一 野武士の彼女
帰宅部クラブ
「まぶしい」
と、つぶやく自分の声に、はっと目が覚めた。カーテンの隙間から部屋の中に朝日が差し込んでいる。「夢か」とつぶやきながら枕元の目覚まし時計を見て、寝ぼけた頭が一瞬で覚醒した。
「しまった、寝過ごした」
慌ててベッドから飛び降りパジャマ姿のまま部屋を出て階段を駆け下りる。居間には誰かの気配がある。
「父さん?」
「よう、おはよう。今朝は随分のんびりじゃないか」
「せ、先輩」
そこに居たのは父ではなく先輩。隣に住むひとつ上の幼馴染だ。家が隣同士なだけあって幼稚園から高校に至る現在までずっと一緒、もはや兄弟と言ってもいいほどのべったりなお付き合い。
しかも幼稚園の頃から先輩は自分のことを先輩と呼ばせているので、今では「せんぱい」というのが本当の名前じゃないかと思うほどに馴染んでしまった。その先輩は居間の椅子に腰掛けて食卓のトーストをかじっている。
「父さん、もう出勤しちゃったか。まあ、こんな時間だし当然か」
「そうそう、後は君に任せたよと仰せになり、ご出勤なされました」
「それはご迷惑様でございました」
先輩のおどけた口調に気分が和らぐ。幼い頃に母親を亡くして以来、隣に住む先輩の家族には世話になり通しだった。父の帰宅が遅くなる時は、家に上がらせてもらってよく夕食を共にした。遅くならない時でもあれやこれやと惣菜を持ってきてくれた。ただ今朝のように先輩がここで食事を取るのは滅多にないことだ。不思議に思って訊いてみる。
「それにしても、なんで先輩がうちのトースト食べているんですか。朝ごはん食べさせてもらえなかったんですか」
「いや、食べたよ、そりゃもう腹一杯。でもうちの朝はご飯と味噌汁だろ。ここに来てトーストを見たら、ちょっといつもとは違うブレイクファーストを楽しみたくなってな」
そう言いながら二枚目のパンにジャムを塗る先輩に少々呆れはしたものの、いかにも先輩らしいと可笑しくもなった。
「それでここでパンを食べているってわけですか」
「そういうこと、まあ固いこと言うなって。お前の分はちゃんと取ってあるんだから。それより、早く支度しろよ。ぐずぐずしてると遅刻するぞ」
そうだった、寝坊したのをすっかり忘れていた。それからバタバタと身支度を整えて、先輩が焼いておいてくれたトーストを、これまた先輩が温めておいてくれた牛乳で流し込むと二人一緒に家を出た。
「しかし入学して十日も経たずにもう寝坊か。あれほど苦労して入った高校なのに、ちょっとたるんでるぞ」
「はい、すみません」
確かにその通りだった。家から最も近く、これまでずっと一緒だった先輩も通っているこの高校を志望校にしたのは、僕にとっては至極当然なことだった。ただひとつの障害はその入学可能学力レベルが自分のレベルの遥か上に位置していたことだ。
親も教師も無理だと言い、必死に勉強を教えてくれた先輩も顔を強張らせ、自分自身さえもほとんど疑心暗鬼だったこの高校に合格できたのは、神のご加護としか言いようがないほどの奇跡であり、これだけの幸福を与えていただいた以上は粉骨砕身して学業に当たらねば罰が当たると重々承知してはいるのだが、やはり気分は重いのだった。
「おいおい、今頃から五月病か。まだ新生活に慣れてないのはわかるが、俺の後輩としては情けないぞ。しっかりせんかあ」
バシッと、でかい右手が背中を叩く。先輩は運動部系のごつい体格なので手加減されてもかなり痛い。しかしその痛みをこらえ、挙手敬礼の姿勢を取ると、
「はっ、闘魂注入、感謝であります」
「よおし、それでいいんだ、はっはっは」
と、いつも通りの受け答え。一体これまで何百回背中を叩かれてきたことだろう。きちんとカウントしてギネスに申請すれば、文句なく登録されるような気がする。世界で一番背中を叩かれた男として。
