彼女の呼び名


 家に帰った僕は冷蔵庫に残っているありあわせの惣菜で夕食を済ませると、先週図書室から借りてきた二冊の本を開いた。まず寿貞尼を調べてみる。これは「芭蕉が愛した女性」という簡単な記述しかなかった。老人が最後に言い残した句は二冊の本には載っていなかった。

 こんな時にネットでもやっていれば、すぐに検索できるのだろうが、生憎、父の方針で家にはパソコンはもちろん、携帯電話すらない。先輩の家のパソコンを貸りるほどの切羽詰った問題でもないし、結局、明日、図書室で調べようという結論に至った。


 翌日、いつも通り午前の授業を受け、昼食のパン&おにぎりをいただき、午後の授業が終わり、当番の掃除を無事済ませると、僕は図書室へ向かった。部活動ではなく、純然たる調べ物のために図書室へ向かったのである。


 閲覧室に入ると意外なことに野武士が居た。着席して本を読んでいる。教室では一言も口をきかなかったが、さすがにここでは無視できない。一言「やあ」と言って、書棚へ向かう。野武士は顔を本から離すことなく「部活動ご苦労様」と言ってくる。いや、今日は文芸部には関係なく調べ物があって来たんだ、などと余計な事は言わずに僕は本を探し続けた。


 それらしい本を手に取り、パラパラめくり、また棚に戻す、そんな作業を繰り返す内に、もしかしたら野武士に聞いた方が早いかも、という、少々横着な考えが浮かんできた。ひとたびそんな考えに捕らわれると、もう駄目だ。俳句関係の本は沢山あるし、そもそもいつの時代の誰の作かもわからない句を探し出すという手間は、途轍もなく大儀である。取り敢えず訊いてみてもいいんじゃないだろうか、この程度のことなら大した毒舌も返ってこないだろうと僕は判断し、書棚を探すのは止めて野武士に訊いてみた。


「あの、ちょっといいかな」

「何かしら」

「菜の花や月は東に日は西にって、知ってる?」

「あら」

 野武士は本から顔を上げると意外そうな顔で僕を見上げた。

「人って見かけに寄らないのね。ショウ君、結構浮気者なのね」

「う、浮気者って、何を言ってるんだ、君は」


 予期せぬ回答に思わず狼狽して言葉を詰まらせてしまった僕を尻目に、野武士はいつも通りに淡々と辛らつな言葉を浴びせてくる。


「だって、そうでしょう。芭蕉が大好きですとか言っていたのに、もう別の俳人に心奪われているんだから。まあ、あり得ないとは思うのだけれど、もし万が一、何かの間違いで、神がかり的偶然によって奇跡的にあなたに彼女ができたとしても、それだけ重度の浮気癖があるなら、蝉が孵化して命を終えるよりも早く、その彼女はあなたに愛想を尽かしてしまうでしょうね。お気の毒」


 いったい、どうしてこうも憎まれ口が叩けるのか、その才能に脱帽してしまいそうなくらいだ。しかもこちらの疑問には全く答えてくれていない。少なくとも芭蕉の句ではないことだけはわかったが、それだけではどうしようもないのでもう一度訊き返す。


「いや、別に彼女の心配はしてくれなくてもいいから、知っているのなら誰の句か教えてくれないかな」

「蕪村よ。与謝蕪村」


 今度はあっさりと教えてくれた。蕪村、聞いたことがある。芭蕉の後に活躍した江戸時代の俳人だ。ではあの老人は蕪村の言霊の宿り手なのだろうか。蕪村ほどの俳人ならば独力で言霊の俳諧師になれても不思議ではないし、そう考えればあれだけの知識を擁しているのも納得がいく。


「そうか、あの人は蕪村の、」

「あの人?」

「うん、日曜日に初めて会ったおじいさん……」


 と言いかけて、あの老人のことを野武士に話すのは早計かもしれないと考えた。なにしろあの老人には野武士の悪口を散々言ってしまっている。勘のいい彼女のことだ、老人について話している途中で下手に突っ込まれたら、こちらからボロを出してしまうかもしれない。とにかく、当初の目的はもう達成できたことだし早々にここを立ち去ろうと、こちらを疑わしそうに凝視している野武士は無視して、僕は出口に向かおうとした。


