見知らぬ老人



 夕食は自炊である。中学までは先輩の家に結構厄介になっていたのだが、高校生にもなれば食事の支度くらい自分ですべきという父の方針で、中学卒業と同時にお小遣いと一緒にそれ相応の食費が支給されることになった。


 当初はスーパーやコンビニで弁当やお惣菜を買って済ませていた。やがて食材を買って自分で調理すれば安く上がり、余った食費をお小遣いに回せることに気づき、今は極力自分で料理するようにしている。今日はどうしようか迷ったが、結局夕方タイムサービスで安くなった弁当で済ませてしまった。


 お茶を飲んで一息つくと、二階の自室へ上がって今日借りてきた本を広げた。読みながら自分が如何に俳句について無知だったかよくわかった。初めて知ることばかりだった。


 俳句という言葉が広まったのは明治時代で、それ以前は俳諧が一般的な呼び方だったこと。俳諧とは俳諧連歌のことでそれを広めたのは山崎宗鑑、以後、貞門派、談林派、芭蕉の蕉風などが現れる。その後、蕪村、一茶を経て明治時代に子規が近代俳句を確立させる。芭蕉のすぐれた弟子を蕉門十哲と呼び、これには諸説あるが、其角きかく、嵐雪、去来きょらい丈草じょうそうは必ず数えられていること、などなど。


 読みながら最近よく見る夢のことを考えた。あの恋文短冊製作の参考にするために芭蕉の俳句を読み始めてから、似たような夢をよく見ている気がする。今朝見た夢には、確か宗鑑という僧が居た。ここに書いてある山崎宗鑑のことだろうか。一緒に居たのは確か宗房、芭蕉の実名だ。どうして二人は争っていたんだろう、あの後どうなったんだろう、と、取りとめもない考えが浮かんでくる。


 しかし夢に意味を求めるなど、それこそ意味の無いことだ。夢の中で誰が戦おうが、その後どうなろうが、それは夢の勝手というものだ。そう、夢の内容をいちいち考えても仕方が無い、それよりもまずは現実の自分自身の問題を考えよう。僕はもう一度広げた本に目を通し始めた。


 * * *


 既に日も暮れた座敷を灯すのは燈台に乗せた灯明皿で燃える炎がひとつのみ。締め切った障子の隙間から時折漏れてくる微かな風に揺らぐ灯火が照らし出すのは、十名を超える男たち。それらの男たちに取り囲まれて正座した二人が向かい合っている。互いに目を閉じ眠っているかのような風情ながら、顔には煩悶の色が浮かんでいる。


「其角殿がお着きになりました」


 その声に一同の緊張が解けた。ほどなく障子を開けて男が勢いよく入ってくる。


「おお、其角殿、よくぞ参られた」


 一同の視線が一斉に其角に向けられる。其角は立ち尽くしたまま、皆に取り囲まれている輪の中で目を閉じ対峙する二人を見遣る。


「これは、芭蕉翁と嵐雪殿。では、やはり宗鑑は嵐雪殿に宿られたのか」

「さよう、お二人は吟詠境にて相対しておられる。芭蕉翁の体が弱っておられるこんな時に、なんといまいましい」

「だからこそ宿られたのだろう宗鑑は。この時を待っておったのじゃ、そう思わぬか丈草殿」


 そう言いながら其角は、数珠を握り締めた僧衣姿の丈草を横に押しのけて、取り囲む男たちの輪に加わって座る。正座ではなく胡坐である。息を整え目を閉じる。一同は固唾を呑んで其角を見詰める。が、やがて其角は目を開け、ため息混じりに首を振る。


「駄目じゃ入れぬ。発句はわかるのだが詠じても開かぬ」


 一同の顔に落胆の色が浮かぶ。京染紬の小袖の肩を震わしながら去来が無念そうな声を出す。


「其角殿のお力を以ってしても無理となれば致し方あるまい。わしも先ほど試してみたが駄目じゃった。恐らくは両吟縛り」

「大方そうであろう。くそ、宗鑑、小賢しい真似を」

「さりとて両吟縛りを掛けられているのなら、他の束縛詠は使えぬはず。こうなれば芭蕉翁のお力を信じ、こうして見守るしかござらぬな」


 一同再び沈黙し待つこと一時、嵐雪が小さく呻き声を上げた。近くの其角が嵐雪の肩に手を掛ける。


「戻られたか嵐雪殿。ご無事か」

「ああ、わしに気遣いは無用じゃ。それよりも芭蕉翁を」


 それまで身じろぎもせず正座していた門人一同の宗匠、芭蕉の体が前のめりに傾いた。畳に崩れ落ちそうなその体を、去来はしっかり受け止めると、上半身を自分の体に預けさせ右手首を握った。まるで死人のように冷え切った手首の脈動は今にも途絶えそうなほどに弱弱しい。