「おっと、話は変わるが来週からは一緒に登校できないぞ」
「どうしてですか?」
「剣道部の朝練が始まるんだよ。だからいつもより一時間は早く登校しなくちゃならん。今年は新入部員が多いからしごき甲斐があるな、うん。ところでお前の剣道部入部届けはまだ来てないようだが」
「先輩、それは何度も言ったでしょ。僕は文化系のクラブにするって。中学の時も部活動はやってなかったんだし」
「いや、高校入学を機に肉体改造に目覚めるかと思ったんだが。まあ、まだ決めてないなら今一度の再考を期待したい。じゃあな」
校門を過ぎたところで先輩と別れ、一人で校舎の入り口へ向かう。校庭の隅にある水溜りには、無数の桜の花びらが変色して沈んでいる。満開だった頃の華やかさが嘘のようにしなびた花びらを見て、僕の口から無意識にひとつの句が転がり出た。
「さまざまの事思ひ出す桜かな……」
と同時に、僕の脳裏にあの忌まわしい思い出が蘇った。季節はこんなに春なのに、気分は今でも真冬なのは全てあの出来事のせい。あの人生最大の汚点ともいうべき大失態さえなければ、こんなに暗い高校生活のスタートを切ることもなかっただろう。
* * *
中学の卒業式の日、一人の女子に告白をした。三年で初めて同じクラスになったその子を僕は密かに歌姫と呼んでいた。別に彼女の歌が上手いとか美声であるとかそんな理由で付けたのではない。背中まで伸びた黒檀のような髪や、物静かで口数の少ない普段の態度はいかにも姫という感じだったが、それ以上に特筆すべきは毎年正月明けに開催される全学年一斉百人一首大会で三年連続優勝という偉業を成し遂げたことだ。
短歌が得意な姫、称して歌姫、今考えるとかなり安直な名付け方であるが、当時は相当気に入っていたのだと思う。卒業と同時に処分してしまったノートや教科書のあちこちに歌姫の文字が散在していたのは、今となっては早く忘れたい思い出だ。
学力不相応なこの高校を選んだ動機として、実は彼女が進学を希望していた高校であるという事実が大きな要因でもあった。当たって砕けろ的な挑戦だったのだが、奇跡的に合格が決まった時、僕はそこに運命を感じた。これは神が僕と彼女を結びつけるために仕組まれた天の意志なのだと。ならばそれに応えないわけにはいかないだろう。そんな大いなる勘違いが彼女への告白という暴挙に僕を導いたのだ。
式が終わった後、制服の第二ボタンをやり取りする男女、ピースサインをして携帯で写真を撮る仲良しグループ、大急ぎで色紙を回して書き殴る男集団、そんな光景が校庭のあちこちで繰り広げられている中、偶然にもひとりでいる歌姫を見つけた僕は思い切って声を掛けた。
「あの、こんにちは」
「あら、こんにちは」
ほとんど無表情な顔での受け答えに少し気後れしたものの、一旦声を掛けてしまったら、あとは突っ走るしかない。
「これ、受け取ってもらえませんか」
「私に? 何かしら」
差し出したのは一枚の短冊。百人一首が得意な歌姫への恋文なら、ありふれたラブレターよりも歌で表現するのが一番だと考え、受験勉強の合間に練り続けてモノにした傑作を墨で短冊に書きつけたのだ。
「短歌が得意みたいだから、今の気持ちを歌で表現してみました」
そんな僕の声を聞いているのかいないのか、歌姫は何も言わずに短冊を眺めている。予想以上に長く続く沈黙の時間に、いたたまれない思いが募り始めた僕は更に付け足す。
「高校も一緒なんですよね。それで、もしよければただの友達としてじゃなく……」
「恥ずかしいわね」
僕の言葉をさえぎって、つぶやくように言った彼女の言葉は少し意外だった。どんな時でも常に沈着冷静で、恥ずかしいなんて素振りを見せたことはこれまで一度もなかったからだ。
「え、あ、そ、そうなんだ。君はあまり物怖じしない感じの人だと思っていたけど」