「来て」


 本を閉じて野武士が立ち上がった。そのまま準備室に向かって歩いていく。僕の背中に悪寒が走った。これは明らかに危険な展開だ。野武士は昨日から続く僕の言動に間違いなく不信感を抱いている。あの狭い部屋に連れ込まれてしまってはもう逃げ道はない。


 いや、待て。その前にこのまま聞こえなかったフリをして逃げてしまえばいいのではないか。「来て」だけじゃ誰に向かって言っているのかわからない。そうそう、あれは僕に向かって言ったんじゃないんだ。別の誰かに言ったのさ、と都合よく解釈した僕はそのまま出口に向かおうとする、が、


「聞こえなかったのかしら、ショウ君。早く来なさい」


 あなたは僕の上司か何かですかと言いたくなりそうなほどの命令口調が聞こえてきた。ここまで言われてしまっては、もう従うしかない。無視して立ち去りでもすれば、翌日さらにひどい状況を招くことは火を見るより明らかだ。


 すごすごと野武士の後に続き、開いたドアから準備室の中に入る。そのドアを後ろ手に閉めた彼女はドアの前に立ち塞がった。これでこの部屋から出るには野武士を倒してドアを開けるしかない状況に陥ってしまった。取り敢えず場を和ませようと僕は無理に笑顔を作る。


「えっと、何か用事があるのかな。こんな狭い部屋に若い男女が二人だけって、ちょっと不健全だと思うんだけど」


 当然のことだが、野武士はこんな言葉には全く動じない。まるで何も聞こえていなかったかのように、自分の言いたいことを喋る。


「ショウ君、月曜日の朝は私を見るだけで何も言わず、夕方は何か言いかけて走って逃げてしまったわよね。それって、日曜日に会ったっていうあの人と何か関係があるんでしょう。今日こそは話してもらおうかしら。あの人って誰? その人と何を話したの?」


 口調は丁寧なのだが、恐ろしいほどの威圧感が言葉の端々に漂っていた。別に昨日教えてもらった言霊に関する内容については、野武士に話しても構わないし、むしろ話して情報を共有すべきである。しかし、日曜日の話の内容はできるなら伏せておきたい。

 このように知らすべき内容と知られてはいけない内容が混在している情報を相手に伝達するにはいかなる手段を講じるべきか。この難所を乗り越えなければ全員討死の危機に直面している足軽隊の物頭のように、急速フル回転を始めた僕の頭が出した結論は、いつものように適当にごまかすという安直な方法だった。


「い、いやあ、それは君の思い違いで、僕が君に言いたかったこととあの人とは何の関係もないんだよ。会ったのは普通のおじいさんでね、とても俳句のことに詳しい人だったんだ。あ、そうだ言霊のことも知っていたから、もしかしたら僕たちと同じく、言霊を宿している人かもしれないかなあ」


 野武士はまるで東大寺南大門の仁王様の如く僕を睨みつけている。到底直視できるはずもなく泳ぎまくっている僕の目は、何も知らない人から見ても疑わしさ満載なのであるから、野武士が僕の言葉を信用するはずもないが、嘘だと決めつけることもできかねている様子だ。これ以上自白を促しても無理と悟ったらしく、野武士は遂にトンでもないことを言い出した。


「そう、どうしても言いたくないのね。いいわ、それなら私が直接会って話を聞きます。その人とどこで会ったのか教えてくれない、ショウ君」


 一瞬、地が動いたかと思えるほど僕は動揺した。将に驚天動地の一言だ。駄目だ、それだけは絶対にさせちゃいけない。あの老人には見栄を張って、彼女を野武士と呼んでいるなんて言ってしまったのだ。顔を合わせて開口一番「お、この娘が例の野武士かね」などと言われたら一巻の終わりである。なんとしても阻止しなくては。