「これはいかん、体が冷え切っておる。二郎兵衛、湯だ。他の者は手を貸してくれ、寝所までお運びしよう」


 その声に、まだ若い二郎兵衛は慌てて飛び出していく。去来は数名の者と共に芭蕉の体を支えて運び、蒲団の上に横たえた。夜着を掛けられた芭蕉の手足を、戻ってきた二郎兵衛が湯に浸した手拭で擦る。しばらくしてその目が開いているのに気づいた去来が声を上げた。


「お目覚めになられましたか」


 その声に、それまで沈思黙考していた一同が顔を上げ、横たわる彼らの宗匠の顔を見詰めた。かすれるような声で芭蕉が問う。


「嵐雪は、如何した」

「大事ありません。疲労が甚だしいので別間で休んでおります」

「そうか」


 安堵した表情の芭蕉の枕元に其角がにじり寄って尋ねた。


「それで、宗鑑殿は如何なりました」

「大したお方であった。わしにできたのは封じて送り返すだけ。が、その封も未来永劫続くわけではない」


 この言葉に其角は顔を曇らせた。芭蕉は今一度息を整えると、震えてはいるがはっきりとした口調で語り始めた。


「門人の方々、わしは言霊の俳諧師としてこの肉体の終焉と共に言霊となり、我が言葉の中でゆるゆると朽ちていくつもりであった。しかし、宗鑑殿を封じた以上、このまま消え行くわけには参らぬ。いつか封も解け、宗鑑殿は再び戻って来られよう。わしはこれから残りの命と引き換えに言霊となり、時来れば我が言霊を封じて宗鑑殿の行く末を見守ろうと思う。もし門人の方々の中で、わしと同じ志を持つ者あらば、いつの日かその命尽きて言霊となる時、己が言霊を封じて、再び宗鑑殿に相見える時のために力を貸していただきたい」

「必ず」


 最初にそう言ったのは丈草だった。その言葉に促されるように同意の言葉があちこちで起こる。芭蕉は満足気な笑みを浮かべたが、同時にその顔に疲弊の色が濃く浮かんだ。何か言い忘れたことはないか、自分に問うてでもいるかのように、どこか遠くを見るような眼差しで天井を見詰めていた芭蕉の口から、不意に力ない言葉が漏れた。


「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

 一旦言い終わり、だがすぐに続けて、

「破れた風に飛ぶ寒雀……」


 そして静かに目を閉じた。その言葉の余韻がまだ残っているような座敷には、もう芭蕉の息遣いは聞こえなかった。丈草が涙声でその体にすがる。


「芭蕉翁、お目覚めくださいませ、芭蕉翁」

「お止めなされ、丈草殿」

 傍らの去来が丈草を押しとどめるように肩に手を掛けた。

「眠っておられるだけじゃ。お目覚めになるのを待とう」


 丈草は去来を見上げた。去来の目からもまた涙が一滴流れ落ちていた。


 * * *


「おい目を覚ませ、風邪ひくぞ、おい」


 誰かが体を揺すっている。目を開けると、開きっ放しの本が二冊。今日、図書室で借りてきた本だ。どうやら勉強机で本を読んだまま眠ってしまったらしい。


「一階が真っ暗だったんで、まだ帰ってないのかと思ったぞ。眠っていたのか。しかし授業中ならわかるが、まさか家でも居眠りとはな」

「ああ、父さん、おかえり」


 体を揺すっていたのは父だったのか、とわかった瞬間、また別の事に気づいた。


「しまった、風呂、まだだった」


 椅子から飛び上がるように立ち上がった僕を、父が制する。


「いいよ、もうやったから」


 父は毎日ほぼ同じ時刻に帰宅し、着替えてそのまま風呂に入る習慣だ。帰宅時間に合わせて風呂の準備をしておくのが日課だったのだが、つい寝過ごしてしまった。


「ごめん、本に夢中になってしまって」


 こんな失敗は久しぶりだった。それにしても読書をしながら眠ってしまうとは文芸部員にあるまじき振る舞いだろう。父は笑いながら机の上に広げられた本を手に取った。


「俳句か。宿題か何かか?」

「う、うん、まあ」


 恋文を渡した相手に散々馬鹿にされたので見返すために読んでいる、などとは言えるはずもないので適当にお茶を濁す。父は手にした本のページをめくりながら、懐かしそうに言う。