「勘違いしないでくれるかしら。恥ずかしいのは私じゃなくてあなたよ」
「僕? それは、どういう……」
またもや僕の言葉をさえぎると、彼女は短冊を顔の前に掲げ、
「春風や 恋する桜 咲きにけり」
と、ゆっくりと間をあけて読む。自分の作品ながら、こうして人に読まれると、かなり照れくさくなり、思わず目を伏せてしまう。
「あなた、歌って言っていたけれど、これ十七文字しかないわね。下の句はどうしたの」
「あ、それが、その続きが思い浮かばなくて。でも他の本を見たら十七文字の歌もあったから、いいかなって」
「それは短歌じゃなく俳句。つまりこれは俳句と考えてよいのかしら」
「あ、俳句か、うん、そういう事になるのかな」
「なら、ますます恥ずかしいわね」
「えっ?」
「春と桜、季語が二つも入っているじゃない。それに『や』と『けり』、切れ字も二つ入っている。俳句のルールではどちらも基本的にはひとつだけ。そんなこと中学生なら常識でしょう。おまけにまだ咲いてもいない桜を詠むなんて、興ざめもいいところだわ。こんな恥ずかしい句を作って、作るだけでは飽き足らず他人にまで見せてしまうなんて、あなたみたいな人を厚顔無恥って言うのかしら。傍から見ているこちらの方が羞恥を覚えるくらいのその国宝級の恥ずかしさには、呆れたを通り越して感動さえしてしまうわ。もしかして、あなた、私をからかっているの? わざと出来損ないの句を作って、私をバカにしたいの?」
「ち、違います!」
「違う? 何が違うの?」
詰問する彼女の顔は真剣そのものだった。加えてその眼差しには怒りさえも感じられる。完全に想定外の成り行きに僕は必死に弁解する。
「知らなかったんです、本当に。ただ七五調になってればいいだろうって、そんな単純な考えしかなくて、細かい規則なんかは本当に知らなくて」
「そう」
彼女の目の怒気が幾分和らいだ様だ。これでは自分は無教養な人間だと宣言しているようなものだが、それが事実なのだからどうしようもない。好きな子の前だからと言ってカッコつけている場合ではないのだ。
「でも、それなら、あなた相当勇気があるのね」
「えっ?」
「誰かに自分の気持ちを伝えるのなら、それが確実に伝わるようにきちんと準備をするものでしょう。それが好きな子への告白なら尚更のこと。用意周到、諸事万全を期して臨むべきなのに、あなたは全くの準備不足、いいえ準備さえもしていない全くの行き当たりばったり。例えるなら何の装備もせず、裸一貫で矢石飛び交う合戦場に突撃していく無謀な雑兵。その勇気は褒めてあげるけれど、結局は玉砕して自分の蛮行を後悔し、涙を流しながら野垂れ死ぬ、それが今のあなたなのよ」
何も言えなかった。反論しようという気持ちにすらなれなかった。なにもかも彼女の言葉通りだったから。ただ後悔はしていなかった。少なくとも彼女は自分が思っていたのとは全く違う人間であることがわかったのだ。それだけでも今日の自分の行動には意味がある、そう感じていた。
「で、」
彼女の冷たい声が聞こえる。
「他に何かご用件は?」
用件、それはもちろん決まっている。恋文を渡した後の用件と言えばその返事、つまり相手は自分をどう思っているかを聞くのが次の段取りになるのだが、もはやそんなことは聞かなくてもわかっている。僕は深々と頭を下げた。
「すみませんでした。そんなつもりはなかったのですが、随分と不愉快な思いをさせてしまったみたいで。あの、その短冊、受け取ってもらわなくてもいいです。返してください」
「嫌よ」
それもまた予想外の答えだった。さっきまで散々に貶していたのに、どうして……
「返さないわ。だって、あなたのことだから、もし返してしまったら、こんなモノ二度と見たくないとか言いながら、クシャクシャにしてビリビリに引き裂いてゴミ箱に捨ててしまうのでしょう。それではこの短冊が可哀想だわ」