「え~っと、その人は日曜日の午前中しか居ないと思うんだ」

「いいわよ、都合つけるから」

「で、でも僕が用事があって行けないかも」

「構わないわ、一人で行きますから。場所を教えてちょうだい」

「でも、え、え~っと、あ、そうだ、そのおじいさん人見知りで、僕が勝手に知らない人を連れてきたら困っちゃうかも」


 追い込まれた人間は時として思いも寄らぬ理屈を考え出すものである。言った後で何を言ってるんだ自分は、と少々後悔したものの、意外とこの一言は効果があったようだ。野武士はしばらく考えた後、言った。


「そうね、確かにその人を私に会わせる義務はあなたにはないし、私にもその人に会う権利はない……わかりました」


 凌いだ、野武士の猛攻を凌ぎ切った! 僕は心の中で自分自身に拍手喝采をした。野武士に勝利した今日は記念すべき日となろう、野武士記念日として永遠に僕の記憶に残るに違いない。一方、初の黒星を喫した野武士は特に気落ちするでもなく、いつもどおり涼しい顔をしている。


「ところで話は変わるのだけれど、ショウ君、いつも一緒にお昼を食べている人がいるわよね、確か、トツさん」

「いや、トツさんじゃなくて、父つぁんだよ」


 普段なら野武士に口答えなどしないのに、初勝利の余韻に酔いしれている僕の頭は、相当大胆不敵になっていたようだ。つい、訂正発言をしてしまった。必然の結果として野武士の反論が返ってくる。


「あのね、どこかのアニメの主人公じゃあるまいし、そんなオヤジ言葉、うら若い女子高生が口にできるわけないじゃないの。トツさんでいいのよ」

「あ~、そうですか、わかりました。で、父つぁんがどうかしたの?」


 そもそも父つぁん自体、本名ではなく僕が付けたあだ名なので、呼び方を巡って議論するほどの価値もない。早く用件を聞いたほうがいい。僕の問い掛けに、野武士は意味ありげに口元に微笑を浮かべると、思いがけない言葉を口にした。


「ショウ君、私、あの短冊まだ持っているのよ。あなたが卒業式の日にくれた、あの恥ずかしすぎる短冊」


 勝利の美酒に浮かれていた僕の陽気な気分は一瞬にして打ち砕かれた。嫌な予感が頭をもたげてくる。いや、ここで勝利を手放してはいけない。自分を信じて頑張ろう。


「そ、それが、何か?」

「今でも時々取り出して眺めているの。見る度に羞恥心を感じる短冊なんて天然記念物モノよね。それで、こんな傑作を一人で見るのは勿体無いから、トツさんにも見せてあげようかなあって考えているのだけれど、ショウ君はどう思う。ついでにその時の恥ずかしいお話もしてあげようかなあ」


 僕の勝利は完全に粉砕した。脅迫、この二文字が頭の中をぐるぐる回り始めた。


「そ、それは脅しですか」

「まあ、何を人聞きの悪いことを言っているのかしら。トツさんに短冊を見せるのを止めて欲しいのなら、あの人に会わせて、なんて言ったら脅迫なのだろうけれど、私はそんなことは一切言ってないわ。あの人に会いたいのとトツさんに短冊を見せるのは、全然無関係なのですもの。ふふふ」


 そう言って笑う野武士の目は完全に勝利の輝きに満ちている。なんということだろう。これこそ文字通りの天国から地獄。秀吉迫るの報を受けた明智光秀の気持ちが、今こそ心の底から理解できたような気がする。だが、このまま屈するのは悔しすぎる。僕は最後の抵抗を試みる。


「わかった、君の希望通り、今度の日曜日にあの人に会いに行こう。でも、その代わりにあの短冊を返してくれないか」

「あら、駆け引き? ショウ君もただじゃ転ばない性格なのね。でもね、あなたは自分の立場がわかっていないわ。私はあの人に会わなくても全然困らない。ショウ君は短冊を見せられると困る。ね、わかるでしょ、あなたは駆け引きできる立場にはないのよ。ふふ、日曜日が楽しみだわ」