「母さんも俳句や短歌が好きだったな」

「え、そ、そうなんだ」


 父が母について話すのは珍しかった。母がいなくなってしばらくは色々尋ねていた記憶があるが、その度に悲しそうな顔をする父を見るにつれ、次第に母についての話題は避けるようになっていったのだ。母の話が出た今、更に聞くべきか、このまま流すべきか、返答に困ってしまった僕は何も言えずにただ父の顔を見た。随分老けて見えた。


「そう言えばお前、今朝も寝坊していたな。高校生活は大変か」

「それほどでもないよ、まだ慣れていないだけだと思うから」


 話題が変わってほっとした僕の顔を見ると、父は僕の頭に手を乗せて部屋を出て行った。


 * * *


 翌日、土曜日は借りてきた二冊の本を読んでいた。どうやら俳句上達の近道は戸外に出て色々な景色を見聞きし、それを素直に詠むのがいいらしい。吟行と言うそうだ。日曜日は朝から気持ちいいくらい晴れていたので、朝食と洗濯を済ませてから、さっそくメモ帳とペンを持って外に出た。


 向かうのは歩いて数十分の川べりの土手。そこは桜並木になっていて、花見の季節には毎年散歩しているお気に入りの場所だ。ただ今年は、桜という文字を見るだけで野武士の辛らつな言葉が蘇ってくるので、恐らく生まれて初めて花見には行かなかった。


 川べりに着くと、道沿いに並んだ桜の木はすっかり葉桜になっている。道から川方向に離れた場所にある一際大きな桜の木の下に立って、僕は緑の葉を繁らせた枝々を見上げた。


 と同時に小さい頃、この桜の木の下で遊んでいた僕自身を思い出す。僕と先輩と、それから僕と同い年の女の子。まだ漢字も書けないほど小さかった僕たちは、三人でよく遊んだものだった。成長するにつれここに来ることも減り、やがて女の子が引っ越していなくなってしまうと、僕と先輩も家の中で遊ぶことが多くなり、ここに来るのは年に一度の桜祭りの時だけになってしまった。


 子供の頃は巨人のように感じられたこの木も、今は普通のありふれた木だ。そう言えば、先輩がよじ登った枝から落ちて、ちょっとした騒ぎになったこともあったっけ。僕はそんな懐かしい思い出に浸りながらこの木を眺めた。さて、これを見てなんと詠もうか。しばらくして僕の頭に一句浮かんだ。


「葉桜になると桜とわからない」


 自分で作っておいて可笑しくなった。知っているから花が咲いていなくても桜とわかるこの木も、別の場所にこの状態で立っていたら何の木かわからないだろう、という気持ちを詠んだのだが、あまりに当たり前すぎてまるで小学生の句だ。おまけに桜と葉桜という別の季語が入っている。野武士に見せたらきっと散々な批評が返ってくることだろう。でも、せっかくの第一作なのでメモ帳に書いておくことにした。


「ほほう」


 背後から誰かが声を掛けてきた。振り向くと和服を着た老人が杖をついて立っている。一本の毛髪もない頭や、顔に刻まれた深い皺が、相当の歳月を生きてきたことを示している。


「吟行ですかな」

「え、ええまあ」


 初めて見る人だ。毎年来ているので大抵のお年寄りは知っているつもりだったが、どうやら近所の人ではないようだ。


「どれ、よかったら見せてくださらんか」

「えっと、まだ一句しか詠んでないし、ひどい駄作ですけど」


 と言いながらメモ帳を渡す。それを読む老人の顔が愉快そうに微笑む。


「いやいや、素直ないい句ですよ。そうですなあ、葉桜やこの木を知らぬ人もあり、などと詠んでは如何かな。それにしてもその若さで俳句とは珍しい。どんな切っ掛けで始められたのかな」


 老人からメモ帳を返してもらいながら、もしかしたらこれはチャンスかも、と頭の中で声がした。どうやらこの老人の趣味は俳句らしい。ひょっとすると俳句の大家かもしれない。現在、孤立無援の俳句修行中の身にとって、これはまたとない救世主到来であろう。ここはひとつ、このお方のお力に縋ってみるべきだ。


