運の悪かった青年のはなし

宜渡 知夏

第1話 仮沼達彦のはなし

「ラーメン」

そう言って男は僕の母を殺した。


僕が八歳のときだった。

眼前で母を、唯一の肉親を殺された僕は嘔吐し、憎み、男を殺そうとした。当然成人済みの男に八歳の子供が勝てるわけもなく、親の仇に傷一つつけることはできなかった。

男は僕の叫び声を聞いた近所の人の通報を受けて駆けつけた警察官に逮捕された。呆気なく、なんの抵抗もなく手錠をかけられた男の姿を、今でもはっきりと覚えている。

僕はと言えば、警察官の一人に保護されてからの記憶がない。

男は強盗目当てに僕の家へ侵入し、買い物から帰宅した僕と母に遭遇。通報を恐れて、シンクに置きっぱなしだった濡れたままの包丁で母を刺殺したのだった。

なぜ僕を殺さなかったかといえば、彼にも息子がいたらしかった。年も近かったそうで、重なって見えたのだろう。

事件から三年後、男には死刑判決が下った。世間からも妥当な判決だとされた。しかし当時十一歳の僕の幼心には何の効果もなかった。

父を三歳で亡くした。それ以来、兄弟のいない僕の家族は母一人だった。

良い母親だったと思う。厳しかったが、優しかった。僕も母が好きだった。

男には息子がいた。妻とは事件の数ヶ月前に離婚したそうだ。

離婚の原因は男の勤めていた会社が倒産したこと。赤字が膨れ上がった結果らしい。

妻は男をつくってさっさと出て行ってしまった。男は一人息子を養おうと再就職先を探したが、不景気による就職難の時代、見つかった仕事は時給九百八十円のアルバイトだけだった。