「いや、でもそんなモノ、手元に置いても迷惑なだけなんじゃ」
「そうね、確かにあなたの言うとおり、こんなモノを所有していてはそれだけで私の人格まで疑われかねないわね。でもこんな劣悪最低なグッズにだって役に立つことはあるはずよ。そうね、例えば、もし将来、私が何か大変な失敗をしでかして、凄く落ち込んだとしても、この短冊を見ることで、奈落の底まで突き落とされたような今のあなたのみすぼらしい姿を思い出せば、どんなに落ち込んでいたとしても立ち直れるはずだし、もし将来、私がとんでもない大恥をかくことになったとしても、この短冊を見ることで、生き恥を晒しながらも堂々と生きているあなたの姿を思い出せば、決して挫けることはないはずよ。ね、だからこれは私が大事に預かっておいてあげる。そして時々眺めては今日のあなたの恥ずかしい姿を思い出してあげるわ。どう、嬉しいでしょう」
はっきり言って、ここまで人に侮辱されたことはなかった。そして彼女の言葉を借りれば、それこそ呆れたを通り越して感動を覚えるほど、完膚なきまでに痛めつけられてしまった僕の心は、このまま悪夢のような会話を続けて、これ以上傷を広げられることを拒否し始めていた。潮時だ。
「今日はご迷惑をおかけしてすみませんでした。さようなら。もう二度とあなたと話すことはないと思います」
僕はそう言って、後ろも見ずに駆け出した。初めての失恋だったが不思議と涙は出なかった。その代わりに時間が経つにつれ怒りがこみ上げてきた。それは彼女に対してではなく、人を見る目を持たなかった自分に対してである。歌姫などと呼んで、彼女こそこの世で最高の女性だなどと思っていた自分を本当に愚かに感じた。
そう、歌姫と言うよりはむしろ野武士。無抵抗の相手を情け容赦なく斬り捨て、それだけでは満足せずにその傷口を広げ、更にそこに塩を塗り込んでしまう無慈悲な所業を平気で行える人物、それこそが彼女の真の姿だったのだ。それ以来この出来事は心の中に重く沈殿し続けている。
* * *
これがこの春に起きた人生最大の汚点だ。忘れようとしても繰り返し蘇るあの日の光景を頭から振り払いながら、靴を上履きに替え廊下を歩き教室に入る。男女が一列ずつ名簿順に並んでいる僕の席は真ん中の一番前。そしてその右後ろの席に座っている人物を見て、僕の気持ちはさらに落ち込む。
この思い出だけでも十分憂鬱なのに、あろうことかあの野武士の彼女と同じクラスになってしまったのだ。しかも席が右斜めひとつ後ろという常に監視されているような位置取り。授業中、前からは教師の視線、後ろからは凶悪な野武士の睨みに挟まれて、それこそ緊張の解ける暇すらない僕は、前門の虎後門の狼という諺の意味する恐ろしさを骨の髄まで体感できた気分だった。
もちろん、彼女とは入学以来一言も口をきいてはいない。向こうも完全に無視を決め込んでいる。もっとも、こちらとしてはその方が有難い。口達者な野武士と会話なぞしようものなら、傷だらけにされてしまうのが落ちである。
昼休みはこの緊張状態から開放される唯一の時間だ。入学当初は各々自分の席で弁当なりパンなりを食べていたが、このごろではグループもでき始めて、あちこちで机を並べ替え複数で食べあっている。野武士の彼女は窓際の席で、他の女子生徒と二人で弁当を広げている。僕も自分の椅子を後ろ向きにして、二人で向き合って昼食を食べ始めた。
一緒に食べている彼は、中学での知り合いとか何かの切っ掛けがあって仲良くなったとかではなく、言わば自然発生的な友人だった。なにしろ朝礼でも音楽室でも理科室でも体育の授業でも席順や並び順は全て名簿順である。つまり、いついかなる時でも僕の前後左右のどこかには彼が居る。一日中無言でいるわけにもいかないので、近くの彼と話をする。その内に気心が知れて仲良くなる、という具合だ。