「は、はい、実は」


 と言って、あの春の大惨敗告白失恋事件を話しだす。長くなったので途中から桜の木の下の草の上に座り、今まで胸の中に積もりに積もった鬱憤を晴らすが如く、老人に話し続けた。


「本当に見る目がないなあって、しみじみ思ったんですよ」


 話し終えると気分がすっきりした。なるほど、言いたくても言えないことを言ってしまうと、こんなに気分が良くなるのか。イソップ寓話の「王様の耳はロバの耳」に登場する床屋の気持ちがようやく理解できた気がする。話の間、ただ目を細めて無言で聞いているだけだったその老人は、僕が話し終えると声を出して笑った。


「ははは、なるほど確かにお前さんは見る目がないのう」

「そうですよね。歌姫なんて呼んでいた自分が恥ずかしいです。今は野武士って呼んでいます」


 呼んでいるのはあくまで自分の心の中限定なのだが、それを言うと彼女への苦手意識を見透かされるような気がしたので、その部分は省略させてもらった。


「野武士か、そりゃいいのう、ははは。だがな、見る目がないとはそんな意味ではないぞ。お前さん、その野武士を本当に野武士だと思っているのかね」

「はい、だって、あんなにひどい言葉を浴びせ掛けてくるんですから」

「そうじゃな、しかし考えてもごらん。もしその野武士が本当にお前さんを嫌っていたのなら、ごめんなさいとでも言って短冊を突き返すだけじゃろう。また、もし何とも思っていないのなら、お前さんを傷つけないように体のいい言葉でその場を繕うだけじゃ。じゃが、その野武士はきちんと感想を言ってくれた、そればかりか短冊も受け取ってくれた。何の想いも抱いていない相手に対してそんな態度を取ると思うかね」

「う……」


 否定したかった、が、できなかった。いいえ恐らくは他人を言葉で弄ぶことに生き甲斐を感じているだけなのだと思います、とも言えなかった。それはきっと、僕自身否定しつつも、野武士の言葉にある種の親愛に似たものを感じていたからだろう。言葉に窮した僕を優しい目で眺めながら、老人は続けた。


「偉そうに聞こえたのならすまんな。年を取ると説教くさくなっていかん。ただ、相手がよくわからないのなら悪く考えるより良く考えた方がいいじゃろう。野武士などと思わず、もっと別の見方で眺めてみたらどうじゃ。そうすれば毎日を楽しく過ごせるじゃろうて」

「そう……かもしれませんね。野武士なんて失礼ですよね。彼女は僕をショウ君なんて呼んでくれているのに」

「ショウ君、君の名か」

「いえ、彼女が付けたあだ名ですよ。芭蕉が好きなので、バを省いてショウ、だそうです」

「芭蕉……」


 老人の顔から今までの柔和さが消えた。僕を凝視している。


「お前さん、芭蕉の句で覚えているものはあるかね」

「あ、えっと、一番好きなのは、さまざまの事思ひ出す桜かな、です。三百年以上も前に書かれたとは思えないくらい今の言葉に近い感じがして。この句を見て、恋文に桜を入れて書いてみようと思ったんです」

「なるほど桜か。もう一度、声に出して詠んでみなされ。その情景をしっかり思い浮かべながら」


 僕を見詰める老人の目つきが俄かに厳しくなった。今までとは別人のような真剣な顔に、心の底まで暴いてやろうとでもしているかのような両目が激しい眼光を放って輝いている。それは僕にあの部長の目を思い出させた。あの時の夢に似た感覚……


「さまざまの 事思い出す 桜かな」


 ゆっくりとはっきりと言葉を区切って声に出した。しかし、言い終わっても何も起こらなかった。しばらくして、ふっと息を吐いた老人の顔には、元の優しさが戻っていた。


「宿られてはいるが、全てではない、か。確かにこの少年の語彙と想像力では貧弱すぎるかも知れぬのう。しかし何故こんな小者を選ばれたのか」


 期待が外れたような口調でそう言いながら老人は腰を上げた。杖を持ち直して、着物についた草や土を払っている。今にも立ち去りそうな様子だ。事情はよく飲み込めないが、このまま別れてしまうのは避けたかった。とりあえず再会の約束はしておきたい。僕は立ち上がると、老人にお辞儀をした。


