね」

「い、いえ、ほとんど知りません」

「そうじゃろう。生きている間は多くの人の口に上り、書き物になり、広く知れ渡っていた己が言葉も、死後は次第に忘れられていく。言霊とて永遠の存在ではない。生きている者の生命力が時と共に老いていくように、言霊の力も時と共に減っていく。人の興味は目まぐるしく変わる。自分の句を愛唱してくれた宿り手も時と共に別の句に関心が移る。そうなればまた新たな宿り手を探さねばならぬ。やがて宿るべき者も見つからなくなり、己も己の言葉も世の中から忘れられていく。その有様を己が言葉の中でじっと見詰めながら力が尽きるのを待っているだけの状態になる。肉体が滅びる時には親しい者に見送られて逝くことができたが、言霊が逝く時には、誰からも忘れられ一人寂しく消えていく、ほとんどの言霊の末路はそのような辛く哀れなものであったようじゃ」


 老人の顔は色づいてきた夕陽に照らされて昨日よりも赤く染まって見えた。僕はその横顔を眺めながら、この老人は何者だろうと思い始めていた。書物から得た知識ではない、まるで実際に体験したかのような語り方だった。あるいはこの老人もまた言霊を宿した、あるいは現に宿しているのかもしれない、そんな考えが湧き始めていた。老人は話し続ける。


「じゃがな、そんな運命に抗う言霊も居たのじゃ。宿り手の中に居る限り、宿り主の言霊の力は減らぬ。むしろ増えていく。宿り手が言霊に抱く想いが深ければ深いほど、言霊は宿り手から多くの力を得ることができる。その力を使って吟詠境で遊ぶ。これが宿り主たる言霊の本来の姿じゃ。じゃが、宿り手が関心を失えば宿り主にはもうどうすることもできぬ。そこで言霊の力を得るための別の方法が考え出された。別の言霊の力を奪い取る、というやり方じゃ。宿り主はその気になれば現し身の状態の宿り手に己が言葉を喋らせることができる。これは言霊の力を多く消費するので、よほどのことがなければ宿り主も行わぬが、これを利用して、別の言霊の宿り手が身近に現れた時、己が宿り手を操って相手の宿り主である言霊を吟詠境に誘い込み、季の詞で弱らせ、力を奪う、そんな言霊が多く現れ始めた。これが特に顕著になったのは、宗鑑殿以外にも言霊の業を付与する能力を持った俳諧師が出現してからじゃ。貞門派の貞徳殿、談林派の宗因殿、そして蕉風を説いた芭蕉殿じゃ。これらの流派の門人たちは、言霊の力を得るためだけでなく、己が流派を守るために他の流派と吟詠境で争った。まさに俳諧の戦国時代という風情であったろうな。言霊の俳諧師も言霊の宿り手も区別なく他の流派と争った。特に宗鑑殿は、己だけが持っていた言霊を付与する能力を持つ各流派の宗匠に対し、大いに敵対心を抱いておられたようじゃ。宿り手には言霊を持たぬ者を選ぶのが普通じゃが、宗鑑殿はわざわざ各流派の門人を、それも言霊の俳諧師を宿り手に選んだ。戦いを挑まれた貞徳殿は宗鑑殿に屈し、言霊とならずに世を去られた。宗因殿は言霊の力を完全に奪われ、晩年は俳諧を捨て元の連歌に戻られた。そして芭蕉翁は」


 老人は言葉を切って僕の顔を見た。その続きは言うまでもなかろうという顔をして。そう、僕は知っていた。それこそ夢で見たあの光景だったのだ。


「芭蕉は嵐雪に宿った宗鑑の言霊と戦い、封じ込めた……」

「やはり夢で見ておったか。その通りじゃ。そして自らも言霊になられた。それ以後、言霊の業を伝授できる俳諧師は現れておらぬ。ふう、すっかり話し込んでしまったのう。尻が痛くなってきたわい」