もっとも彼自身、気さくでいい奴だったのも仲良くなれた一因かもしれない。年の割りに髭が濃く老けて見えるので、勝手に
「で、クラブ、何にするかもう決めたんだっけ?」
父つぁんがおにぎりを頬張りながら尋ねる。彼の弁当はおにぎり率が非常に高い。最初は、おにぎりなんて何だか遠足みたいだな程度にしか思わなかったが、日が経つにつれ、学生生活におけるおにぎり弁当の有益性に次第に気づき始めた。
第一におにぎりの最大の利点は容易に早弁できることにある。ご飯詰めの弁当箱ではまず机の前に座り、箸などを用意し、どこで食べるのを止めるか迷いつつ、食べた後には弁当箱、箸などを片付けなくてはならない。しかし、おにぎりは容器からひとつ取り出せば、あとは歩きながらでも食することができ、食べる分量で悩むこもとなく、食べ終われば後には何も残らず、パンよりも満腹感が味わえる。手軽さと腹持ちの良さにおいて右に出るものはないであろう。
もうひとつの利点は他人に容易に分け与えられることだ。これは友人関係が希薄な入学直後においては、絶大な効果を発揮する。父つぁんは昼食時に声を掛けてきた級友には、「あ、ひとつどう?」と言っておにぎりを差し出す。食べ物を貰って喜ばない人間は滅多に居ないので、それだけで好感度は上昇。こうして信頼関係を築いておけば、今後、宿題のし忘れ、試験前のノートの貸し借りなどの際、極めて有利に働くのは疑いの余地がない。
かく言う自分も毎日父つぁんからおにぎりを頂戴している身分である。しかし、これは何かを期待してというよりは、同情によるものが大きいようだ。母が居ないので弁当は自分で作るか父に作ってもらうしかないが、どちらの選択も負担が大きいので、入学以来ずっと学内購買部のパンと牛乳で済ませている。
父つぁんは、僕が弁当を持参しない理由を聞くこともなく、まるでそれが当然であるかの様に、弁当がおにぎりの日には必ずひとつくれる。一緒に食べ始めて数日した頃、さすがに毎日貰うのは心苦しくなって、
「そんなに気を遣ってもらわなくってもいいんだぜ」
と言ってはみたが、
「いや、一人で食べるには多すぎるし、残すとうるさいから」
と、まるで意に介さない様子で、食べ終わったパンの空き袋の上におにぎりを置く。以来、好意を有難く受け取る日々が続いている。
「クラブか、まだどこにも入部届けは出してないなあ」
さっそく本日のおにぎりを食べながら答える。今日の具は子持昆布の佃煮。父つぁん、お気に入りの一品である。
「そろそろ決めないといかんだろ。期限までに届けないと呼び出し食らうぞ」
この高校の部活動は基本的に一年生は全員参加になっている。これまで放課後の部活動の経験なぞ全くない身としては、そう軽々しくは決められない事柄であった。
「父つぁんは水泳部だっけ」
「いや、俺は剣道部にしたよ」
「えっ、どうして」
驚いた。以前、クラブの話題が出た時、父つぁんは中学三年間は水泳部で、しかもジュニアライフセービング教室に参加したこともあると言っていたからだ。
「泳ぎは得意だって自慢していたじゃないか。この高校って確か水泳部もあったはずだし、どうして剣道部なんだよ」
「うん、高校でも水泳部にするつもりだったんだけど、たまたま剣道部に見学に行った時、物凄く勧誘熱心な人がいてな、俺の腕や胸を触って、君は剣道をする星の元に生まれている、これは運命なのだ、さあ入部しよう、とか言って背中を叩くもんだから、つい」
僕は耳を塞ぎたくなった。それが誰か大体の想像はつく、と言うか、先輩以外あり得ない。
「ごめん、その人、僕の知り合いなんだ。いい人なんだけどちょっと強引なところがあって」