「あ、あの今日は貴重なお話をありがとうございました。それで俳句のお話をもっと伺いたいので、また会っていただけませんか」

「おお、そうじゃな。約束はできんが、しばらくはこの辺に居るつもりじゃ。天気が良い日なら会えるかもしれぬのう」

「ありがとうございます」


 僕は再びお辞儀をした。次に会った時は、最近よく見る夢の話でもしてみようかと思う。もしかしたら何かわかるかもしれない。老人は背を向けて歩き出しかけたが、ふと、何か思いついたようにこちら向いた。


「ああ、ひとつ大事なことを言っておこうかの。お前さん、言葉には想いが必要じゃぞ」

「想い?」

「そうじゃ。想いのない言葉なぞただの音に過ぎぬ。音に想いがこもった時、その音は言葉になる。よく心に留めておきなされ」

「は、はい」


 そして今度こそ本当に老人は歩き出した。本音を言えば、住所や電話番号を聞き出したいところではあるが、初対面の相手に対して、さすがにそれは図々し過ぎるというものだろう。


 結局、この日の収穫は最初の一句だけで終わってしまった。老人と別れた後、試験期間最終日の最後の答案用紙を提出した時のような疲労と虚脱感を味わった僕は、何を考えるでもなく川べりを歩いた後、ただの一句も捻り出せずにそのまま帰宅してしまったのだ。


 その時の僕の頭を占有していたのは俳句ではなく、老人に指摘された野武士に対する偏見だった。野武士ではなくもっと別の見方、と老人は言ったが、ではどんな見方をすればいいのだろう。敵意と軽蔑と侮辱が大部分を占める彼女の言葉をどう受け止めればいいのだろう。川べりから帰宅して自室で考え続けても、その答えは僕にはわからなかった。


 * * *


 月曜日。先輩は言葉通り朝練に行ってしまい、入学以来初めての一人での登校。今朝はいつもより気分の良い目覚めだった。不思議なことにこれまで毎日のように見ていたあの古めかしい夢が、父に起こされた時を最後に全く現れなくなってしまっていた。それが本当にもう終わりなのか、現在休止中なのか、実は見ているけど覚えてないだけなのか判別はつかないものの、どちらかと言えば悪夢に分類される夢を意識しなくて済むのは快適である。


 いつものように校舎に入り、教室の戸を開ける。野武士は既に来ていて自分の席に着いている。僕は老人の言葉を思い出し、入学以来満足に見たこともない野武士の顔を見た。やはり印象は変わらない。僕にとっての野武士は野武士のままだ。


 あの老人はきっとこれまで善人ばかりを相手に暮らしていたに違いない。だからあんなにお気楽に考えられるのだと自分で自分を納得させ、席にカバンを置いた時、僕が見ているのに気づいたのか、野武士の視線が確実に僕を捕らえた。決して逸らすことなく真っ直ぐこちらを見ている瞳。それは冷酷で人を傷つけることを厭わない瞳、いや、だが、その時、僕はその瞳に別の光を感じた。野武士と呼ぶ前に彼女に対して抱いていた感情を呼び起こす光、あの懐かしい感情……不意に僕は恥ずかしくなって目を逸らした。そのまま椅子に座り、一日の授業を受けた。


 今週から教室の掃除当番だったため、放課後は同じ班の仲間数名と教室に居残りである。こんな時は掃除をさぼって雑巾を箒で打って遊んだり、ゴミ箱のゴミを捨ててくると言って外に出たまま、掃除が終わるまで戻って来ない奴などが大抵一人くらいは居るものだが、よほど真面目な人間が集まった班だったのか、全員黙々と床を掃いたり、黒板を拭いたり、ゴミを捨てたりしている。おかげで十分ほどで終了してしまった。


 これは良い班に入ったものだと感謝し、カバンを持って教室を出ると、廊下の壁に背を持たれかけさせて野武士が立っている。そ知らぬ顔で行き過ぎようとしたが、そうはさせてくれなかった。


「お掃除ご苦労様、ショウ君」


 相変わらず無表情な顔に冷たく響く声。やっぱり野武士は野武士だ。声を掛けられては無視するわけにもいかず返事をする。


「あ、ああ、ありがとう」

「今日も行くの? 文芸部」

「うん、そのつもり。まだ一度しか顔を出してないから」

「ふうん」


 野武士は壁から離れるとこちらに近寄ってきた。嫌な予感がする。どうやら今日も野武士の辛らつな言葉に痛めつけられなくてはならないようだ。


「あなた、今朝、私を見ていたわよね。なぜ?」

「なぜって、いや、別に理由はないけど」

「理由もなく人を見るのは止めていただけません? あたしは動物園の珍獣じゃないんですからね。それとも何か言いたいことがあったけど、言えずに目を逸らしてしまったのかしら。もしそうなら今聞いてあげるわよ」