小学生の息子の給食費も払えず、アルバイト先でも馴染めず、精神的に追い詰められた結果が、今回の事件だった。金のために母は殺されたのだった。

公判中、男の姉だという女が毎日僕の病室を訪れては頭を病院の白い床に擦り付けて謝罪した。無論、僕は彼女さえも許すことはできなかった。

男の息子はその姉に引き取られたそうだ。死刑判決を聞いた息子は、僕をまるで親の仇であるかのように見つめていた。被害者は僕なのに。

僕は母方の祖父母に引き取られ、それなりの生活を送っていた。

中学生のとき、死刑制度の是非について社会の授業で討論したことがあった。

社会教師は言った。死刑判決を下した裁判官や原告は、法という名の下で人を殺したことになる、これは殺人となんら変わらないと。

不意にあの息子のことを思い出した。僕は授業を早退した。

成人し、社会に出た僕を待っていたのは、劣悪な労働環境と理不尽な大人の世界だった。

僕はいわゆるブラック企業に勤めていた。接待と名のつく飲み会はなんら楽しくない。強要されるサービス残業、春闘の結果がどうであっても変わらない給料。

毎日頭を下げ、納期に間に合うように血眼になって働いた。辛い日々だった。

僕の名前をネットで検索でもしたのか、ある日は被害者面するなと上司に罵られた。

その日は人知れず泣いた。涙と一緒に飲み込んだ酒の味はよく覚えていない。


一気に喋ったせいで喉が渇く。左手で弄んでいたペットボトルは空で、喉を潤す役には立たない。

途中何度か視界がぼやけたが、どうにか泣かずに話し終えた。

「お前も大変だったな」

ありきたりな労いの言葉をかけられる。

大変だね、辛かったね、幼少期から言われ続けた言葉達は僕にとってはただの挨拶に変わりない。

「まあここにいる奴ら皆そういう奴らだよ」

そういう奴ら、とは眼前の六人もまた、僕のように父を亡くし母を眼前で殺されでもしたのだろうか。

手を広げてその場で辺りを見渡しながら雄弁に語る彼-諏訪翔吾すわしょうごを僕は見つめた。

「ああ、ああ、そんな顔をしないでおくれよ、哀れな被害者くん」

彼は僕の神経を逆撫でする才能に秀でているようだ。まだ会ってからものの数分しか経っていないが彼とは上手くやっていけそうにない。

新宿歌舞伎町の一角に今僕のいるビルは存在する。夜になれば派手なネオンとともに着飾った客引きの女達や仕事帰りのサラリーマンなどで活気を見せる街。

その奥にあるのが、この薄暗い照明だけが頼りのビル。

外装は昭和の頃から手を加えられていないせいか局所的に鉄の骨組みが見え隠れしている。元はアパートとして住人もいたらしいが、今ではそんな気配は全くない。

埃っぽい室内には薄暗く、今にも切れそうな裸電球が天井からぶら下がっている。一番奥には事務机と偉そうにふんぞりかえった椅子がひとつ。

そして部屋には僕を含め男が七人。

服装は様々で、几帳面にスーツを着た男やジャージにつっかけ姿の男もいる。

「ともあれ、今日から君と僕達は"チーム"だ。仲良くしようじゃないか、仮沼達彦かりぬまたつひこくん」

そう言って神経を逆撫でするような笑みを更に不快なものにして諏訪は僕に顔を向けた。


ブラック企業をどうにか辞めた僕は次の就職先を探していた。

歳はまだ二十五だ、幾らでも就職先はあるだろうと甘い考えをしていた自分が恨めしい。

母を殺したあの男のように、僕が見つけられた新たな就職先は時給九百八十円のアルバイトだけだった。

アルバイトで必死に金を稼いで大学を卒業し、これからは大人の仲間入りだと期待に胸をふくらませながら入社した会社。しかしそこはただの監獄で、僕ら社畜はノルマという労働を強いられ、出来なければなけなしの給料がさらに引かれていくだけだった。