 老人が立ち上がった。話はこれで終わりなのだろうか。いや、まだ訊きたいことはあるはずだ。だがすぐには思いつかない。とにかく何でもいいから言ってみよう。


「あ、あのお尋ねしてもいいですか」

「なんじゃ、まだ何かあるのか。もうほとんど喋ってしまったと思うがのう」

「えっと、あの、どうして僕なんでしょう。だって芭蕉の句をもっと深く知っている人は他にもたくさんいるはずです。なのにどうして僕を宿り手なんかにしたんでしょう」

「そう、そうなのじゃ。それがわしにも不可解なことでな」


 老人は再びベンチに腰を下ろした。それを見て僕はホッとした。まだ話が聞けそうだ。


「句を知っている程度の人間でも宿ろうと思えば宿れる。その人間の意識にその言葉は存在しているのじゃからな。だが、その程度の人間に宿ったとしても言霊の力はほとんど回復せぬ。また吟詠境に入っても、言霊の意識も力も体現できず、ほとんど無力な宿り手の姿となって現れるだけじゃ。お前さんも恐らくはそんな状態なのじゃろう。はてさて芭蕉翁ともあろうお方が、何故そのようなことをなされるのか」


 老人の言葉を聞いて僕は落胆した。そうだ、何もかも知っていると思い込むのは早計なのだ。僕に話すべき老人の知識は、きっと今の話で全てなのだろう。僕は再び黙り込むしかなかった。老人も無言でしばらく僕の顔を眺めていたが、不意に何か思いついたように話し掛けてきた。


「そう言えば、お前さん、吟詠境に入ったと言っておったな。誰が開いた吟詠境に入ったのじゃ?」

「えっと、確か、維舟、だったかな」

「維舟……重頼殿か。それはまた大物に出くわしたものじゃな。まあ、今のお前さんなら、相手にもされず軽くあしらわれたと言ったところかのう」

「それが維舟さんの言霊は力を使い果たして消えてしまったんです」

「なんと、言霊が消えたと、信じられぬ。重頼殿は町人でありながら意を異にする武士に果たし状を叩き付けた剛毅なお方じゃ。今のお前さんの敵う相手ではなかったはず」

「いえ、あの、実は後から寿貞尼という人が入ってきて、助けてくれたんです。と言うか、昨日お話した野武士の彼女が寿貞尼だったみたいで」

「寿貞尼殿が!」


 老人は眼を剥いて僕を見詰めたまま絶句している。維舟の言霊が消えたことより、寿貞尼の出現の方が遥かに驚きであったようだ。僕も何も言い返せずにしばらく老人と顔を見合わせていたが、やがて老人の顔から驚きの色が消え、薄っすらとした笑いに変わっていった。


「なるほど、なんとなくわかりましたぞ、何故、芭蕉翁がお前さんを選んだのか。相変わらず酔狂なお方じゃて」


 老人は立ち上がった。そしてそのまま歩き出した。僕は慌てて引き止める。


「あの、わかったって、何がわかったのですか」

「いや、何、今のはひとり言じゃ。気にせんでくれ」


 老人はこちらを振り返ることなく歩いていく。その背中に僕は声を掛けた。


「あの、あなたは何者なんですか。また会えますよね」

「もう会う必要もあるまい。お前さんには寿貞尼殿がおられるのじゃからな。これからは彼女と同じく、自分の助けとなる言霊を探されるがよい。わしにも心当たりがないわけでもない、手助けできるならいたしますぞ」


 急に老人が立ち止まってこちらを向いた。遠い瞳に夕焼けを映しながら、まるで何かを思い出してでもいるかのような懐かしむ声で、一つの句をつぶやいた。


「菜の花や月は東に日は西に」

 聞いたことのない句だった。芭蕉の句だろうか。

「この句がお前さんの助けになる日が来るやもしれぬのう。その時にまた会いすることになりましょうぞ」


 そうして老人は歩いていった。僕はもう追うのを止めて夕陽に照らされたその後姿を見送っていた。


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