 野武士は愉快そうに笑いながらドア開けて出て行った。一人準備室に残された僕は、敗北の悔しさを噛み締めていた。結局、ほとんど野武士の希望通りになってしまった。いや、それよりももっと恐ろしいことは彼女に弱みを握られているという事実を思い知らされたことだ。今後、僕は一切彼女に逆らうことはできないのだ。まさか、あの軽率な行動がこんな結果になってしまうとは……


 若気の至り、後悔先に立たず、死んでからの医者話、はまった後で井戸の蓋をする、などと取りとめもなく諺が浮かんでは消えていく頭を抱えて、僕は、とにかく済んでしまったことは仕方がない、取り敢えず、今度の日曜日をどう乗り切るかを考えることにした。あの老人に余計なことを言わせないようにするには……


 根回し、そうだ、今すぐあの老人に会いに行こう。そして一昨日に話したことは言わないでくれと頼めばいいのだ。何だ簡単なことじゃないか。準備室を出ると野武士の姿はなかった。僕は焦る気持ちを抑えながら図書室を出た。走ってはいけない廊下を早足で通り抜け校舎の外に出ると一目散に駆け出した。


 しかし物事はそううまくはいかないものである。あれから毎日、放課後は図書室へ寄ることなくあの川べりに直行していたものの、一度もあの老人には会えなかった。最初に会った時、しばらくはここに居ると言っていたけど、もしかして、もうそのしばらくが終わってしまったのだろうか。それとも月曜日の放課後に会えたのは偶然で、あそこにいるのは本当は午前中だけなのだろうか。

 

そう思った僕は土曜日には午前も夕方も川べりに足を運んだが、やはり会えなかった。そんなこんなで老人への根回しができないまま日は過ぎていき、とうとう日曜日になってしまった。



 野武士は電車で通学しているので待ち合わせは駅前になった。彼女の家はこの町の外れにあり、そのため、中学の時も徒歩ではなく自転車通学だった。高校になると更に距離が遠くなり、学校が駅の近くということもあって電車通学にしたようだ。


 駅前の広場で彼女が来るのを待ちながら、僕の内心は穏やかではなかった。このままあの老人に会えなければ何の問題もないが、日曜日にひょっこり姿を現すという可能性も考えられる。実はその時の対策として、ひとつの腹案を僕は持っていた。うまくいくかどうかわからないが何もしないよりはいい。遠くから規則正しい音が遠くから聞こえてくる。電車が着いたようだ。時刻的に彼女が乗っているはずだ。


「お待たせ」


 改札を通って姿を現した彼女を見て、図らずも僕の胸はときめいた。初めて見る彼女の私服姿は、制服姿から受ける印象からは別人に思えるくらいに女の子らしく見えた。もちろん、そんな感情を表に出してはいけない。これ以上彼女に弱みを見せるわけにはいかないのだ。僕はなるべく平静を装って挨拶した。


「お、おはよう」


 近づいてくる彼女に合わせて微かな空気の動きが感じられた。その空気に乗って淡い香りが僕の鼻をくすぐる。


「これ、ミカンの香り……」

「シトラスって言葉知らないのかしら、ショウ君。もしかしてミントも薄荷って言う主義?」

「いや、ミントは知ってるし、そんな主義は持ってないよ。でも、この香り、学校では感じたことないね」

「洗濯洗剤の香りじゃないかしら。そんなことより早く行きましょう」


 本当にそうなのか、それとも香水を付けているのか、どちらが正しいのか僕にはわからなかった。けれども、これもまた新しく発見した彼女の一面だった。


 あの老人と会った川は駅と高校を結ぶ道路と平行して流れているが、その位置はかなり東側になる。ひとまず川に出ることにして僕たちは東に向かった。明るい四月の陽光を浴びて二人で並んで歩きながら、僕はこの一週間考えていたある提案を彼女にした。