「なんだ、そうなのか。でも別に謝ることはないよ。実は体に筋肉がつき始めてからタイムがなかなか伸びなくなってきてたんだ。ちょうどいい踏ん切りをつけられたと今では思ってる」
それが本当のことなのか、僕に気を遣わせないための方便なのかは判別できなかったが、父つぁんがいい奴であることだけは間違いなかった。良い友人を持たせてくれた出席名簿に僕は心から感謝した。
弁当を食べ終わった後は机を元に戻して教室の外に出る。父つぁんには中学からの知り合いが多く、よそのクラスには親友もいるようなので、昼食時以外の付き合いは控えるようにしている。野武士の彼女と先輩以外、親しい知人が居ない自分は、晴れた日には午後の授業が始まるまで校庭で日向ぼっこなぞしながら、ぼんやり過ごしている。
「文芸部」
青空を眺めながらそうつぶやいた。それが現在検討中のクラブだ。今のこの重い気持ち、三月の大失恋以来、暗雲立ち込めているこの胸のもやもやを晴らすには、あの侮辱の言葉を打ち消せるほどの知識と教養を身に付けるしかない。
とはいえ、これはお見事とあの野武士が膝を打つような名句を、自分一人の力で詠めるようになれるとは到底思えない。独力で無理なら誰かの力を借りてそれを成し遂げるしかない。
誰かの力、即ち文芸部の力である。これまでなかなか踏ん切りがつかなかったが、水泳部の父つぁんが剣道部に入部したのを聞いて僕にも勇気が湧いてきた。ここは高校受験のときと同じく、当たって砕けろの精神で行ってみるしかないだろう。
* * *
その日の放課後、文芸部の部室になっている図書室に行った。貸出返却カウンターの図書委員に文芸部入部希望の旨を伝えると、閲覧室の奥の生徒を指差しながら、あそこに座っているのが部長だから話してみてくださいと教えてくれた。少しドキドキしながら歩いて行き、声を掛ける。
「あの、すみません、文芸部に入部したいのですが」
「おっ、新入生だね。入部歓迎するよ。そこに座って。届けは書いてきてるのかな」
「あ、はい」
と言いながら部長の正面にテーブルを挟んで腰掛け、用意してきた入部届けを渡す。メガネをかけた優しい感じの部長だ。これなら読書と縁遠い自分でも、手厳しく扱われることもなそうだ。
「はい、OK。そしたらこっちの紙にも記入してくれるかな」
それはクラブ専用の名簿のようで学年、組、氏名や連絡先などの項目が並んでいる。言われるままに書き込みながら、ちょっと気になって顔を上げ周りを見回す。誰も居ない。文芸部の部室のはずなのだが、僕と部長以外は一人も見当たらないのだ。
「あの、誰も居ないんですけど、部員の皆さんはまだ来てないのですか」
「ああ、いや、まあ、そういうことになるのかな」
部長は少し困った顔をして続ける。
「文芸部と言っても、ウチは帰宅部クラブだから」
「帰宅部クラブ?」
「そう、この高校は一年生は全員クラブに強制参加させられるよね。でも放課後は部活動なんてやらずにすぐ帰宅したいって生徒もいる。そんな生徒のために、名目上は存在するけど実質ほとんど何の活動もしていないクラブがあるんだ。部室にも寄らず帰宅してしまうから、名づけて帰宅部クラブ。この文芸部もそんな帰宅部クラブのひとつで、部員のほとんどはそのつもりでここに籍を置いている」
「そ、そうなんですか」
「うん、だから生徒会から分配される予算は最低額しかないし、学園祭の時だって、その年に図書室に入った新刊を展示するだけの手抜きな発表。もし、君が何かしたくて入部したのなら、残念だけどその希望は叶わないと思うよ。一人でやってもらうか、もしくは一緒にやってくれる仲間を探すか。入部したてで、こんな事を言うのは気が引けるけど」
「は、はあ」