典型的な年功序列の会社で、歳をくっただけの無能な上司に振り回され、上司の責任を部下である自分が被らなければならなかった。

何より辛かったのは、どんな労働よりも会社の雰囲気。

ただ労働を強いられるだけなら耐えられる。肉体的な疲労は休息によって回復することは容易い。

だが精神的疲労は違う。

社長は某大手企業の有名な代表取締役の人間が掲げる理想にすっかり心酔していた。

やれば出来る、やらないから出来ない。例え身体が疲れていたとしても仕事をやりたいと思えば出来ない訳がない。出来ないのは仕事が悪いんじゃない、お前自身が悪いんだ。

そんな精神論を毎日聞かされた。

毎朝お決まりの朝礼ではまず会社の理念を全員で復唱するところから始まる。

入社と同時に配られた理念手帳を片手に毎朝声を張り上げる。手帳を忘れた者の末路は思い出したくもない。

声が小さければ当然やり直しが告げられる。

朝礼時に使う社で一番大きい会議室の奥には、社長の下手くそな字で『成せばなる』と書かれた書が額に入って飾られていた。いや、あんなものは書とも呼べやしない。

社長は奥の席でふんぞり返り、その横で副社長が顔色を伺う。そしてそれ以外の人間は若い者程前に並べられ、皆で声を張り上げるのだった。

連日の寝不足と過労が祟りぶっ倒れた者は、やる気がないと言われ朝礼後に呼び出しの上減給された。皆必死だった。

そして一人ずつ回ってくる決意表明のスピーチの時間。持ち時間は五分。

平も管理職も関係なく順番に回ってくる。

これも大声を張り上げ、自分で自分に課すノルマとその達成方法などを全員の前で発表させられる。

僕も二度ほどやったことがあるが、二度とやりたいとは思わない。

持ち時間は五分と言われていたから五分で終わるようにつとめた。そもそも五分も語ることなどないのだが。

必死に告げた僕のスピーチは四分四十六秒だった。

社長の冷ややかな視線。

五分の持ち時間と言われて五分以内で終わるスピーチなど有り得ない、君にはやる気がないようだ。

訳がわからなかった。

翌日スピーチを行ったのは同期の女性だった。

彼女は上手く話を膨らませて五分三十秒喋った。

またも冷ややかな視線。

五分の持ち時間と言われて何故五分以内に納められないのだ。君は学生時代、試験終了の合図を過ぎても筆記していたりでもしたのか。

矛盾していた。結局社長は何かにつけて僕達に心労を与えたいだけだった。

本人はそれが僕達のためであると本気で信じているのが余計にタチが悪い。


そして精神的に追い詰められた僕達を待っていたのは洗脳に近い社風。会社、というよりはカルト教団と言った方が良いくらいだ。

社員たちは常に疲労困憊といった様子だった。なかには三週間近く家に帰っていないという人もいた。

何故こんな会社に毎年新入社員が入ってきてくれるかといえば、東証一部上場企業だったからである。

必ず、社長は現実味の欠片もない数字をノルマとして持ってくる。どう考えても無理だ、と思うことはない。今までと同じくらいの仕事量なら無理だろう。だが、それ以上に働けば達成できる。そんな思考が身に染み付いていたからだ。

その結果業績は右肩上がりで、年を重ねる毎にノルマは高く厳しいものになっていた。


達彦は頭を振った。思い出しても何の得にもならない、むしろ気分が悪くなるようなことを考えるのはやめよう。

せっかくの休みだというのに随分長い間ぼうっとしていたようで、テーブルの上に置かれたコーヒーからはもう湯気は出ていない。

冷たいコーヒーを一気に嚥下すると、はっと目が覚めるような感じがした。

カップをシンクに置く。洗うのは夕飯の後で良いだろう。

ジャージのポケットからスマートフォンを取りだし電源を入れる。

時刻は七時三十二分。未読メール二通。

メールのアプリをタップすると"仕事"フォルダにメールが二通。差出人は諏訪さんと霧張きりはりさんだ。

霧張冬也きりはりとうや。僕や諏訪さんの所属する部署の副部長で、気の弱い青年だ。自分よりも年上の人間にこういうのもどうかと思うが、霧張さんは何せ臆病だ。

初対面では目を見て話すどころか喋ることすら出来ない。入社してもうそれなりに時間が経ったが、未だに彼と会話らしい会話をした記憶がない。

だが、彼は人と対さなければ非常に饒舌で、かつ話の上手い人だった。

メールを開くとそこには文字、文字、文字。

これ打つのにどれだけ時間がかかるのだろう、と思ってしまうほどの文字数。

内容は仕事のことと、今度数人で飲みに行かないか、という話だった。

彼は飲み会でも端の方に座って、人知れず飲み、人知れず酔い、人知れず会計を済ませて帰ってしまう。

何が楽しいのか分からないが、彼はこうしてよく部下や同僚を飲みに誘う。勿論一対一なんてことはあり得ない、絶対に五人以上だ。

一斉送信ではないため、いったい誰が来るのかは分からないが、恐らくは同じ部署の彼らだろう。

仕事についての了解と飲み会についての了承を書き、送信をタップした。送信完了画面を閉じると、初期設定のままのデスクトップが表示される。いつぞやの飲み会で諏訪さんに言われたことを思い出した。

君は特別面白い人間でもないし、かと言ってつまらない人間でもない。いわゆる平凡、な人間だと前々から思っていたよ。僕の待ち受けを見るなりそう言った彼は素面だった。彼が酔うところなど見たこともないし想像もできない。

彼が言いたかったのは要するに、お前は平凡な人間だと思っていたが常に携帯し、使用するときには必ず目に入るスマホのデスクトップにさえもこだわりを持たないつまらない男なのだ、ということだ。

言外にそう言われたが、何故スマホの待ち受けが初期設定なだけでそこまで言われなければならないのか。言い返そうとした時には、諏訪さんは隣の席の女子大生に逆ナンされていた。合コン中だったようで、相手の男子大学生達からの目はひどく冷めていた。