「あの、テイって呼んでいいかな」

「テイ?」

「うん、ホラ、僕は芭蕉でショウだろ。だから寿貞尼の君はテイかなって思って」


 野武士ではなく別のあだ名を付けてしまう、これが僕が思いついた腹案だ。今日、あの老人に会ったとしても、先に別のあだ名で呼んでしまえば、もうそれで呼び名は固定されてしまうはずである。我ながら名案だ。しかし、この提案に対する彼女の返答は否定的であった。


「テイって、最低のテイみたいで、ちょっと気に入らないわね」

「じゃあ、訓読みでサダ」

「長髪振り乱してテレビから出てきそう」

「んー、じゃあ、寿の方にして、ジュ」

「お肉を焼いているみたいじゃない」

「そしたら、そのままコトブキ」

「御目出度いのはあなたの頭の中だけにしてもらえないかしら」


 なんて注文が多い女なんだ。僕なんか文句一つ言わずに今のあだ名を引き受けたのに。それにここまで拒否されたら、もうあだ名の付けようがない。しかし、ここで引き下がるのは癪である。もう一押ししてみよう。


「なら、コトブキのコトでどう?」

「コト、か。それなら許せるかな。あ、そうそう、呼ぶ時は呼び捨てじゃなく、きちんと『さん』を付けて呼んでちょうだいね」

「わかりました、コトさん」


 最初の提案とは似ても似つかぬあだ名になってしまったが、両者共に納得のいくあだ名を付けるという目的は達成できた。これであの老人に会ってもなんとか乗り切れそうだ。

 しばらく歩いて川の土手に出てからは、初めて老人と出会った桜の木を目指して川沿いの道を歩いた。桜の季節が終わってしまったせいか、すれ違う人はほとんど居ない。ほどなく目的の場所に着いたが、やはり老人は見当たらない。


「この木の下で初めて会ったんだ」

「そう」


 コトは桜の木に背をもたれ掛けさせて、周囲を見回している。このまま待っているつもりみたいだ。手持ち無沙汰になった僕は少し離れた場所で老人を探すフリをしながらコトを眺めていた。あの毒舌が信じられないくらい、木の下に佇んでいるだけで絵になるほどの美少女ぶりだ。


 だが、綺麗な花にはトゲがある、彼女に潜む毒舌はバラのトゲよりも鋭い。そのトゲに刺されまくっている僕は、最近はそのトゲにも慣れてきたような気がする。慣れてしまえば、もうそれはトゲでなく花と同じく魅力の一つになるのかも、と考えたところで、それは鞭に慣らされた奴隷と同じではないかという警鐘が鳴り響く。

 いやいや、あの毒舌に屈してはいけない。トゲに慣れるのではなくトゲを取り除く努力をしよう、と新たな決意を固めたところで、コトが木を離れてこちらに向かってくる。


「この辺には居ないみたいだし、少し歩いてみましょうか」

「あ、うん」


 僕たちは川べりを歩き始めた。歩きながら老人を探しているのだが、やはり姿は見当たらない。程なくしてベンチが見えてきた。二度目に老人の話を聞いた時に腰掛けていたベンチだ。コトは何も言わずにベンチに近づくとそこに座った。少し疲れてしまったのかもしれない。僕も並んで座る。


「居ないわね」

「う、うん。この町の人じゃないみたいだったし、しばらくしたらどこかへ行ってしまうみたいなことを言っていたから」

「そう……」


 コトの気落ちした声を聞いて、やはり老人は去ってしまったのだという結論を下すべきなのだと僕は感じた。もう会う必要もあるまい……あれが老人の別れの言葉だったのだ。そう思うと僕の胸に寂しさが込み上げてきた。