これは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、とにかくお気楽な学生生活は送れそうだが、さっきの決意はここで早くも挫折したことになる。記入し終わった紙を渡すと少し考え込んでしまった。そんな僕の様子を見て、部長がすまなそうに訊いてきた。
「もしかして、何かやりたいことがあったのかな?」
「あ、ええ、実は俳句に興味があって」
「ほう、俳句」
ふと、部長の声の調子が変わったような気がした。
「俳句って、誰か好きな俳人とかいるの?」
「あ、ああ、芭蕉とか、かな」
これは何も適当に言ったのではなく、あの恋文短冊を製作する時に、一番参考にしたのが芭蕉だったのだ。よく読んであの程度の物しか出来ないのだから、芭蕉も草葉の陰で泣いているはずである。
「ちょっと待ってて」
部長は立ち上がると、書棚に向かって歩き始めた。その一隅で本の背表紙を物色している。しばらくして三冊の本を持って帰ってきた。
「これは俳句の入門書。俳句の歴史とか鑑賞の仕方とか書いてある。これは芭蕉についての本、芭蕉の生い立ちや作品なんかはこれでわかる。それからこの一冊は、自分の趣味になって恐縮なんだけど、」
部長は最後に示した本のページをパラパラめくり始めた。
「芭蕉以前の俳諧に少し興味があってね。ホラ、この句なんかどう。読んでみて」
部長が指差した箇所を見る。作者も作品も全く知らない。
「えっと、松江重頼 やあしばらく花に対して鐘つく事、ですか。どういう意味なんだろ」
「鐘をつくのはしばらく待ってください、花が散っちゃうから、って意味なんだ。なんだか面白いだろ」
「本当だ。これ、ほとんど話し言葉ですね」
「俳諧って、基本的にこんなものだったんだよ。みんなで笑って楽しめるものなんだ。ね、君、」
また部長の声が変わった。はっとして顔を見るとメガネの奥の目がこちらをじっと見詰めている。
「イメージしてみて、鐘つき場、そこに咲いている満開の桜の木、撞木を振るおうとしている僧侶。そしてもう一度言ってみて、今の句を。やあしばらく花に対して鐘つく事」
「やあ、しばらく……」
何か違和感があった。どこかに引き摺りこまれていくような感じだ。この世でありながらこの世とは言えぬ世界。夢。不意に脳裏に今朝見た夢の光景が蘇った。どことも知れぬ枯野で対峙する二人、あの世界、あの世界に似たこの感じは……
「あら」
背後から誰かの声がして我に返った。夢から覚めたような気分だ。部長を見ると最初の時の穏やかな顔に戻っている。今、何が起きて、いや何が起ころうとしていたんだろう。
「やあ」
部長が顔を上げて誰かに声を掛けた。文芸部の部員が来たのだろうか。それなら新入部員として自分も挨拶をしておかなくてはいけないだろう。僕は席を立ち振り返った。そしてそこに立っている人物を見て心臓が凍りつきそうになった。野武士の彼女だった。
「ど、どうして君がここに!」
「あら、心外ね。私が図書室にいて何かおかしなことでもあるのかしら」
「ああ、彼女は文芸部の新入部員だよ。で、こちらは今日入部してくれた新人さん。君たち知り合いなのかな。それなら新入部員同士仲良くやってくれよ」
迂闊だった。百人一首の達人が文芸部に入る可能性を考慮すべきだった。中学の時は僕も彼女も部活動はしていなかったので完全に油断していた。どうする、如何に帰宅部クラブとは言え、同じ部に所属してしまっては、全くの無関係でいられるはずもないだろう。
クラスメイトというだけでなく同じ部員という関係まで作ってしまっては、現在かろうじて灰色に留まっているこの高校生活が確実に暗黒に染まってしまう。しかもほとんど活動休止中のこんな文芸部に入っても今のままでは俳句の上達なぞあり得ない。入部を撤回すべきか。いや、男が一度決断した以上それはあまりに見苦しい。どうする自分!