 完全な詰問口調で詰め寄る野武士は、まるで職務質問の警官のようである。このような態度で迫られると、無意識の内に挙動不審の人物のように振舞ってしまい、更には苦しい言い訳まで考え出してしまうのが小心者の情けない性だ。


「お、おはようって言おうかな、とか思って」

「つくのならもっとマシな嘘をつきなさいよ」


 瞬時に嘘を見抜かれ、蛇に睨まれた蛙の如く心身ともに硬直状態の僕は、野武士の顔から目を逸らせなくなっていた。野武士は朝と同じように真っ直ぐな瞳で僕を見ている。そして僕はその瞳の中に、野武士とは全く違う別の彼女を見ていた。恋文短冊を作っていた時、そしてそれを渡す時、僕の中に確かに存在していた、今では幻影となってしまった彼女の姿。まるで自白剤でも服用されたかのように、言いたかった言葉がこぼれ出た。


「君は、本当は……」

 言いかけて、はっとした。いや、こんな事は聞くべきではない。

「なんでもない、さよなら」


 僕はそう言って駆け出した。緊急時以外、廊下を走ってはいけないので、これが僕がこの高校で犯した校則違反第一号である。ただし野武士の暴言から逃れることが緊急時と認められるのなら、この疾走は許されるはずであろう。


 図書室に入ると部長の他に数名の生徒が居た。文芸部の部員だろうか、と思いながら部長に挨拶する。


「こんにちは」

「やあ、今日も来てくれたのか。ご苦労さん。えっと、今日は他の生徒の邪魔になるから準備室に行こうか。あの部屋は図書委員の他に文芸部員も一応入室を許可されてるいるから」


 部長の口振りでは、彼らは部員ではなく一般の図書室利用者のようだ。部長の後に続いて閲覧室の奥にある小部屋に入る。準備室と言ってもただの作業場のような部屋で、四方を書棚に囲まれた床に、古書や新刊、何かの書類などが雑念と置かれている。さらに奥には書庫があるようだ。片隅に四人掛けの作業机があるので、部長と向かい合わせに座った。


「どうだった、あの本は? 役に立ったかい、ショウ君」

「はい。とても勉強になりましたって、え、どうして部長がその呼び名を?」

「彼女がそう言っているのを聞いたんだよ。芭蕉の芭を省略してショウ君なんだろ。面白い付け方だね」

「いやあ、ははは」


 どうやら野武士はこのあだ名を広げようとしているようだ。全校生徒からショウ君と呼ばれる日が来るのは、そう遠くないような気がする。


「まあ、これからは自分がいいなと思った本を選んで読んでいけばいいと思うよ。君には悪いけど僕も明日からはここには来ないから」

「え、そうなんですか」

「入部届けの締め切りは先週一杯だったからね。ここに来る理由がなくなっちゃったんだよ。部長なんてやってるけど、他に誰も成り手がいなくて仕方なくやっているだけで、本音は帰宅部クラブとして利用したいんだ。三年になって引退したいのは山々だけど、六月までは勤め上げるのがこの部の慣習みたいだから、一応それまでは形だけの部長。すまないね」

「いえ、そんなことは」


 やはり帰宅部クラブという呼称は伊達じゃない。部長にまで見捨てられている文芸部に哀れみを感じつつ、ふと、入部届けの締め切りは先週一杯という部長の言葉が気になった。


「あれ、でもそれなら、どうして今日は来たんですか」

「それは、」

 部長の口調が変わった。

「お主が来るかもしれぬと思うてな」


 部長の顔から優しさが消えた。眼鏡の奥から鋭い目が僕を見ている。金曜日のあの時と同じだ。頭の中に野武士の忠告が蘇る。あの部長さん、気をつけた方がいいわよ……


「やあしばらく花に対して鐘つく事」


 部長の言葉に意識が吸い込まれていくような気がした。それは金曜日よりも遥かに強烈な力で、僕を引きずり込もうとしていた。そして、僕は無意識のうちにその句を詠んでいる自分に気がついた。いや、詠んでいるのは僕自身でなかった。僕の中に居る別の何かがその句を詠んでいた。


「やあしばらく花に対して鐘つく事……」

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