「ふふふ」

 いきなりコトが笑い出した。

「ど、どうしたの」

「やられたわ。ショウ君、あなたって見かけに寄らず策士だったのね」

「策士? どういうこと?」

「あの人、なんて居なかった、最初からそんな老人、存在していなかったのよ。見事に騙されたわ。月曜日の朝と夕方の、あの思わせぶりなあなたの言動は全てお芝居、私を欺くためのね。そして火曜日には架空の老人の存在を匂わせる。もちろんそれも、その人に会わせてという言葉を私から引き出すための嘘。そして私はまんまとあなたの計略に引っ掛かって、こんな所まで来てしまった。ふふ、私ともあろうものが、ショウ君如き小者の手玉に取られるなんて、どうかしていたわ」


 いきなり聞かされたコトの大胆妄想には、可笑しさを通り越して呆れてしまった。これは冗談なのか本気なのか全く判別がつかないが、一応、真面目に反応してみる。


「あ、あのうコトさん、それ何かのドラマの見すぎなんじゃないかな。そもそも、そんなことをして僕にどんな利点があるって言うの」

「わかり切ったことじゃないの。私を脅迫するためよ」

「きょ、脅迫? でもどうやって?」

「あら、いつまでシラを切るつもりなのかしら。今のこの状況、どこからどう見たってデートじゃない。私がショウ君みたいな冴えない男とデートしている、これだけで十分脅しのネタに使えるわ。きっとどこかにあなたの仲間が居て、写真でも撮っているのでしょう。もしかしたら、あのトツさんがカメラを構えてこっそり潜んでいるんじゃない。そして後日、このデート写真をばら撒かれたくなかったら、あの恥ずかしい短冊を返せと要求する、それがあなたの狙いなのよ。どう、図星でしょう」


 その手があったか! 短冊を取り返す大チャンスを取り逃がしてしまうとはなんたる不覚。気づかなかった自分の不明さを恥じて大反省の気分に見舞われた僕ではあったが、自分と一緒に写っている写真が脅しのネタになるって、それはいくらなんでも無理があるんじゃないだろうか。


「いや、しかし僕とコトさんはクラスメイトで同じ部の部員。一緒に写っている写真があっても、どうとでも弁解できるんじゃないか」

「ふ、甘いわね、ショウ君」

「はあ?」

「この程度のボケにそんなツッコミしか返せないなんて、それじゃ女の子は満足しないわよ」


 ボ、ボケだったんですか! と言うか、こんな壮大なボケに対してどんなツッコミをお望みなのですか。いかなるツッコミ名人といえども、あなたを満足させることは不可能と思われます、と心の中で叫んだ僕は、コトに対してはもう何も言えなくなってしまった。絶句したままの僕をしばらく眺めていたコトは、不意に真顔になった。


「ね、話したくないことは話さなくていいから、そのおじいさんとした話の内容を教えてくれない。言霊のことも知っていたのでしょう」

「あ、うん」


 そんな言われ方でお願いされると随分気が楽になる。僕は二度目に出会った時に老人から聞いた話の内容をコトに話した。言霊の業を身に付けた宗鑑のことや、吟詠境のこと、宿り身の業、言霊同士の争いなどなど。言霊の俳諧師が存在する時代に生きた寿貞尼の記憶が流れ込んでいるせいか、言霊についての知識はコトもある程度持っていたようだ。ただ、宗鑑が芭蕉に封じられたことや、僕が最後に見た夢の内容は知らなかった。寿貞尼の死後に起こったことだからだろう。


「つまり、封じた宗鑑が心配で芭蕉は言霊になったってことなのかしら」

「そんな感じだね」

「それで、芭蕉がショウ君みたいに俳句の知識がほとんどない浅学非才で凡庸な人間に宿ったのには、どんな意味があるのかしら」

「いやあ、それは本当に不思議だよね」


 それに関しては老人は何か気づいていたみたいだったが、僕にはわからなかったので、適当に答えておいた。それにしても相変わらず毒を含んだ物言いである。


「考えても仕方ない、か。そんな過去の人たちの思惑に振り回されるのはバカバカしいものね。ショウ君もそんなことに気を取られるより、今、自分の前にある現実に目を向けるべきかもね」