「ここは帰宅部クラブとして有名ですからね」
こちらの煩悶をよそに野武士は涼しい顔で部長と話をしている。僕は彼女に背を向けると、椅子に座り直した。
「いやいや、彼は一応目的意識があって入部してくれたんだよ」
「目的、ですか?」
「そう、何でも俳句に興味があるらしくてね。今もこうして俳句の本を紹介していたところなんだ」
この部長の言葉で僕の心臓は完全に凍りついた。どうしてそんな言わなくてもいい事まで喋ってしまうんだ、この部長さんは。彼女を見返すために文芸部に入部したのが、これではバレバレだ。
「ふうん、そうなの。俳句に興味があるんだ」
野武士の見下したような声が背中に浴びせられた。
「あのままへこんでしまうのかと思ったけれど、意外と挫けない性格だったのね。その根性と向上心は見上げたものだわ。ちょっとだけ見直してあげる。よっぽど悔しかったのかしら、それとも、」
野武士の気配が近くに感じられた。耳元にささやくような声が聞こえてくる。
「まだ諦められないのかしら、私を」
顔がカッと上気した。凍りついたはずの心臓が激しく脈動を開始する。諦められないだって、何を馬鹿な。野武士の事なんかとっくの昔に……
「ん、諦められないって?」
「何でもありません!」
部長の言葉をさえぎって僕は勢いよく立ち上がると、最初に紹介してもらった二冊の本を小脇に抱えた。
「続きはこの週末に家でしっかり読もうと思います。今日はありがとうございました。失礼します」
そして脱兎のごとく閲覧室を後にした。これ以上あそこにいては、何を言われるかわかったものではない。そのままカウンターに直行して図書貸出の手続きをするが、初めての利用ということで貸出カードの作成やらなにやらで少し手間がかかる。とにかくこの場から早く立ち去りたいとそればかりを考えながら必要事項を記入していると、
「ショウ君」
聞き覚えのある声がする。ビクッとして振り返ると野武士だ。
「な、何だよ、ショウ君って」
「部長さんに聞いたわ。あなた芭蕉が好きなんでしょう。だからショウ君。これからそう呼んであげる。どう、嬉しい? 好きな人の名前で呼んであげるのよ」
いや、自分は構わないけど、きっと芭蕉さんが気を悪くすると思う、と言いたかったのだが、そんな口答えをしてしまっては、その後にどれほど恐ろしい言葉が襲い掛かってくるか知れたものではないので、ここは沈黙することにした。そう呼びたいのなら呼べばいい、触らぬ神に祟りなしである。
僕が何も言わないので、野武士も少し気勢をそがれたのか、それ以上は何も言わず隣に来て本の返却手続き始めた。ここへ来たのは部活動のためではなく、どうやらただ単に本を返しに来ただけのようだ。返却手続きは簡単ですぐ終わる。こちらのモタモタをよそにさっさと出口に向かう野武士に内心ホッとしていると、僕の後ろを通り過ぎていく野武士から小さな声が聞こえた。
「あの部長さん、気をつけた方がいいわよ」
「え、それはどういう」
野武士は僕の問いには答えず、それだけを言い捨てて出て行ってしまった。気にはなったが追いかけて詳しく聞きだそうという気にはなれない。やがて貸出手続きが無事終わると、二冊の本で重くなったカバンと、今日一日で重量を倍化させた憂鬱な気持ちを抱えて、僕は家路についた。
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