その諏訪さんからのメールは相も変わらず誤字だらけだった。

彼は完璧とも言えるほど天に何物も与えられた人間だが、機械にだけはめっぽう弱い。機械などなくとも決算の計算くらい出来る、といつも言っている。実際彼ならそれが出来てしまうのだろうが、電子化が進んだ今では彼はあまりに役に立たない。

だから彼の報告書や書類は全て手書きだ。会議の資料などを作成する時には、図書館のような蔵書量を誇る自宅で作るそうだ。その証拠に彼のデスクにはパソコンをはじめとする電子機器は一切ない。

もちろんスマホはおろかガラパゴスケータイも所持していない。持っていないが知識だけはあるので、度々僕のスマホを覗いてはああだこうだとうんちくを披露してくるのだが、使えもしない人に何を言われたところで大して役に立たないといつもスルーしている。

彼がこうしてメールを送ってくるときは自宅のパソコンからのメールだ。そして内容な急用のときが多い。

うちの会社では出張などは一切ない。そのためいつでも社員全員が会社にいる。そのため、通信機器などなくとも連絡をとることは可能だ。しかし、仕事以外なら話は別だ。家には一応最新式のパソコンがあるらしいが、急用のメール以外では使わないらしい。

「いみすくてんしんしてんゆくえきにきたみえ」

声に出してみても全く内容はわからない。僕のほかにも何人かに送っているようなので、そのうちの一人に電話をかけた。

コール音が鳴り始めて間もなく相手の声が聞こえる。

「はい、東堂とうどうです」

「あ、仮沼です。お疲れ様です」

「どうかしたの?・・・あ、翔吾君のメール?」

察しが良くて助かる。彼の名は東堂椿とうどうつばき。下北沢で古書店を営んでいる青年だ。

なぜ彼に電話をかけたかといえば、彼は諏訪さんと高校からの付き合いで、暗号のような誤字だらけのメールを解読できる数少ない人間の一人だからだ。

「ふふ、相変わらず彼のメールは不可解だからね」

「まったく、いい加減なれて欲しいんですけど」

「まあ彼が機械に強い人間だったなら、それはそれで困るのだけれど」

「・・・それもそうですね」

機械を除けば彼には非の打ち所がない。機械だけが唯一彼の弱点、それがなくなったとなれば今以上に面倒臭いことこの上ない。

しかしメール機能くらいはできてほしいものだ。

「ああ、メールの話だったね。すぐ脇道に逸れてしまうのは悪い癖だ。・・・ええと、今すぐ新宿駅に来たまえ、と書いてあるね」

「新宿駅ですか?・・・あまり良い予感がしないですね」

彼に新宿駅に呼ばれたことは過去に数回あるが、良い思い出は一つとしてない。むしろ、悪い思い出ばかりだ。

しかも来たまえ、とは相変わらずの上から目線だ。メールもロクに打てないくせに。

「まあ何かあるんだろう。僕にも送られてきているから僕も行かなきゃいけないみたいだ。・・・じゃあ、またあとでね」

「あ、はい。ありがとうございました。いつもすみません」

「気にしなくていいよ、それじゃあ」

そう言って通話は終了した。今すぐ、と書いてあったということは早く行かないとまた彼の長ったらしいお小言を聞くハメになりそうだ。

メールの受信時間は七時二十五分。今の時刻は七時四十分。そろそろ家を出ないと面倒なことになる。

溜め息を吐きながらスーツに着替える。流石にジャージで彼らに会うわけにはいかない。それに今回のお呼び出しの目的がいつもと同じならスーツを着ていく必要がある。

今日は真冬並みの寒さだと今朝ニュースキャスターが言っていたことを思い出す。上にコートを羽織り、手袋、マフラーとばっちりの防寒対策をする。

そして暖房と部屋の電気を切り、僕は家を出たのだった。

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