「それはそうなんだけど……」


 コトの言い分はもっともだったが素直には同意できなかった。自分に芭蕉の言霊が宿ったことには、何らかの意味があるという思いが捨て切れなかったからだ。それともコトのように、宿した言霊の意識が流れ込むほどに完成された宿り手になれば、もう気にならなくなるのだろうか。僕には結論が出せなかった。


 僕の話が終わってもコトはベンチに座って、陽光を反射してキラキラと輝いている川をぼんやり眺めている。もう少し話がしたくて僕はコトに訊いてみる。


「コトさん、ひとつ教えてくれないかな。寿貞尼ってどんな人だったの。俳諧師でもないのに言霊になったのには何か理由があるのかな」

「寿貞尼は芭蕉の幼馴染よ」


 こちらを振り向きもせず川を眺めたままコトは話す。


「郷里を出た芭蕉を慕って彼女も江戸に下り一緒に暮らした。やがて心変わりした彼女は芭蕉を裏切って他の男と駆け落ちし、子供までもうけてしまう。男に死なれた後は尼となり、病を得ると芭蕉を頼って芭蕉庵に住み、一年後他界した」

「な、なんだかひどい女性だね。芭蕉さんを裏切るなんて」

「そう、ひどい女ね。それでも芭蕉は決して彼女への想いを捨てなかった。そうして一生を独り身のままで通し、彼女の死を知った時、その魂を捕らえ、自分の命を削って言霊にし、自分の句に宿らせた。その業によって衰弱した芭蕉は彼女の死の四ヵ月後に亡くなった」

「命を削って……」


 思いも寄らぬ話だった。芭蕉と言えばひたすら俳諧の道を究め続けた人、そんな印象しか抱いていなかった。コトの話が全て真実かどうかはわからないが、俳諧師ではなかった寿貞尼の言霊が存在し、それを成し得るのは芭蕉以外に考えられないのだから、芭蕉が最後まで彼女に想いを寄せていたのは間違いないだろう。自分の命を削れるほどの想い……僕には想像できなかった。


「芭蕉って凄い人だったんだね。一人の人にそこまで尽くせるなんて、僕にはとても真似できないや」

「何事にも一途な人だったのでしょうね。そう、たった一度冷たい言葉を投げ掛けられただけで、自分の想いを捨ててしまおうとした誰かさんとは大違いね」


 コトのこの言葉は僕の胸に深く突き刺さった。そうだ、確かにあの時、僕はコトへの想いを捨てようとした。それだけでなく嫌いになろうとして野武士なんてあだ名まで付けてしまった。あの時の僕の想いはその程度のものでしかなかったのだ。あの老人のおかげで捨てかけた想いを救うことはできたが、それでも芭蕉の足元には到底及ばない。こんな僕に宿り手の資格などあるのだろうか。


「ほ、本当だね、僕と芭蕉じゃ勝負にならないよ」

「あら、すんなり認めてしまうのね。でも、ついてもいい嘘だってあるのじゃないかしら」

「えっ?」


 いつもハッキリ物を言うコトにしては曖昧な言い方だった。コトは相変わらず川を眺めている。その横顔が妙に可愛く見えた。


「ね、お腹空かない?」


 そう言って、急にこちらを振り向いたコトの顔にドキリとしながら僕は答えた。


「あ、ああ、そろそろお昼かな」

「何か食べに行きましょう。駅前に以前から行きたかったお店があるの。あ、もちろん、ショウ君のおごりね。私を騙してこんな所まで連れてきた罰よ」

「いや、だから騙してないって言って……」

「行くわよ」


 僕の言葉など聞く耳持たぬと言わんばかりにコトは立ち上がった。柔らかい微風に乗って、今日最初に会った時に感じたあのシトラスの爽やかな香りが漂う。花の季節は終わり、これからは新緑の季節だ。あの老人は別の町へ旅立った。コトはもう歩き始めている。僕は立ち上がると新しい一歩を踏み出すようにコトの後を追った。

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